古河城・関宿城・逆井城を大人散策!:西下総・北関東と南関東の境界の名城群を巡る! ~茨城・千葉を巡る歴史旅シリーズ~

古河城・逆井城・関宿城を大人散策
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【はじめに】

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こちらのページでは、「『古河城・関宿城・逆井城』に関する概要・歴史を抑えた上で実施する『西下総・北関東と南関東の境界の名城(古河城・関宿城・逆井城)の大人散策情報』を、多くの写真・詳細マップと共に共有」させて頂きます。

📚本記事で得られる情報📚
✅「古河城・関宿城・逆井城」に関する概要・歴史
✅「古河城・関宿城・逆井城」等を含む大人散策情報を詳細マップ・多くの写真と共に共有

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本ブログでは、別記事で日本三大奇襲の1つである「河越夜戦に付き、独自の視点で考察を加えさせて頂きました。その延長線上の話にもなりますが、この戦(河越夜戦)にかかわった武将の拠点は、北条氏康・小田原城」、「関東管領・山内上杉氏:平井城」、「扇谷上杉氏:河越城(北条氏が、扇谷上杉氏から河越城を奪った事が、河越夜戦の発端と言う意味で…)、そして古河公方・足利晴氏:古河城」と言った理解をしております。つまり、これまで小田原城平井城川越城」には、脚を運んでいるが、「古河城には脚を運んだ事が無い…」という状態であったという事です。しかし、先日実施した「茨城・千葉を巡る歴史旅(更新中)」にて、ついに訪問がかなったのですが、これに併せて「関宿城」・「逆井城」にも登城させて頂き、大人散策を楽しませて頂きました。そしてその際、思った事があります。それは、『「河越夜戦」 → 「北条氏の勢力拡大@関東」 → 「更に北上し関宿・逆井城の攻略」 → 「しかし豊臣秀吉小田原征伐北条氏滅亡」 → 「徳川家康入府・江戸幕府成立」→ 「利根川東遷(関宿城は利根川東遷の工事を遂行する施設ではないが、完成後の河川網を円滑に機能させるため、譜代大名を配置した運用・管理を担う行政拠点的役割を果たした理解)」』と言う日本史のストーリーが流れ始めた事。すなわち、『「西下総・北関東と南関東の境界の3城:古河城・関宿城・逆井城」を巡る事は、この上ない大人散策コース』だと思ったという事です。

こちらのページでは、そんなイメージを持ってしまった「西下総・北関東と南関東の境界の3城:古河城・関宿城・逆井城」に付き記載いたします。すなわち、「『古河城・関宿城・逆井城』に関する概要・歴史を抑えた上で実施する『西下総・北関東と南関東の境界の名城(古河城・関宿城・逆井城)の大人散策情報』を、多くの写真・詳細マップと共に共有」をさせて頂きます。

【逆井・古河・関宿城の概要】

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まずは、「逆井城・古河城・関宿城」の概要・歴史から抑えるように致します。以下それぞれ、引用を利用しつつまとめますので、ご参照頂けますと幸いです。

■ 逆井城とは?

まずは、「逆井城の概要・歴史」から抑えさせて頂きます。Wikipedia には以下の様にあります(以下にまとめますので、引用読まなくても大丈夫です…)。

逆井城(さかさいじょう)は、茨城県坂東市逆井(下総国猿島郡)にあった戦国時代の日本の城(平山城)。落城後、後北条氏によって大規模に築城しなおされたため、それ以前の遺構と後北条氏時代の遺構が重なっている。はじめの逆井氏の城を逆井古城、後北条時代の城を飯沼城ともいう。

概要
北側に西仁連川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置している。西仁連川は江戸時代の干拓の際に沼の西側外周部が掘削されたもので、干拓前は飯沼という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在していた。この南北に細長い飯沼は逆井城の北で東西に蛇行しており、城はこの沼の歪曲部に位置し沼に囲まれた「後堅固の城」でもあった。北崖を飯沼が洗い堅固なため、本丸が最北端に位置している。南側に曲輪が連なり、大軍も収容できるように大規模な構造となっている。

