太田道灌

【はじめに】

こちらのページでは、徳川のお城として有名な江戸城(現皇居)に付き、「なぜこの場所にお城が築城されたのか?」の視点で、考察を加えさせて頂こうと思います

「江戸城は、現在の皇居にあたる場所(若干の相違はありますが…)」と言われており、別の記事で触れさせて頂きましたが、元々は、「江戸氏が平安末期から鎌倉初期位に居を構え、1457年に太田道灌が江戸氏の館をベースにして築城し、戦国末期に徳川家康が入城の後、江戸期の初めに、ほぼ現在の形に近いお城になった」と言う認識をしております。一方、私達夫婦の住まう川越にも川越城があり、こちらも「1457年、太田道灌による築城」と言われるお城です。

全く同じタイミングで、「太田道灌はなぜ、この2つのお城:江戸城+川越城を築城した」のでしょうか?。「偶然?、意図的?」、「歴史的背景は?」、「何でこの場所?」といった様々な疑問がフツフツと湧いてくるのですが、皆様はご存じでしょうか?

こちらのページでは、そんな「太田道灌により江戸城が築城された歴史的背景」と「なぜこの場所だったのか?」、「今の江戸城祉(現皇居)を含めた周辺地域からこの痕跡を探せるのか?」を、個人的妄想含みますが、考察を加えさせて頂きたいと思います。

【江戸城築城を歴史的背景と地形から考察】

「太田道灌により江戸城が築城された歴史的背景」

上記にも、記載しましたが、太田道灌による江戸城の築城は、1457年と言われており、Wikipedia には、以下の様にあります。

(略) 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

「享徳の乱」に際して…』とありますが、皆様はこの乱の事、ご存じでしょうか? 私自身は、あまり認識がないので、改めてWikipediaの力を借り、調べてみますと、以下の様にあります。

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) – 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている (略)

一連の戦いの結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/享徳の乱

VS

私なりの理解を記載いたしますと、以下の様になります。

享徳の乱は、「関東における戦国時代の始まりを告げる戦いで、『鎌倉公方(後に初代古河公方)・足利氏』と『関東管領・山内上杉氏(この時は扇谷上杉氏は、山内上杉氏は対立していない)』が、(利根川東遷前の当時の流れの)利根川を境に、28年にわたり戦った物」と理解させて頂きました。言い換えると、「江戸城は、山内上杉氏方の扇谷上杉氏家臣・太田道灌(正確には親子)が、享徳の乱における、対古河公方・足利(成氏)氏に対し、河越城と共に築いたお城」と言う理解をさせて頂いた次第です(江戸城と川越城は、兄弟城だった訳ですね!)。

以下に、少し大雑把で乱暴な地図ですが、上記イメージを今少し膨らませるべく、位置関係+地形図と共に共有します。

「なぜこの場所だったのか?」

太田道灌による江戸城築城の歴史的背景を上記、簡単ではありますが、抑えさせて頂きましたので、次は、「なぜこの場所だったのか?」と言う視点で考察してみたと思います

上記共有の地図(地形図)の通りの位置関係ですが、太田道灌(関東管領山内上杉氏チームの扇谷上杉氏の家臣)は、対抗する初代古河公方・足利氏に対抗して、江戸城川越城を築いたと言う事ですが、築城場所には共通する地形があります。それは、「古河公方・足利氏の居城・古河城から見て、利根川をはさんだ西側の武蔵野台地の端に築城されている」という物です。また、関東管領・山内上杉氏の居城・平井城(現群馬県藤岡市)から、利根川荒川により作られた低地を通る事なく、アクセスできると言う部分も共通する部分です。享徳の乱の最中、武蔵野台地(鉢形城(現寄居・長尾氏)・房総(千葉氏)等)には、古河公方側の城も多くあった様で、これらと対峙すべく、城として地の利を活かせる台地の突端で、平井城からのアクセスのしやすさを考慮した際、「江戸城と川越城は、関東管領・山内上杉氏側が、地形的にも、戦いの戦略としても抑える必要があった場所」と理解させて頂いた次第です。

そして江戸城が建つ位置の詳細を見てみると、地図(地形図)の通り武蔵野台地の突端であり、東京の中でも谷が複雑に集まった場所の1つです。地形に起伏があれば、守備を意識した高低差を活かしやすかったと思います。また、ベースとなる江戸氏の館があった場所と言うのも大きな理由の一つだと思います。言い換えますと、「守備に適した地形を持ち、一から築城しなくとも、少しカスタマイズすれば、良い城を構築できる場所」と推察した次第です。

