高取城

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【はじめに】

こちらのページでは、日本三大山城の一つで、もはや一般的な山城のイメージでは理解できない規模感を誇る奈良・高取町の高取城の概要と大人散策情報(プランニングバージョン)を共有」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「高取城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

  • 三大山城の一つで、且つ日本100名城の一つでもある
  • 山城としては、かなりの規模感らしく、比高が三大山城の中でも一番高い (比高:標高ではなく、麓からの高さ)
  • 山城なのに、多くの石垣を組み込んだ、連立式天守の縄張りだったらしい
  • 現在、建物は残っていない様だが、石垣縄張り等の遺構はかなりしっかり楽しめるらしい
  • 豊臣秀長ゆかりのお城(家臣が城主だったらしいが…)であった期間がある
  • 奈良盆地の南側、草創期の日本の歴史の詰まったエリアにあるお城

山梨県北杜市出身で、埼玉県川越市居住の私にとっては、アウェーにあるお城で、お伺いしたこともなく、あまり連想ゲームは進みませんで「三大山城の一つで、かなりの規模感を誇る、秀長に縁のあるお城」といったイメージしか持っていなかった次第です。しかし、天守閣こそ残っていない物の「日本を代表する山城・高取城」である事には間違えなく、今後の訪問に備える意味も込め、今回記事を作成(調査メインでしたが…)させて頂いた次第です。

こちらのページでは、そんな「日本三大山城の一つで、もはや一般的な山城のイメージでは理解できない規模感を誇る奈良・高取町の高取城の概要と大人散策情報(プランニングバージョン)を共有」させて頂きます

【高取城の概要】

まずは、高取城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

概要
城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と歌われた。なお、土佐とは高取の旧名である。

曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。又、天守、御殿、櫓、門、土塀と言った建物の木造復元計画は予算の関係でない (略)

室町時代・安土桃山時代
南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている (略)
天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。
利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった

江戸時代
俊政の子の政武は、寛永14年(1637年)嗣子なく没し本多氏の支配は終焉した。
本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波園部藩主)が城番となったが寛永17年(1640年)旗本の植村家政が2万5,000石の大名に取り立てられ新たな城主となった。以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受ける。

近現代
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる (略)
殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめているしかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある
貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。

城郭
植村時代は、それぞれ3重の天守と小天守をはじめ、22基の櫓、5基の多門櫓、33棟の門、2900メートルの土塀、3600メートルの石垣、9の橋梁(きょうりょう)、5の堀切からなる山城であった (略)  『大和高取城研究』によると、当時は城の石垣を組みなおす場合でも、江戸幕府に報告し許可が必要であったが、高取城に関しては3代将軍家光より直々に、植村氏は三河国居城時の松平氏の古参譜代であり、山上にあることから年々破損も多いと思われるということで「一々言上に及ばず」と特別に許されていたようである。現状を維持する分には、容易に改修ができたと思われている。

本丸
本丸部分の大きさは東西に75メートル×南北に60メートル、高さは約8メートルの石垣に囲まれている  (略) 1基の天守と1基の小天守、3基の櫓が多門櫓で連結された連立式天守の縄張りであった (略)

天守
天守台の石垣は打込みハギで、隅部は算木積みで反りのない工法である。天守は本丸の北西に位置し、天守台には通路が約3メートルの穴蔵を設けている。このような穴蔵形式をもつ天守台は、他では犬山城、福知山城、岐阜城が同じような形式で、天守台としては発展期の築城様式と考えられている。天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模で「御天守」と呼ばれている。外観は『和州高取城山之絵図』によると、1重目は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の天守が推定されている (略)

二の丸
二の丸の大きさは東西に約65メートル×南北は約60メートルで、主な建設物として、二の丸を守る北側中央にある「十三間多門」と「西江角櫓」、北西には「火之見櫓」、南西に「客人櫓」、南側中央に「御風呂屋」、そして中央に「二の丸御殿」が建設されていた (略)

御城門
「二の丸御殿」下段の北側には通路幅約8メートルの外枡形状の虎口があり、「御城門」という門が開かれていた。高取城の大手門に相当し、この内側には平櫓の「竹櫓」が置かれていた。「竹櫓」とは、攻めてきた敵の足を滑らせる竹を保管していたと伝承されている (略)

下屋敷 
高取城跡より、1200メートル下ると植村家長屋がある。また、その南側の丘陵にあるが「下屋敷」もしくは「ゴテンアト」と呼ばれていた藩邸が置かれていた。大きさは、東西約80メートル×南北約90メートルで、北側半分は公的な場として活用され、南側半分を私的の場としていた (略)

高取城の特徴
高取城の特徴として「城郭談話会」では次の4つを挙げている。

・標高の高い山城であるが近世の施設がある
戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されることが多い。高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。火災や風雨、山上の不便さから、再築されることが少なかったからである。しかし、高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、それで江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。

・縄張と虎口の構成
高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと言われている。高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、平山城と同じような構えをもっている。また不等辺台形の隅部に三重天守、小天守、二重櫓を配し、周囲に多聞櫓を巡らしている点は、和歌山城と類似する。この共通性は、羽柴秀長が3か国の太守となり、和歌山城には桑山重晴、抑えの城である高取城には本多利久と、自らの家臣を置いたからと考えられている。

・天守と小天守が建てられている
山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。例えば洲本城には、天守に小天守台はあったが、小天守台に小天守が建てられたかどうかは不明である。そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。築造時期は明確ではないが、本多利久から植村氏が入るまでと推定されている。

