高遠城

【はじめに】

こちらのページでは、「桜の名所として有名ですが、同時に日本の歴史が詰まったお城である高遠城の概要と大人散策情報を紹介」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きますが、皆様は、「高遠城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

桜の名所として有名な高遠城ですが、同時に様々な日本の歴史が詰まった地が高遠であり、その高遠での主役中の主役スポットが高遠城と認識している次第で、大内宿に行っても、新宿御苑に行っても、高遠城の城郭に咲き乱れる、美しい桜の景色を連想してしまいます。

こちらのページでは、そんな「桜の名所として有名ですが、同時に日本の歴史が詰まったお城である高遠城の概要と大人散策情報を紹介」させて頂こうと思います

【高遠城の概要】

まずは、高遠城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます=引用読まなくても大丈夫です…)。

高遠城(たかとおじょう)は、長野県伊那市高遠町(旧・信濃国伊那郡(のち上伊那郡)高遠)にあった日本の城。別名兜山城サクラの名所としても有名であり、特に珍しい品種であるタカトオコヒガン1,500本の樹林が名高い。国の史跡に指定されている。

歴史・沿革
■戦国時代・安土桃山時代
・高遠氏
高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としており、甲斐国守護の武田氏と同盟関係にある諏訪氏当主の頼重とは反目していた。頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護武田晴信(信玄)に内応して諏訪攻略を援護している。頼重は武田により滅ぼされるが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立し、1545年(天文14年)4月に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点とした。

・武田氏時代
1555年(弘治元年) 武田氏は続いて小笠原氏や知久氏を撃破し、木曾氏を制圧して信濃を平定した。『甲陽軍鑑』によれば、高遠城は信濃への進出拠点として1547年(天文16年)に、足軽大将の山本勘助や譜代家老の秋山虎繁(信友)に命じて大規模な改築が行われたという。1556年(弘治2年)には秋山虎繁が城主となり、坂西氏などを伊那衆とした。
1562年(永禄5年) 、晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼(武田勝頼)が諏訪氏を継承し、同時に高遠城主、上伊那郡代(郡司)に就任(『軍鑑』) (略)  勝頼は1570年(元亀元年) に武田氏の正嫡であった義信が廃嫡される義信事件が起こると後継的立場となり、信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻され、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となった。なお、勝頼の嫡子信勝の誕生と、信玄の父信虎の死去は、いずれも高遠城でのことである。
信玄後期から勝頼期にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となる (略) 1582年2月に織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始し、長男の織田信忠に3万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、盛信は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕し (略) 城は落城した。高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡した  (略)

・織田氏・豊臣氏時代
武田氏の滅亡後、信濃伊那郡は織田家臣・毛利長秀が支配する (略) 1582年6月に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生 (略) 徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込み、同年7月15日までに高遠城を奪還した。その後は家康方の保科正直が高遠城に入り、これを豊臣秀吉方に寝返った小笠原貞慶が攻めたが撃退された。

■江戸時代
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。
城の縄張りは中世の状態を踏襲しているが、本丸には御殿と天守代用として二層の辰己櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられており、長大な長塀に囲まれた近世城郭であった (略)

■現代
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(30番)に選定された。

遺構
現在ある問屋門は1948年(昭和23年)に町内の旧家から移築したものである。
・本丸門 伊那市内個人宅に移築。
・本丸冠木門 同上。
・二の丸門 岡谷市内個人宅より伊那市へ寄贈され、解体保管中。
・搦手門 岡谷市内久保寺に移築。
大手門 1954年(昭和29年)に高遠高等学校正門として伊那市富県北福地の所有者より寄贈を受け移築され、1984年(昭和59年)まで正門として使用されていた。
進徳館 最後の藩主内藤頼直創設の藩校  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/高遠城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下に自信が持っている情報と併せてポイントをサマリ的にまとめます

