【はじめに】
こちらのページでは、「『太閤はんのお城』と親しまれる大坂城の歴史と地形を抑えた上で、大人散策におけるスポットを選定」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「大坂城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 「太閤はんのお城」として有名
- 上町台地の上に築かれた鉄壁の守りを誇るお城で(真田丸も有名ですが…)、日本三名城の1つ(いくつか切り口がある様だが、大坂城に加え、名古屋城・姫路城 or 熊本城の4城から3つになる様子)
- 石垣の単体の高さは日本一(33m) (総高で日本一は、丸亀城(4重の石垣の総高で60m))
- 戦国期には、石山本願寺があった
- その際、信長と石山本願寺の戦争が、10年程続き、結果、信長がその地を抑えた
- 信長の後は、秀吉が抑え、大坂城を築いた
- 秀吉の後は、大阪の陣を経て徳川が(天領)として抑え、徳川の天守を2代・秀忠の際に築いた(=江戸期の大坂城の城主は、代々の将軍)
- しかし、徳川将軍で、(徳川の)大坂城に入城したのは、家光・家茂(大坂城で他界)・慶喜のみ
- 昭和に入って、戦前の1931年に現在の天守が築かれた
大阪には、仕事でよくお邪魔しましたが、基本日帰りの出張であった為、大坂城に参らせて頂いたのは、ほんの2-3回のみで、それも1時間弱の滞在。これだけ大阪来てるのだから、「その内、ゆっくり見学できるだろう…」と思いながら、はや30年以上経過してしまいました…。つまり、かなり身近に感じていた大坂城ですが、訪問した事はあっても、ゆっくり見学した事がなく、自身の段取りの悪さをこの歳になって、後悔している次第です…。
自身にとって、そんな大坂城ですが、上町台地の上に築かれたお城は、まさに難攻不落。本願寺は、信長の攻撃を10年耐え、大阪冬の陣で家康は落とす事が出来ず、(言い方悪いですが…)だまし討ちに近い感じで堀を埋める事が出来た為、夏の陣でようやく落とす事が出来たお城。本では読んでいても「上町台地ってそんなすごい地形なの?」と思ったことがあり、地理院の自身で高低差を設定できる地図(以下参照)を活用してこの地域の地図を作成し、「なるほど!」と思った記憶があり、「信長もこの土地が欲しかったから石山本願寺を10年かけてでも攻めたんだ…」と勝手な推察をしてしまった記憶があります。
こちらのページでは、そんな個人的イメージを持っており「『太閤はんのお城』と親しまれる大坂城の歴史と地形を抑えた上で、大人散策におけるスポットを選定」させて頂きます。
【大坂城の概要】
まずは、大坂城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、写真だけでもご覧いただければ大丈夫です…)。
大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、戦国時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれた日本の城。現在の天守は1931年に復興された。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おおさかじょうこうえん)として整備されている。天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。
概要
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定している。予算の関係で戊辰戦争や空襲で焼失した本丸御殿、櫓、門、土塀を木造復元する予定はない。
大坂城は、上町台地の北端に位置する。文献等にもよるが、日本三名城の一つに数えられる(他の二つは名古屋城、姫路城、熊本城の内から挙げられる場合が多い)。
現在は江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。天守は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復興された創作物であるが、築90年近い現在はそれはそれとして登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。ちなみに、「おおさかじょう」の表記についてであるが、近代以降「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。なお「大阪城」は大阪市の町名にもなっている。
Wikipediaより:豊臣期大坂図屏風に描かれた大坂城と城下の賑わい 前史
上町台地の先端であるこの地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると渡辺津から京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々この辺りは1098年の難波古地図に描かれてるように、熊野一之王子(現在は天王寺区)、天王寺、高津宮(現在は中央区)、東高津宮(元高津)(現在は天王寺区)、生国魂神社(現在は天王寺区)、坐摩神社(現在は中央区)、難波宮(現在も同じ位置)などがあった地であり古墳時代の古墳もあったと言われている。戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失した。この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であった (略)
安土桃山時代
1583年(天正11年)から羽柴(豊臣)秀吉によって築城が開始され、羽柴家(豊臣氏)の本拠地となった (略)
一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されるが、実際には1585年(天正13年)には秀吉は関白に任ぜられ、翌1586年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して1587年(天正15年)の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して死ぬまで伏見において政務を執った。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。
