新選組・甲陽鎮撫隊

【はじめに】

こちらののページでは、新選組の後継と言われる「甲陽鎮撫隊」に付き、「勝沼戦争の敗戦で被った汚名に関する考察」を中心に記載させて頂きます。

そもそもですが、皆様は「甲陽鎮撫隊」って聞いた事ありますでしょうか? 恐らく、相当数の方が、聞いた事は無いのでないかと思います。では、質問を変えて、「新選組」は聞いた事がありますでしょうか? こちらは、多くの方がご存じだと思います。幕末の動乱期に、農民から武士へと出世した浪士隊で、近藤勇・土方歳三が有名処のツートップだと認識しています。

そんな「新選組」が、戊辰戦争の戦いにおける戦いの1つ・勝沼戦争に際し、幕府から賜った部隊の名前が、「甲陽鎮撫隊」と理解しており、この甲陽鎮撫隊は、勝沼戦争で敗れてしまう訳です。そしてその過程の話として、「甲陽鎮撫隊は、甲府城を抑えるべく、甲州街道を進軍するが、豪遊三昧のノロノロ進軍で戦地に向かった為、すでに甲府城は新政府軍に抑えられていて間に合わず、結局、大善寺の眼前・勝沼の地で戦になるが敗戦した」と言う、「甲陽鎮撫隊の失態」の側面を前面にだした話をしばしば耳にするのです。しかしながら、(新選組のファンでも、近藤勇・土方歳三に思い入れがある訳ではありませんが)個人的には、この大善寺の目の前で起こった勝沼戦争における敗戦は、甲陽鎮撫隊(≒新選組)の責任では無く、幕府の頭の固く実行力に乏しい役人の責任だと思っていおり、その事実関係を抑えた上で、「勝沼戦争の敗戦で被った汚名に関する考察」をさせて頂こうと思った次第です(「ぶどう寺」こと大善寺に関しては、別記事で紹介中)。

尚、勝沼戦争に関しては、「甲州勝沼の戦い」・「柏尾の戦い」等の呼び方がある様ですが、こちらでは「勝沼戦争」の名称を利用させて頂きます。

【新選組とは?】

まずは、有名処の「新選組」から抑えさせて頂くべく、Wikipedia の「新選組」の項目を調べてみますと、以下の様にあります(以下にサマリを記載しています)。

(略) 幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。   

江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意(追記:清河=天皇配下の兵力になる事が目的、近藤/芹沢=将軍警護が目的)を知った近藤勇芹沢鴨らが反発して脱退。 そして、その思想に意気投合した会津藩・野村左兵衛の進言で京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと、新選組として発足した。   

同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組はその多くが町人・農民出身の浪士によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった(追記:池田屋事件(旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件)と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両あまりの恩賞を下賜されている)商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した

慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた。その後、副長の土方歳三が戊辰戦争最後の戦い・函館戦争で戦死。新選組は新政府軍に降伏することになった。   

逆賊を取りしまる立場であったが明治維新で敗北したことから正反対に逆賊は新選組という扱いを受けてしまった風評被害もあった。2004年の大河ドラマで脚本を担当した三谷幸喜もこのことを指摘している  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/新選組

以下に、私なりの理解をサマリ的に記載しますと、以下の様になります。

清河八郎により結成された浪士隊であるが、意思統一が図れず分裂。京都に残った近藤勇・芹沢鴨を中心に、会津藩預かりの非正規組織として新選組が結成された。その後手荒な手段の資金調達や内部闘争を繰り返していたが(芹沢鴨も新選組のメンバーにより暗殺された)、池田屋事件・禁門の変で名を売った。しかし、鳥羽伏見での戦いで敗れ、江戸に逃れたのち、勝沼戦争でも敗戦(この時が「甲陽鎮撫隊」)。その後、近藤勇は捉えられ斬首、土方歳三は、函館戦争で戦死した

