【はじめに】
こちらのページでは、「(個人的な所見含みますが)疑問の残る歴史を持つ『土の城の代表格・滝山城(@八王子)』に付き、大人散策情報を記載」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「滝山城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 続日本100名城の1つ
- 位置づけ的には、平山城のカテゴリーになる認識
- 後北条氏の小田原城の支城
- 後北条氏の土の城の代表格とも言われる
- 2万の軍勢を超える武田信玄の攻撃を2000の兵でしのぎ切った
- 北条氏康の三男・氏照のお城で、武田信玄の攻撃を受けた後、山城である「八王子城」に移転した
滝山城は、関東における土の城の代表ともいえる大規模なお城と認識しており、北条氏康の三男・氏照が城主であった事を考えても、北条氏一門における支城としても代表格のお城になると思っております。少しブレる分類かもしれませんが、平山城としても認識してるので、「土の城&平山城の代表格=滝山城」と言ったイメージを(個人的ですが)持っているという意味です。しかし、別記事の八王子城の大人散策情報のページでも記載しましたが、その滝山城から、時代に逆行するように、山城の八王子城に移り、最終的には、秀吉の小田原征伐の一環としての八王子城合戦で、上杉氏、前田氏、真田氏に攻められ、八王子城は落城。小田原征伐の中では、他に類を見ない殲滅戦となってしまった訳です。後世を知る、現代人の勝手な結果論による邪推に過ぎないのかもしれませんが「なぜこんなに優れた滝山城を捨て、城郭としては大規模だが、曲輪の数も、それぞれの大きさも小規模と思われる八王子城に移ったのか?」、「なぜ滝山城を捨てる必要があったのか?」と言う疑問を持ってしまいます…。
こちらのページでは、そんな「(個人的な所見含みますが)疑問の残る歴史を持つ『土の城の代表格・滝山城(@八王子)』に付き、大人散策情報を記載」させて頂きます。
【滝山城の概要】
まずは、滝山城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます(引用読まなくても大丈夫です…))。
滝山城(たきやまじょう)は、東京都八王子市丹木町にあった戦国時代の日本の城。国の史跡。大石氏、北条氏照の居城。
概要
現在は『滝山城址公園(たきやまじょうしこうえん)』として整備済み。八王子駅から西東京バスによる定期便あり。多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要塞で、関東随一の規模を誇ったという。
現在、遺構として本丸・中の丸・空堀・竪堀・虎口・曲輪・土橋・土塁・竪堀、曲輪などが残っており、国の史跡に指定された(1951年(昭和26年)6月9日指定)。大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり桜の名所であるが未だに私有地もあるので公園化されない部分が多いのも現状である。
遺構の保存状態がよく、かつそれがわかりやすいため、中世城郭の最高傑作とも言われている。築城時期・氏照入城時期
1521年(永正18年・大永元年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重、定久が築城し、高月城から移ったといわれているが、実際は分かってない。1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した (略)滝山城((滝山城築城500年(八王子市による記念事業?:https://hachioji-takiyama-500th.com)のページより)) 永禄12年の滝山合戦
(略) 永禄12年(1569年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍約2万人が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が未整備の間道(甲州街道の前身)を通り小仏峠から進入、これに対し北条氏方は廿里で迎撃したが一蹴された(廿里古戦場)。後北条氏方は予測外の方向より攻められた為、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったともいわれているが、真相は謎である (略)拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 拝島大師 本覚院 大日堂 仁王門(普明寺) 大日堂 仁王門(普明寺) 大日堂 仁王門(普明寺) 大日堂 仁王門(普明寺) 大日堂 (普明寺) 大日堂 (普明寺):奥の高台は滝山城がある台地 大日堂 (普明寺) 大日堂 (普明寺) 大日堂 (普明寺) 武田信玄の滝山城攻めにおける本陣跡かもしれない付近にある「拝島大師 本覚院」・「大日堂(普明寺)」 八王子城の縄張り(八王子市のHP(https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/kyoiku/005/bunkazaikanrenshisetsu/p005201.html)にある、八王子城のパンフレットより) 現代
1951年(昭和26年)6月9日、 史跡名勝天然記念物に指定された。