江戸時代
(略) 1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した (略)
1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始された。 (略) 実に3期足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成した。
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、近畿地方、および西日本支配の拠点となった。 (略) 城代は江戸時代を通じて70代の就任をみている。本来の城主である将軍は家光、家茂、慶喜の3名のみ大坂城に入城している。このうち在城期間が最も長いのは家茂で、大坂城にて生涯を閉じた唯一人の将軍である (略)
江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに本丸御殿の台所より出火し、本丸御殿・本丸の三重櫓11基・桜門・姫門など本丸のすべての門、山里曲輪の東菱櫓・西片菱櫓・山里門・極楽橋、二の丸の艮櫓・巽櫓・四番櫓・五番櫓・太鼓櫓・七番櫓・玉造門など城内の建造物のほとんどを焼失した。
近代
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となった (略)
- 1870年(明治3年)、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した (略)
- 1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元された (略)
- 1928年(昭和3年)、当時の大阪市長、關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇の即位記念事業として整備が進められた。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と復興天守の建設が進められた (略)
- 1931年(昭和6年)、復興天守が博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工する (略)
- 1945年(昭和20年)8月14日、第8回大阪大空襲で大きな被害を受ける。この終戦前日に行われた空襲では大阪城の東側に広がっている大阪砲兵工廠が集中的に狙われ、周辺にも1トン爆弾が多数投下されている。近隣の京橋駅もその巻き添えとなり、避難していた乗客約500人が死亡する大惨事が起きている。大阪城では1868年(慶応4年)の火災で被害を免れていた二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋門・京橋門多聞櫓が焼失し、青屋門が甚大な被害を受けている。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれたが、天守閣に関しては天守台が損傷したものの破壊を免れた (略)
石山本願寺推定地 大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城天守 豊臣大坂城の極楽橋(豊臣期大坂図屏風) 竹生島・宝厳寺唐門 竹生島・宝厳寺唐門からの通路 竹生島・宝厳寺唐門からの通路の土台 再建工事中の天守閣、1930年 Wikipediaより(竹生島・宝厳寺唐門の写真は自身で撮影:宝厳寺唐門(国宝)は、現存する唯一の豊臣大坂城の遺構でと言われているらしい…) 天守
大坂城の天守は天正・寛永・昭和とこれまでに3度造営されている。いずれも外観は異なるが、復興天守は徳川大坂城の天守台を利用している。詳細は以下の通りである。■豊臣大坂城天守
1585年(天正13年)竣工、1615年(元和元年)落城の際に焼失 (略)■徳川大坂城天守
1626年(寛永3年)竣工、1665年(寛文5年)落雷により焼失 (略)■復興天守
1931年(昭和6年)11月7日竣工 (略)
昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である (略)大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎のレリーフや鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。 (略)
30年で焼失した豊臣大坂城天守、39年で焼失した徳川大坂城天守に比べて、復興天守は最も長命の天守となっており、1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録された (略)
■重要文化財:大阪城 13棟
- 大手門 – 寛永5年(1628年)創建、嘉永元年(1848年)修復
- 塀 3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)
- 多聞櫓(渡櫓、続櫓) – 嘉永元年(1848年)
- 千貫櫓 – 元和6年(1620年)
- 乾櫓 – 元和6年(1620年)
- 一番櫓 – 寛永5年(1628年)
- 六番櫓 – 寛永5年(1628年)
- 焔硝蔵 – 貞享2年(1685年)
- 金蔵 – 江戸時代(寛永2年(1625年)創建)
- 金明水井戸屋形 – 寛永3年(1626年)
- 桜門 – 明治20年(1887年)
■登録有形文化財
- 「大阪城天守閣」(天守)- 昭和6年(1931年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/大坂城 大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城天守 徳川大坂城天守 復興天守 Wikipediaより:3つの天守
