野川・国分寺崖線

【はじめに】

こちらの記事では、東京の「国分寺崖線」と、それに沿う様に流れる「野川」の大人散策情報(後編)を紹介致します

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以下内容は、サマリ的に記載しておりますが、別ページ「野川・国分寺崖線の大人散策 前編」と基本同じ内容ですので、もう既にお読み頂いている方は、次の段落【国分寺崖線を野川を意識しつつ大人散策・後編】にお進みください 

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前編でも記載しましたが、そもそも、皆様は野川をご存じでしょうか? 私は、大学時代、武蔵小金井に居住していた事があり、この時この近辺を新聞配達していたので思い入れのある地域です。しかし、当時は別記事で紹介しました玉川上水沿いや、今回記載する野川沿いの遊歩道をランニングする程度で、「自然の多い、山梨の北杜から出てきた者にとっては、自然を感じる気持ちの良い場所」と言った程度でしかありませんでした。しかし、年を重ね改めて当時の事を思いつつ、この地域を大人散策させて頂くと、地形・歴史(神社仏閣含む)・アニメと様々な視点で魅力的な地域である事を改めて感じさせてくれる魅力的なエリアである事を感じます

その為、今回は野川・国分寺崖線沿いを世田谷の二子玉川(野川と多摩川の合流地点)から、国分寺の水源(厳密にはその手前ですが)まで、寄り道しながら大人散策させて頂きました情報を共有させて頂こうと思います。ただ、それなりの情報量になりますので、以下の2部構成で、記載させて頂こうと思います。

(尚、それぞれ立ち寄らせて頂きました、調布の深大寺武蔵国分寺跡に関しても、別記事で様紹介しております)

このページでは、以下、後編・武蔵小金井~西国分寺の区間に付いての大人散策情報を記載いたします

また以下に、前編にて記載いたしました、実際の大人散策(フィールドワーク)に入る前の、「野川」、「国分寺崖線」に関する基本情報のリンクを以下に記載しておきますので、必要に応じてご参照頂けますと幸いです。

【野川とは?】 前編をご参照ください

※ 前編にて、野川の基本情報を記載しておりますので、ご参照ください

尚以下に、前編と同じ内容ですが、簡単なサマリのみ、記載いたします。

「現在では、国分寺東部から世田谷の二子玉川まで、国分寺崖線にほぼ沿って流れる、20㎞位の長さの川だが、その流路は、人の生活の営みの中で変遷してきた歴史を持つ。古多摩川によってつくられた国分寺崖線より、湧水を集めた川であり、旧石器時代の遺構も近くで見つけられ奈良時代には、その上流部付近に武蔵国分寺が建てられたことからも、人の営みが非常に長い年月にわたって行われてきた痕跡を随所に見る事が出来る地域を流れる川」

【国分寺崖線とは?】 前編をご参照ください

※ 国分寺崖線に付きましても同様に、前編にて基本情報を記載しておりますので、ご参照ください

国分寺崖線に付きましても、前編同様、簡単なサマリのみ、以下に記載いたします。

武蔵野台地(特に東京都内)は、「武蔵野面」と「立川面」の大きく分けて2種類の河岸段丘が見られ、この2つを分ける崖が国分寺崖線で、この地方の方言でこの崖をハケと呼ぶ

【国分寺崖線を野川を意識しつつ大人散策・後編】

上記、野川と国分寺崖線の基本情報を抑えさせて頂きましたので、以下より実際の大人散策(フィールドワーク)情報を、エリアを区切りつつ、ご紹介させて頂きます

・武蔵小金井駅~滄浪泉園

スタートは、中央線の武蔵小金井駅からです。南口から出て、野川までは行かず、「連雀通り」を西に向かいます。程なく北側に小金井市役所が出てきますので、反対側の高級フレンチ・TERAKOYA(非常に良さそうなレストランで、かなり昔に一度お伺いした事がありますが、最近お邪魔できていませんので、再度参らせて頂きたいと思っています。お邪魔した後、本ブログにてご紹介できればと思います)がある南の国分寺崖線を下る方面に、高低差を感じつつ進みます。

TERAKOYAの先は階段になっており、そのすぐ先の路地の様な道・念仏坂方面に行き、坂の途中を改めて右折して(西側に)進むと、平代坂に出ます。この平代坂を今度は上りますと、「梶四郎家所蔵板碑 群・宝筐印塔の碑」、「平代坂遺跡」の説明看板が立っております(最下部の地図、ご参照ください)。この場所で実物を見られる訳ではありませんが、鎌倉時代の板碑や旧石器時代(15,000年から35,000年前)の痕跡が見つかったという場所です。縄文時代よりも前の人々の生活の痕跡が見つかったこの場所で、国分寺崖線と言う地形が人々に与えてきた影響に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか?

