旧古川庭園

【はじめに:旧古河庭園の概要】

本日は、私達夫婦が庭園好きになった “きっかけ” とも言える、 「若干小ぶりに思えるが、気品高く、たくみに高低差を活かし、洋館・バラ園パートと日本庭園パートのそれぞれを楽しむ事が出来る『旧古河庭園』をご紹介致します

旧古河庭園に関する知識は、ほとんど持ち合わせておらず、正直、「古河虎之助氏により、大正時代に日本庭園も造られ、現在の形になった様で、洋館とバラが有名」程度しかありません。しかし、こちらの庭園は、初めて日本庭園の良さを感じた庭園です。

その為、旧古河庭園の概要を Wikipedia にて調べてみますと以下の様にあります。

旧古河庭園(きゅうふるかわていえん)は、東京都北区西ケ原にある都立庭園である。1919年(大正8年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。国の名勝に指定されている。東京のバラの名所として親しまれている (略)

概要
昭和31年(1956年)4月30日に都立旧古河庭園として開園。面積は30,780.86m2(2014年10月1日現在) (略)

歴史
・かつての西ケ原
(略) 西ケ原一帯の地形は、東側は崖地で海に接し、西側は「谷戸」があり海産物が豊富なため原始集落の好適地であり、付近からは貝塚などの遺跡が発見されている。中世の西ケ原は、平安後期、関東を支配した源家の勢力下で西ケ原一帯の豪族は豊島氏で、後三条天皇の頃(1070年)豊島太郎近義が城を築き「平塚城」と称した (略) 平塚神社、城官寺(平塚神社の別当寺)、蝉坂は現存しており、付近の地形からも平塚城のかつての光景を想像することが出来る (略)
文明9年(1477年)太田道灌が長尾景春の大将として、駒込妙義神社に陣を置き平塚城の豊島泰明(泰経の弟)を攻めた時、石神井城から迎撃して来た豊島泰経との決戦となった。妙義神社は本郷台地の北側にあり、谷戸川を挟んで真正面に古河邸があることから、両軍の攻防戦がこの庭園あたりで繰り広げられた模様である。合戦は豊島勢の石神井城と平塚城ともに陥落し、翌10年(1478年)400年も支配続けた豊島氏は壊滅し、領土は太田道灌の手に移った (略)

・陸奥宗光の邸  
(略) 明治初年頃、西ケ原に紀州藩士・伊達宗広の六男の政治家・陸奥宗光が邸宅を建てた、その宗光と親交のあった渋沢栄一も明治3年(1870年)頃、飛鳥山に近い西ケ原二丁目に邸宅を構えた (略)

・古河家の本邸
大正3年(1914年)頃、当時は財閥は競って豪邸を構えた。虎之助も古河家の本邸を建てることとなる (略) 建物の設計は当時、評判だった建築家ジョサイア・コンドルに委託する (略) 大正6年(1917年)5月に古河邸は竣工し、京都の庭匠植治こと小川治兵衛に依頼して庭園の作庭にかかり、同年秋頃に入居した。庭園は引き続き手を加えられ、大正8年(1919年)完成、本邸工事着手から4年を超えていた。コンドルの設計による本邸植治の作庭による庭園は、明治大正期建築の代表的傑作であり、今日においても当時のままに保存されている貴重な文化遺産である (略)

・都市公園に
太平洋戦争が終息し、戦勝国である連合軍将兵が進駐を始め、占領政策を実行し始めた (略) 昭和21年(1946年)3月、進駐軍の接収家屋になり、昭和27年(1952年)4月接収解除になるまで、英国大使館付武官独身宿舎となった (略)
昭和27年(1952年)9月、北区長・高木惣六と地元少年愛護婦人会などによる「開放促進期成会」が結成され、緑豊かな旧古河家の1万坪を都市公園として開放するよう要望が出された (略) 昭和30年(1955年)4月20日、大蔵省は東京都に貸付けることに決定し、東京都と関東財務局の間で使用貸借契約を締結した (略)
昭和57年(1982年)に東京都名勝の指定を受けると、それから平成元年(1989年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元された。平成18年(2006年)には、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定された。

特徴
武蔵野台地の斜面を巧みに利用した造りとなっており、台地上に洋館を、斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置されている。

・洋館(旧古河邸)
大正6年(1917年)5月竣工。延べ414坪。地上2階・地下1階。外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされる (略)
洋館内部は1日3回、時間を決めて行われているガイドツアーに参加すると見学可能。本館部分の1階から2階までを解説付きで見学できる。(所要時間1時間、見学料800円入園料別)自由に内部の見学ができないので注意が必要 (略)

・洋風庭園(バラ園)
洋館南側には洋風庭園がある。全体的には、斜面に石の手すり、石段、水盤などが配され、バラ園のテラスが階段状に連なっており、立体的なイタリア式庭園となっているが、テラス内部は平面的で幾何学的に構成されるフランス式庭園の技法があわせて用いられている (略)

・日本庭園
日本庭園は洋館、洋式庭園の完成に続いて、大正8年(1919年)に完成。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作。斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園である。シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどの鬱蒼と茂った樹林のなか、「心」の字を崩した形の心字池を中心に、急勾配を利用した大滝、枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが配されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/旧古河庭園

