丸亀城

【はじめに】

こちらのページでは、現存12天守で、石垣総高・日本一を誇る、丸亀城を、周囲の大人観光スポット含め、大人散策をプランニング」させて頂こうと思います

別記事にて、高松城栗林公園を取り上げさせて頂いておりますが、香川にはお仕事で何度かお伺いした事があります。その際、高松の中心部と言って良いと思いますが、その立地から高松城栗林公園には、スケジュールの合間を縫ってお伺いする事が出来ました。しかし、今回ご紹介する丸亀城は「是非参りたい!」と思いつつ、訪問が実現できていないお城の為「いつか必ず!」と心に誓っている「訪問できそうで、出来ていないお城」なのです…。

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「丸亀城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

丸亀城と言えば、やはり石垣。実際に自身の目で拝見できていませんが、テレビや写真での映像を見る限り、圧巻の高さで、天守その物は小ぶりな部類に入ると思いますが、石垣を含めたお城全体のお姿は、まさに雄大。いつかは参ろうと思いつつ、周囲の大人散策スポットも含めてリストアップされているお城ですが、まだ実現出来ておりません…。

こちらのページでは、そんな「石垣総高日本一を誇る丸亀城の大人散策情報を、周囲の大人観光スポットと併せ、今後の訪問に向けて調査し、その内容を共有」させて頂きます

【丸亀城の概要】

まずは、丸亀城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

丸亀城(まるがめじょう)は、讃岐国、現在の香川県丸亀市にある日本の城である。別名、亀山城(かめやまじょう)、蓬莱城(ほうらいじょう)ともいう

概要
丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66メートル)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀(内堀)で囲む、渦郭式の平山城である。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」と呼ばれる。山麓から山頂まで4重に重ねられ、合わせると60メートルになり、総高としては日本一高く三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルある誤解されやすいが、あくまで総高としての日本一であり、単体としての日本一高い石垣は大坂城で、僅差で上野城が続いている。ちなみに大坂城は実測値33メートル、上野城の高さは約30メートルである。

頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存する。この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15メートルあり、現存天守の中で最も小規模である。天守の形成した時代に関する研究としては、元和元年の武家諸法度以降、天守は新造されることがなかったとして丸亀城を三重櫓とする説や、京極氏が入封後に幕府に許可を得て櫓を建てたという説、すでに明暦の丸亀城郭を記した讃岐国丸亀城(大洲絵図)を根拠に、京極入封以前の山崎時代に櫓や石垣がほぼ整っていたとする研究がある (略)

天守のほかに大手一の門・大手二の門・藩主玄関先御門・番所・御籠部屋・長屋が現存しており、そのうち天守・大手一の門・大手二の門は重要文化財に指定されている (略) 大手門と天守が両方とも現存しているのはこの丸亀城と、弘前城と高知城のみである (略)

室町時代・安土桃山時代
(略)
慶長2年(1597年) – 豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く
慶長7年(1602年) – 6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成
江戸時代
元和元年(1615年)一国一城令により破却の危機にさらされるが、時の藩主・生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限。城を破却から守った
寛永17年(1640年)– 生駒氏がお家騒動(生駒騒動)のため出羽国矢島(現秋田県由利本荘市)に転封となる。
寛永18年(1641年)山崎家治が肥後国富岡(現熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封。丸亀藩が立藩。
寛永20年(1643年) – 城の改修に着手。幕府が家治に、瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備えるための城をつくらせたのではないかと云われ、幕府は丸亀藩に銀300貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事をやらせている。
万治元年(1658年) – 山崎氏が3代で無嗣断絶し改易となる。代わって播磨国龍野(現兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで京極氏の居城となる。
万治3年(1660年) – 高和は城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更した。その大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓が完成した。
延宝元年(1673年) – 32年の歳月を要し大改修が完了。現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものである。

伝説

豆腐売りの人柱伝説
丸亀城築城の際、石垣の工事が難航したため、人柱を立てることとなった。雨が降る夕暮れ、工事現場付近を通り掛かった豆腐売りが捕えられ、無理矢理に人柱として生き埋めにされてしまった。豆腐売りは雨で豆腐が売れないため、普段は通らない城の付近を偶然通り掛かったのであった。その後、石垣の工事は完成したが、それ以来、雨が降る夜にはその石垣の辺りで「とーふー、とーふー」という豆腐売りの声が聞こえて来たという。

石工名人の羽坂重三郎
石垣は名人と謳われた羽坂重三郎によるもので城主(生駒親正という説や山崎家治という説がある)に「見事である。この石垣を登れるものはあるまい」と感嘆された。しかし重三郎が「私ならば尺の鉄棒があれば登れます」といって短い鉄の棒を使って登ってしまった。これを見た城主は重三郎が敵と通じることを恐れて嘘の井戸の調査を命じて井戸に埋め殺してしまった 

https://ja.wikipedia.org/wiki/丸亀城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 丸亀城は、別名、亀山城(かめやまじょう)、蓬莱城(ほうらいじょう)ともいう
  • 4重に重ねられた石垣は、合わせて60メートルになり、総高としては日本一 (あくまで総高としての日本一であり、単体としての日本一高い石垣大坂城で、次は僅差で上野城)
  • 現在の現存12天守と言われる天守は、江戸時代の初め(1660年)、表向きは「三階櫓」として建築された (引用中に「最も小規模」とあるが、(何をもってして「最も小規模」と記載しているのか不明も)今回調査している中で、丸亀城の天守の高さ:約14.5m、弘前城天守の高さ:約14.4m、備中松山城の天守の高さ:約11mと理解したので、もっとも小規模(高さの意味で)なのは、備中松山城と認識)
  • 天守のほかに大手一の門・大手二の門・藩主玄関先御門・番所・御籠部屋・長屋が現存
  • 丸亀城は、一国一城令をかいくぐって、生駒氏により築城されたのが始まり
  • 城主は、生駒氏 ⇒ 山崎氏( 城の改修:瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備えるための城をつくらせたのではないかと言われている) ⇒ 京極氏(1660年城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更し、その大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓(=「現在の天守」と認識)を築城)と推移してきた
  • 「豆腐屋の人柱」 / 「石工職人の生き埋め」等、残酷な伝承も伝わっている

