宇佐神宮

【はじめに】

こちらのページでは、源氏の氏神として有名な「八幡様」の歴史と概要を抑えつつ、三大八幡(四大八幡?)のそれそれを紹介させて頂きます

皆様のお住いの地域に、八幡様(八幡神社/八幡宮)は、いらっしゃいますか? 恐らく多くの方が、近くにある八幡様や、有名処の八幡神社を思い浮かべたのでないかと思います。私の場合は、故郷の山梨・甲斐武田家発祥地の地・韮崎にある「武田八幡神社」や、現在の居住地・川越にある「川越八幡神社」をが真っ先に思い浮かびます。しかし同時に、「そー言えば、あそこの神社も八幡様だった…」と1つや2つでなく、多くの八幡様が思い浮かんできました。恐らく「皆様も近しい状況かもしれない」と推測でき、日本中に多くの八幡様がいらっしゃり、八幡信仰が日本の各地に浸透しているのでないかと思った次第です。

こちらのページでは、そんな八幡様の概要や歴史を抑えつつ、日本における有名処の八幡様(三大八幡 or 四大八幡)のご紹介をさせて頂きます

【八幡信仰とは?】

まずは、八幡信仰の概要を抑えるべく、「八幡信仰」に付き情報を整理いたします。Wikipediaの「八幡神」の項目には、以下の様にあります。少々長い引用ですので、下記(引用の後)にポイントを列挙しています

八幡神(やはたのかみ/はちまんしん、旧字体: 八幡神󠄀)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。  

概要
現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)大神比義命(おおがのひぎのみこと)によって、宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている  (略) 

神仏習合
東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜尼、大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)らが、上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた (略)  
平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」 (略)  

武家の守護神  
清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰された。(略) 清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った。  
平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があったとされ、そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。 (略)  

鎌倉時代以降  
(略) 源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた  (略)  

全国の八幡宮・八幡神社  
八幡神を祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。  

総本社  
八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。欽明天皇の時代(539年 – 571年)に大神比義命(おおがのひぎのみこと)によって祀られたと伝えられる (略)  

三大八幡
俗に三大八幡と呼ばれる神社は、以下の4社のうち「宇佐・石清水」に「筥崎・鶴岡」のいずれかを合わせた3社とされている。  

  • 宇佐神宮(大分県宇佐市) – 官幣大社、名神大社、勅祭社  
  • 石清水八幡宮(京都府八幡市) – 官幣大社、二十二社、勅祭社  
  • 筥崎宮(福岡県福岡市東区) – 官幣大社、名神大社  
  • 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) – 国幣中社(鎌倉源氏の氏社である)  

幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社は「宇佐・石清水・筥崎」としているほか、社格でもその3社が官幣大社で並んでいる(鶴岡は国幣中社)。一方、近年発行された書籍の中では、東京に近く有名な鶴岡八幡宮を採用し、「宇佐・石清水・鶴岡」が八幡神社の代表例とされることがある  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/八幡神

少々長い引用になってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 応神天皇(=誉田別命)を主神として、比売神(=特定の名称ではなく主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指す言葉で、ここでは「アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神」)、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている
  • 奈良時代の終り頃、朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った(後の本地垂迹においては阿弥陀如来)
  • 平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請
  • 源頼義は、河内国の壺井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った
  • 平将門は、八幡大菩薩によって「新皇」(「天照大神とは異なる世界を創る大きな役割」と言う意味があるらしい)の地位を保証されたと自称した事で、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由の一つにもなったと考えられている
  • 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、11世紀後半に勧請された鶴岡若宮を現在の地に移したが、社殿の焼損のあった為、改めて勧請し鶴岡八幡宮とした
  • 足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、熱心に八幡信仰を押し進めた
  • 八幡神を祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、ある研究では、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)とも言われる
  • 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)
  • 三大八幡と呼ばれる神社は、「宇佐神宮(大分県宇佐市) +石清水八幡宮(京都府八幡市)」+「『筥崎宮(福岡県福岡市東区)』 or 『鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)』

上記、10のポイントを上げさせて頂きましたが、この10のポイントを見てみると、八幡信仰の概要を抑える事が出来たのではないかと思った次第です。つまり「八幡信仰は、応神天皇を主祭神とする、奈良時代から続く信仰で、守護神として、源義家、平将門、源頼朝、足利将軍家を始め、多くの武家の崇拝を集めた事で、日本各地に広がり、現在では、宇佐神宮を総本社として、「宇佐神宮(大分県宇佐市) +石清水八幡宮(京都府八幡市)」+「『筥崎宮(福岡県福岡市東区)』 or 『鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)』で、三大八幡(四大八幡?)と呼ばれている信仰」といった理解をさせて頂いた次第です。