大河ドラマになるほどのストーリー性のある部隊で、ちょっと簡単にまとめすぎかもしれませんが、要約すると上記の理解をさせて頂いた次第です。

【甲陽鎮撫隊とは? 勝沼戦争行軍の経過と受けた汚名】

次に、「甲陽鎮撫隊」を抑えさせて頂きます。同じくWikipedia の「甲陽鎮撫隊」の項目には、以下の様にあります(以下にサマリを時系列で記載しています)。

甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)は、慶応4年(1868年)に新選組が旧幕府から甲府鎮撫を命ぜられた際の名称である (略)   

編成に至る背景   

そもそもの発端は、鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組の近藤勇が徳川慶喜に甲府城支配を一任してもらうよう願い出たことだった。その時期について永倉新八は「江戸到着早々」としており、その意図については「甲州城を自分の力で手に入れここに慶喜を移さうとする計画を立ててゐた」としている。また、当時、陸軍総裁(1月23日から2月25日まで。同日、陸軍総裁のお役御免を申し出て認められるものの、新たに軍事取扱を命じられているので、引き続き軍事部門の責任者だったことには変わりない)の要職にあった勝海舟は明治17年に編んだ『解難録』で「伏見の変一敗して皆東帰し近藤土方其徒を率ゐ帰り再戦を乞ひ大に其徒を集む」として近藤らが「再戦」を目論んでいたとした上で甲府出兵についても「陽に恭順を表し陰に一戦を含み去て甲府に行く」と新政府軍との「一戦」を期してのものだったという見方を示している  (略)    

編成   

2月28日、徳川家から新選組に対し正式に「甲府鎮撫」の命が下り、大砲6門、元込小銃25梃、ミニエー銃200梃などが支給された(数字は「島田魁日記」に依る。一方、「浪士文久報国記事」では大砲8門、元込め銃300梃となっており、数字が食い違っている)。また現存する新選組の「金銀出入帳」によれば、29日には会津藩から1200両、元幕府御典医の松本良順から3000両を受け取っている  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/甲陽鎮撫隊

また、甲陽鎮撫隊と勝沼戦争を戦った新政府軍側の迅衝隊「板垣退助」の項目には、以下の様にあります。

(略) 幕軍側・大久保大和(近藤勇)は「城持ち大名になれる」と有頂天になり「甲府を先に押さえた方に軍配が上がる」という幕閣の忠告を軽視し、新選組70人、被差別民200人からなる混成部隊の士気を高めるため、幕府より支給された5,000両の軍資金を使って大名行列のように贅沢に豪遊しながら行軍し、飲めや騒げの宴会を連日繰り返した。行軍途中の日野宿で春日隊40人が加わる。ところが天候が悪化し行軍が遅くなり、甲府到着への時間を空費したため、移動の邪魔となった大砲6門のうち4門を置き去りにして2門しか運ばなかった。しかし、悪天候に悩まされたのは両軍とも同じで、官軍・板垣たちは泥濘に足を取られながらも武器弾薬を運び必死の行軍を続け3月5日(太陽暦3月28日)に入城した。  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/板垣退助

更に、「甲州勝沼の戦い」(=勝沼戦争)には、以下の様に記載があります。

3月1日、江戸城鍛冶橋屋敷を出陣した旧幕府軍は、隊長・近藤勇(この時は若年寄格となり、名を大久保剛と改めていた)の出生地である上石原宿を通過し、府中宿で一泊翌2日に副長・土方歳三(こちらも寄合席格となり、名を内藤隼人と改めていた)の出生地である日野宿を通過し、八王子宿で昼食、夜には相模国の与瀬宿に到達。そして3日に甲斐国に入り、上野原宿で昼食を取った後、猿橋宿に一泊した(以上の行軍スケジュールは「佐藤彦五郎日記」に依る) (略)   

4日、花咲宿で昼食を取っている最中、新政府軍が明日には甲府に到着する模様との情報がもたらされ、急ぎ駒飼宿まで向かうと新政府軍は既に昨日の時点で甲府に到着していたことが判明。さらに5日には新政府軍は甲府城への入城も果たしていることが判明した (略)    

