岡山城

【はじめに】

こちらのページでは、宇喜多氏⇒小早川氏⇒池田氏と続いた岡山城の歴史と概要を抑えた上で、隣接する後楽園と併せ大人散策をプランニング」させて頂こうと思います

「プランニングさせて頂こう…」と記載しましたが、理由は「まだお邪魔した事がないから」です…。その為、こちらのページでは、まだお邪魔した事がない、岡山城を訪問させて頂くにあたり(いつになるかは不明ですが…)、岡山城と隣接する後楽園の見所や周囲の大人散策情報をリサーチさせて頂き、皆様と共有させて頂こうと思った次第です。

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「岡山城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

岡山城と言って、真っ先に思い出してしまうのは、宇喜多氏と小早川氏「戦国期から江戸期に移る中で、関ヶ原の戦いを境に城主が変わるも、小早川秀秋は、直後に二十歳そこそこで急死してしまった歴史の舞台が岡山城」と言った印象を持っていますが、それは長い歴史の中に置いては一瞬の出来事。その後池田氏の統治となり、「江戸期を通じて池田氏の居城となり、日本三名園後楽園も築庭改めて思い出した次第です。

こちらのページでは、そんな「宇喜多氏⇒小早川氏⇒池田氏と続いた岡山城の歴史と概要を抑えた上で、隣接する後楽園と併せ大人散策をプランニング」させて頂きます

【岡山城の概要】

まずは、岡山城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山(現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城。国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)

概要
戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。
城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる 天守は4重6階の複合式望楼型で、出入り口は付属している塩蔵に設けられている  (略)  その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある  (略)
明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められて現存する廓は本丸と後楽園だけになっているが、街路は江戸時代の位置を踏襲している。さらに第二次大戦中、空襲のため天守を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部がコンクリート造で再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている  (略)

隣接する大名庭園・後楽園は、水戸・偕楽園、金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称される。

歴史
南北朝時代 – 安土桃山時代(略) 
元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配した (略)
直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となる。これに相応した城とするため天正18年 – 慶長2年(1590年 – 1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた  (略)  本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としている。ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながる  (略)

江戸時代
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した  (略)  秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。

慶長8年、備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられた  (略)
元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路より31万5千石で入封した。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けている。また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、ここに岡山城の縄張りが完成する。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てである (略)

寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から池田光政が31万5千石で入封した。光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていた。以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる。

寛文6年(1669年)〜貞享3年(1686年)にかけて百間川の改修整備が実施され、貞享4年(1687年)からは光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園を造営する (略)

明治時代以降
(略) ・明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった  (略)

昭和時代 (略)
・1945年(昭和20年) – 6月29日の岡山大空襲で天守・石山門を焼失。
・1950年(昭和25年) – 文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定。
・1964年〜1966年(昭和39年〜昭和41年) – 天守を鉄筋コンクリートにて再建 (略)
・2006年(平成18年) – 日本100名城(70番)に選定 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/岡山城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 岡山城は、国指定の史跡で、別名には烏城、金烏城と言う物があり、日本100名城の一つ
  • 戦国時代に、宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張された
  • 城の縄張りは、旭川を天然の堀とする梯郭式で、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっており、本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張り
  • 上記の為か、郭の代りとして後楽園が築かれたとも言われる
  • 天守は4重6階の複合式望楼型で、外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることも
  • 明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊され、現存する廓は本丸と後楽園だけになっているが、街路は江戸時代の位置を踏襲しているらしい
  • 隣接する大名庭園・後楽園は、水戸・偕楽園金沢・兼六園とともに、日本三名園
  • 戦国期に宇喜多氏がこの地を支配した後、1600年の関ヶ原の戦いで西軍の主力となった宇喜多氏は改易となり、代わって小早川秀秋が領主として入城するも、2年後には急死してしまった為、その後池田氏に与えられた
  • 池田氏の統治の元、岡山城の縄張りを完成させ、水害対策として百間川の改修整備も行われ、更に後楽園の造営もなされ、幕末まで池田氏(池田輝政の孫で光政(輝元⇒利隆⇒光政)の系統)の居城となった
  • 明治になると、廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治中頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなったが、1945年の岡山大空襲で天守・石山門も焼失してしまい、現在までに2つの櫓(月見櫓・西之丸西手櫓:国の重要文化財)、本丸付近の石垣、内堀が残るのみとなってしまった

