山縣館

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【はじめに】

こちらのページでは、「『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』と言ったとされる武田信玄を支えた武将として有名な武田二十四将に付き考察」を加えさせて頂こうと思います

皆様は、「武田二十四将」って聞いた事ございますでしょうか? 歴史ファンではなくても、多くの方がご存じだと思われ、武田信玄を中心に、家臣団を描いた絵図を見た事がある方も多いのでないかと思います。

甲府の要害山城で誕生し、16・7歳の頃に初陣を果たし、20歳を過ぎた頃、父・信虎を駿河に追放の後、甲斐武田家の当主となるも、当初は統率力もまだまだだったようで、30歳前位の上田原の戦いや砥石城攻め(砥石崩れ)では、手痛い敗戦も経験。しかし30歳を過ぎた辺りでは、北信濃をまで勢力を伸ばし、10年以上5回にわたり、上杉謙信と戦った川中島の戦いとなるが、40代中盤には、この戦いも落ち着き、飛騨方面(苗木城岩村城等の方面)・関東・駿河に進出して領土を拡大(久野山城を紹介中)。そして50歳を過ぎて、西上作戦作戦のもと、遠江や三河に進行するも途中病状が悪化し、甲斐に引き返す途中で亡くなった(53歳)武将が武田信玄です。

戦国最強の武将とも言われ、上杉謙信と戦った「川中島の戦い駿河侵攻の一環として行われたと思われる小田原攻め(鉢形城滝山城攻めもこの時に行ているようですが…)の帰路に起こった「三増峠の戦い西上作戦では、徳川家康を完膚なきまでに破った「三方ヶ原の戦いといったあたりが、孫子の旗でおなじみの「風林火山」と共に、信玄の強さを語る上で、良く取り上げられる戦だと思いますが、治水事業としての「信玄堤」信濃侵攻における軍用道の「信玄棒道」の整備、更には「甲州法度之次第」の制定、金山開発温泉(療養)施設の整備(現在では「信玄の隠し湯」なんていわれていますよね…)等々、「戦」以外のアクションに関しても多く現代に語り継がれている武将だと思って折ります(信玄棒道の近くには、水争いを治めるためにつくった分水施設:三部一湧水なんていうものあります…)。

実際に武田信玄の居城だったと言われる躑躅ヶ崎館(現武田神社)とその詰城だったと言われる要害山城に足を運んでみると、「工夫された縄張りで防御性の高いお城である事は認めるが、あの武田信玄の居城としては物足りない…」と多くの人が思うのでないかと思います。『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』と言ったと伝わる、武田信玄らしいと言えばらしいのですが…。

そんな信玄を支えた筆頭格の武将の面々が「武田二十四将」として現代に伝わっている訳ですが、実際に詳細を調べてみると、二十四将の顔ぶれが資料によって違ていたり、武田四天王・武田五名臣と言った切り口もある事もまた知られている認識です。こちらのページでは、そんな「『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』と言ったとされる武田信玄を支えた武将として有名な武田二十四将に付き考察」を加えさせて頂こうと思います

【武田二十四将の概要】

まずは、武田二十四将の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)は、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称

概要
江戸時代に「武田二十四将図」として絵画や浮世絵の題材となったもので、戦国期に実在した職制や呼称ではない。江戸時代の文政期に描かれた肖像画は掛幅の仏画の集合図像形式で、上部中央に法師武者姿の信玄が描かれ、周囲に親族衆・家臣団・国人衆が配列され、軍議を行っている様子などが描かれている。人物の選定は当時の浄瑠璃や浮世絵の影響を色濃く受けている

二十四将図に描かれる武将は諸本により異なるが、いずれの図においても信玄を一将として数えているため、武将は23名しか描かれていない。また、二十二将・十四将・十二将とするものや、武田勝頼・信廉を中心に据えたものも存在する。描かれる武将の名も『甲陽軍鑑』等に依拠するため、文書上から確認される確実な実名と異なる場合もあり、また天文17年の上田原の戦いにおいて戦死している板垣信方・甘利虎泰と信玄後期から勝頼期に活躍している真田昌幸を同時に描くなど時系的に矛盾が生じる図も見られる (略)

近世絵画において、供養像としての戦国大名と家臣団を描いた集団肖像画は広く制作されているが、廃絶大名家では遺臣の需要がわずかにある程度であり作例は少ない武田氏は滅亡後にも徳川氏によって武田遺臣が庇護され、また江戸時代には『甲陽軍鑑』の普及や甲州流軍学の流行もあり、その肖像画も一定の需要があったと考えられている

江戸前期には初代鳥居清信による作例があるほか、山梨県の武田神社所蔵品や山梨県立博物館所蔵品、和歌山県の高野山成慶院所蔵品や、山口県の柏原美術館(旧岩国美術館)所蔵品や愛知県の医王院所蔵品などが代表的なものである (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/武田二十四将

以下にポイントをサマリ的にまとめます

  • 武田二十四将は、江戸時代に絵画や浮世絵の題材となった武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人と言われるらしい
  • しかし、二十四将図に描かれる武将は諸本により異なるらしく、時系的に矛盾が生じる図も見られる様子
  • 信玄を一将として数えているため、武将は23名しか描かれていないケースが多い様子
  • 武田二十四将図は、山梨県の武田神社所蔵品等、それなりの多く現代に伝わっている
  • 一般的に、途絶えてしまった大名家でこういった図(武田二十四将図)が、後世に描かれるケースは少ないが、甲斐武田氏は滅亡後にも徳川氏によって武田遺臣が庇護され、江戸時代には『甲陽軍鑑』の普及や甲州流軍学の流行もあり、その肖像画も一定の需要があったと考えられているらしい

