喜多院

【はじめに】

こちらのページでは、『喜多院@川越は、川越城の出城だったのか?』という疑問に対し、個人的主観に基づくものですが、考察(妄想?)した内容を共有」させて頂こうと思います

本ブログ別記事で、「喜多院@川越」における概要や見所の大人散策情報を記載させて頂きましたし、喜多院に縁の深い「天海」に付き「天海=明智光秀説」に関する考察(妄想?)に関しても記載させて頂きました。言い換えますと、川越市民である私にとって喜多院は、観光名所として有名なおすすめスポットであると同時に、歴史的側面や神社仏閣を楽しむ側面においても魅力的なスポットだという事になります。

そんな喜多院ですが、昔から気になっている事があります。それは喜多院は、川越城の出城だったのか?」と言うものです。喜多院に脚を運ばれた事がある方であれば、喜多院の西側、並びに南の仙波東照宮を囲う様にある「大きくて深い『堀』」を見た事がある方も多いと思い、同時に、なんで喜多院という寺院(仙波東照宮は神社ですので「寺社」が適切?)に、これほど立派な堀があるのか、疑問に思った事がある方も多くいらっしゃると思います。私もその一人であると同時に、喜多院の堀は、お気に入りのスポット。幼少の頃に、北杜市の山道を駆け回った既視感も覚え、堀の底を散策していると、不思議と心が落ち着く空間で、中々「なぜ寺院の喜多院に『こんなに立派な堀』があるのか?」という事に関しては、考える事をしてきていませんでした。しかし先日、川越城喜多院を含むこのエリアの地形図」と「大坂城と真田丸があったと言われるエリアの地形図」が酷似している事に気づいた次第です。

こちらのページでは、上記事実に気づいてしまった喜多院の大きくて深い堀」に付き考察(妄想?)を加えさせて頂こうと思います。すなわち、喜多院@川越は、川越城の出城だったのか?』という疑問に対し、個人的主観に基づくものですが、考察(妄想?)した内容を共有」させて頂こうと思います

【現在の喜多院の堀ってどんな感じ?】

まずは「状況把握」、と言う訳ではありませんが、「喜多院、並びに仙波東照宮を囲う堀の現在の状況」と「川越城喜多院を含む地形図」を見ていきたいと思います。

喜多院、並びに仙波東照宮を囲う堀の現在の状況

以下に、喜多院並びに仙波東照宮の周囲を囲う堀の写真を共有いたします。写真だと中々伝わらない部分もありますが、それなりの「深さ」と「広さ」のある堀である事は、ご理解いただけると思い、「寺院の堀にしては、ちょっと立派すぎない?」・「そもそも喜多院って、寺院としての機能以外の役割もあったの?」と思ってしまうほどです。また、本題からは少しずれますが、緑の中の起伏ある地形ですので、子供達の絶好の遊び場のはずで、元気に走り回る子供達を遠目から眺めていると、幼少の頃北杜市で、山から山へ駆け巡っていた事を思い出してしまうスポットでもあります…。

川越城喜多院を含む地形図

以下に、川越城、並びに喜多院があるエリアの地形図(地理院より)と江戸時代の地図(アプリ・大江戸今昔めぐり(https://www.edomap.jp)より)を共有します。それぞれの地図をご覧頂くと、以下の事をご認識頂けるのでないかと思います。

  • 川越城は、武蔵野台地の突端に築城されたお城であり、南側の台地が続くエリア以外は、高低差と新河岸川(赤間川)・水堀に守られた場所に築城されている事
  • さらに、川越城の南には「谷」があり、更にその南に喜多院がある事
  • 川越城の南の堀・谷の先から再び高さ(標高)が戻ってくる場所にある喜多院(川越城の南にある富士見櫓跡から喜多院方面を見るとその高低差を実感できます)には、しっかりとした堀が江戸時代から現在に至るまで存在している事
  • また、西~南側の台地が続くエリアには、多くの寺社が、まるで川越城を守る曲輪の様に配置され、中でも喜多院は、南から来た川越城に延びる川越街道の「防衛ポイント」と思われる位置に、最も大きなスペースで配置されている事(喜多院の丁度「西のポイント」で、川越街道がクランクになっている(もしかしたら、桝形門の様な物もあった?)事も併せて…)

