【はじめに:松山城跡(武蔵国)の基本情報】
本日は「東武東上線の東松山駅から徒歩30分程度で行け、本格的な堀の遺構を感じる事が出来る、比企城館跡群の1つ・松山城(武蔵国)をご紹介」します。
お城をテーマにする際の書出しで、いつも通りですが、皆様は松山城と聞くと、何を連想されますでしょうか? そもそも、松山城(武蔵国)をご存じでしたでしょうか? まずは、以下に私の連想ゲームと共に松山城(武蔵国)の基本情報に付き、記載させて頂きます。
- 松山城と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、現存12天守で、且つその中で唯一の山城・備中松山城 (秀吉の代名詞「水攻め」で包囲され、中国大返しの始まりとなったお城・備中高松城と、「備中」繋がりで勘違いする事も多々あるようですが…:中国大返し後の「山崎の戦い」も「天王山」の切り口にて、別記事で触れています)
- 松山城+現存12天守で思い浮かべるのは、伊予松山城(愛媛)
- 松山城(武蔵国)は、上記有名な2つの松山城(伊予松山城・備中松山城)とは、全く関係ない
- その他にも、多くの松山城(と言う名の城)が存在している
Wikipediaによると以下の通り、11の松山城が紹介されています。
”松山城 (伊予国) – 愛媛県松山市にある城。現存12天守のひとつであり、「松山市」にあることから、単に「松山城」とした場合、一般的にここを示す。松山城 (備中国) – 岡山県高梁市にある城。現存12天守のひとつであり、上記に対し、こちらは一般的に「備中松山城」と呼ばれる。松山城 (陸奥国志田郡) – 宮城県大崎市にある城。松山城 (出羽国) – 山形県酒田市にある城。松山城 (陸奥国岩瀬郡) – 福島県須賀川市にある城。松山城 (武蔵国) – 埼玉県比企郡吉見町にある城。松山城 (下総国) – 千葉県匝瑳市にある城。宇陀松山城 – 奈良県宇陀市にある城。「続日本100名城」に選ばれている。松山城 (石見国) – 島根県江津市にある城。松山城 (豊前国) – 福岡県京都郡苅田町にある城。松山城 (大隅国) – 鹿児島県志布志市にある城”
(https://ja.wikipedia.org/wiki/松山城)
- 松山城(武蔵国)の直ぐ近くに、もっと有名な「吉見百穴」がある(別記事で紹介しています)
- 松山城(武蔵国)は、有名ではないかもしれないが、堀の構造をよく理解でき、お城好きには、そこそこ魅力的なお城で、「比企城館跡群」の代表の1つ
この様な、感じでしょうか…。
位置関係につき簡単に触れますと、最初にも記載しました通り、東武東上線の東松山駅から徒歩・30分しない程度で、松山城(武蔵国)の(西側の)入口まで行く事が出来、すぐ北隣には、古代のお墓と言われ教科書でも有名な「吉見百穴」があります。
もう少し広い視野でみると、直線距離で北東11㎞程の所に「さきたま古墳群や忍城のある行田市があり(別記事ご参照ください)」、南東13-14㎞には、私達夫婦の住まう街「川越の川越城があります(こちらも別記事ご参照ください)」。また、ほぼ北にあたる方向、11-12㎞程の荒川を超えた所には「熊谷」、さらにその先には東山道武蔵路の古道が通っていたと言われる「群馬県太田市至ります(東山道武蔵路は目の前を通っていた?)」。東に目を向ければ、「川越児玉往還があり、少し先で鎌倉街道上道と交わるこの道は、群馬県の高崎へと延びています」。
つまり申し上げたいのは、今この現代において、少々マイナーではあるかもしれないが(すいません…)、駅からのアクセスも良い場所にあり、歴史を遡って考えれば、交通の要所であった事が伺える場所に、比企城館跡群の代表の1つ松山城(武蔵国)がある、と言う事です。
【松山城跡(武蔵国)の楽しみ方】
上記概要の松山城(武蔵国)ですが、私がおすすめする楽しみ方として、以下2点がございます。東武東上線・東松山駅から30分もかからず、松山城(武蔵国)の下までは行けますが、城跡そのものは、それなりの山になり、斜面も結構急で、全体を見て回るには、2時間程度は必要と思われます。アップダウンの伴うハイキングの様な感じで、「純粋にハイキングを楽しむ事」も出来ますが、以下も踏まえ回って頂くと、より一層、この松山城(武蔵国)を楽しむ事が出来ると思います。
・堀や曲輪城の構造 / 遺構を楽しむ
東松山駅方面からくると、それなりの急斜面を登り(お城の西側)、登り切った先には、いきなり本丸が出てきます。つまりこの方面(西側)は、搦手側から入ってきたことになります(裏口からお邪魔したイメージ?)。目の前を流れる市野川を見て、急峻な斜面を登ってくると、こちらの側の守りよりも、反対側(東側)をより焦点を置いて守りを固めていたであろう事、理解いただけると思います。