築城は享徳年間ごろといわれる。小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城にしたという。しかし常宗の孫・常繁のときの天文5年(1536年)、古河公方方であった逆井氏は後北条氏と対立した。そのため後北条方の大道寺盛昌の攻撃を受け逆井古城は落城、逆井氏は滅亡したと伝わる。ただし落城年がこの地域への後北条氏の進出時期に合わないため落城時期には異論もある。
後北条氏の勢力下に入った逆井城は、天正5年(1577年)、玉縄城主北条氏繁によって藤沢から技術者が呼ばれ、新たに築城されることとなった。逆井の地は北条氏にとって下野・常陸方面への侵攻の最前線であったためである。後北条氏の最新の技術が投入された飯沼城には氏繁が入り、佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。天正6年(1578年)、氏繁は逆井城で没し、その後を子の氏舜・氏勝兄弟が継いだ。風魔小太郎の子・風魔孫右衛門など忍者集団300人が拠っていたともいう(『関八州古戦録』)。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏没落に伴い、廃城となった。

逆井城跡公園
城址は公園化され、櫓・土塀・櫓門・木橋などが木造復元されているが、これらは発掘調査に基づいた時代考証を行い、中世城郭の姿を忠実に木像復元している。また復元位置をずらして遺構の保存を行っている。西二ノ曲輪は逆井城以外からの移築建造物・木造復元建造物が存在する。関宿城の薬医門、復元された古河城書院礎石など。本丸殿社の位置には堀之内大台城の御殿が復元されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/逆井城

つまり「逆井城」は、

『「戦国期に、逆井氏により築城された事に始まるお城」であったが、古河公方方であった逆井氏は、後北条氏と対立し、落城・滅亡してしまう。その後、後北条氏の勢力下に入った逆井城は、北側にあった飯沼と言う沼に守られた「後堅固の城」として新たに築城され、後北条氏にとって「下野・常陸方面への侵攻の最前線の城」であったが、1590年の「豊臣秀吉小田原征伐」による、「後北条氏没落」に伴い、廃城となったお城』

と言った理解をした次第です。

■ 古河城とは?

次に、「古河城の概要・歴史」を抑えさせて頂きます。Wikipedia には以下の様にあります(以下にまとめますので、引用読まなくても大丈夫です…)。

古河城(こがじょう)は、茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城
室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。

概要
古河城の起源は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。室町時代には、古河公方・足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つとなった。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備された。古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは江戸城の北方の守りとしても機能した。明治時代初期の廃城令により廃城となり、明治末に開始された渡良瀬川の改修工事により、残された城跡も大半が消滅した。渡良瀬川の堤防上、三国橋と新三国橋の中間付近に「古河城本丸跡」と書かれた石碑と解説版がある(2018年3月設置、以前は標柱のみ)。
古河城は渡良瀬川の河畔にあり、城の位置付けは人と川との関わりに影響されてきた。渡良瀬川は、上流では主に栃木県・群馬県の県境近辺を流れ、下流では太日川(今の江戸川)と名前を変え、千葉県・埼玉県の県境近辺を利根川と並行して、東京湾に流れ出ていた。従って、関東を東西に分かつ境界線であると同時に、河川交通により北関東および東京(江戸)・房総を結ぶ物流と交通の幹線であった。このような地理的条件により、中世および近世には重要拠点とされたが、近代に治水が重視されるようになると、大規模な河川改修事業により、下流の関宿城と同様に城跡が徹底的に破壊された

歴史・沿革
■ 平安時代末 – 鎌倉時代(城の起源)
平安時代末、源頼朝に従った武将・下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に城館を築いた(『永享記』等)。正確な時期は分らないが、行平が活躍し始めた1180年頃が目安となる (略)