この平代坂を連雀通りまで戻り(登り)、改めて西に向かうと、小金井警察署の手前の左(南)側に、滄浪泉園の入口が出てきます。大学時代、正にこの付近に住んでおり、当時はお伺いした事はありませんでした。故に初めての訪問になります。内部は庭園と言うより、「森」と言った印象が強いです国分寺崖線の高低差をしかりと感じる事が出来、鳥のさえずりを聞きながら散策出来る湧水による池(東京の名湧水57選)や、周囲に多くの木々が整う環境は格別。水琴窟や石像があり、人の営みも感じる事が出来る空間です。ちなみにこの庭園Wikipediaには以下の様にあります。

滄浪泉園(そうろうせんえん)は、東京都小金井市にある有料の庭園、緑地保全地区。波多野承五郎の別荘の一部が庭園として残されたもので、名称は犬養毅の命名による

由来:実業家で衆議院議員も務めた波多野承五郎は、国分寺崖線の上にあるこの一帯に、1914年に別荘を構え、敷地面積3.3haほどの庭園を営んだ。1919年には、犬養毅がここを訪れ、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という意味を込めて「滄浪泉園」と命名した。後には犬養の直筆を写した、石の門標が設けられた。(略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/滄浪泉園

落葉樹が多く、モミジも見えたので、秋の紅葉が美しいのではないかと思いましたので、改めて秋の季節を狙って再訪したいと思っております。

尚本ブログでは、東京旧古河庭園東京椿山荘神戸相楽園京都無鄰菴高松栗林公園熊本水前寺成就園山梨恵林寺庭園甲府常磐ホテルの庭園平泉毛越寺庭園名古屋徳川園二条城二の丸庭園川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園熱海の起雲閣旧芝離宮恩賜庭園小石川後楽園清澄庭園浜離宮六義園新宿御苑日本三名園金沢兼六園岡山後楽園偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。

・滄浪泉園~貫井神社

滄浪泉園を出て、連雀通りに戻って再度西に進み、最初の信号(小金井警察署前)を左折し、側道に入ります。段差はありますが、新小金井街道に沿って、歩道がつながっており、坂を下れば野川にたどり着きますが、そのまま側道を進むと、「はけうえ遺跡」の説明看板が出てきます。位置的には、高低差はありますが、上記、滄浪泉園の池の隣辺り旧石器時代・縄文時代の遺構が発見された場所との事で、改めてこの地域の長い歴史を感じざさせてくれます。

上記、説明看板の先を階段で、野川方面に階段で下る事も出来ますが、ここはいったん側道に沿って連雀通りに戻り、西に歩を進めた最初の信号(小金井四所前)を左折する(南側に進む)と三楽公園・三楽の森と言う緑豊かなスペースがあります。NECの創立者の一人、前田武四郎氏の別荘があった場所を小金井市が借り、管理している緑地帯の様です。ちなみにこの別荘の名前が三楽荘といった様です。それなりの広さがあり、落ち着いた空間ですので、小休止されてはいかがかと思います。小休止の後、三楽の森を出ると向かいに貫井遺跡の看板がございます。こちらも同様に、またしても旧石器時代~縄文時代の遺構が発見されているとの事です。この説明看板の先は下り坂(三楽の坂)になっておりますので、ここを下り、貫井神社に向かいます

・貫井神社~殿ヶ谷戸庭園

貫井神社は、こちらのホームページ(https://nukuizinzya-official.amebaownd.com/pages/4887494/yuisyo-rekishi)によると、創建は1590年とあります。社殿の前には大きな池があり、その上にかかる朱色の橋は周囲と調和し、美しい景観をつくっています。また、社殿の裏手には、この池の源の湧水があります。1590年の創建とありますが、水の湧くこの場所、上記で記載した貫井遺跡にかつて住んでいた住人が使わない事は無いと思いますので、神社の歴史以上の歴史を持った場所だと思わずにはいられません