最初にも記載しましたが、岡山城と聞いて、真っ先に思い出すのは「宇喜多氏」と「小早川氏」関ヶ原合戦で、明暗の分かれた両家ですが、小早川秀秋も岡山藩拝領後、2年程の後、21歳と言う若さで急死してしまい、変わって池田氏の居城となり、その後池田氏の統治が明治まで続いた様です。その間、岡山城郭の完成、水害対策の実施(百間川の改修整備)、後楽園の造営等を行った歴史を持つようです。池田氏と言って思い出してしまうのは、姫路城の築城者である池田輝政。しかし、池田氏の姫路城における歴史は、15年程度で、逆に岡山で池田氏の系統は、明治まで息づいていたと思うと、「池田氏=姫路城」と言うより、「池田氏=岡山城」と言った方が、適切な表現に思えてしまった次第です。

【岡山城の周囲を含めた見所】

上記、概要を抑えさせて頂きました岡山城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。

■ 先ずは、日本三名園・後楽園の大人散策から開始  

本ブログ別記事で、岡山・後楽園については記載していますので、詳細はそちらをご覧いただきたいのですが、旭川を鶴見橋より渡り、北側にある後楽園の正門から、大人散策をスタートさせて頂こうと思います。日本三名園の一つとされ、日本を代表する庭園の後楽園岡山城を借景にした景色は素晴らしい物と推察しています。また、後楽園の魅力は、(時には洪水で苦しめられた)豊富な水を利用した、曲線が美しい『曲水』と『手入れされた芝』の『コントラスト』とも言われており、日本三名園における『雪月花』の『月』の風情を見事に表現しているとも言われ、「あまりに大きすぎたので、一回割ってから運び、再度現地で組みなおした」と言われている「巨石」と併せて大人散策を楽しませて頂こうと思って折ります。

■ 後楽園を南門から失礼し、月見橋を越えて岡山城へ  

日本三名園の一つ・後楽園を楽しんだ後は、月見橋で旭川を再び越え、岡山城へ向かいます。廊下門(搦手口?)から入り、「築城時の石垣」等を拝見しつつ、現存する月見櫓を目指します現在の岡山城内で、唯一現存する江戸期の構造物。まずはその歴史を拝見させて頂くべきと思います。

■ 本丸西側を大人散策した後、天守を目指します  

現存する月見櫓を拝見し、その歴史に思いを馳せた後は、現在の城郭西側を、数寄方櫓跡から大納戸櫓跡へと大人散策した後、再び廊下門付近に戻り、西側の通路から天守を目指そうと思います。途中石垣もまじかで見れそうですので、じっくり拝見させて頂きつつ、天守へと参ろうと思ってます。

■ 天守を外から & 中から拝見し、本丸内を大人散策  

天守は再建で、外観復元天守との事の様ですので、外観では当時の望楼型天守を感じつつ、内部では、旭川との高低差、後楽園の遠望、縄張りの全体図と言った視点で楽しませて頂こうと計画しています。天守を外から & 中から楽しんだ後は、本丸内で櫓跡・天守の礎石と言った遺構を拝見しつつ、不明門から出て、南側の曲輪に参ろうと思います。

■ 不明門を出て、南側の曲輪で、石垣や櫓跡を楽しみ、目安橋で内堀を渡る

不明門を出た後は、一段低い場所から石垣や櫓跡を見学し、目安橋から現在の岡山城の城郭を失礼しようと思います。Google Earth を拝見する限り、それなりの高低差もあり、打込接の布積と乱積の中間的な石垣を拝見出来る様ですので、お城の縄張り構造と共に、石垣もじっくりと拝見させて頂くべきと思っています。

■ 目安橋からは、もう一つの現存する西丸西手櫓を目指します 

目安橋を渡ると、現在では岡山城の外になってしまう認識ですが、江戸期は依然岡山城内。その痕跡や史跡を探しつつ、大人散策をさせて頂こうと思って折ります。生坂藩邸移築向屋敷門・桜門跡池田光政隠居所跡と言ったいくつかの痕跡はある様ですが、目指すのは、現存するもう一つの櫓・西丸西手櫓。まだお伺いできていないので、何処まで近づけるか不明ですが、西之丸にあったと言われる現存する西丸西手櫓は、抑えておきたい大人散策スポットだと思っています…。西丸西手櫓の見学をもってして、「後楽園 & 岡山城の大人散策」は、終了を想定しております。

【最後に】

以上が、宇喜多氏⇒小早川氏⇒池田氏と続いた岡山城の歴史と概要を抑えた上で、隣接する後楽園と併せ大人散策をプランニング」させて頂いた内容になります

こちらの記事では、岡山城 & 後楽園の大人散策情報に絞って記載いたしましたが、岡山県と言えば、倉敷の美観地区もあれば、現存12天守唯一の山城備中松山城もあり、姫路城のある姫路もすぐ近く居住地の川越からは、少々距離もあるので、もしお伺いできる機会があるのであれば、併せて訪問させて頂きたいと思っているエリアです。いつになるか不明ですが、訪問できた暁には、本ブログを更新し、ご報告申し上げようと思って折ります!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

TOP Pageへ or ブログ内関連情報タグ一覧へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA