【はじめに】
こちらのページでは、「日本三大曳山祭/山車祭/美祭」を取り上げさせて頂こうと思います。
本ブログ、別記事でも取り上げさせて頂きました「川越まつり」。例年、10月の第三週に行われる「川越氷川神社」の祭礼で、ユネスコの無形文化遺産に「山・鉾・屋台行事」の1つとしても登録されており、毎年100万人近い人出で盛り上がる、川越の一大イベントです(詳細は別記事、「川越まつり」、「川越氷川神社」をご参照ください)。そんな「川越まつり」で有名なのが「山車」。多くの山車が、街の中を練り歩き、山車同士が出会った際、山車と山車が向かい合い、お囃子をそれぞれが奏でる「曳っかわせ」は、粋なまつりの文化を肌で感じる事が出来、川越まつりの華と言うべき光景です。中々素晴らしい祭で、川越市民として誇らしい気持ちもあり、「そー言えば、『日本三大曳山祭』とか『日本三大山車祭』ってあったなー」、「川越まつりも、これだけ立派な山車を繰り出す祭で(30弱の山車があるらしい)、これだけ多くの人が訪れ(100万弱の訪問者)、ユネスコの無形文化遺産に登録され、江戸時代から続くまつりであれば、『日本三大曳山祭』・『日本三大山車祭』の1つだろう!」と思って調べてみました。
すると、「三大曳山祭:高山祭(岐阜県高山市)、秩父夜祭(埼玉県秩父市)、祇園祭(京都府京都市)」、「三大山車祭:祇園祭(京都府京都市)、高山祭(岐阜県高山市)、長浜曳山祭(滋賀県長浜市)」との事で、「川越まつりは、入っていない」のです…。 少々残念な気持ちになり、では、「これらの三大曳山/山車祭は、どの程度の祭りなのか?」という物が気になってしまいました。以下に、それぞれの祭りの概要と考察をまとめさせて頂きましたので、共有致します。
【日本三大曳山/山車祭/美祭とは?】
まず最初に、「日本三大曳山/山車祭/美祭」の概要から抑えさせて頂きます(少々引用が長くなっていますので、下記にサマリ的にまとめております)。早速、Wikipediaで調べてみみますが、「日本三大曳山/山車祭/美祭」といった項目は無く、「日本三大一覧」項目となり、上記記載の通りですが、以下の様にあります。
(略) 三大曳山祭・三大美祭 : 高山祭(岐阜県高山市)、秩父夜祭(埼玉県秩父市)、祇園祭(京都府京都市)
(略) 三大山車祭 : 祇園祭(京都府京都市)、高山祭(岐阜県高山市)、長浜曳山祭(滋賀県長浜市) (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三大一覧
また同様に、「曳山」を調べてみますと、「山車」のページに転送され、以下の様にあります。
山車(だし、さんしゃ)は、日本で祭礼の際に引いたり担いだりする出し物の総称。花や人形などで豪華な装飾が施されていることが多い。地方によって呼称や形式が異なり、曳山(ひきやま)・祭屋台(まつりやたい、単に屋台とも)などとも称される。神幸祭などの行事では、この山車が町の中をねり歩き行列となることもある。
厳密に言うと、山の形状を模したり、上に木を立てて山の象徴としたものを「山」、それらがない屋根の付いた曳き物が「屋台」と分類される。 ただし、実際は祭礼ごとに形状に関係なく、名称がどちらかに統一されている場合が多い。
山車の別名
山車(だし)の語源は、神殿や境内の外に出す出し物であるからとする説と依り代である髯籠(ひげこ)を出していたからだとする説などがある。山車は「出し物」全般を指すが、車の字がついていることから曳き山を指すことが多い。地方によって様々な呼ばれ方をする。川越まつりにおける様々な山車 豪華絢爛の一言です! ■山のつくもの
- やま(山、山車、軕)、ひきやま(曳山、曳き山)、かきやま(舁き山、担ぎ山)。
- やまほこ(山鉾)。台の上に山の形の造り物をのせ、鉾や長刀 などを立てたもの。厄神は鉾のようなキラキラしたものに集まるという言い伝えから。
- やまかさ(山笠)(北部九州地方)
- やたい(山車)(山形県新庄市、最上地方)
■車のつくもの(上記を除く)
- さいしゃ(祭車)(三重県桑名市地方)
- おくるま(御車)(知多地方、尾張地方)
■笠のつくもの(上記を除く)
- かさぼこ(笠鉾)(秩父地方など)
- おかさ (お笠)(和歌山県田辺市)
■台のつくもの
