【はじめに】
こちらのページでは、「藤堂高虎と伊達政宗が息づく、現存12天守・宇和島城の大人散策情報を、周囲の大人観光スポットと併せ、今後の訪問に向けて調査し、その内容を共有」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「宇和島城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 現存12天守の1つ (現存12天守:姫路城・犬山城・松本城・彦根城・高知城・松江城・宇和島城・備中松山城・松山城・弘前城・丸亀城・丸岡城)
- 現存12天守の中で、最南端&最西端にあるお城
- 藤堂高虎による、五角形の縄張りが有名 (「藤堂高虎 & 四国」と言えば、今治城(=日本三大水城(海城)の一つ)も連想してしますが…)
- 宇和島は、伊達政宗の長男(庶子)・伊達秀宗から幕末まで、宇和島伊達家が治めた地域
- 子孫には、幕末の四賢侯の一人・伊達宗城がいる (幕末の四賢侯:松平春嶽(福井藩)・山内容堂(土佐藩)・島津斉彬(薩摩藩)・伊達宗城(宇和島藩))
- お城の近くに「天赦園」と言う大名庭園がある
築城名人と言われた、藤堂高虎の縄張りをベースに、伊達政宗の長男(庶子)である、伊達秀宗が入場した後、宇和島伊達氏の江戸期を通じての居城として明治を迎えたお城。「天守は、江戸期の初め(1666年)に築城された」と認識しておりますので、「藤堂高虎と伊達政宗が息づいている現存12天守が宇和島城」といって良い気がしました。まだお伺いできていない、宇和島城ですが、上記の様に考えてしまうと、その場にお邪魔し、その歴史に思いを馳せたくなってしまった次第です。
こちらのページでは、そんな「藤堂高虎と伊達政宗が息づく、現存12天守・宇和島城の大人散策情報を、周囲の大人観光スポットと併せ、今後の訪問に向けて調査し、その内容を共有」させて頂きます。
【宇和島城の概要】
まずは、宇和島城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の伊予国宇和郡宇和島(現在の愛媛県宇和島市丸之内)にあった日本の城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年〈昭和12年〉指定)。別名は鶴島城。
概要
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。外堀などの外郭ラインが五角形となる縄張りは、幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記され、この史実から高虎の巧みな設計として「空角の経始(あきかくのなわ)」の伝説が生まれたとされる (略)
宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は高虎の後の大名にも代々受け継がれ、三大海城の一つと謳われたが現在は堀も海も埋め立てられており、その面影は大きく失われている。明治以降は大半の建物が撤去され、城郭は戦後「城山公園」として整備された。建物は、天守、追手門などが残されたが太平洋戦争中の空襲により追手門を焼失し、現在は天守(重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣と山里倉庫(城山郷土館)が現存する。又、予算の関係で門、櫓、土塀等の建物の木造復元計画はない (略)
Wikipediaより:丸亀城宇和島城と現存12天守 平安時代から安土桃山時代
天慶4年(941年) – 警固使・橘遠保が藤原純友の乱鎮定の際、この地に砦を構えたとされる。その後、この砦が板島丸串城と呼ばれるようになる (略)
室町時代末期 – 豊後の大友氏による侵攻が相次いだため、橘遠保が砦を築いた跡地に板島丸串城が築かれる。史書には来村殿西園寺家家臣の道免城主家藤監物が城代であったことが記される (略)
文禄4年(1595年) – 藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。板島を宇和島と改める。
慶長元年(1596年) – 藤堂高虎が板島丸串城の地に本格的な築城工事城の建造を開始 (略)
慶長6年(1601年) – 板島丸串城の築城工事がなる。江戸時代
慶長9年(1604年) – 藤堂高虎が河後森城の天守を宇和島城へ移築し月見櫓とする (略)
慶長18年(1613年) – 富田信高が改易となり、幕府直轄領となった宇和郡の代官として藤堂良勝が再び城代として板島丸串城に入城する。
慶長19年(1614年) – 伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が10万石で入封。以後、仙台伊達家の別家として宇和島伊達家が9代に渡り幕末まで城主となる (略)
慶安2年(1649年) – 大地震により石垣116間、長屏780間破損 (略)
寛文2年(1662年) – 2代藩主宗利が天守をはじめ、城郭全体の改修に着手 (略)
