【はじめに】
こちらのページでは、「甲斐武田家滅亡後、躑躅ヶ崎館に代わって、甲斐国の政庁となった甲府城(舞鶴城)につき、その概要と大人散策情報を紹介」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きますが、皆様は、「甲府城(舞鶴城)」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 甲斐武田家滅亡後、躑躅ヶ崎館に代わって、甲斐国の政庁なったお城
- 故に、甲斐武田家とは基本関係なく、その後の徳川/豊臣の統治時代に築城されたお城
- 石垣が立派なお城であるが、縄張りは、結構手が加えられているらしいが、国指定の史跡
- 立派な石垣の天守台は現在でも存在するが、天守があったか否か不明(地元としては、天守を建てたく、天守があった証拠探しを何年も続けているらしい…)
- 浜離宮でも有名な、4代将軍・徳川家宣は、元々は甲府城主
- 六義園で有名な、柳沢吉保(墓所は武田信玄と同じ恵林寺)が城主であった時期もあった
- 板垣退助の迅衝隊と近藤勇の甲陽鎮撫隊(新選組の後継?)が甲府城入城を争った戊辰戦争の舞台の1つにもなった
- 日本100名城の1つ(ちなみに山梨県内の日本100名城:躑躅ヶ崎館/甲府城、続日本100名城:要害山城/新府城)
私の故郷山梨県。その中心地である甲府の駅に隣接する形(と言うより甲府駅により分断される形)で、甲府城があります。上記の通り、立派な石垣と歴史的な話題性もあると思われ、運十年前の高校生の頃、甲府の高校にも通っていましたので、非常に親近感のあるお城ですが、(こんな事を言ってはいけないのかもしれませんが…)今一つ甲府の観光地として抜け出してこない印象を正直持ってしまっています。(現在の状況の肌感は分かりませんが)当時は、「甲府城址」と言うより「舞鶴城公園」としてのイメージで、城跡と言うより公園のイメージ。「甲府と言えば、武田信玄」、「武田信玄と言えば、躑躅ヶ崎館(=武田神社)」のイメージが強すぎるので、仕方ないかもしれませんが(甲府駅前には武田信玄の像もありますし…)、昨今多くの門が復元され、城跡らしくなってきているので「甲府に甲府城址あり!」と応援したい気持ちでいっぱいです…。
こちらのページでは、そんな「甲斐武田家滅亡後、躑躅ヶ崎館に代わって、甲斐国の政庁となった甲府城(舞鶴城)につき、その概要と大人散策情報を紹介」させて頂きます。
【甲府城(舞鶴城)の概要】
まずは、甲府城(舞鶴城)の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。
甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった日本の城。舞鶴城の雅号を持ち、国の史跡に指定されている。
概要
甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された中世から近世にかけての平山城である。甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備された。豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となった。天守台はあるが天守が建てられていたかは不明である。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となる。
明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化される。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されたが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっている (略)武田氏滅亡後の甲斐情勢と甲府城
甲府城が築城された一条小山は甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館があったという。忠頼の死後、館は夫人がその菩提を弔うために開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となる。
戦国時代には守護武田氏・武田信虎期に甲府が開創され、躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市古府中町)を中心とする武田城下町が整備される。一条小山は武田城下町の南端に位置している (略)