貫井神社を後にし、西に歩を進めると、「くらぼね坂」に出ます。この坂を登る方、国分寺崖線の崖の途中付近の東京経済大学の敷地内に「新次郎池(東京 の名湧水57選)」がある様で、看板(写真:東経の森)にも、記載はありましたが、入る事は出来ませんでした。その為、坂を下る方に行き、その日初めての野川に参ります。そのポイントには、「鞍尾根橋」が架かっており、これより上流は、河川敷(流れの直ぐ脇を歩けるスペース)は、残念ながらございませんその為、ここより少し下流に、野川の河川敷を散策される事をお勧めします(野川沿いの大人散策でもありますので!)。鞍尾根橋を起点に、野川の河川敷の往復で、大人散策頂いた後は、殿ヶ谷戸庭園に向けて、国分寺崖線を登って行きます

・殿ヶ谷戸庭園~野川の水源

鞍尾根橋から殿ヶ谷戸庭園へは、1㎞ちょっとの道のりですが、国分寺崖線を登りますので、若干、上記鞍尾根橋の名の通り、骨が折れますが、是非訪れて頂きたい庭園です手入れされた植栽と国分寺崖線(はけ)の高低差を活かした景観と水の流れは、大人には格別です。尚、Wikipediaには以下の様にあります。

殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)は、東京都国分寺市にある有料の都立庭園である。園内は自然の地形を生かした回遊式庭園となっている。国の名勝に指定されている。(略) 

歴史:1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、江口定条の別荘として庭師・仙石の手で作庭される。1929年(昭和4年)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備した。(略)

園内国分寺崖線と呼ばれる段丘崖と豊富な湧水を巧みに生かして築かれた、回遊式林泉庭園である。様々な木々が植えられており、園内には池や周遊順路が存在し、カメラマンや地元住民、近隣で働く人間の憩いの場として利用される。(略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/殿ヶ谷戸庭園

前編で紹介した深大寺・野川公園・はけの森美術館、上記紹介の滄浪泉園・貫井神社・新次郎池と共に(以下紹介のお鷹の道・真姿の池湧水群もですが)「東京の名湧水57選」に選ばれた、殿ヶ谷戸庭園の水の流れと手入れされた植栽に彩られた、国分寺崖線の景観を味わってみてはいかがでしょうか?

殿ヶ谷戸庭園を後にした後は、野川の水源に向けて大人散策を再開します。つまり再度国分寺崖線(=はけ)を下ると言う事です(多くのアップダウンがあるコース設定ですいません…)。ここまで野川のその物の流れは限定的ですが、殿ヶ谷戸庭園の南にあたる「もみじ橋」、「不動橋」より、河川敷の散策路はありませんが、野川の流れを見る事が出来ます

不動橋では、2つの流れが合流するポイントになりますが、上流を向いて右手の流れが野川の水源方面になります(ちなみに左手からの流れは、以下に紹介する「お鷹の道・真姿の池湧水群一帯」からの流れになります)

これより先は、住宅街を縫うように進むようになり、また野川の流れが所々でしか確認できないので、見失わない様に歩を進める必要があります。今回の大人散策プランでは、押切橋の今少し上流、中央線をくぐって出てくる野川の流れを見る所までとしております。理由は野川の源流は、中央線をくぐったさらにその先の日立製作所・中央研究所の敷地内で、通常は中に入る事が出来ない為です。今後タイミングが合い、敷地内に入る事が出来た際は、改めて本ブログで紹介させて頂こうと計画しています。

・野川の水源~お鷹の道・真姿の池湧水群一帯

中央線をくぐって出てきた野川の源流(正確には源流付近)まで行った後は野川のもう一つの源と言って良いと思いますが、上記不動橋で合流した左手からの流れの源、お鷹の道・真姿の池湧水群一帯に向かいます