2017年(平成29年)、日本城郭協会により「続日本100名城」(123番)に選定された。構造
https://ja.wikipedia.org/wiki/滝山城
滝山城は、伝二の丸の集中防衛を意識して作られており、二の丸の周囲には馬出状の曲輪のようなものがあり、滝山城には伝二の丸の周囲だけで、千畳敷の角馬出、南馬出、大馬出、東馬出の防御性の高い遺構群が残っている。
馬出に入る際、またはたとえ馬出曲輪を突破しても、土橋や枡形状の虎口により、迷路のように敵方を小分けにして殲滅できるように非常に防御性が高い構造になっている。鍛冶谷戸と言われる谷戸から侵入すると、最終的には伝二の丸の櫓台から180度の方向から狙われることになる (略)
以下にポイントをまとめます。
- 滝山城は、大石氏、北条氏照の居城と言われ、多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要塞で、関東随一の規模を誇った中世城郭の最高傑作と言われるお城
- 構造としては、二の丸の集中防衛を意識して作られており、迷路のように敵方を小分けにして殲滅できるように非常に防御性が高い構造
- 遺構として本丸・中の丸・空堀・竪堀・虎口・曲輪・土橋・土塁・竪堀、曲輪などが残っており、国の史跡に指定されている
- 1521年山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重、定久が築城し、1558年頃、北条氏照が城の大改修を実施 (築城500年程)
- 武田信玄軍約2万人攻められ、滝山城三の丸まで(諸説ある様ですが…)攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ
大石氏が築き、北条氏照が大改修した、加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要塞と言われる滝山城。武田信玄2万の攻撃ににも2000で耐えた「関東随一の規模を誇った中世城郭の最高傑作」と言われている様です。その考えられた縄張りには、感心してしまうものがあり、地図を持っていても、最初の訪問時には「本丸ってどうやって行くんだ?」と少々迷い気味になってしまった経験があるほどです。ただ、縄張り図をよく見てみると、二の丸・中の丸付近の集中防衛を意識して作られている意図をしっかり感じる事が出来、遺構として残る本丸や中の丸、空堀、各曲輪などもその大きさ含め、実物を拝見でき、歴史好きにとって魅力的な城跡と言って良いと思う次第です。そして、やはり思ってしまいます、「なぜこれほどの滝山城を捨て、八王子城に移ったのか?」と…。
【滝山城を大人散策】
上記、概要を抑えさせて頂きました滝山城ですが、こちらのパートでは、その見所を、大人散策ルートともに見て行きたいと思います。
滝山城の最寄り駅は、JR八高線の小宮駅。駅から、4-5㎞強程度ですので、徒歩でもアクセス可能な認識です。また、多摩川を挟んだ拝島駅からも5㎞前後の認識ですので、徒歩圏内と認識しています。ただ、一般的には車でのアクセスが中心の様で、滝山城の南、丹木町三丁目の交差点付近に、滝山観光駐車場があり、20-30台程度駐車できる様です。
麓から滝山城・本丸へのアクセス方法は、いくつかある様です。以下「滝山城築城500年(八王子市による記念事業?:https://hachioji-takiyama-500th.com)」のページにある「城攻めMap」を参考にさせて頂きますと、①南東より(滝山街道 or 尾根道)より侵入するルート、②南西の駐車場付近からの侵入ルート(大手道?)、③北東の多摩川方面から攻め込むルートの3つになる様です。
ここで言える事は、上記引用にもありますが「二の丸/中の丸付近の集中防衛を意識して作られている」と言う事だと思います。言い換えますと、「どの侵入 / 攻城ルートを行こうが、(山の神曲輪へのルート以外は)すべて二の丸/中の丸付近に集まって来るように設計されており、ここから中の丸を抜け、曳橋を通って本丸に攻め込むか、本丸南側の虎口から攻めるかのいずれしか道はない」と言った理解をしており、守る側としては、しっかり兵力を集中できるので「防御性の高いお城」になる理解をさせて頂いた次第です。
私達夫婦のこの滝山城における、2回目の攻城ルート(=大人散策ルート)は、以下の感じです。尚、初回は車で参ったのですが、滝山観光駐車場に車を停め、訳もわからずさまよってしまった(山の神曲輪の方に行ってしまって本丸の位置が分からなくなってしまった…)ので、2回目は、多少なりともルートを調べ、居住地の川越から川越線・八高線の一本で行けることもあり、小宮駅から最下部の地図の感じで回らせて頂きました。最終的には、拝島に戻ってこれるので、帰りも一本で、居住地の川越まで戻る事が出来、滝山城を全体的に回ることができる上、森の中をハイキング的に散策もできる、まずまずのコースでしたので、2回目のルートを共有します(尚まだ高月城には、脚を運んでおりませんが…)。
① 小宮駅~滝山城二の丸までハイキング的に大人散策
スタートは八高線の小宮駅。小宮駅を出て住宅街をしばらく進み、八王子車検場の交差点で16号を超えると南に「滝山城入口」の看板(かたらいの路~滝山コース~)があるので、ここから山道に入ります。尾根道で比較的歩きやすい山道なので、ハイキング的に大人散策を楽しめます。2㎞くらいで、滝山城の二の丸付近に出る事が出来ます。
