【はじめに:「風林火山」とは?】
🔗 この記事は、「孫子の教え」に考察を加えた記事の1つです
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本日は、「『孫子』の中に出てくる言葉で、武田信玄の軍旗に掛かれていた事でも有名な『風林火山』と言う言葉に付き、その意味・概要・関連情報を抑え考察」を加えさせて頂こうと思います(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)。
📚本記事で得られる情報📚
✅「風林火山」の意味・メッセージ・出典・軍旗と言った基本情報の理解
✅「風林火山の “続き”」を抑え、「何故、信玄は ”風林火山” 部分のみの記載としたか?」を考察
いきなりですが、「風林火山」って聞いた事ありますか? 本ブログの読者であれば、間違いなく、『武田信玄が戦の際、「掲げた軍旗」に「記載されていた言葉」』である事、ご存じであると思います。では、『この「風林火山」の「出典」は何処から?』だと思いますか? こちらも、ほとんどの方がご存じの通り、”孫子” からだと言われていますよね…。という事で更に、続けて質問を3つ… 。
- 実際の軍旗には「どう書かれていたか」ご存じですか?
- 「風林火山の続き」をご存じですか?
- 武田信玄は、「なぜこの旗印を使ったのか」ご存じですか?
恐らく、①に関しては 70% くらいの方が、②に関しては 30% くらいの方が、ご存じでないかと推測している次第です…。故に本日は、「①信玄の軍旗には、どう書かれていたか?」・「②風林火山の続きは?」と言った内容を抑えつつ、「③なぜ武田信玄は、この旗印を使ったのか?」の勝手な考察をしてみたいと思います。すなわち、「『孫子』の中に出てくる言葉で、武田信玄の軍旗に掛かれていた事でも有名な『風林火山』と言う言葉に付き、その意味・概要・関連情報を抑え考察」させて頂こうと思います。



参考 : 孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。
『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)
「2500年も前の兵法書」で、「古典の中の古典」と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解でき、自身の考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、と言った認識を個人的に持っている次第です。
また、本ブログ別記事では、他の「孫子の教え」につき、「サマリ的に一覧でも記載」しておりますし、「それぞれの “教え” を一歩深堀して記載」もしておりますので、宜しければ、是非ご参照ください!
①「兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり」、 ②「風林火山」、 ③「迂直の計」、 ④「百戦百勝は善の善なるものにあらず」、 ⑤「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」、 ⑥「人を致して人に致されず」、 ⑦「囲師には必ずかく」 ⑧「正を以って合し、奇を以って勝つ」、 ⑨「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」、 ⑩「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」、 ⑪「善く戦う者は、これを勢に求めて、人に責めず」、 ⑫「呉越同舟」、 ⑬「軍を縻す」、 ⑭「兵を形すの極は無形に至る」、 ⑮「死地に陥れて然る後に生く」、 ⑯「君命に受けざる所あり」、 ⑰「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」
【孫子の旗:「風林火山」の軍旗とは? そしてその “続き” は?】
早速本題に入らせて頂きますが、まず「上記①、②の回答」ですが、信頼あるWikipedia の力を借りますと以下の様にあります。

(略) 「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動」(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し、郷を掠めて衆を分かち、地を廓めて利を分かち、権を懸けて動く) (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/風林火山
「信玄の軍旗」の写真も載っており、実際にどう書かれていたか、良くわかります。つまり、「①の答え」は、『「風林火山」とは書かれていない…』と言う事です。また、その内容に注目しますと、写真の通り、上記全文中の最初の部分、「”故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山”、のみ」であったという事です…。
別の見方をするのであれば、「”故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山” をいつの時代からか分かりませんが、”風林火山” と言うようになった」という事の様です(「呉越同舟」や「薩長同盟」みたいですね…)。一般的には、「風林火山」と言う短縮化されたワードが、認知されてきたのは、現代になって歴史小説で登場してきてからしいですが…、「”うまい言い方” をしたものだ」と改めて感心してしまいますし、短縮化するなんて「日本人らしい…」とも思ってしまった次第です…。「”其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く”の旗」なんて言われても、困りますもんね…(「孫子の旗」なんて言われていたらしいですが…)。ちなみに、同じWikipedia の「風林火山」の項目内には、以下の様にもあります。
(略) この文句の初出は武田晴信(信玄)が快川紹喜に書かせたという軍旗に由来する (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/風林火山
ちなみに、「快川紹喜」は、本ブログの別記事でも紹介しました、武田家の菩提寺「恵林寺」で、「武田家滅亡」の折に、「織田軍による焼き討ち」が行われた際、「心頭滅却せば、火も自づと涼し…(=しんとうめっきゃく せば ひも おのずから すずし…)」の辞世を残したと言われる「僧侶」です。