お鷹の道・真姿の池湧水群は、国分寺市のホームページによると以下の様にあります。

お鷹の道:江戸時代に市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていました。それにちなんで、崖線下の湧水が集 まり野川にそそぐ清流沿いの小径を“お鷹の道”と名づけ、現在約350メ-トルを遊歩道として整備 されています。(略)

真姿の池湧水群真姿の池をはじめとする崖線下の湧水群は、 上記の「お鷹の道」と合わせた環境の良さを評価され、昭和60年に環境省選定名水百選のひとつに選ばれました。また、東京都の名湧水57選にも入っています。池の西側に位置する国分寺には、『医王山縁起』というお寺の縁起が残されています。

それによると、嘉祥元年(848)、不治の病に苦しんだ玉造小町が病気に苦しみ、病気平癒のために国分寺を訪れて21日間薬師如来を参拝しました。すると一人の童子が現れ、小町を池のほとりに案内し、この池の水で洗い清めるようにと言ってすぐに姿を消しました。小町が身を清めると、いつの日か病は癒え、元の姿(真姿)に戻ったそうです。この言い伝えによって、「真姿の池」と呼ばれるようになりました。(略) 

https://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisetsu/kouen/1005195/1004229.html

前編で紹介した深大寺・野川公園・はけの森美術館、上記紹介の滄浪泉園・貫井神社・新次郎池・殿ヶ谷戸庭園と共に「東京の名湧水57選」に選ばれたと同時に、全国の「名水百選」にも選ばれていますので、水の綺麗さは別格の様です(私の出身地・山梨県北杜市の名水百選(三分一・尾白川等)も別記事で紹介しております。また、玉川上水の大人散策で紹介しました「清岩院」も東京の名湧水57選に選出されています)。

また、周囲の環境も非常に良く整備されており、「古き良き日本」と言った印象を持つ場所です旧本多家住宅長屋門等の歴史的建造物、カフェ等小休止スペースもありますので、小休止しつつ大人散策を楽しまれてはいかがでしょうか?

・お鷹の道・真姿の池湧水群一帯~武蔵国分寺

上記、お鷹の道・真姿の池湧水群一帯の隣には、現在の武蔵国分寺、そしてその南には、武蔵国分寺跡がございます

現在の国分寺の国分寺楼門は、明治期に東久留米の米津寺から移築されたものとの事で、中々の迫力です。本堂も「さすが国分寺」と言った感じの立派な唐破風を見る事が出来ます。また北西の少し斜面を登った先には、薬師堂もあり厳かな雰囲気を醸し出しています。その傍らの説明看板には、「土師竪穴住居跡」とあり、竪穴住居跡が発見された旨記載されていました。薬師堂は、国分寺崖線の武蔵野面(上の方)にある認識で、上記に紹介した遺跡同様、昔からの人の営みがあったという理解をしました。

薬師堂のお参りで、一回登った国分寺崖線ですが、三度下り、今度は「武蔵国分寺跡」に向かいます。現代の国分寺ではなく、奈良時代の国分寺の痕跡の方に参ります。尚、”国分寺”、に関しては、Wikipediaで、以下の様にあります。

国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。(略)

国分寺の建設地の選定における条件は、石田茂作の諸国国分寺の調査成果により『東大寺と国分寺』により示されている

地形的条件

①国華として仰ぎ見るのによい地形

水害の憂いなく長久安穏の場

南面(向)の土地

都市計画的条件

人家の雑踏から離れている

⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地

条里制区画(六町四方を一里とする方形地割にもとづく土地制度)の拘束を甘受すること

政治的条件

国府(役所)に近いところ(国司が国分寺を監督したことによる) (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/国分寺

「なるほど!」と思うのは、私だけではないと思います。

本ブログ別記事で、詳細を記載しておりますが、言い換えますと、「武蔵野台地の武蔵野面では水の確保が難しいが、立川面では、お鷹の道・真姿の池湧水群がある通り、水の確保がしやすく(でも水害の心配もない)、南向きの広い土地が利用でき、国府(現在の府中・大國魂神社付近:以下地図参照)にも近いが若干の距離もあり雑踏からは離れるが集合はしやすいからこの場所を選んだ」と理解したのは、私だけではないだろうと思った次第です。