  • 高遠城は、別名兜山城とも言い、サクラの名所としても有名な国指定の史跡
  • 元々は高遠氏が居城としており、甲斐武田氏諏訪攻略時に武田氏と通じていたが、その後諏訪の領有を巡り武田氏と対立し、1545年には武田勢に攻められ、甲斐武田氏の信濃平定の足掛かりとなったお城で、小諸城同様、山本勘助らにより大規模な改築が行われたと言われる
  • 1562年、武田勝頼が諏訪氏を継承し高遠城の城主となるが、義信事件が起こると甲斐武田氏における後継的立場となり、信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻された(その後の高遠城主は信玄実弟の武田信廉)
  • 甲斐武田氏は、信玄後期から勝頼期にかけて、領国を接する織田徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田徳川勢力の重要な軍事拠点となった
  • ちなみに、勝頼の嫡子信勝の誕生と、信玄の父信虎の死去は、いずれも高遠城でのことと言われる
  • 1582年2月に織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始し、長男・織田信忠が、3万の大軍で高遠城を攻め、落城させた(事実上の甲斐武田氏の最後の戦と言って良いのでは…)
  • その後、織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡するも、直後に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、結果、家康方の保科正直が高遠城に入った
  • 江戸期になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代したが、1691年以後、高遠城は内藤氏の居城として明治維新を迎えた
  • 2006年に、日本100名城に選定された
  • 現在みられる城の遺構の縄張りは、中世の状態を踏襲しているが、本丸には御殿と天守代用として二層の辰己櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられ、長大な長塀に囲まれた近世城郭であった
  • またその他の遺構として、現在の二の丸と本丸をつなぐ問屋門は昭和の時代に町内の旧家から移築したもので、高遠閣は国の登録有形文化財で歴史的建造物であるが、同じく昭和(初め)の時代の物
  • 同時に、高遠高等学校正門としても使用されていた大手門や最後の藩主・内藤頼直創設の藩校・進徳館等を見学する事が出来る

現在は、桜の名所として有名な高遠城。こちらの桜は圧巻で、ソメイヨシノを見慣れた日本人であれば、その違いに間違いなく気づくと思われる、よりピンクが鮮やかな桜(タカトオコヒガン)。毎年多くの観光客が訪れる大人観光スポットだと思って折り、私達夫婦も何度かお邪魔しておりますが、桜まつりの季節はいつ行っても多くの人出で、この桜の魅力を多くの人が認めている証だとも思ております。

同時にこの高遠城は、甲斐武田家の信濃平定における重要拠点の一つであり、別記事で紹介した小諸城と同じく、縄張りは山本勘助による物と言われているそうで、実際に勘助の名前の付いた「勘助曲輪」も残っています(さくら祭りの期間は、ほぼ駐車場ですが…)。同時に、甲斐武田氏織田信長徳川家康が領土を接したエリアにもなる事から(正確には、甲斐武田氏尾張織田氏の最前線は、「三大山城の一つ岩村城」/「(勝手に言っているだけですが)三大岩山城苗木城」付近と言った方が適切だと思いますが…)、歴史好きが城郭その物を楽しみ、その歴史に思いを馳せる事の出来るお城が高遠城だと思って折ります。

【高遠城を大人散策!】

上記、高遠城の概要をその歴史を中心に抑えさせて頂きましたので、実際の大人散策情報を紹介させて頂きます。尚、下記に紹介するルートは、基本毎年実施されている認識の「高遠桜まつり」の際に参らせて頂いたルートをベースに記載しております。桜の季節以外は、人も少ないので、城郭の見学目的であれば、落ち着いて城郭見学できる認識ですが、こちらの桜は、高遠城と一緒に楽しむべきと思いますし、多くの方が美しい桜を目的に高遠城に脚を運んでいらっしゃると思いますので…

(参考情報として、桜まつりの期間は、かなり人出も多く、駐車料金/入場料がが発生する認識です。また、桜の季節以外に関しては、昔は入場料も駐車料もかからなかった認識ですが、現在は不明です… 更に、かなり前ですが、夏にお伺いした際は、草も多く城郭の見学には、ちょっと厳しい部分もあったので、城郭見学を目的にするのであれば、草が枯れて人の少ない「桜まつり前の早春のタイミング」が宜しいのでないかと推察しています…)

