河越氏館跡、常楽寺

【はじめに:「川越と河越」とは?】

本日は、「かわごえ」は、「かわごえ」でも、「川越」ではなく、「河越」のご紹介を致します「???・・・、何言ってんだ?」と言う感じですよね? 川越市には、河越氏館跡と言う、国指定の館跡があり、こちらの中にある常楽寺と併せて紹介致します

川越と言えば、西武新宿線の本川越駅から北に10~15分程歩いた所にある、蔵通り・時の鐘等の小江戸と呼ばれる街並みや、菓子屋横丁喜多院川越氷川神社と言った、有名観光スポットが沢山あり(川越観光小江戸・川越での楽しみ方:大人観光の楽しみ方とおすすめルートに関しては、別記事で紹介しております)、年間で観光にいらっしゃる方は、700万と言われているようで、観光とそれに関連する産業が、重要である事、疑いがありません。しかし、その観光地は、上記に記載した、エリアにほとんど限られており、河越氏館」と言われても、ご存じない方がほとんどだと思います

(観光客数に関しては、色々と数字の取り方がある様なので、今回は川越市役所のホームページの数字を使わせて頂きました:https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankobenrijoho/kankotokeishiryo/irikomi.files/20200207-1.pdf)

【河越氏とは? 現在の遺構】

そもそも河越氏ですが、Wikipedia によると、桓武平氏の秩父氏の流れをくむようで、以下の様にあります。

平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を張った豪族の氏族である。 坂東八平氏秩父氏の嫡流であり、河越館(現埼玉県川越市上戸)を拠点として国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を取りまとめていた

https://ja.wikipedia.org/wiki/河越氏

つまり、「平安時代~鎌倉時代あたりの話で、その時代に活躍した一族で、武蔵国の在庁筆頭格と言う事の様です。川越市上戸と場所の記載もありますが、先に、河越氏の事に付き、もう少し記載しますと、上記の通り、平安時代あたりから時代の表舞台に出てきた一族の様で、一番有名と思われるのは、皆さんもご承知の歴史上の人物に、深く関連していると言う事です。その人物は、源義経。彼の正妻は、この河越氏の出である、郷御前(=川越では、京都に嫁いだことから、京姫とも言われており、父は、本ブログの川越祭りでご紹介した、河越重頼)。この河越氏館跡の一角と思われる地に、常楽寺と言う寺院があり、ここに重頼、義経、京姫(=郷御前)の供養塔があります(先日お伺いした際に写真を撮りましたが、非常に真新しいものでした・・・)。

ちなみにこの常楽寺、Wikipedia によると、”元々は河越氏館の中にあった持仏堂が基となって発展したものとされる”(https://ja.wikipedia.org/wiki/常楽寺_(川越市))、とありますので、かなり歴史のある寺院と言う事ですね。

門には、立派な仁王様がいらっしゃり、決して大きくはありませんが、立派な寺院だと思います。しかし、今は館跡なので、最終的には、河越氏は没落したと言う事でしょうが、没落したのは、南北朝時代の様です。義経が頼朝に打たれた後、京姫も重頼もこの世を去っているようですが、数十年の後、一族は復活したようです。その後、1368年に、当時の関東管領であった上杉氏に反乱を起こすも、敗れ没落したようです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/河越氏より)。

しかし、その後も、その場所は、出城としての機能を持っていたようですが、1590年の秀吉により、小田原征伐の際に、川越城の陥落とともに、廃城となっているとの事のなので(https://ja.wikipedia.org/wiki/河越館、より)、河越氏は1368年、河越館は1590年あたりで、それぞれ歴史の表舞台から去ったという事の様です

(ちなみにこの場所は、河越夜戦の際、山内上杉氏が陣を敷いたかもしれないと言われていますが、その河越夜戦に関し、「河越夜戦における戦いの経過」に付き勝手な個人的仮説を別記事で紹介していますので、そちらもご参照ください。また、河越氏よりも前の時代のこの地域(入間郡の中心地と目される・霞ヶ関・的場地域)に関しても別記事で紹介しております)

【河越館跡で流鏑馬が開催!】

そして現在この場所は、発掘調査が行われ、上記に述べた常楽寺があり、広場、国の史跡公園(何処に何があったかを示している:写真参照)等に整備されています。入間川にほど近い、住宅街にそれなりの広さがあり、土塁跡も見る事が出来ます

またこの広場では、秋に、流鏑馬、が行われております。写真の通り、馬も、よくテレビで見るサラブレットでなく、和種の馬で、観客も少ない為、まじかで拝見することが出来ます。和種の馬で、しかも馬の息遣いが聞こえるまじかで、流鏑馬を拝見できる機会は、中々無いと思うので、実施される際には、毎回拝見させて頂いております。写真の通り、本当にカッコいいんです!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

【最後に:河越氏館跡がある場所と「川越」と言う地名の由来】

尚、この河越館跡は、川越市中心部からの位置関係で申し上げますと、中心部からは、北西に4-5㎞位の入間川を越えた位置にあります。館を構えるには、ちょっと不安な地形に思えますし(元々河越氏は、荘官なので、水田がこの地に多くあったという意味では、納得できる場所です。川越中心部の台地では、稲作は難しいと思うので・・・)、最寄り駅も、川越駅でなく、東武東上線の霞ヶ関駅(埼玉なのに霞ヶ関?:あの有名な霞ヶ関カンツリークラブへ行くための駅として作られたと地元では言われているようですが、事実は知りません)から徒歩で、北東に10~15分位だと思うので、はっきり言って、川越の外れにあると思います(近くの方すいません…)。

しかし、この川越市上戸・的場地域には、古墳や遺跡もかなりあり、東山道武蔵路の痕跡入間群家の遺跡も見つかっているそうです(それぞれ別記事で紹介していますので併せてご参照ください)。もう少し近い話では、「狭山茶の原点は河越茶らしい」なる話も耳にすると、もしかしたら、そもそもの川越の中心は、この辺りだったのではないかと思ってしまいます

ちなみに川越の名前の由来ですが、「川に囲まれた川越には、川(入間川等)を超えないと入れないから」と一説では、言われているようです。しかし、上記、河越氏とその前の時代の事を考えると、「川越の名前の由来は、河越氏が治めていた地だから」が、順当な考え方の様な気がし、現在の川越は、この地から始まったとも思ってしまいます

そんな、現在は川越の外れ(近くの方、何度もすいません…)ですが、川越のもとになった(かもしれない)、国指定の史跡、河越氏館跡に足を延ばしてみては、如何でしょうか?

(更に川越の周辺における散策(散歩)/ポタリング情報として、古墳に関しても別記事で紹介しております。また、河越氏よりも前の時代のこの地域(入間郡の中心地と目される・霞ヶ関・的場地域)に関しても別記事で紹介しております)

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