武蔵国分寺跡~武蔵国分尼寺跡

上記、Wikipediaからの引用の通りですが、武蔵国分寺跡の西側、府中街道・武蔵野線を挟んだ反対側には、武蔵国分尼寺跡がございます。ここで今一度、Wikipediaの力を借り、今度は、”武蔵国分寺跡”、を調べてみますと、以下の様にあります。

武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)は、東京都国分寺市西元町・東元町にある古代寺院跡武蔵国分尼寺跡を含んで国の史跡に指定されている。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺・国分尼寺の寺院跡にあたる。(略)

概要:本史跡は、かつて武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地である。(略) 国分寺崖線の南側すぐの位置にあり、かつては東山道武蔵路を挟む形で東側には武蔵国分寺、西側には武蔵国分尼寺が立地していた。現在は、両寺院の間を府中街道(埼玉県道・東京都道17号所沢府中線)とJR武蔵野線が横切っている。(略) 国府(武蔵国府跡)から南北の道でつながっている

https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵国分寺跡

武蔵国分尼寺跡の北には、「伝鎌倉街道」の史跡もあります。本ブログで何度も紹介している、何処にでも出てくる印象の鎌倉街道ですが、この付近の鎌倉街道の前身は東山道武蔵路を多くの部分で踏襲している可能性が高いという認識を持っています(本ブログ別記事参照)。以下にも記載しますが、この北には、東山道武蔵路の痕跡とされる場所があるのです

武蔵国分尼寺跡~西国分寺

上記に若干触れました、東山道武蔵路の痕跡が、武蔵国分尼寺跡の北、1㎞ちょっとのところにありますレプリカの展示も野外にありますし、ゴールの西国分寺駅への通り道にも近いので、是非ご覧頂きたいです。

上記でも触れた通り、この付近の鎌倉街道(上道)は、その前の時代に作られた、東山道武蔵路を踏襲してる部分も多いと思われ、東山道武蔵路の痕跡と思える道も、鎌倉街道 / 鎌倉街道の枝道(堀兼道)と伝えられている場所もあります

最下部の地図(黄色の星印)で示す通り、武蔵野国府跡から、こちらで紹介する武蔵国分寺跡玉川上水の記事で紹介した鎌倉橋野火止用水の記事で紹介した九道の辻、東村山駅東にある東山道武蔵路跡東山道武蔵野道の遺跡として最初に見つかった東の上遺跡等、北に直線で伸びている事ご理解頂けると思いますこんな歴史的観点から楽しむ事こそ、大人散策の醍醐味だと思いますので、アップダウンを繰り返し、疲れも出ているかもしれませんが、今少し脚を伸ばしてみてはいかがかと存じます。東山道武蔵路の跡まで行けば、ゴールの西国分寺駅は、目の前ですので!

尚、本ブログ別記事で、鎌倉街道上道と東山道武蔵路(≒鎌倉街道・枝道の堀兼道)の追分(以下地図参照)以降の大人散情報につきましても情報を記載しておりますので、是非ご参照頂ければと思います。

【最後に】

以上が、「東京の国分寺崖線に沿う様に流れる、野川の大人散策情報を紹介・後編」、になります。直線距離で考えると、前半戦の方が距離は長いですが、後半戦の方がアップダウン激しく、「直線的に進むコース設定になっていないので」、疲労度は後半戦の方が高いかもしれませんが、見所が凝縮されているのも事実だと思います。

武蔵野台地の武蔵野面と立川面を分ける「国分寺崖線=はけ」、そして「その脇を流れる野川」。ここには、高低差を感じる地形の面白さや、この高低差によって生まれる湧水等の自然、そしてその自然を生かして古代から続くこの場所で生きてきた人達の営み等を感じる事が出来る遺構・歴史、更には神社仏閣と、非常に満足度の高い大人散策が遂行できる地域です。現在では、これらを残そうとする地域の方々の努力があってこそのものだと思い、将来にわたって、この環境が続けばよいと思うのは、私だけではないと思います。

前編(二子玉川~武蔵小金井)を先に記載しておりますので、こちらの情報と併せてご参照の上、是非皆様もこの地域で大人散策(フィールドワーク)頂き、この地域の地形/自然・歴史・神社仏閣といった魅力を感じてみてはいかがでしょうか?

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

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