苗木城

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【はじめに】

こちらのページでは、「『自然の巨岩』と『人工の石垣』のコラボを楽しめる、眺望抜群の城郭・苗木城の概要と大人散策情報のプランニング内容を共有」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「苗木城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

  • 自然の巨岩と石垣のコラボがすごいお城
  • 天守跡に展望台が設置されており、素晴らしい眺望を楽しめるお城
  • 城持ち大名としては、最も小さな藩・苗木藩の居城と認識
  • 続日本100名城の一つでもある
  • 日本三大山城の一つで、六段壁で有名な岩村城からも近く、開通した当初は日本一の長さを誇った恵那山トンネルからも近い所にあると思っているお城

正直、私の知識が不十分で、あまり連想ゲームが進みませんでしたが、「自然の巨岩と人工の石垣のコラボが見事な城郭」である事は間違えなく、「そこからの景色も絶景」である事は、疑いようのないお城だと思っております。こちらのページでは、そんな「『自然の巨岩』と『人工の石垣』のコラボを楽しめる、眺望抜群の城郭・苗木城の概要と大人散策情報のプランニング内容を共有」させて頂きます

【苗木城の概要】

まずは、苗木城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

苗木城(なえぎじょう)は、岐阜県中津川市苗木にあった日本の城。別名は霞ケ城。苗木藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。

概要
苗木城の城域は、城郭の主要部である内郭部分が約2万㎡、外郭部も含めると約35万㎡に達し、その内156.774㎡が、昭和56年(1981年)に国の史跡に指定された。城跡は中津川市内を東西に流れる木曽川の北岸に聳える城山(432m)にある。木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあり、自然の岩山の地形を有効に生かして造られた山城であった。苗木城の特徴としては岩山という地形に制約されて利用できる土地の確保が困難であったため巨岩等を利用した建物の建築方法(懸造)であったこと、また石垣には多種類の積み方が見られることである

歴史背景
・築城背景
鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭遠山氏の初代遠山景朝の長男遠山景村が、 仁治2年(1242年)木曽川北部の所領確立のため、木曽川南岸の左岸の西山戸から北岸の那木津戸に進出。那木津戸が当時、那木(苗木)と呼ばれた所で、遠山氏による木曽川北部進出の始まりとなった (略)

・武田氏、織田氏、森氏の苗木城攻め
天文年間(1532年~1555年)に遠山正廉が高森に苗木城を築く
天文24年(1555年)、木曾氏が甲斐の武田氏に降る
永禄3年(1560年)5月、苗木勘太郎(直廉同一人物説有り)が桶狭間の戦いに出陣する
永禄8年(1565年)苗木勘太郎の娘(織田信長の養女)が武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ (略)
永禄13年(1570年) (略) 信長の命令で飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を相続する (略)
天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美濃に侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とす
天正3年(1575年)、織田信忠が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還する  (略)
天正10年(1582年)可児郡の兼山城主であった森長可が苗木を攻める
天正11年(1583年)兼山城主の森長可再び苗木地方を攻め苗木城が落城。遠山友忠・遠山友政父子は徳川家康を頼り浜松に走る 

・安土桃山期
慶長4年(1599年)森氏 信濃川中島に移封される。川尻直次が苗木城主となり、関治兵衛が城代となる
慶長5年(1600年)遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略し、徳川家康から苗木領を安堵され、後に苗木藩が成立する

・明治以降
明治2年(1869年)苗木藩主の遠山友詳(友禄)が版籍奉還により藩知事となる (略)
1981年(昭和56年)、国の史跡に指定された (略)
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(142番)に選定された 

遺構
本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っている
天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが特徴
・菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。大手口道は長さ500m、高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。
・建築物としては、大手門の扉と柱が残り、中津川市苗木遠山史料館にて展示されている。

伝説
「赤壁城」の別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられる。その理由については、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が残されている。
また、中部日本新聞(後の中日新聞)夕刊に1960年代前半に掲載されていた「ふるさとの童話」という記事にも同じような物語が紹介された。苗木城は美しい白壁の城として完成したが、一夜明けると漆喰が全部落ちて赤土が露出している。何度塗りなおしても、朝になると同じことであった。殿様は、犯人を見届けてやろうと、一人で夜の天守閣で見張っていた。すると、夜空が掻き曇って雨風が出て来たかと思うと、恐ろしい大きな竜が現われ、熱い息を城に吐きかけると、たちまち壁が落ちてしまったという。
実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかったと思われる(幕末期に1万石で城持ちの藩は苗木藩のみである) (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/苗木城