武田氏滅亡後の甲斐仕置において、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の河尻秀隆が領し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠とした。同年6月に本能寺の変により秀隆は一揆勢に殺害され、無主状態となった甲斐・武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。天正壬午の乱において甲斐は三河国の徳川家康と相模国の後北条氏が争い、家康は甲府城下の尊躰寺・一条信龍屋敷に布陣して、やがて新府城へ移り北条氏と対峙した。同年には徳川・北条同盟が成立し、武田遺領のうち甲斐・駿河は徳川家康が領し、家康は五カ国を領し東国において台頭する (略)
天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏は滅亡し、家康は旧後北条領国の関東へ移封される。甲斐は豊臣大名に与えられ、豊臣大名時代には甲府城の築城が本格化している。築城主・築城年代
家康は甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐における支配的拠点としていたが、1583年(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われる。
甲府城の築城主を徳川家康とする説は古くからあり、江戸後期に編纂された『甲斐国志』では築城主を家康・年代を天正13年(1585年)としている。昭和戦後期には1969年(昭和44年)に『甲府城総合調査報告書』が築城主を家康・年代を天正11年としている (略)石垣積の導入時期や甲斐・家康を巡る政治情勢から、平山優は甲府城築城に関わる年未詳家康文書の年代比定は天正11年ではなく、小田原合戦・家康の関東転封をひかえた天正17年頃である可能性を指摘し、家康は甲府城の築城を企図していたが実現されず、甲府城の築城は豊臣大名時代になされたと評価している。
豊臣大名・江戸時代の修築
甲府城の築城は豊臣大名時代に本格化している。豊臣秀勝は天正18年7月に甲斐を拝領するが、翌天正19年2月には美濃へ転封されているため在国期間が短く、秀勝時代の甲府城築城に関する史料は天正18年8月3日付羽柴(豊臣)秀勝黒印状写のみが知られている。
秀勝の次に甲斐を拝領した加藤光泰時代には天正19年10月19日付加藤光泰黒印状や年未詳正月14日付加藤光泰書状などの史料が見られ、杣工に動員をかけ甲府城築城を行っており、城内の殿舎の建設も開始されている。光泰時代に甲府城の築城は本丸・天守曲輪・稲荷曲輪・館曲輪など中心部分が竣工されていたと考えられている (略)江戸時代には甲府藩が設置される。宝永元年(1704年)には甲府藩主・徳川綱豊(家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保は甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられる (略)
甲府城古地図と現代地図における範囲(山梨県のHP (https://www.pref.yamanashi.jp/bunka/maibun/kofuzyouato_hozonkatsuyoukeikaku.html)より) 江戸時代・近代
1603年(慶長8年) 徳川義直(家康の九男)が城主となる (略)
1616年(元和2年) 徳川忠長(秀忠の三男、駿府城主)の支城となる (略)
1661年(寛文元年) 徳川綱重(家光の三男)が城主となる
1678年(延宝6年) 徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となる
1704年(宝永元年) 綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、徳川家宣と改名
1705年(宝永2年) 柳沢吉保が城主となる (略)
1868年(明治元年) 明治維新。板垣退助らが無血入城
1873年(明治6年) 廃城 (略)
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(25番)に選定された (略)構造
甲府城は内堀・二ノ堀・三の堀で各領域が構成され、それぞれ内城部分、内郭部分、町人地を囲郭している。内城部分には天守台や本丸、諸曲輪が存在し、北側に山手門、南側には追手門、西側には柳門が存在し出入口となっている (略)復元された建造物
