掛川城遠望と天守閣からの眺め

【基本情報:掛川城から何を連想されますか?】

今回は、静岡県掛川市にある、掛川城を取り上げさせて頂きます

いきなりですが、皆さんは、掛川城と言うと何を連想れますでしょうか? 私は、以下の感じです。

と、こんな感じでしょうか…。

私個人の見解は上記の通りですが、史実としての掛川城を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります。

(略) 朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった (略) 現在は、1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている (略)

戦国時代   
室町時代中期の文明(1469年 – 1487年)年間に大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。当初は龍頭山より北東にある子角山に築かれており、龍頭山の城は1513年に新たに築城されたものである (略)
1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主君の今川氏真が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、本拠地たる駿府館を捨てて泰朝のいる掛川城に逃げ延びた (略) 1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った (略)  

天正年間から慶長初年
その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした

江戸時代
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り、何度か城の修築も行われている。ところが、幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されたが、天守は再建されることはなかった (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/掛川城

いくつかポイントを、自身が持っている情報と併せまとめさせて頂くと、以下の様になる認識です。

  • 元々掛川城は、今川氏系のお城で、その家臣・朝比奈氏により築城された
  • 桶狭間の後、弱体化した今川氏は、武田信玄徳川家康の挟み撃ちにより、本拠地の駿府を捨て、掛川城に逃げるも、抵抗むなしく小田原へ退去した(武田信玄駿府攻略における前後の時代流れは、別記事で記載して折ります)
  • 今川・朝比奈氏の後は、徳川系の石川氏が入城した
  • その後、家康の関東移封に伴い、豊臣系の山内氏が入城し、近代城郭の体裁へと改修した(現在みられる掛川城の基本構造は、この時の一豊によるもの)
  • 関ヶ原の合戦前、掛川城を献上した山内一豊は、関ヶ原の合戦の後高知土佐一国へ移り、その後は城主が入れ替わるが、最終的には(江戸城川越城の元々の築城主である)太田道灌の子孫が入った
  • 安政の地震により天守等の建物は崩壊するが、文久年間に「二ノ丸御殿」は再建され、現在その雄姿を拝見する事が出来る現存4御殿の1つとなった

戦国期に築城され、今川系 ⇒ 徳川系 ⇒ 豊臣系 ⇒ 徳川系と持ち主が変わった、高知城と縁深く、現在では現存4御殿の1つを拝見できるお城」と理解させて頂いた次第です。

【掛川城は、現存する御殿が最大の見所】

上記、掛川城の概要を抑えさせて頂きましたが、どの様にお感じになられましたでしょうか? 皆さんの連想もあると思いますが、早速以下に、日本に現存する4つの ”御殿” (=現存4御殿)のうちの1つである、御殿を含む掛川城に付き、周辺情報も含めご紹介をいたします(ちなみに、掛川城には、近畿・東海地方を巡る6泊7日の旅の初日にお邪魔させて頂きました次第で、その全体図を別記事で記載いたしておりますので、併せてご参照下さい)。

【天守】

掛川城は、実際に現地に行ってみると、意外と高台に天守はあり、眺めの良い場所にありました。新幹線から見える掛川城は、「若干の高台」くらいのイメージだったので、それよりは、高さがあり、意外な印象を受けました。

内部は「復元天守」という事で、木造でしっかりと作られています。広さはありませんが、木造で復元されている内部は、掛川城に対する愛情の表れだと思い、途中の「山内家関する展示」・「鯱の展示」等を見つつ、急な階段も含め登って行くと、天守閣にたどり着くことが出来ます。天守閣までの道のりもさほど大変ではないので、ゆったりと登ることが出来ます(階段は急なのでお気を付け頂きたいですが…)。

ただ残念ながら、眺望は非常に良かったのですが、これといった天守としての特徴を感じることなく(不勉強だったのかも…、と思いつつ…)、最大の目的である、御殿の方に早々に移動してしまいました。

【御殿】

御殿は、派手さはありませんし広くもありませんが、「確かに立派」なものです。

殿様の御殿としては、少々小ぶりで質素な印象はありますが、実際に中にお邪魔し、内部を拝見させて頂くと、展示物も含め中々の充実度合だと思います。江戸も終わりの頃に再建されていると思うので、150年くらいたっている為なのか、良いオーラを出し続けているのだろと勝手に思ってしまいました。柱と材料もしっかりした部材で作られ、さりげない金具や板の彫刻(家紋をあしらったのもの?)等、こういった細部まで手が入っている事も良いオーラを出している理由なのだとも思った次第で、見学させて頂いている際、確かに他の現存4御殿(:川越城本丸御殿二条城二ノ丸御殿高知城本丸御殿)と比べると見劣りする事否めませんが(特に二条城二ノ丸御殿と比べてしまうと…)、「さすが、現存4御殿の1つ」と改めて思った事記憶しております。