まずは、下記城郭の全体図を見て頂きたいのですが、現在の高遠城祉は、遺構が残っている部分も多くありますが、そうでない部分もあります。特に城郭北側の二ノ丸から勘助曲輪につながる曲輪部分と三ノ丸の大手門付近(武家屋敷があったとも言われるらしい)は、現在はグランド(さくら祭り期間は、大型バスの駐車場)になっている様で、かつて堀があったとの事ですが、現在その痕跡を見つける事は難しいです。故に、かつての縄張りのイメージ(東側の高所からの攻撃を想定し、三ノ丸・二ノ丸を馬の蹄鉄の様に配置した悌郭式の縄張りを基本としており、急斜面になる西~南側の三峰川側に勘助曲輪・笹曲輪・南曲輪・法憧院曲輪を配置した構造)を頭の中に入れつつ散策すると大人散策の度合いが向上するのでないかと思います。言い換えると、天守も、その他建造物の遺構もほとんどないので、城郭の魅力を感じるには、少し玄人的な見方が必要になる事、予めご了承いただいた方が良いと思うと言う事です。

・大手門から三ノ丸を抜け、藩校・進徳館経由で搦手門へ

私達夫婦の場合は、北ゲート近くの有料駐車場に車を停め、一旦登って来た道を下り、大手門付近から大人散策を開始しました。大手門付近は、近世城郭の名残か石垣も残っています(後に世の物かもしれませんが…)。また、大手門から三ノ丸方面に改めて登っていくと、多くの桜が咲いていおり、段々畑の様な感じでそれぞれのエリアが区切られております。これが、城郭時代からの遺構なのか、その後の改修による物なのか不明ですが、さくら祭りの季節であっても、無料で見学できるエリアです(かつての大手門と言われる、門その物もあります…)。

目に前の道は多くの車が列をなしていますが、人は少ないエリアで、桜をゆったり見学できるエリアだと思い、大手門と伝わる門も見学でき、更に坂道を登った先には、搦手門の跡を拝見する事も出来ます。多くの方が、素通りするエリアかもしれませんが、見学しないのは、少々もったいない気がします…。尚、同じエリアに、高遠藩の最後の藩主内藤頼直が創設したと言われる藩校・進徳館が現存しておりますので、併せて見学するべきだと思ています

・北のゲートから入り、二ノ丸を散策

上記、大手門・三ノ丸・搦手門・進徳館等を見学した後、駐車場付近の北ゲートから二ノ丸内に入る事が出来ます。ここからは、さくら祭りの期間は人出も多いエリアになりますが、圧巻の桜を拝見しつつ、城内を見学できます。ゲート付近には、昭和の建造と言う事なので、城郭の遺構ではありませんが、国の登録有形文化財である高遠閣があり、その南には、二ノ丸と三ノ丸を隔てていたであろう堀を見る事が出来ます。この堀は、桜まつりの期間でも、目に停める人は少なく、城郭の遺構をしっかりと拝見する事が出来ます。また、桜まつり期間中、人出の多い二ノ丸内は、桜も美しく多くの屋台もあるので、お祭り気分を味わいつつ散策する事が可能です。二ノ丸を南の端まで来ると、南ゲートが見えてきますので、一旦そこから二ノ丸を出ます

・南ゲートから一旦出て、歴史博物館/絵島囲み屋敷等を見学

さくら祭りの期間、南ゲート内は有料エリアになりますが、一旦チケットを購入していれば、再入場可能との事でしたので(毎年同じかは不明)、一旦南ゲートを出て、高遠美術館/歴史博物館/絵島囲み屋敷/高遠ダムと言った感じで、見学に向かいました。途中、保科正之公像もあり、上記に記載した「会津大内宿の高遠そば」との関連に思いを馳せつつ散策しましたが、あまりの人出の多さに、美術館と博物館の内部の見学は断念。絵島囲み屋敷を遠目に拝見し、江戸城の平川門(江島事件発端の場所?)を思い出し、高遠ダムでこの地域の地形を実感して、再び南ゲートに戻って再入場しました。

・南ゲートから再度入場し、法憧院曲輪/南曲輪等を拝見

再び南ゲートに戻って再入場した後は、法憧院曲輪を拝見し、白兎橋や鏡池で堀の高さを実感して、南曲輪等も拝見してそこからの眺めを堪能し、笹曲輪の位置も確認しつつ、様々な切り口でこの付近を散策しました。この付近は、勿論桜も綺麗で、これだけで十分楽しめますが、高台で眺めも良く、起伏の多い形状で、堀の下にも降りる事が出来るので、何度も同じ場所を違った角度から楽しむ事が出来るエリアです。この高遠城の縄張りの工夫や堀の深さを身をもって体感できるエリアですので、桜の鑑賞と共に、存分に高遠城を味わって頂きたいエリアだと思って折ります

