川越本丸御殿

※2023年2月、川越城本丸御殿の入口がリニューアルされておりました為、改めてお伺いしました。その際、内部の写真を撮影しました為、最下部に写真を追記しております。ご参照頂ければ幸いです。

【はじめに:観光地・川越にある、歴史的に価値の高い、川越城本丸御殿】

本日は、歴史の表舞台に度々登場し、関東の実質上の中心であったと言われる「川越城」をご紹介します

日本には、現存12天守と呼ばれる、江戸時代以前から現存する「12の天守」があります。同時に、あまり話題にはなりませんが、御殿の現存もあり(=現存4御殿)、これは日本で 4つしかありません。その内の一つが、川越城本丸御殿です。繰り返しですが、日本に4つしかない、現存する御殿のうちの一つが川越城本丸御殿」です(ちなみに、本丸に現存する御殿は、高知城とこの川越城のみ!)。

しかも、都心からのアクセスも良く、周辺は小江戸の愛称で知られる川越の観光地喜多院川越氷川神社をはじめとする神社仏閣、一番街と呼ばれる川越の街並み、菓子屋横丁と見所もたくさん。そんな川越城本丸御殿ですが、御殿の説明は、歴史的観点でもよく見ますし、よくロケ地にもなっているので、ここでは省き、別の見方で本丸御殿を楽しんで行きたいと思います

参考情報

【川越城が建てられた地形は?】

ここでの見方は、なぜ、この場所にお城を建てたのか?」を考えてみたいと思います。

川越城は、現在では新河岸川に囲まれた高台(台地のキワ)に建っています。実際に現地に行き、東側に目を向けると、野球場(初雁公園)がありますが、一段低く、その先が新河岸川で、さらにその先が低地になっています(現在の新河岸川は近代以降に掘削されたと認識しており、その際川越城の堀が活用された認識ですが…)。また、本丸御殿から南側に少し行った所に「富士見櫓跡」があるのですが、そちらまで足を延ばしていただくと、川越城が台地のキワに立っている事を更に実感できると思われます。以下写真の通り、木々に覆われいますが、その場に建っていただくと視界が抜けている事ご理解頂けると思います(ちなみに、喜多院富士山も(頭だけですが)見えます!)。

川越城富士見櫓跡の様子①

また、北側にある氷川神社の境内を南から北に抜けると、やはり新河岸川があり高低差を実感する事が出来る一方、南西側は現在の川越の中心街となっており、ここは台地の上の高台で川越街道があります。更に、新河岸川の外側を見ると、その外縁部は入間川・荒川に囲まれています。言い換えますと、重点的に守る必要があるのは、南西の川越街道から、西側の台地が陸続きになっている方面のみになるという事です。下記に、川越城の周囲も含めた高低差がわかる地図で、記載しますが、これを見ると本当によく考えて築城場所を考え、お城が建てられている事、よくわかると思います

【川越城と江戸城のつながり、ご存じですか?】

この地形を見ると思い出すのが江戸城。こちらも、大手門側日比谷入り江の低地にありますが、半蔵門側はかなりの高台の台地のキワにあり、甲州街道に通じています。こちらも言い換えれば、重点的に守るのは「半蔵門から伸びる甲州街道方面」となります(ちなみにですが、甲州街道半蔵門から、新宿方面に歩いて頂くと、両側が低く、尾根道になっている事に気づかれると思います。つまり、甲州街道をこの地形を利用しつつ抑えれば、江戸城の守りは、万全になると言う事です)。 そう考えると、ここにお城を建てたかった理由をなんとなく感じてしまいます。こちらも高低差を含め地図をみると、上記ご理解頂けると思います

基本お城を建てるエリア・地形は、時代によって異なるのも事実で、舌状台地を利用する事が一般的な気もしますが、この2つのお城は…。こんなことを考え、ここまでくると、出てくる名前は、江戸城と川越城の築城主である太田道灌ですねこの2つのお城の築城年は、1457年と同じ。彼は、どっちらのお城を先に構想したのでしょうね? (恐らく主家・山内上杉氏の居城である川越城が先の気がしますが…) でも、この2つのお城の似通ったポイントを見ると、勿論同じ時代なので当たり前と言えば当たり前ですが、おそらく彼・太田道灌は、同じ対古河公方という目的の元、同じ哲学で、築城を進めていったのでしょうね(江戸城は、太田道灌よりも前の時代の江戸氏の館跡を改修したと言われている様ので、江戸城に関しては「築城」と言うより「大規模改修」の言い方の方が適切かもしれませんが…)。「構造物から地形や時代等に考えを巡らせ、人の心に思いを馳せる事こそ『大人散策』かなー」と、ふと思ってしまった次第です…。