【三大八幡? or 四大八幡?】

上記、「三大八幡」か「四大八幡」か微妙な部分はありますが、この4つの八幡様が、日本を代表する八幡様だと思いますので、以下にそれぞれの概要をまとめさせて頂きます。

■宇佐神宮(宇佐八幡宮)(大分県宇佐市)

まずは、八幡様の総本社・宇佐神宮から見ていきます。Wikipediaの「宇佐神宮」の項目には、以下の様にあります。

宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つ。  

概要  
大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。境内は国の史跡に指定され、本殿3棟は国宝に指定されている八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。 

祭神
主祭神は以下の3柱。  

  • 一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) – 誉田別尊(応神天皇)とする。  
  • 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) – 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする。  
  • 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) – 別名として息長足姫命とも。   

主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。また下宮でも主祭神は同じであるが、一之神殿の相殿には大神祖神社として大神比義命(おおがのひぎのみこと)が祀られる (略)   
社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。  (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/宇佐神宮

さすが、八幡様の総本社と言うだけの事はあり、式内社で、豊前国一宮で、官幣大社で、別表神社と言う事らしいです「主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神(宗像三女神)」とあり、もう一人の祭神は、神宮皇后なので「かかあ天下であったと言う事かな?」なんて想像してしまいました。まだお伺いした事は無いのですが、応神天皇が「護国霊験の大菩薩」と託宣した伝わると八幡様の源の神社である宇佐八幡様には、いつか必ず参らせて頂きたと思っており、その時は、「二拝四拍手一拝」の作法を忘れずご挨拶させて頂こうと思います。

■石清水八幡宮(京都府八幡市)

2つ目の三大八幡は、京都にある石清水八幡宮。Wikipediaの「石清水八幡宮」の項目には、以下の様にあります。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市八幡高坊にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。  

宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。  

概要  
平安時代前期の貞観年間に大安寺僧の行教が宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請した神社で、京都の南南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座された。創建年については『元享釋書』や『石清水遷座縁起』などでは貞観元年(859年)、『類聚国史』などでは貞観2年(860年)としている。行教は貞観元年に宇佐八幡宮で八幡大菩薩のお告げを受け、それを朝廷に報告し、清和天皇の命を受けて貞観2年に八幡造りの社殿が造営されたともいわれる。 
都の近くに創建されたことから朝廷の尊信を受けて、賀茂神社、松尾大社、春日大社などと同等の待遇を受けるようになった。さらに平安末期には白河天皇の殊遇を受け、伊勢神宮とともに二所の宗廟として崇敬されるようになった。  

また、平安京においては北東側の鬼門を守護する延暦寺に対し、南西側の裏鬼門を守護する神社として位置づけられた。八幡神を氏神とする源氏の崇敬を受け、特に源義家は当社で7歳の時に元服し「八幡太郎義家」を名乗った。そのため武神として信仰され、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された (略)  

祭神  
祭神は次の3柱。3神は「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称される。  

  • 中御前:誉田別命 (ほんだわけのみこと)第15代応神天皇の本名。  
  • 西御前:比咩大神 (ひめおおかみ)宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の3柱を指す。  
  • 東御前:息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと)神功皇后の本名   (略)  
https://ja.wikipedia.org/wiki/石清水八幡宮

清和天皇の名を受け、社殿が作られ、源義家が元服し「八幡太郎義家」を名乗り、平安京の南西側の裏鬼門を守護した神社」と理解しました。清和源氏系の武家とのつながりを象徴する神社だと思い、鶴岡八幡宮の親方的神社であると思った次第で、源氏の守護神は八幡様」の始まりの神社と言って良いと思います。一の鳥居の額「八幡宮」の「八」は、鶴岡八幡宮同様、八幡様の神使・鳩が二羽いらっしゃる様なので(上記写真の真ん中)、見落としてはいけいないとと思いました…。

■筥崎宮(福岡県福岡市)

3つ目に記載させて頂く筥崎宮は、鶴岡八幡宮と三大八幡の座を争う神社と理解しております。Wikipediaの「筥崎宮」の項目には、以下の様にあります。

筥崎宮(はこざきぐう)は、福岡県福岡市東区箱崎に在る神社式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧社格は官幣大社で、2023年(令和5年)現在は神社本庁の別表神社。筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。大分県宇佐市の宇佐神宮、京都府八幡市の石清水八幡宮とあわせて三大八幡宮と呼ばれる  (略)   