■ 室町時代 – 戦国時代(古河公方の本拠)
南北朝時代、北朝・足利氏の拠点の一つであった
室町時代後期から戦国時代にかけては、古河公方の本拠となる。
享徳の乱において、第5代鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉氏と争い、享徳4年(1455年)、今川範忠に鎌倉を占拠されると、下総古河に本拠を移した「古河公方」の成立である。成氏の勢力範囲は、当時の渡良瀬川・利根川の東側にあった下総国・常陸国・下野国・上総国・安房国(栃木県・茨城県・千葉県)であり、山内上杉氏および扇谷上杉氏の勢力範囲は、反対側の上野国・武蔵国・相模国・伊豆国(群馬県・埼玉県・東京都・神奈川県など)だった。さらに京都の室町幕府も上杉氏を支持、新たな鎌倉公方として足利政知(堀越公方)が東下して、30年近く両勢力は争い続ける

古河を本拠に選んだ理由は、前面の利根川や渡良瀬川が上杉氏に対する天然の堀となり守りやすいこと、小山氏や結城氏等、成氏を支持する諸将の根拠地が近いこと、鎌倉公方家の御料所があり経済的な基盤となったことが挙げられる。成氏は当初、古河の鴻巣にあった古河公方館を居館とし、立崎の古河城を整備した後に移動した。このころ、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌は、古河城に対抗する前線上に江戸城・岩付城・河越城を築き、拠点とした
古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および戦国時代の関東の中心の一つとなる。永禄年間(1558年 – 1570年)には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立争いのために本城を奪い合い、謙信を支援する関白・近衛前久が滞在した。その後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、城も後北条氏の管理下におかれた (略)

■ 江戸時代(日光社参の将軍宿城)
(略) 江戸時代には古河藩の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、江戸防衛の一端を担った (略)
城下には日光街道の宿場町である古河宿が展開するとともに、渡良瀬川による河川水運も発達して、交通・物流の要所となった。 徳川将軍による日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとしても重視された (略)

■ 明治以降(渡良瀬川改修と城の消滅)
(略) 明治6年(1873年)に発布された廃城令によって廃城処分となり、建造物はすべて破却された (略)
明治末に、度重なる渡良瀬川の洪水対策を目的として、16年間の大規模な河川改修事業が始まる。このときに主要な曲輪は削平され、堀は埋め立てられて、堤防や河川敷などに変わり、城跡のほとんどが消滅した (略)

構造
■ 中世
古河公方時代を含む中世の構造はよく知られておらず、今後の調査・研究が期待されている (略) 
戦国時代末期に関しては、最近、『池田家文庫』(岡山大学附属図書館蔵)の「下総古河城図」(年代:貞享5年(1688年)7月)の考察が行われた。城周辺の寺社の配置や、川筋が利根川東遷事業以前の状態を示していることから、天正年間(1573 – 1592年)の足利義氏・氏姫期と推定されており、特に氏姫期である可能性が高い (略) 後北条氏を始めとする関東諸士が城内に居住していたことを示唆するとともに、従来は伝承のみだった小山観音寺氏の屋敷や、頼政祠の存在を裏付けている。また、水堀が古河公方館の周囲にまで広がっており、当時は舟で往来できたという伝承も裏付けるものとなっている (略)

■ 近世(江戸時代)
ほぼ北から南に向かって流れる渡良瀬川の東岸に位置した。古河城が築かれた台地は、川とその東側に広がる沼地にはさまれ、北から南に伸びる半島状になっていた。
江戸時代の城域は、水堀を含むとおおむね東西約0.45 – 0.55km、南北約1.8km 程度の広さであり、関東有数の規模であった。城域の西側は川に接し、残りの三方を水堀に囲まれていた。城域の東南から南側は、通行が困難な沼地であり、これらの沼地と渡良瀬川を生かした水に守られた要害であった。
構造は、土塁に囲まれた複数の曲輪が、直線状に配置された連郭式である。主な曲輪は、北から順に、観音寺曲輪、桜町曲輪(丸の内)、三の丸、二の丸(西側)/本丸(東側)、頼政曲輪、立崎曲輪である。そのほかに、桜町曲輪の東側には、水堀(百間堀)の先に「出城」と呼びならわされる諏訪曲輪があった (略)
天守は建てられなかったが、土井利勝によって、本丸の西北出隅に建てられた「御三階櫓」と呼ばれた3層4階の櫓が、実質上の天守となった。高さは約22メートルあり、同様の構造で建てられた水戸城や佐倉城の御三階櫓、松江城の天守(約22.4メートル)もほぼ同じ高さである (略)
なお、古河歴史博物館内には精密な古河城下模型が展示されており、城全体の構造が再現されている。