■江戸時代の喜多院の状況

上記、川越城喜多院が置かれたエリアの地形図と江戸期の地図をご確認いただきましたが、同じエリアの「古地図」(川越市立図書館のHPより)、並びに川越市立博物館にある「ジオラマ」を拝見すると、喜多院には、現状見る事が出来る堀だけではなく「その外周を囲う堀」もあった様に見受けられます。言い換えると、川越城を守る要」といった感じで配置されたとも見える喜多院だけは「二重の堀」を施した寺院だったという事になります。

【喜多院は川越城の出城だったのか?】

上記、「現在残る、深くて広い堀」・「喜多院の置かれた配置と地形」・「寺院にもかかわらず2重の堀が施された構造」と言った部分を、状況把握として記載させて頂きましたが、以下では、個人的に(勝手に)思った、喜多院川越城の出城」と想像を掻き立てるポイントを上げさせて頂きます

■「大坂城 & 真田丸の地形図」と「川越城 & 喜多院の地形図」が酷似

以下地形図は、川越城大坂城の地形図です。「なぜ大坂城の地形図を持ち出したか?」と言うと、出城として日本一有名と認識する『真田丸』が(1614年の大阪冬の陣の際に)あった事」、「大坂城と真田丸』・『川越城喜多院』の配置(地形的位置関係)が酷似している事」が見て取れるからです。

川越城は、上記記載の通り、武蔵野台地の突端に築かれたお城で、周囲を低地に囲まれ、想定されるメインの攻撃ルートは南側からになると思われますが(事実、河越夜戦の発端になった、川越城の南西の武蔵野台地上で行われた「三ツ木原合戦」により、扇谷上杉氏は北条氏川越城を奪われてます)、川越城南側には自然の谷があり、その先に喜多院がある配置となっています。

また、大坂城川越城のそれと同じで、上町台地の突端に築かれたお城で、周囲を低地に囲まれ、想定される攻撃ルートは南側からになると思われ(事実、大砲等の飛び道具による攻撃は別にして徳川軍の主要な攻撃は南側の天王寺口からであったと理解しています)、大坂城南側には自然の谷があり、その先に真田丸が築かれた認識です。

大阪の陣で徳川軍を苦しめた真田丸。それを真似て、一度南側からの攻撃で落城した経験がある川越城の守りを固めるべく、『ちょうどいい場所にあった喜多院を「出城として要塞化」したのでないか?』と思ってしまうのは、私だけでしょうか?

三ツ木原合戦北条氏綱が、1537年、河越城を手に入れようと扇谷上杉朝興の跡を継いだ朝定を攻めた戦いで、現在の西武新宿線・新狭山駅付近から川越市街地が戦場になったと言われておりますが、この戦いは、北条氏の勝利で終わり、朝定は河越城を奪われ、東松山の松山城に退く結果となったと言われているようです。
その後、河越城を取り返そうと、山内上杉氏・古河公方・扇谷上杉氏(総勢8万とも)の連合軍が河越城を取り囲みますが、河越城内の北条軍と北条氏綱の跡を継いだ北条氏康の援軍(8000程度の軍)により、河越城の奪取はかなわず、扇谷上杉朝定は討ち取られる事になった戦いが「河越夜戦(1546年)」と認識しております(詳細は別記事参照)

江戸城と川越城は元々兄弟城

本ブログ別記事でも記載いたしましたが、そもそも川越城江戸城は、①同じ年の1457年に築城されたお城で、②築城者が同じ太田道灌で、②古河公方対策として築城された目的を同じにするお城で、④それ故、連携を意識し川越街道(正確には、川越街道の元になった軍用路)でつながれた『兄弟城』だと認識しています。江戸期になっても堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保等の老中を輩出した事実からも想像できる様に、江戸川越の関係性は深く、現在でも小江戸と言われる川越。現在喜多院にある「客殿・書院・庫裏」は、1638年の川越大火で、喜多院も被害にあってしまった際、徳川家光の命により、江戸城紅葉山御殿の一部を移築物と伝わっている認識です(この際、部材を運ぶために新河岸川の舟運が開かれたとも言われているらしい)。

つまり申し上げたい事は、戦国期から現在に至るまで、深い関係性の江戸川越ですから、特に情勢が定まりきらない江戸初期においては、「万が一江戸城が攻撃を受けた際には、川越城も戦場になる事は容易に想像でき出来、反対に川越城が落とされると江戸城の防御性もダメージが大きい為、江戸城のディフェンスは勿論、川越城のディフェンスも江戸城のそれと同じくらい重要に考えていたはず」と思ってしまった次第で、そのディフェンスにおける教科書が、先の戦で徳川軍が、そのディフェンス力を目の当たりにした「出城・真田丸ではなかったかと想像(妄想)してしまった次第です(喜多院の堀がいつ作られたか不明ではありますが…)。