- やたい(屋台)(主に長野県、静岡県遠州、岐阜県飛騨など中部地方、神奈川県小田原市および兵庫県播磨地方、岩手県内陸部、沿岸内陸部。)
- たいこだい(太鼓台)(主に瀬戸内地方で愛媛県新居浜市、西条市、大阪府八尾市、堺市など)
- だいがく (台楽、台額)(戦前まで大阪市南部一帯にあったが、2015年現在は生根神社の2基のみ)
■だんじり
https://ja.wikipedia.org/wiki/山車
- だんじりもしくはだんぢりとして、おもに山車を指す西日本特有の呼称。 (略)
更に同様に、ユネスコの無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」を調べてみますと、以下の様にあります。
山・鉾・屋台行事(やま・ほこ・やたいぎょうじ)は、山・鉾・屋台等と呼ばれる山車が巡行する日本の祭33件からなる国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産である。2016年(平成28年)11月30日に登録が決定した。
概要
青森県から大分県に至る18府県の「山・鉾・屋台行事」計33件からなる無形文化遺産である (略)無形文化遺産@ユネスコ (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/山・鉾・屋台行事
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントを整理します。
- 高山祭(岐阜県高山市)/ 祇園祭(京都府京都市)は、「三大曳山祭」であり、「三大美祭」であり、「三大山車祭」である
- 秩父夜祭(埼玉県秩父市)は、「三大曳山祭」であり、「三大美祭」であるが、「三大山車祭」ではない
- 長浜曳山祭(滋賀県長浜市)は、「三大曳山祭」ではなく、「三大美祭」でもないが、「三大山車祭」である
- 「曳山」/「山車」と言葉は違うが、意味は基本同じで、地域により呼び方が違う (「三大曳山祭」と「三大山車祭」を分ける意味があるのかは不明…)
- 「山・鉾・屋台行事」は、無形文化遺産として、ユネスコに登録され、全国・33の「山・鉾・屋台行事」(=祭?)からなる
- 上記、ユネスコ無形文化遺産として登録された「山・鉾・屋台行事」(=祭?)には、高山祭(岐阜県高山市)/ 祇園祭(京都府京都市) / 秩父夜祭(埼玉県秩父市)/ 長浜曳山祭(滋賀県長浜市)は勿論含まれ、我らが川越の誇る「川越まつり」も含まれる
少々個人的感想も入ってしまいましたが、上記のポイントになると思った次第で、「曳山 / 山車」を主役にした祭の中では、「高山祭(岐阜県高山市)/ 祇園祭(京都府京都市) / 秩父夜祭(埼玉県秩父市)/ 長浜曳山祭(滋賀県長浜市)」の4つの祭りは、「格が違うのかな?」とも思ってしましました。
【三大曳山/山車祭のそれぞれの概要】
上記、①「日本三大曳山祭/山車祭」の概要、②「曳山 / 山車」の意味、③「 ”山・鉾・屋台行事” (=祭?)@ユネスコ無形文化遺産」の一覧等を抑えましたので、この中でも「格が違う」と思われる「『高山祭(岐阜県高山市)/ 祇園祭(京都府京都市)は、/ 秩父夜祭(埼玉県秩父市)/ 長浜曳山祭(滋賀県長浜市)』の4つの祭り」の概要を下記にまとめさせて頂こうと思います。
■ 高山祭 (三大曳山 & 山車祭)
まずは、岐阜県高山市の高山祭から。Wikipediaの「高山祭」の項目には、以下の様にあります。
高山祭(たかやままつり)は、岐阜県高山市で毎年開催される、4月14~15日の日枝神社例祭「春の山王祭」と、10月9~10日の櫻山八幡宮例祭「秋の八幡祭」の総称である。
「屋台」と呼ばれる山車を曳いて市街を巡幸することから、京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭や日本三大美祭の一つに数えられる。重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財に指定されている。
沿革