実際に自身の目で拝見していないので、明言はできませんが、日本一の総高:60mを誇る石垣は、「さぞかし見事だろうと!」と思われ、直接拝見するその日を想像すると、ワクワクしてしまいます。一方、『比較的小規模な天守」が、「日本一の総高を誇る石垣の上」にある様子は、どんなバランス感覚なんだろう?』と想像してしまうと、更にワクワクしてしまい、もしかしたら「これは『天守』ではなく『櫓』だな…」と思ってしまうのでないかと想像してしまった次第です。また、松江城をはじめ、多くのお城で「人柱の言い伝え」がある事も再認識させられ、「その時代における残酷な一面の歴史もお城にはある」事、しっかり理解した上で、訪問/見学させて頂くべきと改めて思った次第です。

【丸亀城の周囲を含めた見所】

上記、概要を抑えさせて頂きました丸亀城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。上記、引用いたしましたWikipediaの内容から推察するに、丸亀城とその周囲における大人散策のポイントは、以下だと認識しました。

■丸亀城の城内

  • 現存天守:これは絶対に外してはいけないと思います!
  • 現存する大手門・藩主玄関先御門・番所等:これも現存と聞くと外してはいけないポイントと理解しました
  • 現存する石垣:その高さは勿論、石垣の組み方にも注目しつつ楽しむべきと思いました (写真を拝見する限り、Wikipediaには「野面積」との記載もありますが、個人的には「布積/打込接」の石垣がメインに思えたと同時に、京極氏の家紋も「布積/打込接」に見えてしまいましたので、城内の大人散策でじっくり楽しみたいと思います!)

上記、少々記載しましたが、個人的に丸亀城は「訪問できそうで、訪問を実現できていないお城」です。言い換えると、「もう既に丸亀城と共に訪問したいと思っておる大人観光スポットのリストアップは済んでいる」という事です。以下に、そのリストアップ済みの大人観光スポットも共有致します。

高松城

高松城は、江戸の初め、生駒氏により治められていた地に、築城が開始されたが、改易により松平氏が入り、完成に至った海城(日本三大水城の1つ)だそうで、現在でも堀には、海水が流れ込んでおり、月見櫓、艮櫓”の2つの櫓が現存しています。

栗林公園

高松城から、2Km程南には、松が魅力の栗林公園があります元々は、生駒氏の家臣が、作庭を開始したのが始まりと言われているそうで、その後高松藩の初代藩主になった、松平頼重が隠居所を構え(1600年代の中頃らしい)、数代にわたって作庭を継続し、1700年代の中頃に現在に近い形になったと言われている様です。

中津万象園

丸亀駅の近くには、中津万象園という、丸亀美術館が併設された日本庭園がある様です。回遊式池泉庭園の京極氏による大名庭園の様ですので、庭園好きの私達夫婦にとっては、外してはいけないスポットだと思った次第です。

金刀比羅宮

丸亀まで来たら、金刀比羅宮は、絶対に外してはいけない大人散策スポットだと思っております。全国に約600程あるらしい「金刀比羅神社」、「琴平神社」、「金比羅神社」の総本宮で、祭神は、大物主命(国津神)・崇徳天皇(天皇 ⇒ 三大怨霊御霊神/白峯神宮・祭神)と理解しており、参道の石段が有名で、本宮まで785段(標高251m)奥社まで登ると1368段(標高421m)になり、その真上にあたる琴平山頂上は標高524mになるらしいです。本宮の本殿は勿論、奥社の白峰神社・厳魂神社(出切れば頂上まで)等まで行きたいと思っています!

【最後に:スケジューリングは?】

以上が、現存12天守で、石垣総高・日本一を誇る、丸亀城を、周囲の大人観光スポット含め、大人散策をプランニング」させて頂いた内容になります

そして最後に、最下部のGoogle My Mapで作成した地図と共に、ご参照頂ければと思いますが、「これらの大人観光スポットをどの様に回るか?」に付き記載いたしたく存じます。

■初日

私達夫婦の居住地である川越から、丸亀市へ移動し、丸亀市内か、瀬戸内海の島・本島 へフェリーでお邪魔する(丸亀付近で宿泊

■2日目

朝一で、丸亀城と中津万象園を大人散策し(前日の進捗次第で)丸亀市内か本島 へフェリーでお邪魔する (丸亀付近で宿泊)

■3日目

朝一で、金刀比羅宮にお参りし、その後高松へ移動した後、できる限りその日のうちに栗林公園高松城を大人散策 (高松泊

■4日目

(前日の進捗次第ですが)朝一で、栗林公園高松城を大人散策を楽しみ、居住地の川越に向けて帰宅開始

3泊4日のプランで、スケジュール的にも余裕を持て動けそうな印象の計画となった認識です。但し、雨が降ってしまうとちょっと厳しいと思うので、いざ訪問となった際は、しっかりと神頼みしつつ参らせて頂こうと思います。そして、訪問できた暁には、本プランの評価と含め本ブログを更新し、報告させて頂ければと思います!

尚、栗林公園高松城等、それぞれの大人散策情報を別記事で紹介しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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