事実、本丸まで来たら(登ったら)、今度は、東松山駅の方面とは反対の東側に向かって進むと、いくつもの堀と曲輪があります。そして、それらはかなりの良い状態で残っています。同時に、確かに堀なのですが、(時代による劣化もあるのでしょうか?)ビックリするほど深く・急な堀ではないので(それでもそれなりの斜面で深さはありますが…)、それぞれの堀を上からも、下からもマジマジと見る事が出来ます。
また、各曲輪にはそれぞれ説明看板があり、現在位置を確認しながら進めるので、この城の大きさや全体図をイメージしながら進む事が出来ます。大規模なお城とは言えないでしょうが、これほどしっかり遺構が残っていて、観察できるお城も多くはないと思うので、お城好きには中々見応えのあるスポットだと思います(別記事の比企城館跡群で記事でも触れました、杉山城・菅谷館跡もかなりしっかり土塁と堀が残っており、この近辺ではお城付きの方の見所に上げたいスポットです)。
・歴史を感じる:日本三大奇襲の1つ河越夜戦
本ブログの別記事で、勝手な考察を加えさせて頂きました「日本三大奇襲の1つ河越夜戦」における、ある意味1つのポイントとなるお城と言う側面も、このお城は持っています。Wikipedia の力をかり、河越夜戦を調べてみますと、以下の様にあります。
”(略) 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである (略)”
https://ja.wikipedia.org/wiki/河越城の戦い
北条軍が、河越城内に3000。これを、山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方の軍:8万が包囲し、その援軍に北条氏康の8000が向かったという構図の戦で「8万 vs 1.1万の戦」となり、1.1万の北条軍が勝ち、関東進出の基盤を北条氏が固めた「日本史における KeyPoint になった戦い」です。そしてこの時に討ち取られてしまった「上杉朝定」ですが、元々河越城主で、河越夜戦の前の戦で北条方に河越城を奪われ、これを取り返すべく、山内上杉家・足利古河公方の協力を得て、上記の様に河越城を大軍で取り囲んだ訳ですが、この際(河越城を奪われていた期間)に「上杉朝定」が逃げ込んでいたお城が、この松山城(武蔵国)と言う事です。
つまり、「上杉朝定は河越城を追われ、この松山城(武蔵国)で悔しい思いをしながら過ごし、何とか河越城を取り返そうと、包囲作戦を上杉憲政・足利晴氏と実行するが、河越夜戦で敗れ、この城の戻る事は無かった」と言う事になります。直線距離にして、たった10㎞ちょっとの所に今も川越城があります(現存の本丸御殿)。今の時代に、私達夫婦が徒歩で行っても、3時間程度でついてしまう場所です。距離的は近くて、でも支配するには遠かった河越城を「朝定はどんな気持ちで、この北条氏と対峙する正に最前線の松山城(武蔵国)でいたのか?」と思うと、ちょっと悲しくなってしまった次第です(河越夜戦に関しては、日本談大奇襲や河越夜戦に関する勝手な考察のページもご参照ください)。
【最後に】
何度かお伺いしている松山城(武蔵国)ですが、最も最近お邪魔したのは、2020年の冬。前にお邪魔した際、本丸にあったはずの ”松山城跡碑” の石碑が、見当たりませんでした。確か本丸にあったと記憶していたのですが、見当たらずウロウロしていると、倒れてしまった石碑を発見。
文字も見えないので、探していた石碑か否かわかりませんが、恐らくそうではないかと思いました。2019年の台風の時だったのでしょうか、それとも違うタイミングなかわかりませんが、「倒れてしまった石碑」を見るのは、非常に悲しいものがありました…。それも倒れてからしばらくたっているよな印象を持ちましたし…。
確かに有名な城跡とは言えないかもしれませんが、これだけお城の遺構をまじかに見える城跡、比企城館跡群の代表の1つ松山城(武蔵国)は、数少ない貴重な城跡だと思います。是非今後も整備される事を期待したいと思いますし、皆様にも機会があれば、「是非この貴重な遺構を見学すると同時に、大人散策でいらしてみては?」と、改めて思った次第でした。別記事で松山城(武蔵国)の周辺情報も含め、紹介していますので、是非参考にして頂ければ幸いです。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。