「今の江戸城祉(現皇居)を含めた周辺地域からこの痕跡を探せるのか?」

上記、歴史的観点・地形的観点で、太田道灌が、江戸城を現在の地に築いた背景に付き、考察を加えさせて頂きました。しかし、道灌の後、戦国末期に家康が入場し、家光の代までに、かなりの改修があったので、太田道灌が築城した当時の面影をはっきりと見る事は、難しいようです。とは言っても、フツフツと湧いてしまった興味がありますので、誠に勝手ながら、以下の切り口で、現在の皇居周辺の地形と比較させて頂き、その痕跡を少しでも探ってみたいと思います。

・切り口①:江戸時代の江戸城と現皇居の比較

以下に、アプリ「大江戸今昔めぐり(https://www.edomap.jp)」で、現在と江戸時代のMapを比較させて頂きます(それぞれの時代のMapを同じ縮尺で比較できるって、すごいですよね!)。

区画には、ほとんど違いが無い事、実感して頂けるのでないかと思います。また、内郭では、千鳥ヶ淵から時計の反対周りで、半蔵濠・桜田濠・凱旋濠・日比谷濠・馬場先濠・和田倉濠・大手濠・平川濠・清水濠・牛ヶ淵は、江戸時代から全く位置が変わっていない事もご理解頂けるのでないかと思います。

一方、外郭付近まで広げると、位置的には変わっていないが、四ツ谷駅の南側から、赤坂見附付近を除いて、溜池山王・虎ノ門・内幸町・新橋・日比谷/有楽町・東京/三越前のそれぞれの駅付近は、陸地化されている事をご理解頂けると思います。

つまり「東京は、陸地化が進んだ部分もあり、近代化された高層ビルを沢山見る事が出来るが、基礎区画は変更なく、江戸時代の街づくりの上に成り立っている都市」と言う理解をさせて頂きました。現在では、ビジネス街として発展し、よくお邪魔するエリアの「赤坂見附から溜池山王を過ぎ、虎ノ門の西くらいまで」は、「堀の底」だったと改めて認識すると、「大雨の際、このエリアにお邪魔する時は気を付けよ…」と思った次第です…。

・切り口②:道灌時代の江戸城と現皇居の比較

上記、江戸時代と現在を、江戸城を中心に周辺も含め、比較させて頂きました。では、道灌時代の江戸城とその周辺を、現在と比較したらどうなるのでしょうか? 道灌時代の江戸城の痕跡は、中々見つけられないので、もはや想像(妄想?)の世界に入りますが、フツフツと湧き出る興味を抑えきれないので、勝手な想像をすべく、Wikipediaを調べますと、以下の様にあります。

(略) 道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている (略) 江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

つまり、「現在の皇居東御苑(=江戸時代の本丸・二の丸部分(本丸東側))が、太田道灌時代の江戸城にあたり、「子城」(本丸)、「中城」、「外城」の縄張りで、北側に梅林があった」と言う理解をさせて頂きました。また同時に、太田道灌と言えば有名な歌、「我が庵は、松原続き海近く 富士の高嶺を軒場にぞ見る」を踏まえ、海と富士山が見える場所が、居宅と考えると、現在は富士山見えない様ですが、かつては見えたはずの富士見櫓・富士見多聞もある南側が、海にも近く「子城(本丸)」であったのでないかと思った次第です。

ちなみに、道灌の時代は、(家康が江戸城に入城した後、日比谷入り江を埋め立てているので)現在の富士見櫓の目の前は、海だったはずなので、海(その付近に松林があれば「松原」も)と富士山が、同じ視界に入ってくるので、「我が庵は、松原続き海近く 富士の高嶺を軒場にぞ見る」とかっこよく歌えるとも思った次第です。

これを現在の地図(地形図)当時の城の構造を落としてみると、以下の様になりました。そして、思ったのです。地形的には、現在江戸時代に拡張されたと言われる西の丸(現皇居宮殿)の方が、しっくりくる感じがすると…。「道灌堀」と名の付く堀も、すぐ西側にありますし…。勝手な、もう一つの仮説が思い浮かんでしまいましたが、皆様はどう思われましたでしょうか?

【最後に】

以上が、(かなり個人的妄想に近い部分も多々ありますが…)「太田道灌により江戸城が築城された歴史的背景」と「なぜこの場所だったのか?」、「今の江戸城祉(現皇居)を含めた周辺地域からこの痕跡を探せるのか?」を考察させて頂きました内容になります。

「太田道灌が江戸城を築城した歴史的背景」と「江戸と言う場所の選択」に関しては、なんとなく腑に落ちた所がありますが、「太田道灌時代の江戸城の痕跡」に関しては、まだまだ調査・考察の必要があると思った次第です。しかしながら、こういった事を考え、調べ、そして現地に赴く。このプロセスが、ただの散策を大人散策にしてくる要素だと思いますので、今回の考察をベースに再度お邪魔したいと思っておりますので、新しい情報が出てきた際は、こちらのページで再度共有させて頂ければと存じております!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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