祭神   

  • 主祭神:応神天皇   
  • 配祀神:神功皇后 / 玉依姫命    

歴史   
創建に関しては複数の説があるが、公式サイトでは延喜21年(921年)に建立された説が紹介されている。延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神として筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。延長元年(923年)に現在地に遷座。『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/筥崎宮

宇佐八幡宮・石清水八幡宮の祭神は、応神天皇・神宮皇后・宗像三女神ですが、こちら筥崎八幡宮は、応神天皇・神宮皇后は一緒ですが、宗像三女神の代わりに「玉依姫命」(初代・神武天皇の母君と言われているらしい)を祭神としている様です博多湾から続く、850mの長い参道もある様なので、併せて大人散策が楽しめるスポットだと思いました。(ちなみに、日本一の参道は、別記事で紹介した大宮氷川神社の2㎞に及ぶ参道と言われている様です)

■鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)

そして最後に記載するのは、同じく三大八幡の座を筥崎宮と争う、鶴岡八幡宮。Wikipediaの「鶴岡八幡宮」の項目には、以下の様にあります。

鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された。以後、鎌倉武士の守護神となる。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い境内は国の史跡に指定されている。旧社格は国幣中社で現在は神社本庁の別表神社。    

祭神   
現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。   

  • 応神天皇 (おうじんてんのう、おうじんてんのう) 第15代天皇      
  • 比売神 (ひめがみ)   
  • 神功皇后 (じんぐうこうごう) 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇母     

概史   
廃仏毀釈で撤去された大塔関東大震災で倒壊した舞殿。前面の建造物はまだない。1063年 8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。1081年 2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。  

1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191年に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208年には神宮寺が創建される。源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた  (略)    

参道
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある。段葛は鶴岡八幡宮境内の敷地とみなされており、扱いとしては神社の私道である  (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/鶴岡八幡宮

祭神は、宇佐八幡宮・石清水八幡宮同様、応神天皇・神宮皇后・宗像三女神(比売神 )の様で、源義家(八幡太郎義家)・源頼朝との関連も深く、関東における八幡信仰の象徴の地と言って良いと思います。また、あの川中島で武田信玄と戦った上杉謙信が、第4次川中島合戦の直前に(謙信による小田原城攻めとほぼ同じタイミングと理解)、この地(=鶴岡八幡宮)で山内上杉家の家督と関東管領職を相続(当時は「正虎」)した事からしても、同様の事が言えるのでないかと思います(ちなみに武田信玄は、小田原攻めの後甲斐に戻る際「鶴岡八幡宮を参拝してから帰国予定」といった偽の情報を北条方に流し、三増峠に誘い込んで破ったと言われています)。

由比ガ浜から続く若宮大路(参道)も道幅を変える等、工夫を凝らしたものの様ですので、石清水八幡宮同様(川越八幡神社もですが…)、2羽の鳩を模した「八幡宮」の「八」と共に忘れず拝見させて頂くべきポイントだと思った次第です。

【最後に】

以上が、源氏の氏神として有名な、八幡様の歴史と概要を抑えつつ、三大八幡(四大八幡?)のそれそれを紹介させて頂いた内容になります。神社(神道)なので、「三大八幡」ではなく、「四天王」(仏教用語)を使う訳には行かないでしょうが、鶴岡八幡宮だけが、国弊中社であったとしても、その歴史に残した功績(東国における八幡信仰の浸透)や知名度、地理的なバランスも踏まえ、「四大八幡」としていいのでないかと思った次第です。

また、別記事、日本三大怨霊の一人・平将門を祀る「神田明神」の記事でも思いましたが、源氏で、同じく八幡様を崇拝したと思われる徳川家康が、神田明神を江戸の総鎮守にした事は、上記を踏まえると当たり前の事と思い、徳川将軍家もどこかで「『新皇』「天照大神とは異なる世界を創る大きな役割」を自負していただろう」と感じてしまった次第です。同時に、時代が流れ明治に入り、天皇家から見た逆臣・将門を神田明神祭神から外すも、摂社に残した「明治天皇の懐の深さも感じてしまいました

そして、その感想の根源の1つは、八幡信仰にあると思い、今後の神社仏閣巡りの1つの切り口にもなるのでないかと改めて思いましたので、今後も神社仏閣巡りを実行するにあたり、参らせて頂く神社の祭神名称(「神宮・宮・大社・神社」の違いも含め)社格(一宮/官幣・国弊/県社・村社等」の違い)等を踏まえ概要を抑え、「こんな神社かな?」とある程度の目論見ち、神社仏閣巡りの大人散策を楽しんで行こうと思った次第です。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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