遺構
明治末に開始された渡良瀬川改修事業の際に、主要部分は堤防や河川敷に変わった。堤防の市街地側には、観音寺曲輪の大半・桜町曲輪の半分・百間堀等の水堀が残されたが、現在はこれらも宅地等に変わり、ほとんどの遺構は消滅した。本丸や二の丸等の主要部分は、渡良瀬川に架かる三国橋と新三国橋にはさまれた堤防・河川敷に相当する。市街地では、観音寺曲輪は錦町、桜町曲輪は桜町におおむね相当する (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/古河城

ます。

つまり「古河城」は、

『平安時代末期~鎌倉時代初期に「下河辺氏」が築いた城館を起源とし、室町時代の南北朝期には、北朝・足利氏の拠点の一つで、室町時代の戦国期にかけては、「享徳の乱のきっかけを作った5代鎌倉公方・足利成氏」が、拠点を鎌倉から古河に移す事で、初代・古河公方となり、その後、足利氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つとなった城郭。「河越夜戦に大きくかかわった4代・古河公方:足利晴氏」も拠点とした城郭で、河越夜戦の後、小田原・北条氏の管理下になった時代もあったが、豊臣秀吉小田原征伐による小田原・北条氏滅亡を経て、江戸時代には、多くの徳川幕府の譜代大名が入替りで城主を務め、近代城郭として整備され、古河藩庁が置かれ、「将軍の日光東照宮参時の宿」として、あるいは「江戸城の北方の守り」としても機能した城郭でもある。しかし、「明治時代初期の廃城令」により廃城となり、明治末に開始された「渡良瀬川の改修工事(治水工事)」により、残された城跡も大半が消滅した城郭でもある』

と言った理解をした次第です。

※ 参考 ※
ちなみに、上記『「古河公方」・「享徳の乱」・「河越夜戦」と言ったワード』も出て来ておりますので、参考情報の意味で、以下、引用を共有致します。別記事で記載している情報(リンクあり)と共に宜しければご参照ください。

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった(享徳の乱)。その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある (略)

(略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/古河公方

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) – 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている (略)

一連の戦いの結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/享徳の乱

(略) 河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう (略)
「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」である (略) 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/河越城の戦い

■ 関宿城とは?

最後に、「関宿城の概要・歴史」を抑えさせて頂きます。Wikipedia には以下の様にあります(以下にまとめますので、引用読まなくても大丈夫です…)。。

関宿城(せきやどじょう)は、千葉県野田市関宿三軒家にあった日本の城。室町時代に簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、以降簗田氏嫡流の関宿簗田家の居城になったと伝わる。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。廃藩置県後は天皇家の物となった(大正宮内庁管轄)。

概要
江戸川をさえぎるような縄張りを持っていた。利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点であった。
戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であった。関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評した
戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、3度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした
建造物としては(譜代大名クラスの城によくある事例だが)「御三階櫓」と呼ばれる天守状の櫓が代用として建築され、『正保城絵図』には土塁上に茅葺き屋根の三重櫓が建ち、1671年に再建された際には江戸城の富士見櫓を模して再建されたという現在千葉県立関宿城博物館に御三階櫓を模した模擬櫓があるが、この模擬櫓は1995年に建てられたもので、城跡とは無関係な場所に建てられている。藩政時代に御三階櫓が築かれた場所は河川改修により旧状をとどめていない。
河川改修および圃場整備のため遺構の保存状態は良くない現在は本丸跡の一部と空堀跡が僅かに残るに過ぎない。建造物に関しては、埋門と大手門と伝わる門が市内に、関宿城の城門と伝わる薬医門が逆井城に、それぞれ移築され現存する (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/関宿城

上記、「現在千葉県立関宿城博物館に御三階櫓を模した模擬櫓があるが、この模擬櫓は1995年に建てられたもので、城跡とは無関係な場所に建てられている」とありますが、「関宿城と関連深い現在の施設」ですので、「関宿城博物館」に関しても、以下に引用いたします。

