【はじめに】
こちらのページでは、「関東管領のお城として有名な平井城につき、その歴史を抑えた上で、現在の平井城について考察し、歴史に思いを馳せてみよう」と思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「平井城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 関東管領のお城として有名
- そんな有名なお城ではあるが、日本100名城にも、続日本100名城にも選出されていない…
- 現在ほぼ、当時の遺構を確認するのは難しく少々残念…
- 河越夜戦(1546年)で敗れた上杉憲政も居城としていたお城
- 河越夜戦で勝利した北条氏康は平井城も奪取した
- その後関東管領を引き継いだ上杉謙信によって奪還されるも、拠点は前橋(厩橋城(まやばしじょう=後の前橋城)に移されたた為、廃城になったたお城
平井城と言えば、「関東管領のお城」で間違いない認識ですが、実際に訪問するとその遺構は、ほとんど確認できず、少々残念に思った事を記憶しています。この時代の関東の歴史は目まぐるしく変遷している時期だと思い、その力関係も複雑で、どの役職がどのような位置づけなのか、その時代背景も相まって、理解するものかなり難しいと理解しておりますが「関東管領・上杉氏の居城であった」事は、間違いない史実。遺構は少なくとも、その歴史に思いを馳せるべきお城と理解している次第です。
こちらのページでは、そんな「関東管領のお城として有名な平井城につき、その歴史を抑えた上で、現在の平井城について考察し、歴史に思いを馳せてみよう」と思います。
【関東管領とは…、平井城との関連は…】
「関東管領のお城・平井城」と言いますが、そもそも関東管領とは何でしょうか?(どんな役職なんでしょうか?) まずは、その関東管領の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した (略)
歴代関東管領 「関東執事」時代を含む
(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/関東管領
「鎌倉公方を補佐するために設置された役職」とありますので、「鎌倉公方」に関しても調べてみますと、以下の様にあります。
鎌倉公方(かまくらくぼう)は、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称する。この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれる。関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である (略)
(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉公方
「鎌倉公方の後身である古河公方」と記載を発見してしまったので、「古河公方」に関しても、調べてみますと、以下の様にあります。
古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった(享徳の乱)。その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある (略)
(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/古河公方
引用が多くなってしまって恐縮ですが、そして更に、「平井城」につき、Wikipediaの力を借りますと以下の様にあります。
平井城(ひらいじょう)は、群馬県藤岡市にあった日本の城。群馬県指定史跡。
歴史・沿革
https://ja.wikipedia.org/wiki/平井城
永享10年(1438年)、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた(=永享の乱;追記)。通説ではこの時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている (略)
文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという。
古くから平井城が関東管領・山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料もあるが、実際には永正9年(1512年)の永正の乱もしくは大永年間(1520年代)以降の拠点で、16世紀前半の短期間のものであったとみられている。
天文21年(1552年)、北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた (略)
永禄3年(1560年)に長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている。
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 関東管領は、南北朝時代から室町時代に、はじめの頃は別として次第に上杉氏が世襲するようになった「元々鎌倉公方を補佐するために設置された役職」
- また、関東管領に補佐される側の鎌倉公方は、「室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官」
- 1438年、4代鎌倉公方・足利持氏と21代関東管領・上杉憲実の間に確執が生じ(永享の乱)、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れているが、通説ではこの際に、憲実が平井城を築城させたといわれているらしい
- (永享の乱:1438年に関東地方で発生した戦乱で、第4代鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じた戦い)
- 1455年、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方になった
- (享徳の乱:5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、28年間断続的に続いた内乱。室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、戦乱が関東地方一円に拡大した「関東地方における戦国時代の始まり」と位置付けられている様で、このタイミングで(1457年)、太田道灌により、川越城と江戸城が築城された(川越城と江戸城は兄弟城?))