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 天然の要害であり、交通の要衝である上町台地の先端に、戦国時代に築かれた日本の城で、別称は錦城
- 文献等にもよるが、日本三名城の一つに数えられる(他の二つは名古屋城、姫路城、熊本城の内から挙げられる場合が多い)
- 「太閤はんのお城」ともいわれるが、秀吉時代の天守は30年程で、その間も秀吉は京都の聚楽第・伏見城で多くの時間を費やした様子
- 秀吉時代の大坂城は、ほとんど埋没しており、現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構
- 江戸期の大部分、大阪は天領になるので、大坂城の城主は、徳川将軍であるが、家光・家茂・慶喜しか入城していない(大坂城で他界した唯一の将軍は、家茂のみ)
- 慶喜は、大坂城の前は二条城にいたが(大政奉還を宣言)、鳥羽伏見の敗戦で大坂城に退去した後、船で江戸城にもどった(この時、江戸での上陸地が浜離宮らしい ⇒ 上野戦争@寛永寺へ)
- 大坂城の天守は、天正・寛永・昭和とこれまでに3度造営されている(豊臣大坂城天守・徳川大坂城天守・復興天守)
- 豊臣大坂城天守:1585年~1615年の30年、徳川大坂城天守:1626年~1665年の39年、復興天守:1931年~の(2023年時点)90年以上で、復興天守が最も長く天守として存在しており、その天守は、登録有形文化財
- 江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存
確かに「大坂城=秀吉の居城」のイメージが強いですが、(間違ってはいませんが…)信長もかかわっていますし、秀吉時代の天守があったのは、30年程度。しかもその期間の多くは、京都聚楽第・伏見城がメインの様子。にもかかわらず、「大坂城=秀吉の居城」というイメージがつよいのは、大阪の街割も含め、拠点として整備したので、その痕跡が今でもみられるからでしょうか? それとも「豊臣家(秀頼)を討った、”判官びいき” と ”東の徳川” に対する反骨精神」なのでしょうか? 正直推察の域は出ませんが、豊臣の痕跡を埋没させてまで新しいお城を作り、江戸期を通じて「徳川の城」だったので「城主・徳川:大坂城」でいい気がしますが、今尚「大坂城=秀吉の居城」のイメージが残っているのは、「私達を含めた多くの民衆が、人たらしの秀吉の術中にはまった痕跡」とも思った次第です…。
そしてもう一つ認識させられたのは、大坂城には天守が3回作られたが、最も長い期間天守として存在しているのは、「豊臣の大坂城でも、徳川の大坂城でもなく『復興天守』」と言う事です。「豊臣カラーと徳川カラーの折衷で作られ、戦争も潜り抜けた復興天守は、平和の象徴」とも思えるもので、更に100年近くその場所に存在し続けている歴史を踏まえると「大坂城の真の歴史的価値を持った天守=復興天守」と言って良いのでないかとも思った次第です。
【大坂城の見所】
上記、概要を抑えさせて頂きました大坂城ですが、こちらのパートでは、その見所を見て行きたいと思います。
上記、引用いたしましたWikipediaの内容から推察するに、大坂城における大人散策のポイントは、以下だと認識しました。
- 現在の天守:ほぼほぼ100年になる天守。復興天守とは言え、これだけの歴史を持ち、登録有形文化財であるこの天守は、絶対に外してはいけないと思います!
- 13の現存する重要文化財:これも現存と聞くと(明治期の再建含みますが)外してはいけないポイントと理解しました
- 大手門 – 寛永5年(1628年)創建、嘉永元年(1848年)修復
- 塀 3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)
- 多聞櫓(渡櫓、続櫓) – 嘉永元年(1848年)
- 千貫櫓 – 元和6年(1620年)
- 乾櫓 – 元和6年(1620年)
- 一番櫓 – 寛永5年(1628年)
- 六番櫓 – 寛永5年(1628年)
- 焔硝蔵 – 貞享2年(1685年)
- 金蔵 – 江戸時代(寛永2年(1625年)創建)
- 金明水井戸屋形 – 寛永3年(1626年)
- 桜門 – 明治20年(1887年)
- 石垣:単体で日本一の高さを誇る石垣、高さは勿論、石垣の組み方にも注目しつつ楽しむべきと思いました
- 真田丸:「出城」の位置づけの認識なので、大坂城の観点からは、少し外れますが、上田城にも、松代城にも、真田の里にも参らせて頂いている真田ファンとしては、その痕跡を感じるべく、ここは是非脚を伸ばしたいと思いました
上記にも少し触れましたが、2 – 3 回は参らせて頂いている大坂城ですが、時間も限られ、しっかり見学出来ていないのが正直なところで、全体像を実感を持ってイメージできません。大人散策(知識をベースにフィールドワークを行い、実感をもって散策を楽しむ)を謡っている本ブログですし、しかも大坂城と言うビックネーム。今度こそ時間をしっかりと確保し、上記記載させて頂いたポイントを巡れるよう、しっかりと計画を練っていきたいと改めて思った次第です。
【最後に】
以上が、「『太閤はんのお城』と親しまれる大坂城の歴史と地形を抑えた上で、大人散策におけるスポットを選定」させて頂いた内容になります。
上記記載の通り、豊臣のお城としては、30年ほど天守が存在していた大坂城ですが、イメージ的には、『太閤はんのお城』・「秀吉の居城」。しかし徳川の歴史も、信長の歴史も刻まれているのが大坂城で、その歴史を復興天守が受け継ぎ、復興天守ですが、もうすぐ築城100年になるお城です。信長、秀吉、家康、徳川将軍家の歴史もですが、現在の復興天守の歴史も踏まえて大人散策すべきお城と思った次第です。次回の訪問はしっかり時間を作り、しっかり見学させていただいた後、本ブログを改めて更新させて頂こうと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。