【はじめに】
こちらのページでは、「日本三名園の概要」と「それぞれの庭園の魅力(サマリ版的)」に付き記載させて頂きます。
皆様は、庭園巡りは、されますでしょうか? 私達夫婦の場合は、日本庭園の散策が好きで、居住地の川越から近い事もあり、都内の庭園の大人散策に行ったり、旅行先に庭園がある際は、出来る限りお邪魔させて頂く様にしております。はっきり言って、どちらの庭園も素晴らしく、「庭園巡りは外したことがない!」と思っているくらいですが、そんな庭園巡りの中で、「あえて気になった庭園を上げて下さい」と問われれば、都内では、「小石川後楽園・旧古河庭園・芝離宮」といった辺りで、旅行先では、「玄宮楽々園・栗林公園・水前寺成就庭園」といった辺りだと思います。個々人の趣味嗜好や、参らせて頂いた際の季節や天候によっても変わると思うので、あくまでも「あえて選ぶのであれば…」のスタンスではありますが…。先の庭園も含め、本ブログでは、その他の魅力的な日本庭園も紹介しており、「庭園のカテゴリー分け(=タグ付け)」に関しても、記載させて頂いております。
そんな庭園好きの私達夫婦が、先日テレビを拝見している際、「日本三名園」なる言葉に出会いました。庭園好きの私達夫婦にとって「調べずにはいられないワード」でしたので、日本三名園に属する3つの日本庭園と共に、こちらのワード:「日本三名園」を調べさせて頂きました。こちらのページでは、その内容を共有させて頂きます。
【日本三名園とは?】
まずは、「日本三名園」なるワードから記載させて頂きます。Wikipediaの「日本三名園」の項目には、以下の様にあります。
日本三名園(にほんさんめいえん)とは、優れた景勝を持つ三つの日本庭園、石川県金沢市の兼六園、岡山県岡山市の後楽園、茨城県水戸市の偕楽園の総称である。
歴史
「日本三名園」もしくは「三名園」という言葉がいつ頃から使われ始めたのかは不明であるが、文献上では1899年(明治32年)発行の「日本三名園之一 後楽園新圖」に既にこの言葉が使用されている。また 1904年(明治37年)に外国人向けに発行された写真集にもこの言葉が使われている。やや異なる言い回しの「日本三公園」を含めるならば、1891年(明治24年)8月、岡山の後楽園を訪れた正岡子規が記念写真の裏に「岡山後楽園 日本三公園ノ一」とメモしたものが存在する。
なおこの三園の選定理由として、いわゆる雪月花の雪に兼六園、月に後楽園、花に偕楽園を対応させたものであろうとする説がある。ただし、三園ともに江戸時代に造営された池泉回遊式の大名庭園であり、この「日本三名園」には日本庭園における他の形式である枯山水や露地(茶庭)など、池泉回遊式以外の形式のものは含まれていない (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三名園
「兼六園(石川県金沢市)」、「後楽園(岡山県岡山市)」、「偕楽園(茨城県水戸市)」が、日本三名園と言う事になる様ですが、園内を散策して楽しむ回遊式庭園(本ブログ別記事で、庭園のカテゴリ分けに関しては記載しています)以外の庭園は対象外と言う理解をさせて頂きました。回遊式庭園の代表格と言えば、大名庭園。加賀・前田氏の兼六園、備前岡山・池田氏の岡山後楽園、徳川御三家・水戸徳川氏の偕楽園、どれも有名な大名庭園で、(上記にも記載しましたが、個人の趣味嗜好もあると思うので、他の日本庭園で「こちらの庭園の方が…」と言った意見もあるでしょうが…)日本三名園に選ばれるのも納得のライアンナップだと思った次第です。
また、上記引用の中に「雪月花」と言う言葉がありますが、これもWikipedia出調べてみますと、以下の様にあります。
雪月花(せつげつか、せつげっか)は、白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による語。雪・月・花という自然の美しい景物を指す語である (略) 「雪月花の時」は、それぞれの景物の美しいとき、すなわち四季折々を指す語であった。(略)
「雪月花」は、日本の芸術・美術の特質の一つとしても捉えられており、日本においては、この語句が詩歌だけでなく、以下に述べる含みを持つ語として使われるようになった。
「雪月花」は日本の詩歌においては、これら三種を一度に取り合わせたものを指すものとしてしばしば用いられる。日本語における初出は『万葉集』巻18に残る大伴家持の歌である。「宴席詠雪月梅花歌一首」と題して「雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき子もがも」(4134)の歌がある。すなわち月の明るい折に、雪と花をあわせたものを提示するという遊戯的な設定を和歌の題材としたものである (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/雪月花
私個人は、あまり文学的素養を持ち合わせていない為、上記の情景を明確に思い浮かべる事は出来ませんが、雪・月・花と言った美しい景観を取り合わせた景色が美しいものだと言う事は理解が出来、「雪吊りをした松と共に、雪の積もった景色」を「兼六園」では思い浮かべる事が出来ますし、夜の「岡山後楽園」で、「手入れされた芝と池泉、そして天守を月と共に眺めつつ望む景色」は格別だと想像してしまいますし、「梅の花とその香りを感じつつ散策」出来る「偕楽園」は、正に大人散策でしょうし、改めて「兼六園・岡山後楽園・偕楽園」は、日本三名園にふさわしい庭園だと思った次第です。
そして、思ってしまいました。兼六園以外、まだお邪魔できていないと…。
【日本三名園のそれぞれの概要】
まだ、兼六園以外お邪魔できていない日本三名園ですので、「兼六園」関しては、自身が訪れた時の感想と共にご紹介させて頂き、「岡山・後楽園 / 水戸・偕楽園」に関しては、今後の訪問に向けた前準備としての調査内容をし、共有させて頂く形で以下に記載させて頂きます。
■兼六園(石川県金沢市)
まずは「兼六園」から。本ブログ、別記事でも更に記載しておりますが、そもそも兼六園ですが、Wikipedia にて、基本情報を抑えさせて頂きますと、以下の様にあります。
”兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市に存在する日本庭園である。国の特別名勝に指定されている。(略) 17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられる。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』では、最高評価の3つ星に選ばれた。園名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。(略)
1676年(延宝4年)、加賀藩4代藩主の前田綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建ててその周りを庭園化したのが兼六園の始まりである。庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていた (略) 11代藩主の斉泰は1837年(天保8年)に霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築いたり、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備し、1860年(万延元年)には蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築いた。(略) 長らく殿様の私庭として非公開だったが、1871年(明治4年)から日時を限っての公開が開始。(略) 1985年(昭和60年)に特別名勝に指定された” (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/兼六園
簡単に要約すると、「日本三名園の1つで、1600年代後半から、作庭が開始され、代々の藩主により手が入り、藩主や重臣の”宴の場”として活用され、1800年代中盤に、ほぼ現在の形になった日本庭園で、『宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望』の6つの景観を兼ね備えているとの事から、松平定信が兼六園と名付けた」、といった所でしょうか? ”兼六”、の語源は、宋の詩人・李格非の『洛陽名園記』に由来するらしいですが、この「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」を、私なりの理解で記載させて頂くと、以下の様になります。
- 宏大 = 広く大きい
- 幽邃 = 奥深く静か
- 人力 = 人の手により景観を適切に保っている(匠の技、センス?)
- 蒼古 = 古式ゆかしい趣
- 水泉 = 清らかな水
- 眺望 = 美しい景色
この様に理解しており、実際にお邪魔し思った事は、兼六園は「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」を兼ね備える、正にその名に恥じない庭園だと思った次第です。しかしながら、お伺いした際は、玉水院丸庭園は工事をしており、拝見する事が出来ませんでした為、改めてお伺いいたしたく、チャンスを狙っています。
金沢兼六園の周囲も含めた大人散策Map
■後楽園(岡山県岡山市)
次に「岡山後楽園」。こちらは、まだお邪魔した事がない日本庭園ですので、今後の訪問につけ、調査も含め、Wikipediaを調べてみますと、以下の様にあります。
後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、日本三名園のひとつである。
江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。面積は14.4ha。
概要
後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/後楽園
「江戸時代の初めに、池田剛政によって、14年かけて作られた庭園」と理解させて頂きました。何処のテレビ局だったか忘れましたが、岡山後楽園の紹介をしている番組がありその中で、岡山後楽園の魅力を知りました。一言一句覚えている訳ではありませんが、以下の様に記憶しております。
「岡山後楽園の魅力は、(時には洪水で苦しめられた)豊富な水を利用した、曲線が美しい『曲水』と手入れされた芝のコントラスト。そして、それらを調和させる天守の借景。夜間、天守を借景にした水と芝の調和のとれた雄大な姿に月が浮かぶ様は、日本三名園における『雪月花』の『月』の風情を見事に表現しており、日本を代表する庭園である。また、瀬戸内海から運んだと言われる「巨石」も見所の一つで、「あまりに大きすぎたので、一回割ってから運び、再度現地で組みなおした」と言われているので、その痕跡も含んで楽しんでほしい」
確かに、岡山後楽園をテレビや写真で拝見すると、雄大と言えるその景観は非常に魅力的。流店の中を流れる水は、適切に配置された石と共に日本人好みの風情があるある空間だと思います。藩主との居間として作られた「延養亭」(戦後の再建の様ですが)も風情があり、桜やツツジ、アヤメにハス、紅葉と1年を通じて植栽も楽しめる空間。訪問しない理由はない程魅力的ですが、まだ訪問できていないので、様々想像してしまいます。同時に、実物は見ずとも、これだけ楽しめる岡山後楽園は、やはり日本三名園の1つだと改めて思った次第です。
岡山後楽園の周囲も含めた大人散策Map
■偕楽園(茨城県水戸市)
最後に「偕楽園」。こちらもまだお伺いできておりませんが、魅力的な日本庭園である事、間違えないと思っております。Wikipediaの「偕楽園」の項目には、以下の様にあります。
偕楽園(かいらくえん、英: Kairakuen Park)は、茨城県水戸市にある日本庭園である。国の史跡及び名勝に指定されている(指定名称は「常磐公園」)。伝統的に、後楽園(岡山県岡山市)や兼六園(石川県金沢市)と並んで日本三名園の一つに数えられている。現在は隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた広域公園の一部となっている (略)