稲荷櫓
2004年(平成16年)に復元された二重櫓。城内の北東に位置することから艮櫓とも呼ばれた。鍛冶曲輪門
鍛冶曲輪と楽屋曲輪を結ぶ門。1996年(平成8年)に復元された。内松陰門
屋形曲輪と二ノ丸を結ぶ門。1999年(平成11年)に復元された。山手御門
山手門(やまのてもん)は本丸北側に位置する。遺構は残っておらず、現存する絵図や、明治時代の測量図、古写真などから、低い石垣の上に土塀を設けた追手枡形の塀を持つ、高麗門の形式をとっていたものと見られる。2007年(平成19年)に復元された。鉄門
甲府城鉄門(くろがねもん)は本丸南側に位置する。左右に石垣を有した2階建ての櫓門。創建当初は「南門」と呼称され、『楽只堂年録』宝永2年(1705年)条に拠れば柳沢氏時代に改称され「鉄門」と呼ばれるようになった (略)天守
そもそも天守が存在していたのか否かについて、議論や検証が続いている。市街地活性化の観点からも多方面から強く注目されており、整備事業においては復元も希望されている。特に文献史料においては宝永3年に甲斐国を訪れた荻生徂徠が『峡中紀行』において甲府城天守は存在しなかったとする証言を残しており、総合学術調査団などの見解では天守の存在に関しては否定的であったが、萩原三雄ら考古学方面では出土した金箔瓦や鯱瓦などは各地で天守を持つ城郭を築造している豊臣系大名特有のもので、近世甲斐の地勢的条件からも一時的ではあるが天守が存在していた可能性を指摘している。一方、文献史料においては現在に至るまで復元の手がかりとなる絵図や古文書などは確認されておらず、民間に向けても懸賞金をかけており、資料の捜索が続けられている (略)https://ja.wikipedia.org/wiki/甲府城 Wikipediaより:山手御門(櫓門)と『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』(甲府城の稲荷櫓が描かれている)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 甲府城は、別名舞鶴城とも言い、国の史跡に指定されている平山城で、躑躅ヶ崎館とともに甲府駅周辺の観光地の1つ
- 元々甲府城があった場所は、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館であったと言われており、武田期の城下町では、一条小山はその南端に位置する
- 甲斐武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城
- 武田家の滅亡(織田氏の甲州征伐)で織田の支配下となるが、その直後の本能寺の変を発端にした、天正壬午の乱を経て、徳川家康の支配下になる(この期間に家康が甲府城の築城を開始した可能性もあると言われている)
- 1590年の小田原合戦による後北条氏は滅亡により、家康は旧後北条領国の関東へ移封され、豊臣支配下となっって甲府城の築城が本格化
- 関ヶ原合戦を経て、再び徳川の支配下となった
- 江戸時代には、徳川将軍の子供が次々に配置され、1704年には甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍の家宣(江戸での在所は浜離宮))が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった(六義園の築庭でも有名な甲斐源氏の一族)柳沢吉保が、翌年甲府城主となった
- 甲府城の構造は、内堀・二ノ堀・三の堀で各領域が構成され、その出入口は、北側に山手門、南側には追手門、西側には柳門の3つが存在ししていた
- 天守台はあるが天守が建てられていたかは不明で、そもそも天守が存在していたのか否かについて、議論や検証が続いている
- JR中央線の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断
- 復元された建造物としては、稲荷櫓 / 鍛冶曲輪門 / 内松陰門 / 山手御門 / 鉄門 等がある
