観音寺城

【はじめに】

こちらのページでは、時代を先取りした『総石垣』の見せる城として有名な『日本五大山城&日本五大山岳城の「観音寺城」』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「観音寺城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

日本五大山城 & 日本五大山岳城の一つである観音寺城ですが、お隣の「安土城」の方が圧倒的に知名度が高いと思われます。一方で、航空写真や地形図でそれぞれのお城の地形を確認すると「観音寺城が建つ山の方が、高さ的にも面積的にも圧倒的に大きく、後の世で築城された信長の居城として有名で、派手好きな信長が、『なぜ観音寺城よりも小さな山にお城を築いたのか?』と思ってしまった」事を思い出す城でもあります。また、「総石垣の当時としては珍しいお城であったが、何度も落城しているお城」のイメージですが、信長がある意味派手な天守を建築したのは、「総石垣による見せる城」に対抗して「見せる天守」を意識して建築したのかな?』とも思ってしまった事があるお城です。

こちらのページでは、そんな個人的な印象を持っている時代を先取りした『総石垣』の見せる城として有名な『日本五大山城&日本五大山岳城の「観音寺城」』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂きます

【観音寺城の概要】

まずは、観音寺城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。

観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった日本の城(山城)。支城に和田山城、佐生城、箕作城、長光寺城などがある。城跡は国の史跡に指定されている。

概要
近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城より移り、六角氏の終の本拠となる。
標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する (略)

応仁の乱
室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い
細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した (略) 数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した

第二次観音寺城の戦い
応仁2年11月初め、陣代山内政綱が京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。
同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城に攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将は焼失した観音寺城を修築、三度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になり、京極軍を撃退することに成功する。
その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は二度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱) (略)

廃城
戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。
永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した (略)
六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。一方で、構造的に元亀年間(1570年頃)に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性がある。

現代
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(52番)に選定された。

構造
現在のような観音寺城になるまで幾度かの改修が実施されたことが、文献や発掘調査などから明らかになっている。

観音寺城改修の歴史

回数年代主な特徴
築城当時建武2年(1335年)観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった
第1次改修応仁・文明年間(1467年 – 1487年)城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。
第2次改修大永5年(1525年)城といえる城郭が完成していたと推定されている。
第3次改修天文元年(1532年)12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が誕生していたと推定されている。
第4次改修天文19年(1550年)前後鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが発掘調査から確認されている。

観音寺城は、山上から山腹にかけて密集する郭群が城下町石寺の屋敷群と連続している点が一つの特徴である。特に縄張で最も注目される点は、段状の諸郭が碁盤目状に行儀よく並んでいる箇所が多いことである。もう一つの特徴は、本丸より高い部分の陵稜線上には三国丸を除けばどこにも郭が設けられず、かわりに石塁もしくは土塁の道が走っていることである (略)
規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城ではあったため、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と言われている。六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた (略)
山城も大きく進化していき、一線防備でなく曲輪の配置や形状に工夫が見られて拠点防備になっていくが、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている。

本丸
標高は395m、面積は約2000㎡、主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡(ためます、貯水槽)、幅4mの大手石階段などがある。またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。

平井丸
平井丸は、標高375mで面積は約1700㎡、平井氏の居館があったのではないかと思われている。観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。その中で特徴的なのが、高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡があり、2m以上の石も使用されている (略)

池田丸
池田丸は標高365m、面積は約2700㎡で、最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっている (略)

淡路丸
観音寺城の東の端に一郭独立したような形で、府施氏の居館淡路丸の曲輪跡があり、丁度観音寺城の鬼門の方向に当たるとされている (略)