【川越城と江戸城は、父親・太田道灌で兄弟城?】

上記の様な状況なので、今少し「川越城と江戸城のつながり」を歴史的背景を踏まえ考察させて頂こうと思います。

上記にも、記載しましたが、太田道灌による川越城と江戸城の築城は「1457年」と言われており、Wikipediaには、川越城・江戸城のそれぞれの項目に、以下の様にあります。

■ 川越城

武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/川越城

■ 江戸城

(略) 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

■ 歴史的背景

また、上記引用中『「享徳の乱」に際して…』とありますが、皆様はこの乱の事、ご存じでしょうか? 私自身は、あまり認識がないので、改めてWikipediaの力を借り、調べてみますと、以下の様にあります。

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) – 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている (略)

一連の戦いの結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/享徳の乱

上記それぞれの引用をまとめて、私なりの理解を記載いたしますと、以下の様になります。

享徳の乱は、「関東における戦国時代の始まりを告げる戦いで、『鎌倉公方(後に初代古河公方)・足利氏(居城は茨城の古河城)』と『関東管領・山内上杉氏(この時は扇谷上杉氏は、山内上杉氏は対立していないで、居城は群馬藤岡の平井城)』が、(利根川東遷前の当時の流れの)利根川を境に、28年にわたり戦った物」と理解させて頂きました。言い換えると、「江戸城は、山内上杉氏方の扇谷上杉氏家臣・太田道灌が、享徳の乱における、対古河公方・足利( 成氏)氏に対し、河越城と共に築いたお城」と言う理解をさせて頂いた次第です。もっと言ってしまうと、江戸城と川越城は、兄弟城だったと言う事と理解した次第です。

以下に、少し大雑把で乱暴な地図ですが、上記イメージを今少し膨らませるべく、位置関係地形図と共に共有します。ちなみに、川越街道」が整備されたのは、太田道灌が川越城と江戸城の築城をした際、軍用道路の整備を開始した事が始まりとの記載もありますので、更に言ってしまうと、平井城のある群馬藤岡と川越城も「川越児玉往還」でほぼほぼつながっている認識をして良いと思った次第です。

以下、スライドショーの形式:こちらで見た方がイメージしやすいかもしれませんで、以下もご参照ください!

【最後に】

以上が、個人的な妄想も含んでしましましたが、関東の実質上の中心であったと言われる「川越城」の歴史や地形を踏まえ、太田道灌によって同じ年・同じ目的で築城された江戸城の情報と共にご紹介した内容になりますが、皆様はどんな感想をお持ちになりましたでしょうか?

ちなみに、川越城本丸御殿のすぐ北には、本ブログ別記事でも紹介していますが川越市立博物館があります。この博物館は、大人の知的欲求を満たしてくれる博物館で、太田道灌に関する展示、川越の江戸時代を模したジオラマ等の展示もあり、お勧めですので、川越城本丸御殿にお越しの際は、併せて訪れてみてはいかがかと存じます。

また、本ブログの別記事で、「①川越の雰囲気を感じるコース」「②川越を知るコース」「③それぞれの楽しみ方で川越を楽しむ」「川越のおすすめレストラン一覧」をそれぞれ紹介していますし、「河越夜戦における戦いの経過」に付き勝手な個人的仮説を別記事で紹介していますので、是非皆様も、「川越本丸御殿・江戸城周辺の大人散策」を楽しみつつ遂行いただき、皆様独自の視点で、その地域の歴史に思いを馳せてみてはいかがかと思う次第です。

【2023年2月追加情報】

2023年2月、川越城本丸御殿の入口(建物でなく外側)がリニューアルされていた為、再度(「再々々々…度」ですが…)お伺いし、内部も拝見させて頂いました。これまででは、撮影が難しかった「見事な唐破風の車寄せ」を正面からも撮影出来、川越城本丸御殿の貫録を更に味わえる様になっていました。内部の写真と併せ以下に紹介しますので、ご参照頂ければ幸いです。

歴史を感じる内部で、現在の市街地と当時の縄張りの比較や、年表を拝見しつつ、見学できます! ちなみに、御殿内にある人形の展示は「幕末の江戸湾警備に関して、相談している様子」だそうです。また、一時期川越高校の講堂として使用されていたとの事で、天井にはボールの跡もあります…。尚、これまで撮影が難しかった唐破風が立派な車寄せ(玄関)も正面から撮影できるようになりました!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

高低差の地図は、地理院ホームページにて、作成したものを引用し、位置関係は、Google Map のキャプチャーに自信で手書きで、情報追加。

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