「天海=明智光秀」という仮説

上記については、喜多院の中興の祖」と言われる「天海が、「喜多院の住職であった事」も大きな影響を与えている認識です。事実関係が見えていない部分も多々ありますが、私の知る情報を以下に列挙します。

  • 天海は、1588年に当時は無量寺の「北院」と言われた寺院に移り、1599年に住職になった事で、歴史の表舞台に出てきた様で、1612年に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を「喜多院」と改めたと伝えられており、「喜多院の中興の祖」と言われる僧侶
  • その後、家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、1643年に(様々な説が有るようですが…)108歳で他界したと言われる
  • 天海は、江戸の街の設計にも深くかかわったとも言われ、『「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる事』や『江戸城の内部を渦郭式という「の」の字型の構造にする事』、『大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、江戸城の鬼門鎮護を厚くした事』、『江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬り徳川家の菩提寺とした事』、『江戸の三大祭(神田神社の神田祭、浅草神社の三社祭、日枝神社の山王祭)を江戸城鬼門と裏鬼門を浄める為に実施させた事』、『大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わった事』、『1624年に寛永寺を創建し自ら住職になった後、1627年にはその隣に上野東照宮を建立した事』等、江戸幕府に大きな影響を長期間与え続けたと言われる
  • 一方で天海の前半生は、不明な部分も多く、自身もあまり前半生の事を語らなかったと言われるが、上杉謙信武田信玄による川中島の合戦を遠望した事」や「信長による比叡山の焼き討ち後、信玄のもとに身を寄せた事(明智光秀の紹介とも)」と言った逸話も語られている
  • 別記事で記載していますので、詳細はそちらをご参照頂きたいのですが、明智光秀=天海説もまことしやかに語られている

■江戸初期に、天海が『喜多院』を『川越城の出城』として要塞化を進めたのでないか…

大阪の陣で、徳川軍を大いに苦しめた真田丸」は、真田信繁(幸村)と言う甲斐武田家の家臣筋の武将により、甲州流築城術の代表例と言われる「丸馬出し」の発展形として作られた「出城」であったとも言わている認識です。また、家康は多くの旧武田家家臣団を召し抱えている上、徳川も甲斐武田家に敬意を示す様な行動をしており(恵林寺の再興や甲州流の普及等)、天海自身も比叡山延暦寺の焼き討ちの後、信玄を頼って甲府に身を寄せている(恐らく恵林寺?)事を踏まえると、自ら火をつけた『大坂の陣』における『真田丸のディフェンス力』は(信玄つながりという事もあり)身に染みて理解したと思われ、『「自身の拠点である喜多院」を、「江戸城と表裏一体ともいえる川越城」の「出城」として活用できる』と思った事は想像でき、まだ情勢が安定しきらない江戸初期(1615年(大坂の陣)以降、天海喜多院再興を行っている頃?)に、「『喜多院』を『川越城の出城』として『要塞化』を進めたのでないか」と思ってしまった次第です…。それに、もし「明智光秀=天海説」が本当であれば、「武将」の視点で、尚の事上記発想をしたのでないかとも思ってしまった次第です…。

【最後に】

以上、『喜多院@川越は、川越城の出城だったのか?』という疑問に対し、個人的主観に基づくものですが、考察(妄想?)した内容を共有」申し上げさせて頂きましたが、皆様はどう思われましたでしょうか?

天海は、武田信玄とも繋がりのあった僧(もしかしたら武将・明智光秀?)であり、甲州流築城術の代表例・丸馬出しの発展形で、甲斐武田家・家臣筋の真田信繁(=幸村)が作った「真田丸」の効果を、自ら火をつけた大阪の陣で目の当たりにした為、自身の拠点である喜多院も、徳川とつながり深く、元々江戸城兄弟城ともいえ表裏一体である川越城『不測の事態に備えた江戸城の支城』と捉え、『喜多院川越城の出城として要塞化』した事により、『現在でも喜多院周囲には、深くて立派な堀が残った』」といった考察になった訳ですが…。

自分で考察しておいて言う事ではありませんが「状況証拠に基づく妄想?」とも思ってしまった次第です…。ただ、こういった考察(妄想?)は、非常に「知的欲求をそそるもの」であるとも思った次第でもあります。今後どのような発見があるかわかりませんが、皆様も深くて広い、そして幼少期を思い出すかもしれない喜多院の堀を大人散策し、日本の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

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