【はじめに:親近感はあるが、良くわかっていない甲州街道】
今回は、「『甲州街道』を取り上げさせて頂き、『甲州街道ってどんな道なのか?』を考えてみたい」と思います。
甲州街道は、「現在の国道20号線」に「ほぼ近しいルートを通る道」で、「江戸の日本橋」から(実質的には、現在の皇居半蔵門から)、「信州・長野の下諏訪」まで整備された街道です。我が故郷、山梨県の北杜市を通る道でもあり、親近感を覚える道ですが、旧甲州街道と現在の20号線は、全て同じルートを通ている訳でもないですし、お恥ずかしい事に、宿場数や歴史的背景もよくわかっておりません…。つまり、親近感がありながらも、よくわかっていないこの「甲州街道」を「一つの言葉」としてとらえ、少し考察を加えさせて頂こうと思った次第です。すなわち、「『甲州街道』を取り上げさせて頂き、『甲州街道ってどんな道なのか?』を考えてみたい」と思います。








【甲州街道の概要と宿場数に関する疑問】
上記の通り、よくわかっていない部分もあるので、改めて Wikipedia で、”甲州街道” と調べてみると、以下の様にあります。
”甲州街道(こうしゅうかいどう)は、甲斐国(山梨県)へつながる道。江戸幕府によって整備された五街道のひとつ。甲州街道は、古甲州道をもとにして、江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ” (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/甲州街道
つまり、「甲州街道は、古甲州道をベースに、江戸幕府によって、江戸~下諏訪まで 44次の宿場が置かれ整備された『五街道の末っ子にあたる街道』」と言った理解をした次第です。
甲州街道において、江戸から下諏訪まで距離にして 200㎞ 強。東海道・中山道は、500㎞程度の街道で、東海道の宿場町は「53」で、中山道は「69」の認識です。比較するために、もう少し計算してみますと、仮に東海道と中山道を 500㎞(中山道の方が、数十㎞長いとは思いますが、計算を簡単にするために…)、甲州街道を 200㎞として、それぞれの宿場数で出した、「宿場間の平均距離」を出すと、「東海道:9.43㎞」、「中山道:7.81㎞」、そして「甲州街道:4.54㎞」となります。つまり「甲州街道における宿場間の平均の距離」は、「東海道の半分以下」です。
東海道は、箱根(800m位)や鈴鹿(400m位)と言った峠はある物の、基本平坦で「海の街道」と認識書ております。一方、中山道は、1200m位の碓氷峠や、1600mほどになる和田峠をはじめ、鳥居峠や馬籠峠といった山間部を通る「山の街道」と認識しております。
少し言い換えると、大河を渡る必要がある「東海道」は、増水で足止めされる事もあれば、あえて「熱田-桑名間は海に逃げる」といった感じで「水との闘い」が必要な街道。一方、「中山道」が対応しなければならない河川は、まだ大河に育つ前の川なので、増水による足止めも比較的少なかった様で、基本「山(標高)との闘い」が必要な街道と言った認識をしている次第です。そんな状況下の為、「中山道の冬季は、より悪条件」になるでしょうし、より体力を消耗したり、夜の山中は海側に比べ、危険もあると思うので、そう考えると、「中山道の方が、東海道よりも宿場間の距離が短くなるのも道理」だと思えた感じです。








しかし、「その中山道よりも、甲州街道の宿場間の平均距離は短い…」ので、どのような過酷な道だったのでしょうか? そう思い調べてみますと…、目立った峠は、中央自動車道で、渋滞のトンネルとして、よく名前の出る「小仏峠」と「笹子峠」ぐらい(東海道・中山道も含め、こちらのサイトを参考にさせて頂きました。中々面白いサイトです!:https://gcy.jp/kkd/koshu.html)。正直、「???」な感じで、目立った大きな川がある訳でもなく、「なぜ?」と言った強い疑問を持つに至ってしまった次第です…。

(https://gcy.jp/kkd/より引用し、自身で加工)
【甲州街道は、合宿で45宿32次 】
そんな「強い疑問」を持つに至ってしまった状況下、学生時代に地元で聞いた言葉が、よみがえってきました。その思い浮かんだ言葉は、「甲州街道は、45宿32次」。早速、”45宿32次・甲州街道”、と検索すると…、ありました…。そこには、以下の様にありました。
(略) 甲州街道は二宿以上で交代務めをする合宿(あいしゅく)がある。例えば下高井戸と上高井戸間は1.6km、旅籠も各々2~3軒しかない。そのため宿駅の業務を一宿だけでは果たせないので、一カ月のうち半分を上と下で問屋業務を務めた。また小原や与瀬のように上り下りの片継もある。そのため甲州街道は一般には45宿32次といわれる (略)




