【はじめに】
こちらのページでは、「日本三大山城の一つで、戦国期に甲斐武田氏と尾張織田氏の領地争いの最前線となった、岐阜県恵那市にある岩村城の概要サーチと大人散策のプランニング」をさせて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「岩村城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 六段壁の圧巻の石垣
- 日本三大山城の一つで、近世城郭の中で最も標高の高い場所(700m以上)に築かれたお城
- 日本100名城の一つでもある
- 甲斐武田氏(武田信玄)と尾張織田氏(織田信長)の領地争いにおける最前線
- 女城主・おつやの方の悲哀の物語
- 甲州征伐時における、信長の拠点
- 江戸期に入ると徳川譜代の大名が居城とし、1700年代頭に、大給松平氏が入城すると以降明治維新までの居となった
- 森成利(蘭丸)が、岩村城主を務めた事もあるお城
- 城下町は、NHK朝ドラ・半分青いのロケ地でもあった
岩村城と聞いて真っ先に思い出すのは、六段壁の迫力ある石垣。甲斐武田氏(武田信玄)と尾張織田氏(織田信長)の領地争いの最前線だけあって、歴史的に見てもワクワクが止まらないお城だと認識しています。こちらのページでは、そんな「日本三大山城の一つで、戦国期に甲斐武田氏と尾張織田氏の領地争いの最前線となった、岐阜県恵那市にある岩村城の概要サーチと大人散策のプランニング」させて頂きます。
【岩村城の概要】
まずは、岩村城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。
岩村城(いわむらじょう)は、岐阜県恵那市岩村町にあった中世の日本の城(山城)。鎌倉幕府御家人の遠山氏宗家の岩村遠山氏が鎌倉時代初期に築いたとされ、別名「霧ヶ城」とも呼ばれた。戦国時代末期には織田氏と武田氏の争奪戦に巻き込まれた。江戸時代には岩村藩の城となった。
奈良県の高取城、岡山県の備中松山城と並び、日本三大山城の一つとされる。
また中津川市の苗木城、可児市の兼山城と並び岐阜の三山城とも称される。岐阜県指定史跡。概要
岩村城は恵那市の南部に位置し、明知鉄道明知線岩村駅の南東に位置する城山山上にある。本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置していた。このため、日本三大山城の一つに数えられている。「女城主おつやの方」の悲哀の物語が残る (略)戦国時代以前
鎌倉幕府の御家人加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまで城主であった。景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代初期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであり、織田氏・徳川氏・武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的な城山が構築されていったとみられる (略)戦国時代・安土桃山時代
・1570年(元亀元年) 甲斐国の武田氏の家臣で、信濃伊那郡の大島城を拠点に伊那郡代であった秋山虎繁(信友)が東濃に侵攻 (略)
・1572年(元亀3年)(略) 信長は5男で幼少の(御坊丸)を岩村遠山氏の養子とした。後見は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
・1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び虎繁に岩村城の攻略を命じた。岩村城は武田方に包囲されたが信長は諸戦で助けに来ることができず、おつやの方は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏。
・1573年(元亀4年)2月末に虎繁はおつやの方を妻に迎えた (略)
・1575年(天正3年) 同年5月21日の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず城は陥落した。開城の際、虎繁の助命が約されていたが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された (略)
・1582年(天正10年)織田氏による甲州征伐が行われたが、武田氏が天目山の戦いで滅亡するまで 信長は信濃へ足を踏み入れることをせず岩村城に滞在して戦果の報告を受けていた (略) 岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。この時の城代となった森氏家老、各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した (略)