山王祭は江戸時代前半、元禄5年(1692年)の記録に40年前から3年ごとに祭礼が行われていたとの記録があることから、その歴史は飛騨高山藩主金森頼直治世下の慶安5年(1652年)まで遡ることができる。ただし、この時点では屋台が曳行されたとの記録はない。屋台の創建は最も古い屋台の創建が宝暦年間であることから、屋台が祭に加わったのはそれ以降と考えられる (略)八幡祭は享保元年(1716年)の記録が最も古い。その後、享保3年に4台の屋台(猩々、高砂、湯ノ花、浮嶋太夫夫婦)を曳いたとの記録がある。このときは屋台の他に現在の祭りでは見られない笠鉾2基も行列に加わっている (略)
Wikipediaより:高山祭の屋台 屋台
https://ja.wikipedia.org/wiki/高山祭
山車や曳山のことを、高山など中部地方の一部では「屋台」と呼ぶ。高山祭の屋台の特徴としては、上段の屋根の部分が伸縮して高さを変えられるようになっていることや、4輪の屋台が方向を転換する際にジャッキで戻し車と呼ばれる車輪を引き出して2輪を浮き上がらせて一時的に3輪の状態にする機構を備えている点が挙げられる。また、各屋台に台紋と呼ばれる紋章があり、屋台の飾りや屋台組の衣装などにあしらわれている。 (略)
また、高山市のHPには、以下の様にあります。
https://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000915/1000916.html
まとめますと、高山祭りの歴史は、江戸時代の初~中頃で、4月の日枝神社(=山王信仰)の山王祭と10月の八幡宮(=八幡信仰)の八幡祭の2種類の祭りがあり、屋台(=山車)が、街中を巡行する祭りの様です。また人出は、様々な数字がある様ですが、インターネット上でサーチしてみると、春・秋共に20万にはいかない数字が見えるので、大体ですが、「春夏合わせて30万~40万の人出」といった所ではないかと思った次第です。
■ 祇園祭 (三大曳山 & 山車祭)
次に見ていくのは、京都の祇園祭。Wikipediaの「祇園祭」の項目には、以下の様にあります。
祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。
概要
祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 – 16日・後祭:7月21日 – 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。京都日帰り旅行時に訪れた八坂神社 宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。応仁の乱で一度祇園祭が中止されたが、町人によって復活した。(略)
祇園御霊会の起源
疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。京都日帰り旅行時に訪れた神泉苑の様子 864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年(令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている (略)
山鉾巡行の成立
祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。鉾の古い形式は、現在も京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)をはじめ、京都周辺から滋賀県にかけて分布する剣鉾に残っており、祇園御霊会の鉾もそれに類するものであったと推定される。祇園祭山鉾連合会のHP(http://www.gionmatsuri.or.jp/)より:祇園祭の山鉾① 現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の『花園天皇宸記』元亨元年7月24日(1321年8月18日)条の記述から窺える。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである。南北朝時代には、富裕な町人層が競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や大舎人座(現:西陣)が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった。