3月6日(太陽暦3月29日)12時頃、柏尾坂附近で旧幕府軍が新政府軍に対して発砲したことを発端として戦闘が始まった (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/甲州勝沼の戦い

少々引用長くなってしまったので、時系列でまとめますと以下になる認識です。

  • 鳥羽伏見で敗れ、新選組は江戸に逃れる (1月中旬位の話と推察)  
  • 近藤勇が甲府城支配の一任」を願い出る (1月中旬から下旬の話と推察)  
  • 幕府内で上記を検討 (1月下旬から2月下旬)  
  • 幕府から「甲陽鎮撫」の命が発せられ、武器/軍資金が与えられる (2月28日)  
  • 甲陽鎮撫隊、江戸(鍛冶橋屋敷)を出発 (3月1日)  
  • しかし、近藤勇は有頂天になり、「甲府を先に押さえた方に軍配が上がる」という幕閣の忠告を軽視し、豪遊三昧飲めや騒げの宴会を連日繰り返しつつ進軍 (1日:上石原(近藤出生地)を通過し、府中泊2日:日野(土方出生地)/八王子を通過し、与瀬宿(小仏峠を越えた現相模湖付近)到達、3日:上野原宿を通過し、猿橋宿(大月)に到達、4日:花咲宿を越えた先の駒飼宿(笹子峠を越えた先)で、新政府軍甲府到着判明)  
  • 勝沼にある大善寺近くで、勝沼戦争(甲州勝沼の戦い)勃発 (3月6日)

こうして時系列みてみると、甲陽鎮撫隊の進軍は、決してのんびりした物には見えず、それなりに迅速に行動している様で、近藤の出身地上石原・土方の出身地の日野も通過している事から、近藤も有頂天になっていたとは思えないのです。ただ、近藤/土方の故郷、上石原/日野を甲州街道が通っている事も事実なので、手荒な手段で京都で暴れてきた新選組に反感を持つ人が、「どうせ『故郷で錦を飾る!』とか言ってチンタラやっていたんだろ」と、有る事、無い事を風潮した事により、「虚偽の情報が、まことしやかに語られたのでないか?」と思ってしまった次第です。

【勝沼戦争で被った汚名を考察】

では、「本当に甲陽鎮撫隊の進軍は迅速だったのか?」を、勝沼で戦った「板垣退助率いる迅衝隊」の進軍と、「行軍距離」・「行軍における道中の難易度(=標高差)」で比較してみたいと思います。甲陽鎮撫隊の行軍過程は、上記で見ましたので、迅衝隊の行軍日程を見てみます。Wikipediaの「板垣退助」の項目には、以下の様にあります。

(略) 山内容堂は当初、鳥羽・伏見の戦いを私闘と見做し土佐藩士の参戦を制止したが、薩土密約に基づいて初戦から参戦した者が数多くおり、追討の勅が下った後は、もはや勤皇に尽すべしと意を決した。京都で在京の土佐藩士と合流した迅衝隊は、部隊を再編し軍事に精通した乾退助(追記:板垣退助の事)を大隊司令兼総督とする退助はさらに朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられ、2月14日京都を出発し東山道を進軍した。この京都を出発した日が乾退助の12代前の先祖・板垣信方の320年目の命日にあたる為、幕府直轄領である甲府城の掌握目前の美濃で、武運長久を祈念し「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」との岩倉具定等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。  

甲府城への入城  

3月1日(太陽暦3月24日)、東山道(現・中山道)を進む東山道先鋒総督府軍は、下諏訪で本隊と別働隊に分かれ、本隊は伊地知正治が率いてそのまま中山道を進み、板垣退助の率いる別働隊(迅衝隊)は、案内役の高島藩一箇小隊を先頭に、因州鳥取藩兵と共に甲州街道を進撃し、幕府の直轄領であった甲府を目差す甲府城入城が戦いの勝敗を決すると考えた板垣退助は、「江戸-甲府」と「大垣-甲府」までの距離から東山道先鋒総督軍側の圧倒的不利を計算した上で、急ぎに急ぎ、あるいは駆け足で進軍。土佐迅衝隊(約100人)と、因幡鳥取藩兵(約300人)らと共に、3月5日(太陽暦3月28日)、甲府城入城を果した