次に、「②の回答」は、上記の通り、「”故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山”、に続き、”難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動”、が続いていた」と言う事です。折角ここまで触れたので、③の勝手な考察に入る前に、”難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動”、の部分の、”私なり”、の理解を記載しますと、以下の様になります。
- 難知如陰(知りがたきこと陰の如く):情報は秘匿(操作)し、自身の意図は知られないように
- 動如雷霆(動くこと雷霆(らいてい)の如し):動く時には拙速に動く
- 掠郷分衆(郷を掠めて衆を分かち):部隊を分けて進軍するようにし、自身の望む決戦地を秘匿
- 廓地分利(地を廓めて利を分かち):占領地の拡大にあたっては、メリハリをつけて守るように
- 懸權而動(権を懸けて動く):臨機応変に動く必要がある
たまに、「風林火山除雷(ふうりんかざんいんらい)」とか、「風林火陰山雷 (ふうりんかいんざんらい)」なんて言葉も耳にすることがありますが、「元々の孫子の教え」をしっかり理解するなら「『故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山』&『難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動』」という事の様です…。
勝手な妄想ですが、もし「風林火山」の続きも、同じ様に短縮するなら、「陰雷分地権(いん らい ぶん ち けん)」?、とかになるんでしょうか? 「風林火山陰雷分地権(ふう りん か ざん いん らい ぶん ち けん)」???、なかんかここまで長いと、もはや何を言いたいのか分からない気にもなりますし、後半部分の「陰雷分地権」って、前半部分と毛色の違う感じしませんか? 「前半部分は、戦その物における、実践的な動き」を想定した哲学が書かれている感じで、「後半(旗印になっていない部分)は、実際の戦の外縁部の戦い(情報戦)を踏まえた哲学」の様な感じがするには、私だけでしょうか?







【勝手な考察:武田信玄が「風林火山」の部分のみを抜粋した理由は?(=意味は? 何故、前半だけ?)】
上記、「①信玄の軍旗には、どう書かれていたか?」・「②風林火山の続きは?」に付き記載しましたが、ここでもう一つ情報として記載したいのは、『この(短縮化バージョンですが…)”風林火山” の一説が出てくる「孫子の中におけるパート」』に関してです。ご存じの方も多いと思いますが、「軍争篇」と言われるパートで、この一説・「風林火山」(の教え)は、登場します。
この「軍争篇」の一番最初に出てくるメッセージは、”迂直の計”(別記事で紹介しています)です。簡単に言ってしまうと、「遠回りを近道に変える事」と言ったとこでしょうか…。人力での移動がメイン(多少「馬 / 牛」もあったでしょうが…)の時代に戦をする時、行軍の期間や決戦地の特徴、有利な場所の確保が、非常に重要であった事は、間違えないと思います。故に、
迂直の計とは、(よく言われる「急がば回れ…」の意味と言うより)「情報を秘匿・操作して、決戦地を知られず(考えさせて)、相手を翻弄し、移動させ、疲れさせて、知らず知らずのうちに、『自軍が想定し、最短距離で先着し、布陣した有利な決戦地』に相手を呼び込む為、策を巡らせる必要がある」
と言う事を言いたいのではないかと、個人的には理解しております。ちなみにですが、この ”迂直の計” は、正に「風林火山」の一説が出てくるパート(軍争篇)の最後にも記載されている内容なのです。別の言い方をすれば「『風林火山』の教えが出てくるパート(軍争篇)で、最も孫子が言いたかったことは『”風林火山” ではなく、 “迂直の計“』だった」という事になるのでないかと推察している次第です…。