室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる。
祇園祭山鉾連合会のHP(http://www.gionmatsuri.or.jp/)より:祇園祭の山鉾② 応仁の乱による33年の中断を経て、1500年(明応9年)、祇園会が再興された。明応年間に打ち続いた災異、ことに1498年(明応7年)の東海大地震・大津波による列島規模の大災害の発生が祭礼の復興を後押ししたものと見られる。復興にあたって室町幕府奉行衆の松田豊前守頼亮が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の60基(前祭32基、後祭28基)の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/祇園祭
『「前の戦は?」と言うと、「太平洋戦争ではなく、応仁の乱を指す」』といった話が伝わるほど歴史のある、さすがの伝統を誇る京都の有名な祭だけあって、平安時代から続く、疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめる事を目的に行われるお祭りで、その歴史は1150年以上。八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別されるようで、山鉾町が主催する「山鉾行事」だけが重要無形民俗文化財に指定されている様です。山鉾行事のハイライトは、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられ、山鉾行事は「宵山」(よいやま)と「山鉾巡行」が有名との事です。山鉾(=山車)の数も、応仁の乱以前は60基あった様で、現在でも34(35?:前祭23基・後祭11基・休山1基)の山車があるとの事ですから、「日本を代表するお祭り」である事は間違えなく、期間中(様々な数字がある様ですが…)80万以上の人出がある様です。
■ 秩父夜祭 (三大曳山祭)
3つ目に見ていくのは、秩父夜祭。Wikipediaの「秩父夜祭」の項目には、以下の様にあります。
秩父夜祭(ちちぶよまつり)は、秩父神社の例祭であり、毎年12月1日から6日に埼玉県秩父市で行われる。12月2日が宵宮、12月3日が大祭であり、提灯で飾り付けられた山車(笠鉾・屋台)の曳き回しや、冬の花火大会で全国的に知られている。祭りは寛文年間から続くとされ、300年以上の歴史がある。日本屈指の極めて豪華な祭りであり、一連の行事が国の重要無形民俗文化財に指定されている。
秩父三社の1つ・秩父神社の様子 大祭の12月3日の午後6時半頃に、秩父神社から1キロメートルほど離れた御旅所に向けて御神幸行列が出発し、6台の笠鉾・屋台がそれに続く。御旅所下の急坂、団子坂を最大20トンの笠鉾・屋台が多くの曳き手によって曳き上げられる頃に祭りは最高潮を迎える。
秩父夜祭は、京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並んで日本三大美祭及び日本三大曳山祭の一つに数えられる。秩父夜祭の笠鉾・屋台は、釘を一本も使わずに組み立てられる。金色の飾り具や極彩色の彫刻、後幕の金糸の刺繍で装飾された笠鉾・屋台は「動く陽明門」といわれるほど豪華絢爛で、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
秩父まつり会館のHP(https://www.chichibu-matsuri.jp)より:秩父夜祭の笠鉾と屋台 同一の祭礼について国の重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財の両方に指定されているものは日本全国に5例しかなく、秩父夜祭はそのうちの一つであり、歴史的・文化的に非常に価値の高い祭りである (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/秩父夜祭
また、秩父まつり会館のHPには、以下の様にあります。
(略) 笠鉾と屋台
勇壮な秩父屋台囃子を打ち鳴らし、初冬の街中を曳き廻される山車は、笠鉾(かさぼこ)2基と屋台4基。『動く陽明門』と言われるほど豪華絢爛で、昭和37年には国の重要有形民俗文化財に指定されました (略)花火