・1599年(慶長4年)豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。
・1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、岩村城は田丸主水が城代となっていたが、遠山利景・遠山友政・小里光親らに攻められて田丸主水は城を明け渡した。(東濃の戦い)
・1601年(慶長6年) 松平家乗が城主となって岩村藩が立藩した。家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備した。武田信玄と織田信長 江戸時代
・1645年(正保2年) 大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城。
・1702年(元禄15年) お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封となった。同年に信濃小諸城より松平乗紀が入城した。乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けた。以後、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。
・1707年(宝永4年)10月4日 宝永地震により城郭が被害を受けた。近現代
・1873年(明治6年)廃城令により、城は解体され石垣のみとなった。藩主邸は残されたが、1881年(明治14年)に全焼した。跡地には1972年(昭和47年)岩村町歴史資料館(現・岩村歴史資料館)が開館した。
・2006年(平成18年)には日本100名城の一つに指定された。歴代城主
・岩村遠山氏
遠山景朝:源頼朝の重臣・加藤景廉の子。
遠山景員:遠山景朝の三男で岩村遠山氏の初代 (略)
おつやの方:天正3年(1575年)11月、織田家に投降したが刑死。・武田氏
秋山信友:天正3年(1575年)11月、織田家に投降したが刑死。・織田氏
河尻秀隆:天正10年(1582年)6月、甲斐にて武田遺臣により殺害される。
団忠正:天正10年(1582年)6月、本能寺の変により死去。・森氏
森蘭丸:森長可の家老各務元正(各務兵庫)が岩村城代を務めた。
森長可:同上 (略)・大給松平氏 2万石(譜代)
松平家乗 / 松平乗寿・丹羽氏 2万石(譜代)
丹羽氏信 / 丹羽氏定 / 丹羽氏純 / 丹羽氏明 / 丹羽氏音・大給(分派)松平氏 2万石→3万石(譜代)
松平乗紀 / 松平乗賢 / 松平乗薀 / 松平乗保 / 松平乗美 / 松平乗喬 / 松平乗命 (略)岩村城の散策Map (恵那市観光協会のHP(https://www.kankou-ena.jp/)より) 遺構・木造復元
建造物は廃城の際解体されたが、遺構の保存状態は良く曲輪、高石垣、井戸等が良く残る (略)
岩村町の妙法寺には岩村城の城門であった二の丸赤時門が山門として使用されている。
岩村町の隆崇院の境内には岩村城の二の丸にあった弁財天社が移築されている。
岩村町の徳祥寺には岩村城の城門であった土岐門が明治6年(1873年)に移築され、山門として所在する。
恵那市上矢作町の円頂寺の畳八畳分の天井絵は岩村城より移築された「八方睨みの龍」が使用されている。どこからみても龍が睨んでいるように見えることから、このように呼ばれる。
藩校の知新館の正門と釈奠の間(岐阜県指定文化財)が現存し、城の麓の藩主邸跡に移築されている。城跡公園
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩村城
同じく城の麓の藩主邸跡において、表御門・平重門・太鼓櫓が平成2年(1990年)に木造復元された (略)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 岩村城は、岐阜県恵那市岩村町にある山城で、日本三大山城の一つ(あとの2つは、備中松山城・高取城)で、日本100名城の一つでもあり、六段壁をはじめとして、曲輪・石垣が良く残っている、江戸時代の諸藩の中で最も標高の高い場所に位置したお城
- 中津川市の苗木城、可児市の兼山城と並び岐阜の三山城ともいわれる「岐阜県指定史跡」
- 岩村城は、鎌倉幕府の御家人・加藤景廉の長男・遠山景朝が、築城した事に始まり、戦国期は、武田信玄と織田信長が領地争いを行った最前線
- 甲斐武田氏により落城されるまで、女城主・おつやの方(信長の伯母)が実質的な城主として差配を行いた(この時までは織田方のお城)と言われ、その後の武田方のお城であった期間にも、織田氏が絡んでいた様で、少々複雑な経過をたどるが、武田信玄の他界後、長篠合戦を期に武田氏が弱体化すると、信長は岩村城を再度奪取し(この時「おつやの方の悲哀の物語」が起こる)、甲州征伐時には、信長自身が、拠点を置いた場所と言われる(武田氏(勝頼)が天目山の戦いで滅亡するまで、信長は岩村城に滞在)