この地域で貝塚も発見されていると言う事は、時代を遡ると「恐らく縄文海進時には目の前まで海がせっまた場所」で、ここに「集落」が出来、その後、江戸城・川越城を築城した太田道灌も攻めた「平塚城」が建てられ、大正期になって「古川家の本邸」が作られたが、太平洋戦争を挟んで所有権が移り、戦後に「都立旧古河庭園」として開園したと言う歴史を持った庭園』である事、理解させて頂いた次第です。同時に、「起伏にとんだ地形に作られた邸宅と庭園は、その地形故、邸宅・庭園としては素晴らしいが、大きな公共施設(広いグラウンドを必要とする学校や軍の施設・官庁等)等には不向きだった」とも思え、この為に「『大正時代初期の形式をよく留める庭園』=『上段=洋館・中段=バラ園・下段=日本庭園」が残り、「国の名勝に指定された」のでないかと思った次第です。

1万坪弱と、一般人にとっては、広大な広さですが、他の東京にある大名庭園(小石川後楽園:2.1万坪、浜離宮:7.6万坪(大名庭園と言うより「将軍庭園」と言うべきかも言しれませんが…)、六義園:2.7万坪)と比べると、少々小ぶりな印象です唯一近いのが、芝離宮の1.3万坪になると思いますが、こちらも好きな庭園の1つです。それぞれ行かれた事がある方であれば、イメージできると思いますが、広大な浜離宮は、もはや庭園と言うより公園ですし、小石川後楽園六義園は、大名の威光を感じます。勿論、それはそれで素晴らしく見ごたえがありますが、同時に、こちら旧古河庭園は、その歩んできた歴史の違いからか、上記の大名庭園とまた違った良さがあるとも思っている次第です。

(それぞれ本ブログ別記事で紹介しておりますし、上記以外の庭園も記載しておりますので、最下部の一覧表より、お気に入りの庭園を探してみてください!(こちらのリンクからもPDFファイルの一覧に飛べますが…))

【旧古河庭園の地形的魅力と楽しむポイント】

東京にある他の有名どころの大名庭園と比較した際の『違った良さ』」に関してですが、この旧古河庭園は、特に日本庭園の部分だけを見てみると、小ぶりながらも、何か違った印象があります。言い換えますと、この旧古河庭園(日本庭園の部分)が小さいにも関わらず、魅力的に見えるのは、ずばり高低差だと思っているという事です(椿山荘も同様ですが・・・)。

これまで、様々な季節にもう何回行ったか分からないくらいお邪魔していますが、「入口 → 洋館(上段) → バラ園(中段) → 日本庭園(下段)」が、いつものコースで、そのコースを進むと高低差を肌で感じます“物理的” に申し上げると「洋館とバラ園は、セットのような感じ」で見えますが、「下段にある日本庭園は、上~中段(≒ 洋館付近)から見る事は出来ない(正確には “見えにくい”)」と言った意味になるのですが、今少し “感覚的” な記載をしますと『「それぞれが独立している様で繋がっていて」&「繋がっている様で独立している」様に感じられ、「洋館(上段) ・ バラ園(中段) ・ 日本庭園(下段)のそれぞれの個性」を楽しみつつも、同時にそれぞれの「調和」を楽しむ事が出来る庭園』といった感じで、「それぞれの季節に、それぞれの段の特色を楽しみつつ、他の段に行く際にはまた違ったテイストが強調される様な感覚を持つ事が出来る」と言った感じです。つまり、『この旧古河庭園における高低差が、「洋館(上段) ⇔ バラ園(中段) ⇔ 日本庭園(下段)」を進む中で、それぞれのアクセントを強めている』と思っている次第です。

そんな旧古河庭園において、個人的には、特に日本庭園がお気に入りなのですが、上記の通り、洋館付近から日本庭園は、高低差がある上、木が生い茂っており、非常に見にくく、こういったこともあってか、日本庭園に出た際、解放感と共に感激するんだ」と勝手に思っています。また日本庭園内においては、特に「石灯籠と池の図」が好きで、この石灯籠が「庭園全体の気品を表している」様に感じており、こちらの石灯篭の品格を感じて後、他の庭園でも石灯籠に目がいくに様になりました。言い換えると、兼六園を紹介する写真には「いつも」と言って良いくらいの確率で、「独特の形をした石灯籠(徽軫灯籠)と池の構図」が使われますが、あの感覚と同じ感覚で、「旧古河庭園と聞くと『日本庭園の石灯籠と池の図』が脳裏に浮かぶ」と言った具合です。

【最後に】

以上が、「若干小ぶりに思えるが、気品高く、たくみに高低差を活かし、洋館・バラ園パートと日本庭園パートのそれぞれを楽しむ事が出来る、旧古河庭園をご紹介申し上げた内容になります。

大人になってくると、人それぞれの見方が出てくると思います。私達夫婦のケースは、上記の感じでしたが、皆様にもそれぞれ好みがあると思います。「その好みの発端は何だったんだろう?」など、考ええてみるも楽しい時間なのではないかと思いますが、いかがでしょうか? 皆様も機会があれば、この若干小ぶりに思えますが、気品高く、たくみに高低差を活かし、洋館・バラ園パートと日本庭園パートのそれぞれを楽しむ事が出来る、旧古河庭園に訪れてみて、散策がてら、そんな事を考えてみてはいかがでしょうか?

尚本ブログでは、東京旧古河庭園東京椿山荘神戸相楽園京都無鄰菴高松栗林公園熊本水前寺成就園山梨恵林寺庭園甲府常磐ホテルの庭園平泉毛越寺庭園名古屋徳川園二条城二の丸庭園川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園熱海の起雲閣旧芝離宮恩賜庭園小石川後楽園清澄庭園浜離宮六義園新宿御苑日本三名園金沢兼六園岡山後楽園偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。

(高低差の地図に関しては、地理院のWebサイトより、自身で高低差を設定し作成)

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