少々戦国期のこの地域の支配体制が良く見えない部分もあると思うので、その渦中にいた「遠山氏」についてもWikipediaで調べてみると以下の様にあります。

遠山氏(とおやまし)は、武家・華族だった日本の氏族。
平安時代末期に加藤景廉が美濃国遠山荘の地頭職を与えられ、その長男の遠山景朝が遠山姓を名乗ったことに始まる
岩村城を本拠地として美濃東部で遠山七頭(七遠山)が繁栄。土岐氏と並ぶ美濃の名族として、室町時代には、将軍家奉公衆となる者が出た

宗家の岩村遠山氏・飯羽間遠山氏・安木遠山氏・明照遠山氏は戦国時代末期に織田氏と武田氏の争いに巻き込まれて滅亡したが、徳川氏の麾下に入った明知遠山氏・串原遠山氏・苗木遠山氏は関ヶ原の戦いにおいて東軍に加わり、前哨戦の東濃の戦いにおいて戦功を挙げた。
その結果江戸幕府成立後には、
明知遠山氏は、遠山利景が6,530石の交代寄合(参勤交代する旗本)となり明知陣屋を本拠地として明治の版籍奉還まで続いた。
串原遠山氏は、遠山経景が明知遠山氏の家老となり500石で版籍奉還まで続いた。
苗木遠山氏は、飯羽間遠山氏から養子に入った遠山友政が苗木藩1万500石の外様大名となり、明治維新後には華族となり、廃藩置県後には子爵家に列した  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/遠山氏

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 苗木城の別名は霞ケ城とも言い、国の史跡で、続日本100名城にも登録されている
  • 遺構としては、本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っており、天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが特徴
  • 「赤壁城」の別名もあり、その理由は、「木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまう為、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていた」と言う伝説が残っているらしい
  • 苗木城の始まりは、鎌倉時代初期に岩村城(日本三大山城の一つ)を本拠地として恵那郡を統治した地頭、遠山氏の初代遠山景朝の長男遠山景村が、木曽川北部の所領確立のため、木曽川南岸の左岸の西山戸から北岸の那木津戸に進出した事に始まるらしい
  • 戦国期は、別記事で紹介した近くの「日本三大山城の一つ・岩村城」同様、甲斐武田家(武田信玄)と尾張織田家(織田信長)の領地争いの最前線であった為、複雑な歴史を持っており、統治者が頻繁に変わったようだが、その状況下、一旦苗木城を退き、浜松徳川家康の所に身を寄せていた(苗木)遠山氏が、関ヶ原で東軍につき、苗木城も奪還したことにより、苗木藩が成立し、明治維新まで(苗木)遠山氏の居城となった
  • この「苗木藩主としてこの地を明治維新まで治めた『苗木遠山氏』」のバクグラウンドは、名門とも言える遠山家の出で、本家筋の岩村遠山氏(苗木城の築城をした家で、三大山城の一つ・岩村城を築城したのも岩村遠山氏と言われているが滅亡)に加え、飯羽間遠山氏(滅亡)・安木遠山氏(滅亡)・明照遠山氏(滅亡)・明知遠山氏(旗本)・串原遠山氏(明智遠山家の家老)といくつもの遠山家が出来た内の一つらしい

巨岩と石垣を組み合わせ、自然の地形と共存する形で残る城郭は、お城好きならずとも中々魅力的な城跡だと思っております。幼少の頃一度だけ、親に連れられ参らせて頂いた事がありますが、当時はそのすごさを十分に理解できず、お城その物に関しては「変わったお城だなー」位の印象しか無かった一方、強く記憶の中に残っているのは、山梨(北杜市)からの道のりで通った中央道の長い長い恵那山トンネルと苗木城からの眺望。いい年になって思う事は、「確かに眺望もすごかった記憶だけど、『自然石の巨岩と石垣のコラボ』と『眺望』を改めてセットで楽しみ、『甲斐武田家(武田信玄)と尾張織田家(織田信長)が領地争いを繰り広げたこの地で、遠山氏の歩んできた苦難の道のり』とともに、その歴史に思いを馳せてみたい」と思ってしまった次第です。