寛文6年頃(1666年) – 天守の建築完了。現存12天守の一つにかぞえられる天守は宗利によるもので、幕府への届出は修理とされていたが、土台は岩盤から石垣へ、構造は望楼型から層塔型へ、外観は下見板張から白漆喰総塗込へとまったく異なる天守が建築された (略)https://ja.wikipedia.org/wiki/宇和島城 宇和島城天守(Wikipedia・宇和島市観光情報センターのHP(https://www.uwajima.org/)より)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭で、別名は鶴島城
- 藤堂高虎による縄張りは、外堀などの外郭ラインが五角形で、その形状は、以降も活用された (⇒ 空角の経始(あきかくのなわ)の伝説)
- 現在では、その痕跡を見ることはできないが、築城当時は「海城(水城)」であった
- 「天守」の他「上り立ち門」「石垣」「山里倉庫(城山郷土館)」が現存
- 宇和島藩は、富田氏の後、伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が、1614年に仙台伊達家の別家として入城し、その宇和島伊達家は幕末まで続いた(途中、養子も入っているので、秀宗の血縁は絶えてしまったようですが「政宗の血縁で江戸期を通した家」の様です)
- 1649年の大地震により破損した城郭を、1662年から1666年にかけて 2代藩主・宗利が天守をはじめ、城郭全体の改修した(現存12天守の一つにかぞえられる現在の天守は宗利による天守)
- この時、幕府への届出は修理とされていたが、土台は岩盤から石垣へ、構造は望楼型から層塔型へ、外観は下見板張から白漆喰総塗込へとまったく異なる天守が建築された
現在見られる天守は、1666年に2代藩主・宗利の手による物の様ですが、幕府には、「地震の被害による修理です!」と言って置きながら、「実際は、新築同様に天守を改修してしまう…」なんて、『「政宗譲りの伊達物の血」が、そうさせたのでないか…』と思ってしまった次第です。
【宇和島城の周囲を含めた見所】
上記、概要を抑えさせて頂きました宇和島城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。上記、引用いたしましたWikipediaの内容から推察するに、宇和島城における大人散策のポイントは、以下だと認識しました。
■宇和島城の城内
- 現存天守:これは絶対に外してはいけないと思います!
- 五角形の縄張りを体感:どこまで認識できるか少々不明ですが、「藤堂高虎の縄張りの痕跡」を少しでも感じたいと思いました
- 現存する「上り立ち門」「石垣」「山里倉庫(城山郷土館)」:現存する構造物は、限定的の様ですが、石垣の分類を楽しみつつ(写真で拝見する限りは、天守台は「布積切込接」、城郭周りは「乱積野面積」に見えますが…)、城内をしっかり大人散策させて頂こうと思いました
また、上記宇和島城内の大人散策は勿論ですが、宇和島に行くなら個人的に脚を延ばしたい大人観光スポットも以下に共有致します。
■宇和島市立伊達博物館
宇和島市立伊達博物館は、伊達家屋敷跡に建設された博物館で、宇和島伊達家伝来の貴重な史料や、宇和島に関する文化遺産を展示している様で、8代藩主伊達宗城像などもあるそうです。
■天赦園
天赦園は、国の名勝に指定されている日本庭園の様です。鬼ヶ城連峰を借景とした池泉回遊式の庭園(大名庭園と理解)の様で、宇和島城からも近いようですし、庭園好きの私達夫婦としては、脚を延ばすべきスポットと理解しました。
■等覚寺
等覚寺は、宇和島藩主伊達家の菩提寺で、山号は龍華山と言うそうです。伊達秀宗・伊達宗城等の歴代藩主のお墓がある様ですので、お墓参りさせていただき、宇和島伊達家の歴史に思いを馳せさせて頂こうと思いました。
■遊子水荷浦の段畑(ゆすみずがうらのだんばた)
本ブログ別記事で紹介させていただきました、姨捨の棚田や秩父寺坂の棚田と言うスポットがありますが、宇和島には「遊子水荷浦の段畑」と言う「階段状の畑地」があるそうです。宇和島の市街地からは、少し距離がある様ですが、「重要文化的景観」として選定された景観を是非拝見させて頂きたいと思った次第です。
■南楽園
南楽園は、大きな池泉が魅力で、「日本の都市公園100選」にも選ばれた、池泉回遊式日本庭園の様です。「庭園」と言うより「公園」の要素が強いのかもしれませんが、人気のある施設の様ですので、可能であれば、遊子水荷浦の段畑と合わせたドライブで、参らせていただきたいと思った次第です。
【最後に】
以上が、「藤堂高虎と伊達政宗が息づく、現存12天守・宇和島城の大人散策情報を、周囲の大人観光スポットと併せ、今後の訪問に向けて調査し、その内容を共有」させて頂いた内容になります。
こんなことを言っては、いけないかもしれませんが、宇和島城は、現存12天守の中でも少し地味な印象を持っています。別の言い方をすると「少し玄人好みの城 & 地域である印象」を持っているという事です(あくまでも個人的主観ですが…)。さらに別の言い方をさせて頂くと、宇和島城から、直接「藤堂高虎」や「伊達政宗」の連想はしにくい部分もあると思いますが、確かにこの2人の痕跡は、この現存12天守・宇和島城にあり、幕末の四賢侯の一人・伊達宗城へと続く歴史が息づいてると思っているという事です。
まだ訪問出来ていない宇和島城ですが、今回こちらの記事を記載して、改めてですが「いつかは絶対訪問しよう!」と思った次第です。訪問できた暁には、本プランの評価と含め本ブログを更新し、報告させて頂ければと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。