https://ja.wikipedia.org/wiki/板垣退助

時系列で、すでに記載した「甲陽鎮撫隊の引用」と併せて、まとめますと以下の様になります。

そしてもう一つ、「甲陽鎮撫隊」と「迅衝隊」が進んだ甲州街道における「行軍距離」・「行軍における道中の難易度(=標高差)」に関しても、情報をまとめさせて頂きます(参考にしたサイト:https://gcy.jp/kkd/)

■甲陽鎮撫隊:江戸から甲府

  • 距離:約135㎞ (3月1日から3月4日の「平均進軍距離/日=約30㎞」)
  • 標高差:500m以上の小仏峠 + 1100m位の笹子峠

■迅衝隊:下諏訪から甲府

  • 距離:70~75㎞程度 (3月1日から3月4日の「平均進軍距離/日=約18㎞」)
  • 標高差:特に大きな峠は無く、標高800m程度の下諏訪から200mの甲府まで一部、金沢・蔦木宿間を除いて下り基調

皆様は、上記スケジュールや移動距離、移動区間の標高差をみてどの様に思われますでしょうか?

私が思った事は、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、決して豪遊三昧のノロノロ進行では無く、それなりに迅速に進軍していると思われ、甲府に向けて3月1日の同じタイミングで、下諏訪江戸から目指すと言う事は『この時点で勝負あった』と言って良いと思い、甲陽鎮撫隊に着せられた汚名は、半分逆恨み的な流布が原因と思われ、恐らく本当の責任は、近藤勇の上申から1か月以上結論を出さなかった、頭の固い幕府役人のノロノロ判断にある」と思った次第です。皆様は、どの様に思われましたでしょうか?

【最後に】

以上が、新選組の後継と言われる「甲陽鎮撫隊」に付き、「勝沼戦争の敗戦で被った汚名に関する考察」を中心に記載させて頂きました内容になります。

京都での手荒な活動が、もしかしたらこの汚名の原因にあるかもしれないので、「それも含め自業自得でしょ…」といった意見もあると思い、それはそれで自身の日々の行いも含め、襟を正す事を学んだ気もしますが、上記の様の様に、迅速に動いたにもかかわらず、あらぬ汚名を着せられてしまうのも残念な事だと思った次第です。

ちなみに、Wikipediaの「板垣退助」の項目には「幕府より支給された5,000両の軍資金を使って大名行列のように贅沢に豪遊しながら行軍し、飲めや騒げの宴会を連日繰り返した」とある旨記載しましたが、同じWikipediaの「甲州勝沼の戦い」の項目には、以下の様にもあります

旧幕府軍は隊長の出生地である上石原宿も副長の出生地である日野宿も通過しており、そこでは酒宴はおろか昼食も取っていない。また、江戸出発から3日目には甲斐国に足を踏み入れているわけで、とても「泊まっては飲み飲んでは泊り」という状況ではなかったことが裏付けられる。ただ、上石原で近藤が地元の歓迎を受けたのは事実で、上石原の古老の話として「近藤は出発の際、歓迎に感謝したのと見送りの人々への礼儀として、上石原宿を出るまでは駕籠に乗らずに徒歩で行った」という。こうして、あえて地元にも足を留めず、目的地である甲府をめざした旧幕府軍だった  (略)  

hhttps://ja.wikipedia.org/wiki/甲州勝沼の戦い

改めて思う事は、「少なくとも甲陽鎮撫隊は、甲府城を抑えるべく甲州街道を進んだ進軍において、出来る限りの努力はしていた」+「人の噂話という物は、本当に怖いものだ」と言う事です。自身も襟を正して行動しつつ、SNSが浸透した現代では、「事実確認」に気を配って、デマに騙されない様、判断していくべきだと改めて思った次第です。

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