甲斐武田氏の印象が強かった、戦国期から江戸期の初/中期までは、甲府を要所としてとらえていた様子が、支配者の面々からも、人員配置からも感じられますが、(上記引用にはありませんが)江戸期も後半にはなると、逆にあまり重要視されていなかった節も見え、板垣退助の迅衝隊と近藤勇の甲陽鎮撫隊(新選組の後継?)が甲府城入城を争った戊辰戦争における一つの戦いでは「甲府勤番は山流しとも言われ、左遷的な意味合いも持っていた様で、幕府への忠誠心の低く、板垣率いる新政府軍に味方した」と言う見解もあるそうで、甲府と言う地域の微妙な立ち位置が感じられてきます…。そういった影響もあるのか、お城の多くの遺構が壊され、城内に線路が通されお城を分断し(小諸城も城内を鉄道がとおってますが…)、山に囲まれた山梨県が首都圏と言う微妙な位置づけになった背景の一つでないかと推察してしまった次第です…。
しかしながら現在、稲荷櫓 / 鍛冶曲輪門 / 内松陰門 / 山手御門 / 鉄門といった建造物が復元され、天守が建っていたか否かにつき、議論や検証が続いているとの事。甲府城に行かれたことのある方は分かると思いますが、甲府城の石垣は本当にすばらしいので、天守があった事が証明され、天守がその素晴らしい石垣の上に復元される事を契機に、甲府と言う街が、武田信玄の遺構と共に発展していく事を、山梨県出身者としては、大いに期待している次第です。
【甲府城(舞鶴城)を大人散策】
上記、概要を抑えさせて頂きました甲府城(舞鶴城)ですが、こちらのパートでは、その大人散策情報を記載させて頂きます。
①甲府城(舞鶴城)へのアクセス
本来(昔は)、甲府城への登城は、北側の山手門、南側の追手門(大手門)、西側の柳門の3つだったとの事ですが、現在は駅を南口に出て左(東)側に行くと、稲荷曲輪経由で本丸に、「あっという間」にアクセスできます。しかしこれでは大人散策になりませんので、まずは城の南側にあったとされる大手門(追手門)を目指します。
甲府駅の南口を出る事は変わりありません。駅を出ると右手(西側)に武田信玄の座像がありますが、目の前にあるロータリーの反対側を目指します。大きな通り(平和通り)の東側の歩道、ロータリーが始まる近辺~県庁への入口が、甲府城時代の柳門付近でないかと推察します。古地図からの推察すると平和通りは、甲府城の堀であったと思われ、現在(鳥もつで有名な「奥藤」やほうとうで有名な「小作」等の)飲食店の立ち並ぶ付近が柳門だと思いますが、現在は何の痕跡も見あたらないので、柳門をイメージしつつそのまま平和通りを南下し、防災新館前の交差点(昔はこの交差点の脇に西武デパートがあったのですが…)を左折すると、最初の交差点付近が大手門(追手門)跡になる様です。
②大手門跡~遊亀橋
大手門(追手門)から、大人散策の開始です。大手門から坂道を登り北上するとすぐに、右手に復元構造物の1つ、鍛冶曲輪門が出てきますので、ここから甲府城(舞鶴城)に入ります。斜面(高低差)を感じつつ、右手に堀、左手にに日本庭園と立派な石垣を見ながら東にに歩を進めると、管理事務所を過ぎたあたりの右手に橋が見えてきます。遊亀橋です。出来ることなら、遊亀橋で堀を渡り、振り返ってみてください。個人的な主観かもしれませんが、甲府城の石垣を最もダイナミックな位置で鑑賞する事が出来るスポットだと思っている次第ですので…。ちなみにこの入口(遊亀橋)は、元々甲府城在城時には、なかった入口のはずですので、「現代ならでは甲府城の石垣鑑賞スポット」になる認識です。
③遊亀橋~稲荷櫓
遊亀橋から甲府城のダイナミックな現代ならではの石垣を楽しんだ後は、再び城内に戻り、東に進路を取り、数寄屋櫓跡を目指し一段城郭を登って、数寄屋曲輪に入って、更に数寄屋搦手門跡から、稲荷曲輪に入ります。ちなみに、数寄屋曲輪跡を経由せずとも、稲荷曲輪門(Wikipediaには記載ありませんでしたが、復元の門?)から稲荷曲輪に入れますが、数寄屋搦手門跡 ⇒ 稲荷曲輪門と進んだ方が、甲府城の大きさを感じられると思います。稲荷曲輪は、広めの曲輪で、その中には、二重の石垣(「埋め殺し石垣」ともいうらしい:城主交代時の改築の痕跡?)や煙硝蔵跡、井戸等があります。北東の隅には、稲荷櫓が復元されています。ちょうど甲府駅の身延線ホームからも、電車の中からも見える櫓になり、内部は甲府城に関する展示もなされています。
④稲荷櫓~天守台
稲荷櫓の後は、甲府城在城時にはなかったはずの道で、稲荷曲輪から本丸を目指しますが、ちょっと現代の道でショートカットしつつも、少し遠回りの「天守台の東から南へ回り込む形」で、まずは天守曲輪を目指します。理由は、天守台を回り込む際、天守台を真下からじっくり鑑賞できる事と、南側の天守曲輪に出ると甲府の街の南側を眺められ、本丸に向かう際の天守曲輪と鉄門(復元構造物)の高低差を感じる事が出来るからです。甲府の街を眼下に見る復元された立派な鉄門は、中々絵になります。