つまり、「甲州街道には、45の宿場あっても、1つの宿場におけるキャパが限定的である為、それぞれの宿場間で、宿場業務を調整しつつ、うまい事、宿場としての機能を保管(=合宿 / 片継)していた為、この甲州街道を通る人たちからの視点で見れば、宿(次)の数は、“45” ではなく “32” が、実質的な宿(次)の数だった」と言う事の様です。また、Wikipedia では、「44宿」との記載ですが、内藤新宿を ”宿” として考えると、45宿と言う事頼しいです(近くの新宿追分や、新宿御苑があります辺りの認識)。





100%ではないものの、かなり納得です…。「200㎞ ÷ 32次」 でも、その間距離は「6.25㎞」 なので、まだ「東海道:9.43㎞」、「中山道:7.81㎞」と比べても、差はありますが、そこは、「規模の経済」と言う事で、東海道や中山道と比べ街道を通る人が少なければ、商売の効率も悪くなるので仕方ないかも…」といった理解に至った次第です。
【甲州街道の意味・位置づけ 】
上記の感じで、少し理解が進んだ気がしたので、改めて、Wikipedia を読み進めると、以下の様にあります。
(略) 近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという(その為、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねられている) (略) 八王子は徳川家康が武田氏の遺臣を召抱えて組織した八王子千人同心の本拠であった (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/甲州街道
有名な話かもしれませんが、「甲州街道は、江戸城からの脱出経路」との事。確かに、江戸城の西(裏?)側の「半蔵門に甲州街道は直結」しています。そしてこの半蔵門は、「堀で区切られることなく、地続きで、一般道とお城が直結」しているので、すごく不思議な感じが以前からしていました。しかし『江戸城が城郭として機能していた当時、この「甲州街道に直結した半蔵門」は、脱出用なので、最後まで、守り切る必要がある』という事なのであれば、こちらも納得した次第です…。
また、半蔵門の先に続く甲州街道を、実際に歩いてみると、確かに尾根道(両脇が低い地形になっており、標高の一番高い所を通されている道)で、守る江戸幕府側の視点で見ると、「いざと言う時、戦いや警備も有利に進められそうな地形」でもあるとも思っていました。更に、その先の新宿・大久保辺には、鉄砲の百人隊が置かれ、八王子には、甲斐武田家の旧家臣団を家康が召し抱えて組織した「”八王子千人同心” なる組織」もあったとの事。こういった事かから考えると、「確かに甲州街道は、”脱出経路” だったのかもしれない…」と思ってしまった次第です(八王子千人同心の人たちが日光へ日の番として通って行った、埼玉の川越・日高等を通る日光脇街道の杉並木も別記事で紹介しています)。




【最後に】
以上が、「『甲州街道』を取り上げさせて頂き、『甲州街道ってどんな道なのか?』を考えてみた」内容になります。
山梨県北杜市出身の私にとって、五街道の末っ子である国道・20号線(≒甲州街道)は、中央自動車道・中央本線とともに、故郷に帰るメインストリートです。しかし、上記の通り、その道の宿場数等の基本情報はおろか、江戸城からの脱出用としての道の役割や意図など、この年までしっかりと認識していなかった事、改めて思い知りました。
こちらのページ、”http://koshu.toma-m.com/about.html”、で勉強させて頂きましたが、甲州街道は、『「街道」でなく、「海道」と最初は呼ばれていた事』や『富士山や身延山(日蓮宗の総本山久遠寺がある)に続く、宗教の道』である事を勉強・再認識させて頂きましたので、改めて、上記の様な切り口を、関連情報と併せて考えてみたいと思った次第です。皆さまにも、身近な道や、思い入れのある道があると思いますが、改めて「その道の事」、少しだけでも、情報収集されてみると、面白いのでないかと思った次第です。私も、「街道」と「海道」は面白い切り口だと思ったので、また、言葉遊びをしてみたいと思います(⇒ 後日、『「街道」と「海道」に関する考察』・『日蓮宗の総本山久遠寺の大人散策情報』に関しては、別記事で紹介させて頂きましたので宜しければご参照ください!)。