- 江戸期に入ると徳川譜代の大名が居城とし、1700年代頭に、大給松平氏が入城すると以降明治維新までの居となった
- 織田氏の統治下にあった期間には、甲州征伐の後に甲斐を統治していた河尻秀隆(甲府の躑躅ヶ崎館を拠点にしていたが、本能寺の変の直後、甲斐にて武田遺臣により暗殺)や本能寺の変の折、信長共に他界した森成利(蘭丸)、小牧長久手の戦いで戦死した森長可等が、岩村城主を務めた
甲斐武田氏(武田信玄)と尾張織田氏(織田信長)の領地争いの最前線であった事から、戦国期には、少々複雑な歴史をたどり、「おつやの方の悲劇」も生まれたお城であったと同時に、重要なお城であった事も伺えます。建物はほとんどが解体されてしまった様ですが、「現在でも曲輪や石垣はよくその遺構を残しており、日本三大山城の一つに数えられ、日本100名城にも数えられるお城が『岩村城』」と理解させて頂いた次第です。
【岩村城の周囲を含めた見所】
上記、概要を抑えさせて頂きました岩村城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。
■スタートは、岩村歴史資料館より
駐車場は、北側の岩村歴史資料館の付近と、本丸に近い出丸にあるようですが、日本三大山城の岩村城。しっかりと自身の足で登り、山城を実感したいので、北側の岩村歴史資料館付近の駐車場に車を停め、大人散策を開始したいと思います。大手付近の藩主邸跡には、木造で復元された表御門・平重門・太鼓櫓があるようですので、これらを拝見し、石畳の藤坂を登って、一の門・土岐門・追手門跡を見学し、霧ヶ井も拝見しつつ、八幡曲輪にある八幡神社を目指します。
■八幡神社の後は、六段壁の石垣を目指します
八幡神社からの進路ですが、城郭の構造上、本丸へは、回り込む形になる様ですので、岩村城の顔ともいえる、六段壁の石垣を目指します。「石垣の階層毎に犬走を設けた六段壁」は、八王子城のそれとも似ていますが、規模はかなりの物の様です(石の積み方は、谷積がメイン?)。八幡神社から六段壁までの道のりにも菱櫓跡の石垣もあるようですので、石垣をじっくいりと楽しみたいと思います。
■六段壁を下から堪能した後は、回り込んで二の丸を目指します
下から見上げた六段壁。そのまま裏門経由で本丸にアクセス出来る様ですが、ここはこらえて、東から南に回り込む形で出丸・二の丸と目指していきます。六段壁の迫力ある石垣も素晴らしいのでしょうが、GoogleMapで拝見していると、周囲にも石垣が巡らされているようで、野面積・打込接の中間的な感じで、また布積と乱積も混ざったように見え、石垣だけでも結構楽しめそうな気がします。それぞれの曲輪を巡り(二の丸は林に覆われているようで、どこまでいけるか分かりませんが…)、縄張りの構造と石垣のそれぞれを楽しみつつ、大人散策したいと思います。
■二の丸の次は、本丸へ
何処まで見学出来きるか不明ですが、二の丸の後は、表門より本丸を目指します。本丸の周囲も散策できるスペースがある様ですので、本丸エリアのみならず、六段壁の高さを、周囲の眺望とともに本丸からも感じつつ、山城の醍醐味を感じたいと思います。
本丸まで来たら、六段壁を下から見上げた際に一旦保留にした、裏門から、六段壁の迫力を感じつつ階段を降り、本丸を失礼し、六段壁の見納めを行って、来た道を戻ろうと思います。
【最後に】
以上が、「日本三大山城の一つで、戦国期に甲斐武田氏と尾張織田氏の領地争いの最前線となった、岐阜県恵那市にある岩村城の概要サーチと大人散策のプランニング」させて頂いた内容になります。
上記引用にもございますが、廃城令によりお城は解体され石垣のみになってしまったとの事ですが、妙法寺には岩村城の城門であった二の丸赤時門が山門として、徳祥寺には岩村城の城門であった土岐門が山門として残っているようで、更に恵那市上矢作町の円頂寺の畳八畳分の天井絵は岩村城より移築された「八方睨みの龍」が使用されているとの事です。旅行で行くことになると思い、スケジュール的に何処まで脚を延ばせるか分かりませんが、最下部のGoogle My Map にて、それぞれの場所を記載しますので、併せてご参照頂き、皆様の大人散策にお役立て頂ければ幸いです。
【2024年5月追加情報】
上記、概要と大人散策プランを記載させて頂きました「日本三大山城」の岩村城ですが、2024年4月、お邪魔させて頂く事がきました! 思った以上の勾配のキツイ登り坂でしたが、歩きやすく整備された道で、お城(山城)歩きを堪能させて頂きました。更に、元々予定していなかった城下町にも脚を伸ばし、充実した大人散策になった次第です。本ブログ別ページにて、その時に撮影した写真と含め「岩村城大人散策の様子」を共有致します。併せてご参照頂けますと幸いです!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。