要害山城

【はじめに】

こちらのページでは、武田信玄誕生のお城と伝わる『躑躅ヶ崎館の詰城・要害山城』につき、大人散策情報を記載」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「要害山城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

  • 現在は武田神社である躑躅ヶ崎館」の詰城で、結構な山城
  • 武田信玄の父親・武田信虎により築城された
  • 武田信玄が生まれたと伝わるお城
    • 信玄の産湯と伝わる積翠寺温泉の2つの宿:要害・坐忘庵は、閉業してしまった…
  • 運が良ければ本丸から富士山が見える
  • 麓には、積翠寺があり、温泉宿の積翠寺温泉・ 要害があった
  • 続日本100名城で、国指定の史跡である

要害山城と言えば、やはり武田信玄誕生の地と言われるお城と言う事現武田神社の躑躅ヶ崎館は有名で、多くの人が「武田の居城」として認識し、参拝された事があると思いますが、「要害山城」となると、山梨県民の多くは知ってはいるが、現武田神社の躑躅ヶ崎館程、脚を運ぶ人はかなり少ない印象で、山梨県民以外は、要害山城の事を存じ上げない方も多いと思います。しかし、要害山城は、躑躅ヶ崎館の詰城で、基本「武田氏の居城としてセットで認識すべきお城」と思って折ります。武田信玄誕生のお城でもありますし…。

こちらのページでは、そんな「武田信玄誕生のお城と伝わる『躑躅ヶ崎館の詰城・要害山城』につき、大人散策情報を記載」させて頂きます

【要害山城の概要】

まずは、要害山城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

要害山城(ようがいさんじょう)は、甲斐国山梨郡(現山梨県甲府市)にあった日本の城。躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)の詰城として築かれた山城である。国指定史跡。要害城、積翠山城とも呼ばれる

甲府盆地周縁の中央北部、相川扇状地の扇頂部に位置する甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)にあって、標高780メートルの要害山(丸山)中腹の傾斜地を中心に築かれている。なお、要害山は山梨百名山、甲府名山に選定されている。

歴史
『高白斎記』によれば、築城は武田信虎時代の永正17年(1520年)6月である。武田氏は前年に居館を石和の川田館(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山が城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれた

同年には駿河の今川氏勢の武将福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は正室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、大井夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産した。

勝頼期の天正4年(1576年)6月1日付武田家朱印状によれば、武田氏は要害山城から西方に位置する帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)に対して要害城の普請への召し出しを命じており、帯那郷への河除(堤防普請)と他の諸普請の一切を免除している (略)
武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。文禄年間の修築を示す遺構として穴太積みの石垣が見られる。
『甲斐国志』によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に甲斐は再び徳川氏が領し、廃城となった。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(128番)に選定された。

史跡指定
本丸(主郭)に至る通路や虎口(枡形虎口)、曲輪、堀切、見張台などの遺構のほか、要所をかためる石垣もほぼ完全に遺存しており、戦国大名武田氏の築いた城郭として、また中世豪族の居住形態を示すものとして極めて重要であるとして、1991年(平成3年)3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定された。登山口に説明板があり、曲輪、土塁、竪堀や門跡など主要な遺構には案内板が設置されている  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/要害山城#史跡指定

以下にポイントをまとめます

  • 要害山城は、躑躅ヶ崎館の詰城として、武田信虎(信玄の父親)によって築かれた山城で、国指定史跡
  • 別名として、要害城、積翠山城とも呼ばれる
  • 武田信玄は、この要害山城で戦時中(今川氏配下の武将・福島正成との戦)に誕生している
  • 要害山城を捨て、新府城に移った勝頼期にも、手を加えられている(拡張/改築/修繕等の詳細は見えませんが…)
  • 甲斐武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰にも修築された
  • 関ヶ原の戦いの後に甲斐は再び徳川氏が領し廃城
  • 続日本100名城に選定された