千葉県立関宿城博物館(ちばけんりつせきやどじょうはくぶつかん、英:Chiba Prefectural Sekiyado-jo Museum)は、千葉県野田市の関宿城址付近にあり、関宿城、旧関宿町、河川に関する県立の総合博物館。関東の富士見百景に選定されている。

概要
千葉県の最北端で利根川と江戸川の分流点のスーパー堤防上にあり、関宿城、旧関宿町、河川の歴史、産業、文化、自然等に関する資料の収集・保管・調査研究を行う博物館として、1995年(平成7年)11月11日に開館した。建物のうち、天守閣部分は現存する古記録に基づいて可能な限り忠実に外観を再現しようとしたものである。現存する資料が少ないため、再現の正確性には疑問が残り、藩政時代の天守の位置とも異なるため、一般的には模擬天守とみなされている (略) 博物館は「河川とそれにかかわる産業」をテーマに河川改修や水運の歴史を紹介しながら、流域の人々と川との関わりについての資料を展示し、関宿城や関宿藩の歴史についても併せて展示・紹介している (略)

施設
(略) 近世末の関宿城下模型や博物館の展示内容がわかるジオラマを設置しており、企画展示に応じて入場者が参加できるイベントを実施している。天守閣部分はスーパー堤防上に聳える3層4階建てであり、関東平野のほぼ中央に位置し、最上階の展望室からは利根川・江戸川の流れをはじめ、筑波山・日光連山・富士山など関東平野を取り巻く山並みを遠望することができる (略)
 ・第一展示室 房総の河川 近現代の利根川・江戸川:水塚をはじめ、明治時代以降に行われた利根川流域での河川改修工事や利根運河の開削などの概要を様々な資料や模型で紹介。
 ・第二展示室 房総の河川 近世の利根川・江戸川:江戸時代初頭に行われた利根川流域における大がかりな利根川東遷事業(河川改修)や、手賀沼・印旛沼の干拓などの様子を絵図や模型で紹介。
 ・第三展示室 河川交通と伝統産業:利根川水運の主役として活躍した高瀬舟の大型模型を展示室の中央に配し、両脇に河岸問屋と醤油蔵を再現。近世から近現代にかけての利根川水運の推移や、河岸の発展とともに育まれた様々な文化や民俗について紹介。
 ・企画展示室 関宿藩や関宿に関する展示:関宿藩や関宿に関しての展示。ただし、企画展の開催中は、多目的室で展示を行う (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/千葉県立関宿城博物館

つまり「関宿城」は、

『関宿城は、室町時代に簗田満助 or 簗田成助によって築かれたとされる「関宿・簗田家の居城」。「利根川水系等の要地」であり、「関東の水運を押さえる拠点」であった「関宿城」は、戦国時代には関東の中心部における最重要拠点で関東制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評したと言われるらしく、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられ(関宿合戦)、最終的には、「北条氏康・氏政氏照父子」が、「上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城」を攻撃し、北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした歴史がある。
江戸時代には「関宿藩の藩庁」が置かれた城郭でもあり、1671年に、「『御三階櫓』と呼ばれる天守状の櫓」が再建された際には「江戸城の富士見櫓」を模して再建されたといわれ、現在、「利根川・江戸川分流点のスーパー堤防上」にある「千葉県立関宿城博物館」には、その「御三階櫓」を模した模擬櫓(一般的には模擬天守?)がある。但し、この模擬櫓(一般的には模擬天守?)は、「本来の関宿城とは無関係な場所」に建てられているらしく、「関宿城の遺構その物」は、「千葉県立関宿城博物館」の周囲に、「本丸跡の一部」・「空堀跡」等が僅かに残るに過ぎない状態の城郭』

と言った理解をした次第です。

上記、「逆井城・古河城・関宿城」に付き、基本情報を抑えさせて頂きましたが、更に、個人的な印象をまとめると以下の理解になった次第です。

  • 「逆井城・古河城・関宿城」の3城とも、「河越夜戦の主役である小田原・北条氏」に関連深いお城
  • 「古河城・関宿城」は、譜代大名が入り、「江戸期の行政出先機関」として重要な役割を果たしたお城
  • 「逆井城」は、その痕跡を地形に残すが、「古河城・関宿城」は明治以降の(水害対策を目的とした)河川改修により、中々その痕跡を見つけにくいお城
  • すなわち、「逆井城・古河城・関宿城」の3城を理解し、巡る事は、『「戦国期の終盤戦」を感じ、「江戸~明治期の関東の治水」を実感する大人散策』につながる!