その他曲輪
その他曲輪として数多く存在する。
伊藤丸・沢田丸・馬渕丸・三井丸・馬場丸・大見付丸・三国丸・伊庭丸・進藤丸・後藤丸・観音寺(略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/観音寺城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 観音寺城は、滋賀の近江八幡市安土町にあった山城(安土城のお隣)で、日本五大山城 & 日本五大山岳城の一つであり、その城跡は国の史跡に指定され、日本100名城にも選定されている
  • 近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、六角氏の終の本拠となったお城で、安土城以前の中世城郭においては特異な「石垣」のお城だったらしい
  • 応仁の乱第一次 / 第二次観音寺城の戦い等において、何度も戦場になったお城らしいが、落城・明け渡しが目立つ印象で「六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた」と言われる様で、規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも「権威づけ、政治色の強い城」ではあったと言われ、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と認識されているらしい
  • 同時に、山城も大きく進化していく中で、曲輪の配置や形状に工夫が見られることから、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている
  • 1568年、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の軍を興すと六角氏は敵対するが、信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ、無血開城し、その後六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったらしい(1570年頃に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性もあるらしい)
  • 観音寺城の縄張りの特徴は以下の通り
    • 山上から山腹にかけて密集する郭群が城下町石寺の屋敷群と連続している点が一つの特徴で、段状の諸郭が碁盤目状に行儀よく並んでいる箇所が多いこと
    • もう一つの特徴は、本丸より高い部分の陵稜線上には、三国丸を除けば、どこにも郭が設けられず、かわりに石塁もしくは土塁の道が走っていること(ここが観音寺城の弱点?)
  • 構造の変遷としては、以下の通り
    • 築城当時(1335年頃):観音正寺を中心とした臨時の砦
    • 第1次改修(1467年 – 1487年頃):遺構は見つかっていないが、城郭らしきものがあったと推定される
    • 第2次改修(1525年頃):城といえる城郭が完成していたと推定される
    • 第3次改修(1532年頃):大規模な改修を実施、現在推測できるの居住性の高い城郭が誕生していたと推定されている
    • 第4次改修(1550年頃):山城石垣を作り、今日に見られる城郭が完成していたことが発掘調査から確認されている
  • 曲輪としては、西側の尾根に沿う並びで上から、「伊藤丸・本丸・平井丸・池田丸」といった曲輪があり、その谷を挟んだ東に「観音正寺」、更に東の尾根に「沢田丸・三国丸・馬渕丸・三井丸 / 伊庭丸・馬場丸・大見付丸・淡路丸・目賀田丸」と並んでいるらしい

イメージとして「六角氏の居城」と認識してしまう観音寺城ですが、その始まりは、佐々木氏による様です。また、「総石垣のお城」のイメージがある観音寺城ですが、同時に山城が発展している正にそのタイミングで、改修・増強されたお城の様で、ある意味「『権威づけ、政治色の強い “見せるお城”』&『山城の防御性』の観点で『時代を先取りしたお城』だったのでは?」と思ってしまった次第です。正直、「六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた」なる記載を拝見すると「お城の本質からは外れたお城だったのか?」とも思ってしまった次第ですが、「天守を築く事で『見せる城』を違った形で具現化し、後の世に多く築かれた天守の先駆けとなった安土城(しかも観音寺城のお隣)」の事を考えると「信長に『権威づけ、政治色の強い “見せるお城”』の重要性を説いたのは『観音寺城』だったのでは?」とも思ってしまった次第です…。

【観音寺城の周囲も含めた見所とルート】

上記、観音寺城の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらのパートでは、その見所を見て行きたいと思います。今後の観音寺城における大人散策のプランニングの内容になりますので、以下皆様の参考にもなれば幸いです。尚、スタート地点に関しては、お城の東にある五箇荘駅を想定し、ゴールは「安土駅」を想定します(出来る事なら、別記事で紹介しております「安土城」もセットで回りたいと思ってますが…)。

尚、本コースの検討にあたっては、巨大な山城であり、Google Map でも、そのルートやスポットの位置関係が不明であった為、「滋賀県のHP(https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042776.pdf)」、並びに、「観音寺城|散策の備忘録(http://kannonjijo.com/2010/04/11.html)」を参考にさせて頂きました。故に、最下部にポイントアウトしました各スポットが、推定値である(位置関係に齟齬がある可能性がある)事、予めご了承頂けますと幸いです。

結神社沢田丸

スタート地点は、五箇荘駅ここから「結神社」を目指します。つまり、観音寺城の東の麓から入り、山を登って東側の各曲輪から、少し下った観音正寺に一度戻って主郭部分を巡り、追手道経由で、南側の天満宮・日吉神社付近に下りてくるコースを想定すると言う事です。まだ参らせて頂いた事の無い観音寺城ですので、結神社から登れるのか少々不安ではありますが、「 観音寺城|散策の備忘録」には、以下の様にありました。

(略) 川並口筋
川並の結神社から観音正寺に向かう、裏参道として今でも利用されている。この道は目賀田邸付近で、源三谷筋および、近年に作られた巡礼道に合流している。この道も整備されており歩きやすい。駐車場以降の巡礼道(川並口筋の最後の一部)はほとんど高低差がないので、最も楽なコースとして車での訪問者に良く利用されている (略)

http://kannonjijo.com/2010/04/11.html

「結神社」から観音寺城(の山)に入り、山道を進んで、東側の尾根に沿う形で作られたように見える「目加田丸」・「淡路丸」・「大見付丸」・「馬場丸/伊庭丸」・「三井丸」・「馬淵丸」・「沢田丸」と巡っていきたいと思います。ただ結神社付近は標高:150m程で、沢田丸付近は標高:400~450m程の様ですので、ハイキング気分で、のんびりと各曲輪を休憩も兼ね、じっくり拝見しつつ、そして観音寺城の構造を楽しんで登っていきたいと思います。