これを踏まえて、改めて「③なぜ武田信玄は、この旗印を使ったのか?」を考えてみますと、以下のケースがそれぞれ(誠に勝手ながら)想像できるのでないかと思います。
- 孫子の一番言いたいことは「迂直の計」であったが、武田信玄は、その中の一部で、「より実践的な哲学が記載された部分」の ”風林火山” をピックアップして旗印にした
- 後半部分(陰雷分地権)は、「表立ってアピールするものではない」内容で、「長すぎると何がポリシーなのかブレる」こともあり、あえて書かなかった
- 上記を踏まえると、最初のパートだけ記載すべきだし、「レイアウト的にも全文を軍旗に記載する事は難しかった」ので、前半部分の ”風林火山” のパートだけ記載した

と言う事だと勝手な考察(妄想?)を、いくつかしてしまった次第です…。
中国の様な広大な地域で、上記の様な策を巡らせる事は、重要ですが、「日本の広さで、且つ80%が山間と言われる国土で、戦の地をそうそう変える事は出来るはずもな無い」と思われるので、「武田信玄がフォーカスしたのは、より戦その物に焦点を置いた部分の ”風林火山” のパートだった」のでないかと勝手な考察(妄想?)をさせて頂いた次第です。同時に、『「三増峠の戦い」や「三方ヶ原の戦い方」から見て「あえてその考え方を秘匿すべく記載しなかった」』といった考えも、巡らせて頂いた次第でもあります…。
加えて、更に別の考察(妄想?)として、孫子の意図は無視することになるかもしれませんが、「軍争篇全体のメッセージ」は無視して ”風林火山” だけを考えてみると、「メリハリをつけて動くことが重要なんだ!」とも思えてくるので、これはこれで意味のある哲学だと思える部分もあり、「軍争篇全体のメッセージを分かった上で、”あえて” 記載を避けた」とも取らえても良いのでないかとも思ってしまいました…。
武田神社(躑躅ヶ崎館)と恵林寺のMap
【最後に】
以上が、「『孫子』の中に出てくる言葉で、武田信玄の軍旗に掛かれていた事でも有名な『風林火山』と言う言葉に付き、その意味・概要・関連情報を抑え考察」を加えさせて頂いた内容になります。
上記の様な、勝手な考察(妄想?)をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 個人的には、少々触れました迂直の計(別記事で紹介中)は、別途考えるとしても、「なぜ “風林火山” のパートだけを持ってきたか?」だけを考えてみるだけで、中々面白い内容だと思ってしまいましたが…。「これが正解」と中々言えない部分もあるので、考えても無駄かもしれませんが、「当時の人の思い」を考えてみるのも、大人の楽しみ方の1つだと思っている次第ですので、皆様もお時間があれば、武田信玄の心内を考えてみてはいかがでしょうか?
また本ブログの別記事では、武田信玄の関連記事として、『武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島合戦」についての考察』、『武田信玄が作ったと言われる「信玄棒道」の大人散策情報』、『信玄の家臣団として有名な『武田24将』に関する考察』、『甲斐武田家の魔法の言葉『御旗盾無』に関する考察』等についても別記事で紹介していますし、武田信玄の本拠地であった「甲府とその周辺の大人散策情報を温泉宿の情報も含め紹介」している上、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載しておりますので、これらの記事も、併せてご参照頂けますと幸いです!
尚、本ブログ別記事では、他の「孫子の教え」につき、「サマリ的に一覧でも記載」しておりますし、「それぞれの “教え” を一歩深堀して記載」もしておりますので、宜しければ、是非ご参照ください!
①「兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり」
②「風林火山」
③「迂直の計」
④「百戦百勝は善の善なるものにあらず」
⑤「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」
⑥「人を致して人に致されず」
⑦「囲師には必ずかく」
⑧「正を以って合し、奇を以って勝つ」
⑨「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」
⑩「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」
⑪「善く戦う者は、これを勢に求めて、人に責めず」
⑫「呉越同舟」
⑬「軍を縻す」
⑭「兵を形すの極は無形に至る」
⑮「死地に陥れて然る後に生く」
⑯「君命に受けざる所あり」
⑰「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」