豪華絢爛な屋台と笠鉾に勝るとも劣らない、花火は夜祭に文字通り花を添えます (略) 秩父では冬の夜祭が本番! 天候の安定している、冬の澄んだ空気のなかで、より鮮明で、ダイナミックに上がる花火を、秩父っ子達は自慢にしてきました (略)屋台芝居
https://www.chichibu-matsuri.jp/yomatsuri/
(略) 歌舞伎が盛んであったころは、各町内が競い合って自慢の演目を上演し、観客も一幕終わるたびに、各町の屋台を行ったり来たりという光景が見られたと伝わっています (略)
情報を整理しますと、江戸時代の初め頃に始まり、300年以上の歴史を持つ秩父神社の例祭で、12月の頭に行われる。提灯で飾り付けられた山車(笠鉾・屋台)の曳き回しも行われ、日本三大美祭及び日本三大曳山祭の一つとの事。山車の数は6基(笠鉾:2基・屋台:4基)と少々少ない感じもしますが、『動く陽明門』と言われるほど豪華絢爛な物の様で、国の重要有形民俗文化財に指定された事から見ても、「日本三大美祭・日本三大曳山祭」の名に恥じない美しいものである事想像できると思いますし、同時に花火大会や屋台芝居も見られるとの事で、地域人達の心意気が詰まった、自慢の祭りであると思われ、30万弱の人出がある様です。秩父の大人散策と併せて訪れたい、秩父好き埼玉県民のおすすめのお祭りだと認識しています。
■ 長浜曳山祭 (三大山車祭)
最後は、長浜曳山祭。Wikipediaの「長浜曳山祭」の項目には、以下の様にあります。
長浜曳山祭(ながはまひきやままつり)とは、滋賀県長浜市で毎年4月に開催される祭で、京都の祇園祭、高山市の高山祭と並んで日本三大山車祭の一つに数えられる (略)
概要
舞台付き曳山での子ども歌舞伎の上演を中心とした旧長浜町内の祭であり、毎年4月15日を中心とした長浜八幡宮の春の例祭に奉納される。近世の長浜町に属する各町と、七郷と呼ばれる隣接集落が参加し、13基の曳山があり、そのうちの12基(鳳凰山、高砂山、猩々丸、壽山、翁山、常磐山、萬歳楼、孔雀山、青海山、月宮殿、諫皷山、春日山)が子ども歌舞伎をおこない、毎年4基ずつ交代で巡行する。(略)祭は4月9日の線香番に始まり、12日までの4日間は若衆による裸参り、13日未明に起し太鼓が町内を囃し廻ると、早朝から長刀山と他の12基の曳山が御幣迎えに社参し、神輿がお旅所へ渡り、午後に若衆が出番山の順番を決める籤取式に臨む。13日夕方曳山の上で初めて子ども歌舞伎が演ぜられ、一番山は三番叟を舞う。宵宮14日の登り山は出番山を神社へ曳行した後、子ども歌舞伎の役者が神社から町内へ練り渡る夕渡りがあり、15日朝には神社へ向かう朝渡り、長刀山による太刀渡りがある。15日の夕方から、出番山が順にお旅所で子ども歌舞伎を奉納する (略)
裸参り
長浜曳山祭の裸参りは、「籤取式」と呼ばれる行事で4つの山組の狂言奉納順を決める神籤を引く「籤取人」を盛り立てて良い籤が引けるように祈願し、祭礼本日の晴天と役者の健康、祭りの成功を祈るものである。また、祭りを迎えるまで身体を酷使し、ストレスを溜めた若衆のストレス発散の役割も果たしている。裸参りには、以下のルールが定められている。https://ja.wikipedia.org/wiki/長浜曳山祭
- 裸参りはお参りであって、建前として喧嘩を目的とした喧嘩祭りではないため、自分から手を出さないこと。
- 隊列は左側通行とし、参拝に向かう往路の組の通行を優先する。
- 長浜八幡宮の二の鳥居を抜けた境内や豊国神社の喧嘩は控える。また、先発した組が長浜八幡宮の井戸で身を清めている際は、井戸より前の地点で待機する。
- 裸参りは身を清めた籤取人が無事に翌日の籤取式に出て良い籤を引いてもらうための行事であり、喧嘩が起きても籤取人に手を掛けたり、恥をかかせたりしてはならない (略)
また、長浜の曳山博物館のHPには以下の様にあります。
■長浜曳山祭の現在