沢田丸観音正寺

「沢田丸」まで来たら、一旦標高を下げる形になると思いますが、「観音正寺」に向かいたいと思います「観音正寺」は、飛鳥時代の創建とも言われる大変歴史のあるお寺の様で、境内には「護摩堂」・「札堂」・「手水舎」・「書院」・「鐘堂」といった国の登録文化財もあるそうです。山城巡りに置いて、一旦標高を下げる事は、余分に体力を使う事になるので、なるべくアップダウンを避けたいところですが、間違いなく「観音寺城」の名前の由来となったお寺でしょうから、その歴史に思いを馳せつつ、拝見できるだろう国の登録文化財を拝見させて頂き、ご挨拶申し上げたいと思います。

観音正寺池田丸

一旦、「観音正寺」にお参りする為、標高を下げましたが、その後は、観音寺城の主郭と思われる「伊藤丸」・「本丸」・「平井丸」・「落合丸」・「池田丸」に向かいたいと思います。一部標高を下げて進んだ道を、恐らく戻る事になると思いますが、「伊藤丸」まで行けば、後は基本下り基調で、大人散散策を楽しめると想定しております。「本丸」・「平井丸」・「落合丸」・「池田丸」付近は、「総石垣の観音寺城」を代表する「石垣を堪能できるエリア」と理解していますので、山城ならでは曲輪の配置と併せて、石垣をじっくりと拝見させて頂こうと思います

池田丸日吉神社

「伊藤丸」から、「本丸」・「平井丸」・「落合丸」・「池田丸」と標高を下げつつ、曲輪、並びに石垣を堪能しつつ進んだ後は、基本、下山に向かおうと思います。この際、どのルートがあるのか、上記同様「 観音寺城|散策の備忘録」を拝見すると以下の様にありました。

(略)  追手道
ふつう大手道と追手道は同じ意味で使用されるが、観音寺城には大手道とは別に追手道と呼ばれる道がある。この道は山裾の御屋形館跡あたりから尾根伝いに登り、尾根伝いに池田丸付近に上りつきさらに本丸まで続いている。この道も、近年に付けられた林道により 2つに分断されている。この林道より上の道とその道沿いの郭は、最近大規模な伐採整備が行れわれ、美しくまた歩きやすくなっている。この道沿いには大石垣などの多くの遺構が残っており結構楽しめる (略)

http://kannonjijo.com/2010/04/11.html

記載は、麓から山を登る形で記載されていますが、逆に言えば、「池田丸」から「大石垣跡」・「木村丸・埋門」・「追手道入口」と経由して「御屋形跡」に行き、下山する事が出来ると理解した次第です。下山する最後のタイミングまで「石垣」や「曲輪」等を拝見できそうで、ルート上、少し寄り道的になるのか分かりませんが「天満宮」・「日吉神社」もありそうなので、出来ればご挨拶申し上げ、観音寺城の大人散策をコンプリートしたいと思って折ります。

【最後に】

以上が、時代を先取りした『総石垣』の見せる城として有名な『日本五大山城&日本五大山岳城の「観音寺城」』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂いた内容になります

参らせて頂いた事が無いので何とも言えませんが、地図(航空写真や地形図)を拝見するに、それなりの山道で高低差もあり、結構ハードなコースに思えたので、観音寺城の大人散策は、恐らく4-5時間は見ておいた方が得策と思った次第です。故に、前後の移動も踏まえると「1日かかる」と言う前提で、望むべきだと思って折ります。

しかしお隣にあるのは、安土城。出来る事なら、安土城もセットで参らせて頂きたいと思ってしまいましたので、「ケース①:観音寺城の大人散策をコンプリートして、日暮れまでにあと3時間以上あり & 体力が持ちそうなのであれば安土城を目指す」 or 「ケース②:上記条件をクリアできない際は、潔くあきらめ、翌日、安土城を目指す」と言った感じのプランニングにし、2泊3日のスケジュールを予め想定しておいた方が良いと思た次第です。

その際に候補となるお宿は、近江鉄道本線・五箇荘駅 / 琵琶湖線・安土駅のいずれも電車で1本で行ける彦根駅が最寄り駅で、温泉もある「亀の井ホテル 彦根」と思い、もし「ケース①」が遂行できた際には、「改めて彦根城やお隣の楽々玄宮園彦根城の城下町を大人散して近江牛を堪能しつつ、温泉を楽しみたい」と思った次第です。実際はどの様な結果になるか分かりませんが、観音寺城の大人散策が実行できた暁には、本ブログで報告させて頂きます!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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