私なりの理解を記載しますと「『武田二十四将』は、江戸時代に絵画や浮世絵の題材となった武田信玄に仕えた武将のうち、(かなり作者の主観が入るが)『武田二十四将図』に登場する24人の武田家臣を言うらしく、江戸期の徳川の庇護もあって武田神社をはじめ、多くの『武田二十四将図』がある様子も、その作成に当たっては、作者の主観が入ってしまう為か、信玄自身を1名と数えるポリシーの為か、『統一された24名』ではなく、人数も変われば、時代に齟齬がある物もあるが、『一般的な評価が特に高い武田信玄に仕えた武将』といった観点では統一性がある様子」と言った理解をさせて頂いた次第です。

【武田二十四将の一覧】

上記、概要を抑えさせて頂きました武田二十四将ですが、こちらのパートでは、その武田二十四将を、以下の切り口も踏まえ、一覧表で抑えさせて頂きます。

  • 誰が、武田四天王(「一期:信虎・信玄時代」と「二期:信玄勝頼時代」がある様で、その境目は、義信事件?)なのか?
  • 誰が、武田五名臣なのか?
  • 地元甲府市のHPは、誰を24将としているのか?
  • 「武田二十四将図」に取り上げられている24将の違いは?

上記情報を、Wikipediaの「武田二十四将」の項目に記載のある武将ををベースに、マトリックスでまとめさせて頂きましたので、以下ご査収いただけますと幸いです。

Wikipedia (https://ja.wikipedia.org/wiki/武田二十四将)・甲府市HP(https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/24syou.html)の情報をもとに作成した武田二十四将に名前の出てくる武将の一覧

一覧を御覧頂いた通りですが、35名の武将名が記載されています。武田信玄の傅役(教育係?)で、上田原の戦いで戦死してしまった「板垣信方」(子孫には、勝沼戦争で新政府群に属し、甲府城を甲陽鎮撫隊(≒新選組)に先駆け抑えた板垣退助がいます)、赤備えの元祖中の元祖と言って良い「飯富虎昌その飯富が義信事件で連座した後、赤備えを引継ぎ、そのブランドを極限まで高め、井伊の赤備え真田の赤備えのもとになった赤備えの実質的な元祖「山県昌景(ご子孫が現在も温泉宿・山縣館を経営中)、最大の激戦となった第4次川中島合戦の際、キツツキ戦法を考案すが、その戦で戦死した軍師「山本勘助」(NHKの大河ドラマ・風林火山で、主役の武将でしたね)、甲陽軍鑑の生みの親「高坂昌信(字の書けなかった高坂は、口述で甲陽軍鑑を配下に書かせたらしいです)、武田勝頼を裏切り、400年続いた甲斐武田家を滅亡に導いた最後のキーパーソン「小山田信茂といった、有名どころも含まれますし、武田信玄と非常に近い血縁の武将としては、同母弟で、第4次川中島合戦で戦死した「武田信繁(お墓の1つが小諸にありますし、真田信繁(=幸村)の信繁は、武田信繁を慕っての物との話もある様です)、武田信玄の四男で甲斐武田家の最後の当主「武田勝頼(甲斐武田家の最後の居城は、勝頼が築城した新府城)の名前も見えます。

こうして一覧で「武田二十四将」を見ていると、「確かに400年続いたと言われる甲斐武田家の最も強かった時代の中心的な武将なので、あえて24人に絞る必要はないかな…」と思った次第でした。また、この24将(正確には24名ではありませんが…)の様な武将が信玄の周りにいたからこそ、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』というフレーズを口にすることが出来たのかな?と思うと同時に、信玄から甲斐武田家を引き継いだ勝頼では「統率しきれないほどの猛者たちだったのかな?」とも思ってしまった次第です

【最後に】

以上が、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』と言ったとされる武田信玄を支えた武将として有名な武田二十四将に付き考察」させて頂いた内容になります

勝手な考察をさせて頂きましたが、皆様はどのようにお感じになられましたでしょうか? 甲斐武田家は、戦国の世で滅亡してしまいましたが、江戸時代には徳川の庇護を受けた事も影響してか、山梨県と言えば、現在でも「武田信玄が抑えた甲斐の国」といった感じで、甲府駅前(南口)には武田信玄像もありますし(北口には武田信虎像もありますが…)、信玄堤信玄棒道信玄の隠し湯等々、武田信玄ゆかりと言われる遺構も見る事が出来ますしかしそれも「武田二十四将」あっての事と思うと、そのそれぞれの歴史に思いを馳せたくなってしまうのは、私だけではないと思います。信玄堤信玄棒道信玄の名の付く遺構は勿論ですが、信玄を含む甲斐武田家三代の館・躑躅ヶ崎館(詰城は要害山城)、山縣昌景の御子孫が経営される温泉宿・山縣館武田義信/山本勘助等が戦死した川中島合戦の古戦場武田勝頼が築城した武田家最後の居城・新府城等、「武田二十四将」に数えられた武将の足跡をたどってみるのも面白い大人散策ではないかと思った次第で、それぞれ別記事でも紹介しておりますので、併せてご参照頂き、大人散策に出かけてみては如何でしょうか?

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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