浅草寺

【はじめに】

こちらのページでは、東京の台東区にある、1400年程の歴史を持つ、浅草寺の歴史やその地形に加え、大人散策情報をご紹介致します

都内屈指の観光スポットで、日本らしらを都内で感じる事が出来る浅草寺は、日本人・外国人問わず、人気の的。若い方からご年配の方まで、老若男女、多くの方が、仲見世通りを散策している光景を皆様思い浮かべるのではないかと思います。そんな浅草寺、表題にも記載しましたが、都内最古と言われております。別記事でも紹介させて頂きました、調布にある深大寺の創建は、733年と伝わる、東京都内で2番目に古い寺院と言われておりますが、では浅草寺の創建、何年かご存じでしょうか? Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

(略) 『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下の通りである。 飛鳥時代の推古天皇36年(628年、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草寺

創建は、628年との事なので、大化改新の始まりと伝わる、乙巳の変(645年)、よりも前の創建で、約1400年の歴史を持つ寺院である様です。こちらのページでは、そんな浅草寺の「概要」と、「なぜ1400年前にこの地に創建されたのかに関する考察」、そして「大人散情報」をご紹介致します

【「浅草寺」の概要】

浅草寺創建は、628年で、「都内最古の古刹」と記載しましたが、実際のフィールドワーク(大人散策)に入る前に、今少し、浅草寺の概要から紹介致します。Wikipediaには、以下の様にあります。

浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られている山号は金龍山。  
元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山となった。都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所(13番)、また江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に入っている (略) 

天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた (略)  

浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され(浅草公園)、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった (略)  

関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、浅草寺では地元の鳶職の親方が境内の避難民を指揮してバケツリレーによる防火作業を行った結果、一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草寺

鎌倉時代、坂東三十三箇所観音霊場の13番目の札所として、源頼朝と関りを持ち、江戸期には徳川将軍家ともかかわりを持った寺院である事、また、明治期には娯楽の中心・浅草のシンボルであり、地元の方々により、関東大震災をしのぐも、第二次世界大戦で本堂・五重塔を失ったが、再度復活し、現在に至っている事、それぞれ理解しました。

別記事にて紹介しておりますが、坂東三十三箇所観音霊場1から8番までは、(鎌倉を起点にしてるので)神奈川にある神社で、9番:慈光寺10番:岩殿観音・正法寺11番:吉見観音・安楽寺、12番:慈恩寺と埼玉にある寺院、そして13番の浅草寺になります(その後、横浜を経由して、群馬⇒栃木(中禅寺湖畔の立木観音・中禅寺等)⇒茨木⇒千葉の順番の様です)。言い換えますと、鎌倉時代の坂東三十三箇所観音霊場には、東京の寺院は、浅草寺しかないので、「当時の東京は、繫栄する前であったが、その頃から、浅草寺はしっかり認知されていた」とも思った次第です。更に別の言い方をしますと、本当に長い歴史を持つ寺院だけに、東京の創成期からの発展、災害や戦争による苦難、その逆行からの復活と、東京の歴史その物をそこに住まう方々と共に歩んできた歴史を持つ寺院である事、改めて認識した次第です。

【「浅草寺」が建つ場所の地形】

そんな浅草寺ですが、こちらの寺院が建つ場所(地形)も、都内ではユニークな場所にある認識です。

別記事で紹介しております「縄文海進」5000年程前の海面は、今よりも5m程高かったと言われているので、浅草寺付近は海の中の認識です。しかし、浅草橋から浅草寺にかけてのエリアは、この中でも少し標高のある微高地(標高で言うと3~5m程度)なので、海面の低下と共に、早い段階で陸地になってきたと思われる場所です。

628年の創建時の東京全体の地形は不明で、近くの高台の上野公園近辺と陸続きであったか否かはわかりませんが、この浅草寺付近は、陸地(もしかしたら島)で、人が住んでいたと言う事になると、その地域にお住いの方の生業は、「漁師」だと思われます。つまり、最初に記載したWikipediaからの引用:『「宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという」』、には信憑性があると思った次第です。

同じくWikipediaの「江戸城」の項目には、次の様にあります。

(略) 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(現在の静岡市)から江戸に入った。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水が入り込む茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野に連なった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州が現れていたという (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

恐らく、創建(628年)された位から家康が入城(1590年)するまでの間、東京の下町は、茅原の中に点々と砂州・島があり、そこに小さな漁村がパラパラとある閑散とした場所で、その内の1つが浅草寺のある、浅草近辺であった」と言う認識が正しいのでないかと思います。

東京の創成と発展、苦難と復活と言った、浅草寺が東京と共に歩んできた長い歴史の一歩目は、この「下町の微高地」と言う地形の地域特性である事、認識すべきと思ってしまいました。

【「浅草寺」の見所】

上記、浅草寺の概要を、地形も含め情報収集致しましたので、今度は、実際の大人散策に備えるべく、具体的なスポットを以下に抑えさせて頂きます

・雷門

まずは、何といっても浅草寺の顔と言うべき「雷門」。でもこの「雷門」の名称は、「通称」だそうで、正式には「風雷神門」と言うそうです。門の中央に、存在感の際立つ「雷門」の文字が刻まれた大きな提灯に目が行ってしまいますが、両脇には、雷神様・風神様が門を守っています。また、この門を背面から拝見すると、中央の提灯には、しっかり「風雷神門」と書かれ、両脇を水を司る龍神様(天龍像・金龍像)がいらっしゃいます。雷・風・水の神様がいらっしゃる門だと認識し拝見すると、ただの観光スポットが信仰の門である事、認識できると思います。