鉄門をくぐるとそこは本丸。右手には、天守台が見えてきます。少し凸凹した本丸で、一般的に平らに整備された本丸と少し違った印象を持つ区画ですが、天守台は中々のサイズ感。天守台からの景色は抜群で「ここに天守閣があったら、どんなに素晴らしい景色だろう…」と改めて思ってしまう空間です(正直、天守があるとかなりの見栄えだと思うので「もし天守が存在していなかったとしても、想像上の模擬天守でいいから作ってしまえ!」と言いたくなるくらいのスケール感があります!)。
⑤天守台~山手御門
天守台で、甲府城のスケール感を感じ、甲府の街並みを一望した後は、線路を超えて、かつての甲府城における本来の出入り口の一つで、復元構造物でもある山手御門を目指します。先程、稲荷曲輪から天守曲輪に行く際、現代の道でショートカットしてしまったので、在城時の本来の本丸へのルートであったはずの銅門跡から本丸を出て石段を下り、復元構造物の 内松陰門へと進みます。しかし現代では、城内を鉄道がとおってますので、一旦舞鶴城公園を出て、橋を北に進んで鉄道を超えると、右手(東側)に山手御門(在城時の3つの入口の3つ目・復元構造物)が見えてきます。ちなみに、この陸橋を超え切った付近から、「晴れていれば…」の条件付きで、「甲府城の天守 & 富士山」をセットで見る事が出来ます。
この山手御門がある甲府駅北口周辺は、様々な時代を感じる事が出来るエリアだと思って折ります。甲府城在城時の北の入口の山手御門は勿論、山手御門の南から東にかけては、現代的ながら少しレトロでおしゃれな空間で、ショップやカフェ・レストランがある「甲州夢小路」がありますし、東側の陸橋(舞鶴公園から超えてきた橋)をくぐると、元々は明治期に甲斐市に建てられた学校で、その後建物は、躑躅ヶ崎館(西曲輪)に移転し、更にその後この場所に移築された国の重要文化財「藤村記念館 (旧睦沢学校校舎)」(北杜市の津金学校や松本市の開智学校、長浜の開知学校のテイストにそっくり)もあれば、甲府駅南口の武田信玄像に対抗してか、信玄の父である「武田信虎像」もあります。更には、甲府駅をを含むこの一帯は甲府城在城時は「清水曲輪」であったと言われており、その「復元石垣」の展示もあります。かなりの ”ちゃんぽん感” 否めませんが、甲府城の大人散策を終えるには、様々な時代の観点から甲府という街の視点を含め、レビューできる良い場所でないかとも思った次第です。
【最後に】
以上が、「甲斐武田家滅亡後、躑躅ヶ崎館に代わって、甲斐国の政庁となった甲府城(舞鶴城)につき、その概要と大人散策情報を紹介」させて頂いた内容になります。
甲府城(舞鶴城)を実際に回ってみると、改めて立派な石垣だと思うと同時に、「様々復元建造物が増えているが、この天守台の上に天守が建つ姿を是非見たい、もし天守がなかったと言う結論であれば、現代の天守として建ててしまえばよい!、戦国・江戸期の姿ではないとしても、100年後には、この天守は、『令和の天守?』として重要文化財になるはずだから!」と個人的には思ってしまった次第です。
甲府駅の北・2.5㎞程の場所には、甲斐武田家の居城で、甲府城の前の政庁・躑躅ヶ崎館(現武田神社)があり、さらにその北・3㎞程の場所には詰城の要害山城もありますので、歴史ファンの方は、是非、躑躅ヶ崎館(現武田神社)・要害山城、そして、できる事なら武田家最後の居城・新府城も併せて回り、甲斐武田家の歴史にも、思いを馳せてみてはいかがでしょうか?(尚、本ブログ別記事では、甲府とその周辺の大人散策 / 観光スポット、信玄治水工事の痕跡・信玄堤、甲斐武田家発祥の地・韮崎の武田八幡宮、信玄が品の攻略のために整備したと伝わる信玄棒道、武田24将の一人で赤備えの元祖ともいえる山縣昌景の御子孫が経営する温泉宿・山縣館、信玄の隠し湯とも言われる甲府湯村温泉の柳屋や常盤ホテル、甲府城址近くの温泉があるホテル・談露館・小名屋ホテル等も紹介しておりますので、皆様のニーズに合わせご参照頂ければと思います)。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
(甲府の客室温泉がある大人のお宿として、常磐ホテル(湯村温泉)・柳屋(湯村温泉)・談露館(甲府駅近く)・小名屋ホテル(甲府駅近く)も別記事にて紹介しております。また、少し甲府から離れますが、石和温泉の富士野屋・笛吹川温泉の坐忘・西沢渓谷に近い武田二十四将の一人/山縣昌景のご子孫が経営する山縣館もお部屋で温泉が楽しめるお宿として共有しておりますので、併せてご参照頂き、甲府とその周辺観光におけるプランニングにお役立て頂ければ幸いです)