【逆井・古河・関宿城を大人散策!】

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上記、「逆井城・古河城・関宿城」に付き、基本情報を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、「それぞれの城郭における大人散策情報」に付き、記載いたします。

■ 逆井城を大人散策!

まずは、「逆井城」小田原・北条氏の勢力下に入った後、沼に囲まれた「後堅固の城」として新たに築城され、北条氏にとって「下野・常陸方面への侵攻の最前線の城」となった城郭です。現在は、「櫓や塀が復元」されていますが、上記の通りこの城郭跡での見所は「後堅固の城」と言われたその縄張りと地形」ではないかと思います。以下に紹介する「関宿城」の城門が移築され、「古河城諏訪曲輪書院建築礎石」等もございましたが、小田原・北条氏の歴史に思いを馳せつつ、「復元された櫓や塀」と共に「城郭が建てられた地形のイメージ」を膨らませ散策するのが、正しい大人散策』と思った次第です。

実際の「大人散策@逆井城」は、現在城郭跡の「南側にある駐車場」に車を停め開始させて頂きました。駐車場から北上すると、早々に「二層櫓・塀・井楼矢倉、更に南側の堀」が見えてきます。ここは最近、よく歴史物を扱うテレビで、スポット画像で拝見する構図。「真新しさを感じつつも城郭の雰囲気を堪能出来るスポット」だと思いつつ、歩を進めました。そして、「二層櫓」を城郭内からも拝見し、「関宿城移築薬医門」も見学して、その門を潜り、「復元主殿」も拝見します。何処まで史実と連動しているか少々見えませんが、建造物としては、中々魅力的。それらを、「枯山水的なお庭」を含め楽しみつつ、「復元主殿」の裏(西~北)側に歩を進めました。すると、「土塁的な高まり」の先に「堀」が見え、その先の地形も確認できます。そして「西側は、堀をしっかり掘っているんだな…」と思いつつ、今度は東側に進路変更し、曲輪内を拝見しつつ「古河城諏訪曲輪書院建築礎石」も拝見し、更に「観音堂(ちょっと高くなっていきます)」を拝見して、更に北東方面に歩を進めました。

すると「逆井城の石碑」があり、その先に「櫓門を備えた橋」が見えてきますが、先に、「逆井城の北側の様子」を拝見すべく更に歩を進めると、「北側に川(西仁連川)があり、その先に現在でも田んぼが広がる光景」を確認できます。つまり「ホントに沼地に面していたんだ」と実感できる景色を確認する事が出来ます(尚、以下写真は、逆井城側からの写真がうまく撮れていなかったので、Google Street Viewより、逆井城の北側(川・田んぼ側)から見た景色を利用させて頂きました)。その後、先程拝見した「櫓門を備えた橋」付近に戻ると、「橋の下は堀」になっている事を発見。「なるほど…」と思いながら、その堀に沿って、西に進むと「水堀」になります。つまり逆井城の北側は、「沼地・川(現在は田んぼ・(改修されているでしょうが)西仁連川))」・「空堀」・「水堀」で防御を固めている構造である事を実感した次第でした。「なるほど… & なるほど…」と「後堅固の城」を実感しつつ、今度は、建造物が復元されている方向(南側)に進路変更し、先に拝見した「復元主殿」を抜け、「井楼矢倉」・「井楼矢倉付近土塀の外の堀」を拝見しつつ、「土塀の内側」もじっくり拝見して、「二階櫓」付近に戻り、「大人散策@逆井城」をコンプリートとさせて頂きました。

■ 古河城を大人散策!