堀の深さを拝見しつつ、桜雲橋/問屋門を見学して本丸へ

法憧院曲輪/南曲輪付近で、高遠城の縄張りの工夫や堀の深さを体感した後は、高遠城の現在の顔ともいえる「桜雲橋/問屋門」を見学して本丸へ向かいます桜雲橋から問屋門方面を、桜越しに眺める景色は格別で、ここは高遠城における一番の撮影スポットではないかと思ってしまうほどです。ただ、皆様同じ様に感じていらっしゃると思うので、多く人がおり、撮影のタイミングは結構難しかったです…。昭和期に町内から移築された問屋門なので、城郭の遺構とは言えない認識ですが、現在の高遠城に置いては、外してはいけないポイントだと思う次第です。

本丸内を散策し、本丸から二ノ丸/勘助曲輪との高低差を確認しつつ、グランドゲートを出る

桜雲橋/問屋門で、高遠城の風情を味わった後は、本丸を大人散策します。本丸は、中々の広さが確保されたエリアで、現在では「なんちゃって…」の感じが強い太鼓櫓のみですが、御殿と天守代用として二層の辰己櫓があったと言われる事も納得できる広さがあります。本丸から西側の眺めも良く、このお城が建つ地形を理解する事が出来ます。

また、本丸の北西側には、新城神社がありその奥のスペースからは、眼下に、二ノ丸・勘助曲輪(現在はグラウンド兼駐車場@桜まつり期間)を見渡す事が出来ます。少しイマジネーションが必要ですが、在城当時は、二ノ丸が細くなり、その先に勘助曲輪が配置され、その先は堀があり、更にその先に三ノ丸と大手門が見渡せたエリアのはずです。つまり「本丸から大手門を攻めてきた敵の状況を見渡せた場所」と言う理解をさせて頂いた次第です。甲州征伐時、織田軍の攻撃で信忠は、搦手門側から攻め込んだらしいですが、恐らく大手門側からの攻撃もあった推察され、武田側がどんな心境でその攻撃を見ていたかと思うと、少々込み上げてくるもがあった次第です。

グランドゲートを出て、通路を下り二ノ丸/勘助曲輪の痕跡を探して大人散策終了

本丸から再び桜雲橋/問屋門を越えて、北に進むと、グランドゲートより有料エリアを出れる様になっており、木製の橋/階段で整備された通路の斜面を降りると、勘助曲輪の方に出る事が出来ました。但し、桜まつりの期間は、駐車場(大画家バス用?)になっているので、その痕跡を探すことは難しかったです。ただ、本丸と勘助曲輪(三ノ丸含めて?)の高低差は十分に認識できるものでした。高遠城の縄張りの基礎をつくった武田24将の一人・山本勘助の名前の付いた曲輪ですので、「今少しその遺構が残っていたらよかったのに…」と個人的には思ってしまいましたが…。

このグランド(さくら祭り期間は駐車場)まで来たら、北側の道に出て、坂道を登ると北ゲート(駐車場付近)に出るので、ここで大人散策は終了になります。

【最後に】

以上が、「桜の名所として有名ですが、同時に日本の歴史が詰まったお城である高遠城の概要と大人散策情報を紹介」させて頂いた内容になります

元々は、高遠氏の居城であったが、武田氏 織田氏徳川氏とその支配が移って行ったお城・高遠城。徳川支配下に置いて、その高遠城の最後の城主家となったのは、新宿御苑で有名な内藤氏で、江戸の草創期には、会津藩の礎となった保科正之にも縁深い高遠城現在みられる桜も圧巻ですが、その歴史も中々魅力的ですし、城郭の縄張り遺構も実感できるお城が高遠城です(在城時の建造物的な遺構はほとんど無いため、イマジネーションが必要ですが…)。皆様も、圧巻の桜と共に、その歴史に思いを馳せ、城郭の魅力を感じるべく、高遠城に脚を伸ばしてみてはいかがでしょうか?

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