② 滝山城二の丸を堀も合わせ見学したのち、中の丸南側の分岐道まで行き、一旦天野坂方面に下って、再び来た道を戻る形で、天野坂の虎口⇒小宮曲輪⇒山の神曲輪⇒三ノ丸⇒コの字型土橋⇒千畳敷曲輪等を散策し、中の丸南側の分岐道付近に戻る
二の丸付近についたら、本丸方面に行きたくなってしまいますが、まずは二の丸周囲の堀を回ってみてください。中々の堀で、馬出もあります。堀の深さや広さと言った規模感は勿論、工夫された配置を実感できるのでないかと思います。
また、二の丸を拝見したのちは、更にちょっと本丸へ行くのを我慢し「中の丸南側の分岐道」付近から、滝山街道がある南西の天野坂(大手道?)に進路を取ります。一旦天野坂まで下りたのち再び来た道を登ってくると、「天野坂の虎口」⇒「小宮曲輪」⇒「山の神曲輪(若干距離あります)」⇒武田の攻撃が迫ったと言われる「三ノ丸」⇒「コの字型土橋」⇒「千畳敷曲輪」等を散策出来ますので、この滝山城の大きさや起伏を感じる事が出来ると思います。
③ 中の丸 ⇒ 曳橋 ⇒本丸 ⇒ 2つの神社を回り、本丸南側の虎口を出る
再び中の丸南側の分岐付近に戻り、今度こそ本丸を目指します。 中の丸内部へと進み、中の丸の北側から見える多摩川の景色を眺め高低差を認識した上で、曳橋を越えると本丸です。かつての本丸も二段構造になっていたか否か少々わかりませんが、現在本丸内の一段高い場所には、神社(霞神社 & 金毘羅社)があります。また、井戸もあるので、籠城戦でも対応可能なお城と認識した次第です。
④本丸南側の虎口から曳橋の下に出て、河岸段丘を下り搦手口から滝山城を失礼する
本丸の南(神社の反対側)にある虎口より本丸を失礼すると上記で超えた曳橋の下に出る事が出来ます。縄張りの特徴を捉える事がでる部分だと思うので高低差を意識しつつ、左右の本丸と中の丸の間の切通的な通路を北に進むと間も無く、河岸段丘を下る様になります。中の丸で認識した通り、かなりの高低差があり、滝山城が天然の要害と言われる所以が理解できると思います。河岸段丘を下り切る所の右手が滝の曲輪(搦手口の守備)になる認識ですが、途中の多摩川の河川敷に続く階段を降り、滝山城そのものの大人散策は終了になります。
⑤多摩川河川敷へ続く階段を下りた後は、北上し高月城を横目に見つつ秋川、更には多摩川を越え拝島駅へ or 南東に進み、拝島橋で多摩川を越え、拝島駅へ
滝山城を後にしたら、帰宅の途につくのですが、折角なので武田信玄が陣取ったと言われる拝島方面を目指します。選択肢は2つ。1つは、搦手口から北西に進み(多摩川の上流方面)、秋川を越え、多摩川を睦橋で超えるルート(まだ体力・時間に余裕のある方は、高月城を回られても良いかもしれません…)。もう1つは、滝山城を後にした後、南東に進み(多摩川の下流方面)、拝島橋で多摩川を越え、途中で武田信玄が陣取ったと言われる拝島大師 本覚院・大日堂・拝島日吉神社付近を経由するルートです。
ただ、正直、多摩川を超える際、睦橋でも拝島橋でも、滝山城がある加住丘陵の全景を見る事が出来ますので、武田信玄が陣取ったと言われる正確な場所は分からずとも「信玄が見上げた滝山城の景色」はイメージできるのでないかと思います。私達夫婦の場合は、拝島橋を越え、拝島駅方面に向かい、途中信玄が陣取ったと言われる拝島大師 本覚院・大日堂・拝島日吉神社付近をお参りと併せて参らせて頂き、拝島駅に戻った後、川越に帰宅した次第です。(ちなみに拝島駅付近には、本ブログ別記事で紹介してますが、玉川上水やその玉川上水を超える日光脇往還(拝島橋を超える付近にも痕跡ありますが…)の日光橋等のスポットもあります)
【最後に】
以上が、「(個人的な所見含みますが)疑問の残る歴史を持つ『土の城の代表格・滝山城(@八王子)』に付き、大人散策情報を記載」させて頂いた内容になります。
滝山城を実際に訪問し感じた事は、やはり「なぜ、氏照は滝山城をあきらめ、八王子城に移ったのか?」というものです。これだけ練られた縄張りで、これだけ大規模な城郭であれば、そうは簡単に落ちないお城だと改めて思った次第です。信玄が落とせなかったのか、落とさなかったのかは不明ですが、結果は「2000の兵で2万を超える軍勢をしのぎ切った」訳ですから…。
滝山城・城攻めMap(滝山城築城500年(八王子市による記念事業?:https://hachioji-takiyama-500th.com)のページより)
そんな中、今思っている事は、八王子城のページでも記載しましたが、「城主・氏照は、滝山城を捨てる事は考えておらず『滝山城=政庁、八王子城=詰城』の位置づけで想定し、八王子城の築城を開始した。しかし、秀吉の小田原征伐が現実味を帯びるにしたがって、北条の支城とは言え、本城・小田原の防衛が優先される為、多くの兵を確保する事が難しく、滝山城の様な大規模な城郭を守るには、兵が少なすぎ、かえってリスクが高いので、兵数の限られた環境でも戦う事が出来る様 or 身を隠す事が出来る様『詰の城として、(山城全体としては大規模ですが)少数で比較的小規模な曲輪が配置された山城の八王子城』に北条方の婦女子を中心に移す選択肢しかなかった?」と言う妄想です。勝手な妄想をしてしまいましたが、皆様はどう思われましたでしょうか?
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。