躑躅ヶ崎館(現武田神社)は、信玄の父・信虎によって築かれた「信虎・信玄勝頼の居城(政庁)」で、その詰城が要害山城。故に、同じく要害山城も「信虎・信玄勝頼の居城(詰城)」と言って良いと思われます。つまり、甲斐国の政庁=躑躅ヶ崎館 & 詰城=要害山城と言う理解をしている次第代です。躑躅ヶ崎館と違い、要害山城へ脚を運ばれた事がある方は少ないかもしれませんが、「戦国大名・武田氏の築いた城郭として、また中世豪族の居住形態を示すものとして極めて重要」と言う事で、国の史跡に指定されたお城であり、あの武田信玄が誕生した場所。歴史好きの方であれば、是非訪れるべきスポットであると信じてる次第です。

【要害山城を大人散策】

上記、概要を抑えさせて頂きました要害山城ですが、こちらのパートでは、その大人散策情報を記載させて頂きます。

①躑躅ヶ崎館(現武田神社)~要害山城の麓

甲府駅から躑躅ヶ崎館(現武田神社)までは、北に2.5㎞程。少し登坂ですが、徒歩でもアクセスでき、多くのバスも出ており、アクセスしやすい環境だと思います。一方、要害山城は、武田神社より3㎞程ですが、登坂は急になり、バスも少なくなるので、基本車でのアクセスがよろしいのでないかと思われ(勿論武田神社から徒歩でもアクセスできない訳ではありませんが…)、武田神社程ではありませんが、麓には駐車できるスペースもあります武田家の家紋(武田菱:武田菱)が屋根にあしらわれた積翠寺 or 閉業してしまったようですが温泉宿(だった)・旧ホテル要害が、目印になると思います。最下部の地図にて、駐車スペースご参照ください。尚駐車時、駐車場の背後は、結構深い沢(相川)になっているので、お気をつけて駐車ください。

②要害山城の麓~城郭の痕跡が多く残るエリア

麓の駐車スペースに車を停め、大人散策開始です。駐車場からほんの少し目の前の道を下り、左に橋を超えるとすぐ左手に要害山城への山道が続いています。入口にMapや説明のモニュメント(説明看板?)もあるので、すぐに入口は認識できると思います。

山道に入ってしばらくは、それなりの急斜面の登坂で、つづら折りの道が続きます。恐らく城郭内なのでしょうが、まだ「城郭の中心地」と言う感じはなく、どちらかと言うと「山道のハイキング」といった印象の方が強い区間です。とは言いつつ、所々に看板があり「お城の痕跡」と思える竪堀や石垣を見る事が出来ます。一方で、上記概要で抑えた通り、武田氏3代の詰城であり、豊臣系のお城にもなった経緯があるので、所々で見える石垣や痕跡がどの時代に作られたものか? ただの土留めで置かれている石垣なのか? は、正直素人目には分からないと思います。故に「確かに急な道で、これも防衛線の1つ?」と思う程度の区間が続きます。 

城郭の痕跡が多く残るエリア~本丸

20-30分程山道を登って、不動曲輪を過ぎた辺りから、急に「城郭の中に入ってきた!」と感じる区間になります。門跡や曲輪・堀切跡と言った看板の数も増えますし、素人目でも「ここは正面に高い土塁があって進路は曲がっているので桝形系の虎口だな…」、「ここの曲輪、結構大きいな…」、「この門跡、直線過ぎるので現代になって登山道として整備した?」、「この門跡、石垣使っている…」等、何処まで正しいか分かりませんが、少なくとも、私達夫婦の様な素人でも想像できるレベル感で、お城の痕跡を感じる事が出来るエリアになってきます。

ここまでくると、次から次へと門跡があり、それぞれにそれなりの広さを持つ曲輪もあり、かなりの防衛力を備えたお城であった事が容易に想像でき、手前の「ハイキング的山道」から「城郭を感じる山道」へと変わります。結構な数で、城郭を感じる事が出来ると思うので、あまり気を取られ過ぎて転倒等しない様お気を付けて進んで頂ければと思いますが、15分程度こういった区間を進み、山道を登りきると本丸に出ます。

④本丸~搦手口の方面も

本丸は、目算なので、正確ではないでしょうが、20-30m × 50-60m の長方形の様な平らな土地を、1-3m 程の土塁が囲うにエリアになっております。これだけの山城にしては、広めの区画だと思い、しかも結構高い土塁に囲われたエリアで「本丸もそれなりの防御力を備えたお城だったんだろうな」と思った次第です。とは言いつつ、別記事で紹介した武田家最後の居城・韮崎新府城と比べる本丸の広さは1 / 3 (三分の一)程度の印象なので「勝頼は、『この規模のお城だと、置ける兵力にも限界があり、織田の攻撃には耐えられない』と思って、要害山城を捨て新府城に移ったのかな?」と言った想像もしてしまった次第です(結局は信長に攻められる前に新府城も諦めてしまったのですが…)。