【苗木城の見所】

上記、概要を抑えさせて頂きました苗木城ですが、こちらのパートでは、その見所を見て行きたいと思います。

苗木城でのお楽しみは、上記にも記載しましたが、「自然石(巨石)と石垣を見事に組み合わせた城郭全体の構造とそこからの眺望」ここさえ意識していれば、かなり苗木城を満喫できるのでないかと思いますが、中々の急こう配でもある様ですので、足元に気を付けつつ進んでいきたいと思います。同時に、苗木遠山資料館といった施設もある様ですので、こちらにまずは寄って、苗木遠山氏の歴史を理解した上で、城郭の大人散策を楽しませて頂こうと思った次第です。

■スタートは「苗木遠山資料館」

基本車でのアクセスを前提として、参らせて頂き、出来れば「苗木遠山資料館」前の駐車場に車を停め、苗木遠山氏と苗木城の情報集を少ししてから、苗木城の大人散策をスタートしたいと思っています。拝見する限り広目の駐車場がいくつもありそうなので、駐車できないリスクは余り感が無くてよい気がしました…。

■苗木遠山資料館から大矢倉跡へ

資料館を出でて大人散策を開始すると苗木城の遠望が楽しめる様です。足軽長屋跡や大矢倉跡付近から、苗木城の遠望を楽しみつつ、ゆっくりと本丸を目指したいと思います。また、三の丸にある大矢倉跡では、早速「自然石の巨石を取り込んだ石垣」が見える様なので、そのコラボレーションを楽しむべきだと思っています。

■大矢倉跡の後は城郭の南端付近の笠置矢倉跡を目指します

大矢倉跡で、自然巨石と石垣のコラボレーションを堪能した後は、南端付近の笠置矢倉跡を目指します。本丸までの道は、つづら折りになっている様で、いつもの門跡、蔵跡があるようですが、様々な種類の石垣や大矢倉跡の遠望も見える様で、それらを楽しみつつ進んでいくと、本丸の手前で、城郭南側の馬洗岩や笠置矢倉跡に行ける様です。南側には、木曽川を望む景色が広がっているようですので、その眺望を併せて楽しませて頂こうと思います

笠置矢倉跡からは本丸を目指します

笠置矢倉跡からは本丸を目指します天守を支える柱があったと言われる場所を基にして、展望台が組まれているようです。心情的には天守を再建してほしい気もしますが、大人の事情として中々そうはいかないとも思いますので、現在の展望台からこの地域の景観を楽しみつつ、苗木遠山氏も見たであろうその眺望を満喫させて頂こうと思います。

■本丸の後は城郭を「北⇒東⇒南⇒西へ」と回り込みたいと思います

本丸で、この地域の美しい眺望を満喫した後は、本丸周囲をぐるり一周出来る様ですので、「北⇒東⇒南⇒西」と一回りしてみようと思っています。仕切門跡・物見矢倉跡・不明門跡と回ると二の丸に通じる様ですので、本丸を囲う石垣と自然の巨岩のコラボレーションを最も迫力ある角度で楽しめるエリアではないかと思った次第です。

■その他

苗木城祉の周囲(元々は城内?)には、苗木さくら公園や苗木遠山家廟所もある様です。季節によっては、桜も楽しみたいですし、苗木遠山家の墓所で手を合わせる事もさせて頂きたいと思っております。どの程度の労力が必要か見えませんが、地図で拝見する限り1時間も余分に見れば回れそうですので、出来る限り脚を延ばしてみようと考えております。

【最後に】

以上が、「『自然の巨岩』と『人工の石垣』のコラボを楽しめる、眺望抜群の城郭・苗木城の概要と大人散策情報のプランニング内容を共有」させて頂いた内容になります

車で1時間しない場所には、岩村城(日本三大山城)の一つもあるので、苗木城・岩村城のセットで大人散策を楽しみたいと思うと同時に、中山道の馬籠宿・妻籠宿と併せて大人散策を楽しんでもよい地域でないかと思っています(個人的には、中山道の街道歩きも楽しみたいので「(電車の利用も前提ですが)奈良井⇒福島⇒妻籠⇒馬籠」と別の機会で中山道を辿ってみようと計画中ですが…)。いずれにしても、日本の歴史に思いを馳せつつ大人散策させて頂くには、中々魅力的なエリアだと思っている次第で、中々居住地の川越からは若干アクセスしにくい場所ですが、何度かお邪魔し、大人散策を楽しませて頂こうと思っている所です。大人散策遂行後、改めて本ブログにてご報告させて頂こうと思います!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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