・仲見世通り

雷門をくぐると、200~300m程に渡って、仲見世通りが続いております。お土産を購入する修学旅行生を思い浮かべる方も多いのではないかと思うにぎやかな通りです。江戸時代、浅草寺境内の清掃をする代わりに商いが許された経緯がある様で、門前商店街の雰囲気は、元気な浅草を具現化した通りだと思います。

・浅草寺由縁の説明看板

仲見世通りが終わりにさしかかり、宝蔵門がまじかに迫ってくる右側に、浅草寺の由縁を説明する看板が出てきます。浅草寺を始めて参拝される際は、その歴史、ここで認識できると思われます。

・宝蔵門

仲見世通り、浅草寺由縁の説明看板を過ぎた先には、両脇を仁王様が守る、宝蔵門が出てきます。圧巻の浅草寺の山門は、見事の一言。左に見える五重塔とのコラボレーションも忘れず、撮影頂きたいスポットです。また、この門の背面には、大きな魔除けの意味を持つ「わらじ」がありますので、一度振りかえってみて下さい。

・五重塔

こちらの五重塔に関しては、Wikipediaには以下の様にあります。

(略) 天慶5年(942年)平公雅が塔を建立したと伝わる。この塔は三重塔であったといわれ、『江戸図屏風』にも描かれている。焼失を繰り返したのち慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草寺

「東京の創成、発展・再建、苦悩、復活を身をもって、地域の人々と歩んできた塔」と言って良いと思います。

・本堂

こらの本堂に関しても、Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である (略) 外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある (略) 毎年12月12・13日に煤払(すすはらい)と開扉法要が行われる。本尊は絶対秘仏で公開されないが、「お前立」の観音像は12月13日午後2時からの開扉法要の際に一般の信徒も拝観することができる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草寺

五重塔同様、本堂も戦火に巻き込まれたものの復活した様です。圧巻の本堂、建物周囲の装飾を合わせてご覧頂ければと思います。

・影向堂

本殿にいらっしゃる絶対秘仏の観音様を助ける十二支の守り本尊のお堂」と言う事の様です。こちらでは、御朱印を頂戴する事が出来ます。同時に、浅草名所七福神にて、浅草寺は大黒天様を祀っていらっしゃる様で、こちら大黒天の御朱印も頂戴する事が出来ます

・池+石橋

影向堂の目の前には、清らかな水の流れ(沢山の錦鯉も!)と、「現存する都内最古の石橋」があります。江戸期の初めに作られた橋の様ですので、水の音を聞きつつ、石橋を眺め、浅草寺の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

・浅草神社

浅草寺を記載するページですが、本堂のすぐ東側に浅草神社があります。明治の神仏分離政策により、別法人となった様ですが、浅草寺の創建に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)を主祭神とした神社との事です。別記事で記載しました、日光の輪王寺・二荒山神社・東照宮等同様、元々同じ信仰の内であった物をわざわざ分ける神仏分離ってイマイチピンときませんが、現在の日本人の感覚なら、寺院も神社も同時にお参りして良い(むしろお参りすべき?)スポットだと思いますので、是非ご挨拶してみて下さい。

・二天門

浅草神社の東には、二天門があります。本堂や五重塔が焼失してしまった戦争をを潜り抜けた門との事で、Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。平成22年(2010年)、改修により創建当初の様式に戻された (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草寺

・イチョウの木

「源頼朝が挿し木した」と伝わるご神木だそうで、上記、二天門同様、戦火を潜り抜けた歴史を持つ木だそうです。そのパワーと幸運を分けて頂いては、いかがでしょうか?

【最後に】

以上が、浅草寺の歴史や地形の観点から概要を抑え、実際のフィールドワークを実施する為の具体的なスポットを紹介した内容になります。長い歴史を持ち、東京の創成、発展・再建、苦悩、復活を地域の方々と歩んできた歴史を持つ寺院が浅草寺です。東京における観光地の質問やおすすめスポットを尋ねられた際、「浅草寺」の名を上げたいと思うと同時に、この東京の歴史と共にある事もまた伝えたいと改めて思いました。

そんな浅草寺に付き、今回本記事を書くにあたり、様々調べていると、Wikipediaに、以下の記載を見つけました。

(略) 一説に、本尊の聖観音像は、現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものとする伝承がある。浅草寺創建より100年程前に、岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって堂ごと成木川に流され、行方不明になったという。成木川は入間川、荒川を経て隅田川に流れており、下流にて尊像発見の報を聞いた郷の人々が返還を求めたが叶わなかったという (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草寺

私達夫婦の住まう川越から近い事もあり、こちらの岩井堂飯能に参らせて頂きました際の写真も以下に共有します(「川越⇒岩井堂観音⇒塩船観音寺の大人ポタリング」のページで詳細紹介しております)。

観音様の移動(返還)はかなわなかったものの、浅草観音の御分身がこちらの岩井堂観音に奉還された事が記載されていました。「日本人の優しさ、信仰心って素敵だな!」と思える場所でしたので、ご紹介させて頂きました。東京を代表する観光スポット・浅草寺の紹介や実際に大人散策する際、上記、岩井堂観音のストーリーも踏まえつつ、また思いを馳せつつ実行していきたいと改めて思った次第です。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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