ちなみに、ここまで登ってきた山道を大手道とするなら、本丸の反対側には、搦手口もあります。この搦手側の入口は、本丸の中でも高い土塁(3mくらい?)があり、その外側は、堀で深く切り込まれ、人ひとりが通れる程の土橋でつながっています。本丸侵入に対する防衛線を意識した構造と思われ、切込内は石垣も見えたので「土塁を高くし、切込の深さを作る為、石垣を使ったのかな?」と思いを巡らせることができる痕跡があります(後の世の補強かもしれませんが…)。その道は、しばらく尾根道上に続いており、曲輪なのか、物見台的なスペースもあるので、脚を伸ばして頂いても良いかもしれません(私達夫婦の場合は、ここで引き返し、下山ました…)。

⑤大人散策をする上でのその他の情報

上記紹介しました要害山城ですが、これに連携する情報をいくつか共有します。

  • 熊城:要害山城の支城として、東側に、熊城と言うお城があったそうです(私達夫婦はお邪魔した事がまだないのですが…)。
  • 本丸からの富士山:要害山城の本丸南側からは、富士山を顔の部分のみですが、拝見する事が出来ます。勿論晴れていなければ見えませんので、願掛け的ですが、富士山見えたらラッキーだと思います。
  • 紅葉が美しい:城郭としても魅力的ですが、ハイキングコースとしても面白いと思い、山中は赤松が多い印象ですが、モミジ等の落葉樹も多くあるので、秋の大人散策は、中々よいかもしれません。
  • 積翠寺温泉の古い建物:2017年武田信玄の産湯としても使われたと言われる積翠寺温泉ですが、要害山城の入口にあったホテル要害は、閉業してしまったようです。道の反対側にある歴史を感じる建物は、恐らくこのホテル要害の昔の建物と認識しており、歴史的建造物も側面もあるはずなので、残して頂きたい建物だと思っています。
  • 積翠寺信玄の産湯は、こちらに残る井戸より汲んだとも言われている様で、武田家とつながりの深い神社であると同時に、目の前の道からは、甲府の街を遠望できる中々のスポットです。

【最後に】

以上が、武田信玄誕生のお城と伝わる『躑躅ヶ崎館の詰城・要害山城』につき、大人散策情報を記載」させて頂いた内容になります

要害山城を実際に訪問し、感じた事は「よく練られた城郭」というものです。規模的には別記事で紹介した八王子城とあまり変わらない気がしますが、曲輪/虎口の数やそれぞれの大きさ、堀の深さと数、どれをとって「要害山城 > 八王子城」と言った感じです。八王子城は、秀吉小田原征伐時に落城した際「築城途中だった」とも言われているようですが、個人的には「なぜあのよく練られた滝山城を捨て、八王子城に移った?」と思ってしまいます…。もし氏照(滝山城八王子城に移った時の城主)が「この要害山城の様な山城をイメージしていた」と言うなら納得できるとも思った次第です。

現代では、「どの痕跡が、どの時代の、誰によるものか?」をぱっと見で、私の様な素人が認識できる訳ではありませんが、「信虎・信玄勝頼の武田三代のお城(詰城)」である事、「武田信玄が誕生した場所」、「大人ハイキングコースとしても魅力的」である事には変わりありませんので、皆様も自然を感じつつ大人散策を楽しみ、武田三代の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

尚、本ブログ別記事では、甲府とその周辺の大人散策 / 観光スポット信玄治水工事の痕跡・信玄堤甲斐武田家発祥の地・韮崎の武田八幡宮信玄が品の攻略のために整備したと伝わる信玄棒道武田24将の一人で赤備えの元祖ともいえる山縣昌景の御子孫が経営する温泉宿・山縣館信玄の隠し湯とも言われる甲府湯村温泉の柳屋常盤ホテル甲府城址近くの温泉があるホテル・談露館小名屋ホテル等も紹介しておりますので、皆様のニーズに合わせご参照頂ければと思います。

また、同じく別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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