「逆井城で後堅固の城」を実感した後に参ったのは「古河城」。しかし、先の通り「現在の古河城は、河川改修により、その全体像を拝見する事は出来ない為、遺構を拝見し、イマジネーションで楽しむ城郭」と言った理解をしております。その際に役立つのが、以下の図:「古河城の全体図(江戸後期)」&「現在の古河城遺構分布」。すなわち、「この図を手元に、ある程度のイメージを持ちつつ、その痕跡を巡る登城」になると言う事です。

そんな状況でまず目指したのは「古河公方館跡」。現在では、「古河公方公園 (古河総合公園)」の内部に、その痕跡を拝見する事が出来ます。実際に参らせて頂いた印象は「中々の公園」と言った印象で、時間があれば「公園散策」も楽しみたいと思えましたが、この日はかなりタイトなスケジュール(詳細は「茨城・千葉を巡る歴史旅(更新中)」を参照)。駐車場に車を停め、「御所沼」を横目に見ながら、「公方様の森」をほんの少しだけ散策し、「古河公方館跡」を目指しました。実際にその地を訪れると、「元々は、渡良瀬川に結構近い場所にある微高地だったのかな?」なんて想像を膨らませつつ、「古河公方(鎌倉殿)館二の曲輪跡」も足早に拝見させて頂きました。すると、「ちょっと時代を感じる建造物」が目に飛び込んできたので、「時間ないけど…」と思いつつ、更に足早に「旧中山家住宅」・「旧飛田家住宅」を拝見し、「西郷●んのロケ地だったの?」なんて、夫婦で会話しながら、次の目的地である「諏訪曲輪」を目指しました。

「諏訪曲輪」付近は、現在は住宅地に囲まれた「古河歴史博物館」付近になる理解。実際に参らせて頂いた際は、「古河歴史博物館」目の前の駐車場が利用できなかったので、「ちょっと離れた駐車場」に車を停めさせて頂きました。故にまずは、「古河歴史博物館」を目指して散策を開始しましたが、近くまでくると、歴史を感じる佇まいの「長屋門」の道を挟んだ「諏訪曲輪」を発見し、外側から拝見。その周囲は「整備された水場」になっているので、「ホントに諏訪曲輪?」と思ってしまいますが、この地形をじっくり拝見すると、「曲輪そのものは、高台に築かれ、現在の水場は堀」に見えてきます。その「堀(現在は水場)」に沿って歩を進めると、「諏訪曲輪」内部へ行ける「門」を発見。迷いなく、その門を潜り、「諏訪曲輪」を内部からも見学すると、確かに「土塁の痕跡」と思われる高まりを確認する事が出来ました。その後「古河歴史博物館」にもお邪魔し、「古河城ジオラマ」も見学させて頂きました。

尚この付近は、実際に脚を運んだところ、住宅街で、道も狭く、車でその他のスポットを巡りにくいと思った為、「諏訪曲輪」の見学の後、徒歩で、「御茶屋口御門跡」・「古河城乾門(福法寺)」を巡り、駐車場に戻って、その後車塚、「御成門跡」・「桜門跡」・「本丸跡(堤防上なので、車で堤防を越え、河川敷に車を停めて徒歩で堤防を登りました…)」をそれぞれ巡って、「大人散策@古河城」をコンプリートとしました。

ただ思った事は、「利根川と渡瀬川が交わるこの場所に古河城がある理由は、それなりにイメージが湧いてきましたが、予め上記記載の『古河城の全体図(江戸後期)』を見ていても、実際のスポットを巡り、これらをつなぎ合わせ、古河城の全体図を想像する事は結構至難の業」という事です。言い換えると、「河川改修によって、地形もかなり変わっているこのエリアで、かつての古河城の全体図をイメージするには、かなり時間を掛け、わずかな高低差を見過ごさず、「一つ一つの痕跡」と「江戸期の縄張り図」そして「現在のMap」を、じっくりと突き合わせ、向き合う必要がある…」と言うものでした。つまり、自身としては、「古河城の全体図は描けなかった…」という事ですが、「まずはその事実が分かった事が収穫、今度は、時間を掛けて散策する前提で、次またお邪魔しよう…」と思った次第でした。

■ 関宿城を大人散策!

「古河城」に続いて、脚を運んだのは「関宿城」。しかし「関宿城博物館」の入場時間には、ギリギリ間に合いませんでした…。しかし、折角脚を運ん「関宿城」。「内部はダメでも、まだ日暮れ前、外部の見学はできる!」と「一般的には『関宿城の模擬天守』と言われる “関宿城博物館”』」の写真を撮り、出来る限り「周囲の遺構」を拝見させて頂いた次第です。

先にも記載しましたが、『一般的に「関宿城の模擬天守」と言われる建物は、1995年に再建された「関宿城博物館」で、「利根川・江戸川分流点のスーパー堤防上」にある事からも推察できる様に、「本来の関宿城とは無関係な場所」に建てられている理解』です。とは言いつつも、関宿城博物館のホルム」は、「北条氏が軍事拠点として奪った関宿城」で、「江戸時代には河川行政の拠点と姿を変えた関宿城」と思え、「ついに関宿城に来たぞ!」と思えるもの。故に、内部は見学できませんでしたが、外部の写真をあらゆる角度から撮影させて頂きました。そして、『確かに、「江戸城の富士見櫓」に似ている、江戸期にあったと言われる関宿城の『御三階櫓』と呼ばれる天守状の櫓』は、『江戸城の富士見櫓』を模して再建され、そしてその『御三階櫓』を再現した建造物が『関宿城博物館』なので、まっ当然か…」と改めて思った感じでした。と同時、「どこかで聞いたこたる様な話だな…」と思い、思い浮かんだのが、高知城掛川城。つまり、掛川城を築城した山内一豊は、関ヶ原の後、高知に転封となり、そこで、かつての居城・掛川城を模して、高知城を築城(一豊の高知城は燃えてしまうが再建天守は、一豊築城の天守を真似て再建されたもので、これが現在も残る現存12天守高知城)、その後時代は下り現代に、掛川城高知城を真似て木造復元」のストーリーが思い浮かんだ次第です。改めて「時代は続いているな…」と思いつつ、「関宿城の模擬天守」こと、「関宿城博物館」を後にしました。

その後、車ですが、日暮れに追われる様に駆け足で、「関宿城博物館」近くの「本丸跡」・「曲輪跡と言われる場所」・「武家屋敷の区割りと教倫館跡(鍵の手十字路)」・「大手門跡」・「関宿関所跡」と巡って、「大人散策@関宿城」をコンプリートとさせて頂きました。そして思った事は、「大人散策@古河城」と同じで、「この城郭がこの場所にある意味は、実感できましたが、一方で、河川改修によって、地形もかなり変わっているこのエリアで、かつての関宿城の全体図をイメージするには、かなりの至難の業」と言うもの。つまり、「古河城同様、もっと時間を掛けて巡るべき…、関宿城博物館内部も拝見出来なかったし、スケジューリングに無理があった…、反省…」と言うものだった次第です。

【最後に】

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以上が、「『古河城・関宿城・逆井城』に関する概要・歴史を抑えた上で実施する『西下総・北関東と南関東の境界の名城(古河城・関宿城・逆井城)の大人散策情報』を、多くの写真・詳細マップと共に共有」申し上げた内容になります。

『古河城・関宿城・逆井城』に関する概要・歴史&大人散策情報を記載させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 個人的には、上記の通りで、「西下総の3城を巡ることで、戦国期から江戸期へと続く『城の役割そのもの』が変わっていくコンセプチュアルな部分は実感できた…」と思うと同時に、物理的な側面では、「逆井城は、『後堅固の城』」を実感できましたが、「古河城・関宿城に関しては、甘く見ていた…、河川改修によって、地形もかなり変わっているこの2城は、もっと時間を掛けて巡るべき…、関宿城博物館は内部も拝見出来なかったし…、次回は、古河城・関宿城の2城だけに絞って、1日費やしてみたい…、川越からであれば圏央道ですぐだし!」思った次第でした。故に、「古河城・関宿城の再訪」がかなった暁には、改めて本ブログで報告させて頂こうと思っております!

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