- 同じ頃(1466年頃?)、平井城も24代関東管領・上杉顕定によって拡張されたらしい
- 一方で、平井城が関東管領(上杉氏)の拠点であったのは、1512年の永正の乱以降、もしくは1520年代以降とも言われ、16世紀前半の短期間のものであったとの説もある様子
- 河越夜戦(1546年)で、28代関東管領・上杉憲政は北条氏康に敗れた
- 河越夜戦で勝利した北条氏康は、1552年には平井城も奪取し、上杉憲政は後の上杉謙信を頼って越後(春日山城?)へ逃れた(水上温泉で有名な水上駅付近には、その痕跡もあります…)
- その後、関東管領を引き継いだ上杉謙信(正確には、関東管領職を受ける事で上杉姓に)によって、平井城は奪還されたらしい(1560年)
- その際、再び関東における上杉の拠点となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたとも言われているらしい
- 実際の所、その後の上杉氏の拠点は前橋(厩橋城(まやばしじょう=後の前橋城)に移された為、平井城は廃城になった
上記記載の通りですが、「平井城は関東管領のお城」と言って良いと思った次第ですが、ポイントとして思った事は、①そもそも補佐すべき鎌倉公方との対立(これにより鎌倉公方は古河公方に…)により、関東管領側の拠点となったお城が平井城である事、②平井城が活用された期間は非常に短い可能性もあり、長くても120年程度だと言う事、③憲政から謙信が関東管領を引き継いでいるが、実質的には関東の地を本拠地にした上杉憲正が最後の関東管領と言って良いと思える事、④上杉氏と北条氏の関東における戦いの最前線のお城の一つであった事、⑤現在「平井城の遺構をあまり確認できないのは、北条氏のせい?」とも思えた事、と言ったあたりを妄想的に感じてしまった次第です。
【平井城を大人散策(かなり範囲絞られますが…)】
上記、平井城の概要につきその歴史を中心に確認してきましたので、こちらでは、実際の大人散策情報を記載いたします。但し、上記にも記載させて頂きましたが、現在拝見できる平井城の遺構は、限定的ですので上記の「歴史的背景」を踏まえつつ散策すると、拝見する対象は限定的でも、大人散策を遂行できるのでないかとも思います。尚、実際の散策にあたっては、以下に示す平井城の縄張り図(藤岡市/藤岡デジタル博物館:https://adeac.jp/fujioka-city/catalog/mp040320-200040より)を踏まえて巡ると、理解も進み、大人散策の遂行度合いが進むかもしれません…(縄張り図を拝見するに、岡山城と同じ悌郭式の縄張りに見えます…)。
■駐車場・本丸・説明看板①・土塁?
駐車場は、縄張り図における、本丸・帯曲輪?・馬出?(本丸と三の丸の間付近?)にあります。そこから、南の本丸内に説明看板があるので、改めて平井城にかかわる歴史をレビューし、大人散策を開始されても良いと思います。本丸の西に隣接する形で、土塁の様な高まりもあります。一般的にイメージする土塁と言うより「土が盛られた高まりエリア」と言った方が適切に思え、何処まで史実に基づいた物か分かりませんが、実際に登ってみると、更に西側の二の丸方面も見え、前を通る道路よりも一段高くなっている事から「現在の道路=本丸と二の丸を分ける堀だった?」と推察できると思います。
■石像・説明看板②・鮎川との高低差確認スポット・東側の曲輪が見えるポイント
土塁?(土が盛られた高まりエリア)を降り、東に行くとお墓のエリアとなるので、少し遠慮しつつ目の前にある石像に手を合わせると、周囲に説明看板がある事にお気づきになると思います。拝読しつつ、お墓エリアを避けつつ東に歩を進めると、鮎川との高低差を確認できるポイントがあり(草木が茂ってしまうと難しいかもしれませんが…)、その北側には、東側の曲輪が少しだけ見えます。しかし牛舎によって直接はいけませんので、回り込む形で東側の曲輪を目指します。
■二の丸土塁跡?・堀跡・東側の曲輪・土塁/堀跡?
来たルートを戻る形で、西側の道路(本丸と二の丸を分ける堀跡?)に出ます。宅地化が進んでいるので、中々痕跡を見つける事は難しいかもしれませんが「道路西側の高まりは土塁跡かな?」位は想像できると思います。本丸と二の丸を分ける堀跡と思われる道路を北に100m程行くと、東(右)側に入る道がありますので、更に100m程進むと東側の曲輪に出る事が出来ます。宅地化により家や厩舎がありますが、限られる範囲の様ですので、曲輪と言うより、馬出の様な役割を持った区画にも思えますが、何とも言えません…。竪堀の後とも言われる石積もありますが…。いづれにしても言える事は、想像力を以って拝見させて頂くべきだと思います。基本これで、平井城の大人散策は終わりになりますので、駐車場に戻りますが、駐車場の脇にも「土塁/堀跡」の石柱があります。縄張り図から想像するに、東側の曲輪から延びる曲輪(馬出的な曲輪?)付近の堀だと想像した次第ですので、最後の最後に想像力を発揮して見学されてはいかがでしょうか?
【最後に】
以上が、「関東管領のお城として有名な平井城につき、その歴史を抑えた上で、現在の平井城について考察し、歴史に思いを馳せるべく大人散策」させて頂いた内容になります。
ただ正直な所、平井城の歴史的な側面は、関東管領の歴史も含め、大変興味があるものですが、実際の大人散策そのものは、かなり宅地化が進んでいる事もあり、その遺構を十分に拝見できるとは言いがたい状況であった事、少々残念だったと記憶しております。「これも北条氏のせい?」、「北条氏は、上杉氏に平井城を利用させない様にしたばかりか、後世の人の楽しみまで奪ってしまったのか!」と半分八つ当たりしてみたくなってしまった次第です…。
そんな平井城の大人散策でしたが、近辺には(車であれば20分程度)、歴史のある武蔵国五宮(二宮とも)の金鑚神社やその別当寺・大光普照寺も併せて大人散策出来ますので、ドライブがてら脚を運んでみてはいかがでしょうか?
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
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