概説
偕楽園には、拡張部を含めない本園部分だけで100種3000本の梅が植えられており、早春には観梅客でにぎわう。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭があるが、古代中国の晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。藩校「弘道館」は偕楽園と一対の施設であり、同じく梅の名所である。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。造園は長尾景虎(後の上杉謙信)を輩出した長尾家の本草学者である長尾景徳が実施した。同じく彼の設立した藩校「弘道館」で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。「偕楽」とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている。水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/偕楽園
本ブログ別記事で紹介した「小石川後楽園」。その記事内で以下の様に記載させて頂きました。
『「小石川後楽園」は、徳川御三家の1つ、水戸藩の中屋敷(後に上屋敷)に作られた日本庭園で、水戸藩初代藩主の頼房によってつくられたと言われるが、時の将軍・家光も関与し、現場では、徳大寺左兵衛が腕を振るったと言う事の様で、次の代の光圀の代で完成した庭園』と理解。表情豊かで光圀の中国趣味が反映された庭園は、「外交の場」としての役割も担っていたようで、当時の政治の表舞台を江戸城とするのであれば、「小石川後楽園は、(そんな役職は無かった認識ですが)副将軍として、表の政治を支える外交の場としての役割」も担ってきた庭園ではなかったのかと、勝手ながら想像。「池泉の広がる日本庭園の中に、中国的色合いをちりばめた、(書き方難しいですが)和中折衷的大名庭園の先駆け(手本)となった庭園」と言うのが、個人的な印象で、「士に当たりては天下の憂い先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむなり」から後楽園と名付けた、光圀の人柄と先進性を実感できる庭園が、「小石川後楽園」だと、思っております』
参勤交代がなく、基本、常に江戸にいた事から、副将軍と言われた水戸徳川家の東京の庭園・小石川後楽園。上記「Wikipediaからの引用」と「小石川後楽園に関する個人的な理解」を合わせて考えると、水戸徳川家の「中国趣味的色合い」・「学問を大切にする心と高い教養」・「民衆を思うポリシー」が、水戸家代々に受け継がれって来た思想であると感じてしまいます。
同時に、昔読んだ書籍には「偕楽園に梅が植えられた理由には『軍事的 / 飢饉に対する備え』の側面もあると言われている」と書いてあった事を記憶しており、政治家としてのポリシー(民衆愛)と実用性(軍事/飢饉に対する備え)を具現化した庭園が「偕楽園」であるとも思った次第です。
そんな水戸徳川家の歴史に思いを馳せつつ、この庭園を散策する事で、ただの散策が、大人散策になると思うので「是非お邪魔したい!」と改めて感じてしまいました。
水戸偕楽園の周囲も含めた大人散策Map
【最後に】
以上が、「日本三名園の概要」と「それぞれの庭園のサマリ版的な魅力」に付き記載させて頂いた内容になります。
どちらの庭園も、日本三名園の名にふさわしく、魅力ある庭園である事を改めて認識させて頂いた次第です。それぞれ、別記事で今少しそれぞれの庭園に付き、以下のリンクより、ご参照頂けますと幸いです(加賀・前田氏の兼六園、備前岡山・池田氏の岡山後楽園、徳川御三家・水戸徳川氏の偕楽園)。
尚、追加の情報として、上記にも引用させて頂きました、Wikipediaの「日本三名園」の項目には、以下の様にもあります。
(略) なお、1910年(明治43年)に文部省から発行された『高等小学読本』巻一には、「・・・我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」とあり、高松市の栗林公園は日本三名園より優れていると記載されていた。(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三名園
「日本三名園:兼六園、岡山後楽園、偕楽園」と言っておきながら、「栗林公園」の方が優れていると…。確かに、「栗林公園」は、素晴らしい大名庭園で、松の手入れが行き届いたその景色は、繊細ながらもダイナミックで、最も好きな庭園の1つですが…。先にも記載しました通り、庭園は訪れる季節や天候、個人の趣味嗜好により、それぞれの好みがあると思うので、個人的には賛同できますが、「日本三名園よりも優れている」と言いきってしまう事に関しては、少々違和感があります…。庭園は、個人の感性で、それぞれの庭園の良さを楽しむものだと思っていますので!
日本には、まだまだお伺いできていない庭園も多くあり、今後も事ある毎に庭園巡りを実行させて頂こうと思っており、それぞれの庭園のそれぞれの魅力を大人散策で楽しませて頂こうと改めて心に誓いました。
尚本ブログでは、東京旧古河庭園、東京椿山荘、神戸相楽園、京都無鄰菴、高松栗林公園、熊本水前寺成就園、山梨恵林寺庭園、甲府常磐ホテルの庭園、平泉毛越寺庭園、名古屋徳川園、二条城二の丸庭園、川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園、熱海の起雲閣、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、清澄庭園、浜離宮、六義園、新宿御苑、日本三名園:金沢兼六園・岡山後楽園・偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。