また、お城の方もそうでしたが、御殿の方も展示物は、「丸に三つ葉柏」の家紋に代表される、山内家にかかわる物が多く、やはり「大河ドラマ(功名が辻)の影響は強いんだなー」と改めて認識しました。上記、基本情報における引用にもあります通り、この御殿が安政地震後に再建された時には、基本「山内家は関係ない」はずですが、今尚「掛川城 ≒ 山内家のお城」のイメージが強いんだと思ってしまった次第です。以下に、御殿内部の地図(パンフ)を引用しますので、参考にしつつ、内部をご見学頂くとよりこの現存御殿を楽しめるのでないかと思います。

【掛川城の北側にある竹の丸】

御殿を見学させて頂いた後は、御殿の隣にあるお茶屋さんで一服。芝の綺麗なお庭を眺めながら、お抹茶と和菓子を頂く事が出来ますので、一服するにはちょうど良い感じです。そして、お茶屋さんを出て、裏口を抜け、掛川市指定の有形文化財の ”竹の丸” へ参りました。この竹の丸は「家老や重臣の屋敷としてあてがわれていた」と現地説明看板にありました。また、Wikipediaにも記載があります。

(略) 竹の丸は江戸時代には武家屋敷のあったところだが、明治以後は豪商の松本家が購入し、屋敷の建て替えを行った。この建築が、その後に掛川市の所有となって現存し、明治時代の上流階級の邸宅と小規模な庭園がある。2009年、建物の修復工事が行われ改修後は有形文化財として一般に公開されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/掛川城

こちらも派手さはありませんが、落ち着いた感じで、風格のある門と綺麗なステンドグラスが印象的でした。特に、日本家屋に飾られたステンドグラスは、独特の雰囲気を醸し出しており、「いいセンスしている…」と思ってしまいました。広さは、さほどではありませんが、全体的な雰囲気は良く、掛川城天守・御殿と回り、その後のデザートの様な感じで、内部とお庭を拝見させて頂くスタンスでお邪魔するのが宜しいのではないかと感じた次第です。

【掛川城と高知城のつながりは?】

竹の丸を拝見させて頂いた後は、徒歩で掛川駅まで戻り、次の目的地である、浜松に電車で移動いたしました。別記事で、浜松(城)に関しても記載しておりますので、ご参照頂けますと幸いですが、ところで掛川城、最初にも記載しましたが、高知城とよく似ています理由は、上記の通り、山内家つながりらしいです(高知城に関しては、別記事で記載しています)。Wikipediaにも、以下の様にあります。

(略) (天守)復元 
3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に復元されている。また、この天守を再建するに際しては、山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせた高知城の天守を参考にしてそれに近い内部構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている復元する上で参考とした、現存の高知城天守は江戸時代末期の再建であり創建当初のものではないと指摘されるが、創建当初の天守を忠実に復元したので、一豊創建時の姿である (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/掛川城 (青字一部加筆)

つまり、以下の流れと認識しました。

「一豊・掛川城築城」⇒「一豊・高知に移封し、掛川城をまねて初代の高知城築城」⇒「高知城は、大火により燃えてしまうが、初代の天守をまねて再建(現在の高知城天守)」⇒「掛川城を現高知城をまねて復元」

知識で持っていても、実際に現地に訪れ、上記歴史の流れを踏まえつつ拝見させて頂くと、また違った思いが心の中に湧いてきて、「復元天守(=掛川城)が現存天守(=高知城)をまねる。そしてその真似した復元天守(=掛川城)の位置には、現存天守(=高知城)に真似された(正確には、現存天守がまねした高知城初代天守ですが…)元々の天守(=かつての掛川城)がたっていた」って、「歴史って興味深いなー、まだ歴史は続いているんだなー」と改めて思い、これぞ「大人散策!」と思ってしまった次第です…。

【最後に】

掛川の駅から、徒歩10分程度でアクセスでき、天守・御殿・竹の丸とゆっくり回っても、2時間程度で、すべて回れると思います。機会がありますれば、皆様も是非脚を運んでみてください。また、高知城に行かれた事がある方であれば、是非比較してみて下さい(高知城に関しては、別記事で記載しています)。「歴史は今も続いているんだなー」と、思うことが出来ると思いますので! (ちなみに、掛川城には、近畿・東海地方を巡る6泊7日の旅の初日にお邪魔させて頂きました次第で、その全体図を別記事で記載いたしておりますので、併せてご参照下さい)

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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