長浜曳山祭は、長浜八幡宮(長浜市宮前町)の祭礼として、毎年4月9日から17日の間、長浜の町中で開催される、長浜が世界に誇る祭りのひとつです。祭礼期間中、多彩な行事がおこなわれる長浜曳山祭の中で多くの人々を楽しませる行事の一つが、曳山巡行です。曳山とは、祭りに用いられる山車(出しもの)のことで、長浜の曳山は江戸時代の伝統工芸を結集した飾金具や彫刻、絵画で彩られ「動く美術館」とも呼ばれています。江戸時代に造られた長浜の町中を巡行する曳山を見ているだけでもその美しさや迫力に心を打たれますが、この曳山の上で演じられる「子ども歌舞伎」も長浜曳山祭の醍醐味です。子ども歌舞伎は曳山を所有している山組の中から選ばれる男子によって演じられます。曳山の豪華な装飾品とともに、祭本番までに厳しい稽古を受けた子どもたちの華やかな姿と名演技は、多くの人々を魅了します (略)
長浜曳山祭りの曳山 (長浜曳山博物館のHP(https://nagahama-hikiyama.or.jp)より) ■長浜曳山祭の歴史
長浜八幡宮は延久元年(1069)に後三条天皇(1034-73)が平安時代の武将・源義家(1039-1106)の強い願いを聞きいれ、石清水八幡宮(八幡市八幡高坊)を勧請したのが始まりといわれます。そして長浜曳山祭の歴史は、のちに戦国の乱世を統一する羽柴(豊臣)秀吉(1537-98)によって始まります。秀吉は、天正2年(1574)頃、長浜城築城とともに長浜の城下町を建設しました。この時に、秀吉は、現在も曳山祭で執り行われる源義家の武者行列を模した「太刀渡り」という行事を行い、のちに男子出生を祝って町民に砂金を振る舞いました。それをもとに各町が曳山をつくり八幡宮の祭で曳きまわしたのが曳山祭の始まりと伝わっています (略)
現在の長浜城の様子 長浜では、寛保3年(1742)の猩々丸の本教(台本)と明和6年(1769)以降の外題記録から、江戸時代中期には狂言(歌舞伎)が演じられていたと考えられています。江戸時代から脈々と長浜の人びとに受け継がれてきた長浜曳山祭は、昭和54年に重要無形民俗文化財の指定を受けました。その後、昭和60年には、長浜に伝わる13基の曳山と曳山を収蔵する山蔵が滋賀県の有形民俗文化財に指定され、平成28年に日本各地の33の「山・鉾・屋台行事」とともにユネスコ無形文化遺産に登録されました (略)
https://nagahama-hikiyama.or.jp/presently/
秀吉が最初に城持ち大名になった地、長浜。秀吉ゆかりのお祭りが、長浜曳山祭と言う事の様です。毎年4月に行われ、数万人の来場があるこちらのお祭りの見所は、「動く美術館」とも呼ばれる13基ある「曳山(=山車)の巡行」と、この上で演じられる「子ども歌舞伎」との事(13基の曳山があり、そのうちの12基が子ども歌舞伎をおこない、毎年4基ずつ交代で巡行)で、長浜八幡宮の春の例祭に奉納されるとの事。現在の長浜城は、観光天守ですが、琵琶湖の畔に立つ天守と北国街道が通る長浜の旧市街は、大人散策にはうってつけのスポットで、歴史ある街である事を感じると同時に、「曳山」+「子ども歌舞伎」は、是非とも拝見したいお祭りだと思いました。しかし…、喧嘩がおこる事を前提にして定められたルールのある裸参りは、絶対に参加したくはありませんが、遠くからはちょっと見てみたい気もしました。上記ルールの中、何をトリガーに喧嘩が始まるのか、ちょっと興味があった次第です。
【最後に】
以上が、「日本三大曳山祭/山車祭/美祭」の概要と、その中に名を連ねる祭り:高山祭 / 祇園祭 / 秩父夜祭 / 長浜曳山祭の概要を取り上げさせて頂いた内容になります。こうしてみてみると、「祇園祭」は、その歴史も規模も別格的な印象を持ったと同時に、それぞれの祭りも特徴ある山車やその上での芝居/(子供)歌舞伎と言った、「祭りを楽しむ要素」も十分にあり、それぞれ魅力的に思え、さずが「日本三大曳山祭/山車祭」と思った次第です。
また、「日本人は、無宗教者」なんてこと言われますが、こういった「神社の祭礼と共に発展してきたお祭り」こそ「日本人の宗教観の表れ」とも思いました。 そしてもう一つ思った事があります。それは、「川越まつりも、30弱の山車があり、100万弱の人出で、ユネスコの無形文化遺産に登録され、江戸時代から続くまつりであれば、『日本三大曳山祭』・『日本三大山車祭』のに加えて、『日本四大曳山祭』・『日本四大山車祭』としてもいいのではないか?」という物です…。正直、地元びいきの発想である事否めませんが、皆様はどの様に思われましたでしょうか?