・櫓の数棟が多く、独特の名称が多い
高取城は櫓の数が多い。三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられている。また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴であると指摘している (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/高取城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 高取城は、別名、高取山城と言われ、日本国内では最大規模の連郭式の山城で、国指定の史跡であると同時に、日本100名城であり備中松山城(岡山県)岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つにも数えられる
  • 明治中頃まで天守をはじめとした主要建造物は残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊してしまった様で、殆どの建物は失われた一方、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、現在に至るまで石垣や石塁が残され、ほぼ完全な状態をとどめている様
  • 南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が、1332年に築城したのが始まりと伝えられ、後に、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が高取城のある大和国を治め、当初高取城には、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられたらしい
  • 1589年、本多利久が、新しい縄張りをもって築造し、他には類を見ない広壮な山城が出現
  • 秀吉没後の混乱期に、本多利久の子・俊政は徳川家康つき、1600年、家康の上杉景勝討伐時には討伐軍に加わったが、この際、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたものの、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた歴史がある
  • 江戸期の初めには、本多氏の支配は終焉し、桑山氏・小出氏の城番の時代を経て、1640年、旗本の植村家政が、新たな城主となった後、明治維新まで植村氏が14代にわたって城主
  • 江戸期には、石垣を組みなおす場合でも、江戸幕府に報告し許可が必要であったが、3代将軍家光より、植村氏は三河国居城時の松平氏の古参譜代であり、巨大な山城の管理の必要性を踏まえ「一々言上に及ばず」と特別に修繕を許されていた様
  • 本丸は、連立式天守の縄張りであった様で、二の丸、下屋敷等も配備され、多くの櫓や門、御殿(政庁+藩主の居住地)といった構造物も作られていた様子
  • 高取城の特徴として以下の4つがある様
    • 標高の高い山城であるが近世の施設がある高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない
    • 縄張と虎口の構成高取城の縄張り山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと言われており和歌山城と類似する部分もあるが、これは、羽柴秀長が、和歌山城には桑山重晴、抑えの城である高取城には本多利久と、自らの家臣を置いたからと考えられているらしい
    • 天守と小天守が建てられている山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない
    • 櫓の数棟が多く、独特の名称が多い高取城は櫓の数が多い

高取城に関しては、三大山城であり、豊臣秀長ゆかりのお城と言う事で、認識はしていましたが、今回本記事を記載するに当たり、各種調査をしてみた所「これほど大規模な城郭だったのか!」、「もはや一般的にイメージする山城のイメージではない」、「山城なのに、連立式天守って中々ないよね…」、といった感じで、自身の持つ「山城のイメージ」が崩壊してしまった次第です。

【高取城の見所】

上記、概要を抑えさせて頂きました高取城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲も含め見て行きたいと思います。

周囲を見回してみると、奈良盆地の南側で、日本と言う国の創成期の中心地であったエリアと言う事で、飛鳥京・藤原京や石舞台古墳・キトラ古墳・箸墓古墳といった史跡も目に入りますが、かなりの規模を誇る三大山城・高取城ですので、ここに焦点を置いて、大人散策を想定いたします(高取城を含む周囲の大人散策だけで、15 ㎞程(寄り道すれば+α)になる様なので、高低差まで考えると1日がかりの気がしています…)

■壷山駅から高取城の一の門・黒門跡を目指します

スタートは、近鉄吉野線・壺阪山駅から。南東方向にある高取城一の門・黒門跡を目指しますが、道々には、旧高取藩下屋敷移築表門・池田邸屋敷跡・観光案内所/夢創館・伊勢屋々敷跡・道標/「右津ほさか道」の碑・高取城 移築松ノ門・武家屋敷(田塩家)・総門跡・植村家 長屋門・宗泉寺といった大人観光スポットや、目印、神社仏閣もある様ですので、楽しんで大人散策が遂行できそうです。私自身、土地勘はありませんが、高取川の流れを遡る形で、一本道を進めば、問題なく到着できそうな気がしました。

■黒門跡からは国見櫓跡を目指します

黒門跡付近からは、遊歩道になる様で、史跡(高取城)の始まりと認識しています。GoogleMapで拝見する限り、基本一本道の様ですので、迷わず進めそうですが、それなりの山中の様ですので(山城ですから当然ですが…)、最低限の装備(両手が空く様にリュック)と軽くてもいいので食料(チョコレート等)、そして獣除けの “鈴” は、持参した方が良いと思いました。同時に、猿石・二の門跡・三の門跡・櫓跡等もある様ですので、探検気分で大人散策を楽しめそうです。また、矢場門付近から少し道をそれて、西側に行くと国見櫓跡がある様です。「国見」の名前がついているのですから、素晴らしい眺望が広がっているのでないかと期待したいポイントです!

■国見櫓跡から大手門跡を目指します

国見櫓跡で眺望を楽しんだ後は、来た道を戻り、登城ルートに戻ります。矢場門跡・松ノ門跡・宇陀門跡・千早門跡と多くの門の跡がある様で、城郭の大きさを実感出来るのでないかと思っております。千早門跡を過ぎると、三の丸に出る様ですので、少し曲輪の痕跡を拝見しつつ、大手門跡に向かいます。大手門は、日本最大級の山城で、三大山城の冠にふさわしい石垣の桝形虎口が拝見できる様で、本格的に城郭の遺構を拝見できる散策に切り替えるポイントだと思います。

■大手門跡から本丸を目指します

大手門からは、城郭の遺構、特に石垣縄張りに注目して大人散策を遂行したいと思います。各種写真で見る限り、山城とは思えないほどの高い石垣と工夫された縄張りを実感できるのでないかと思います。二の丸から本丸の間には、十三間多門跡・十五間多門跡・太鼓櫓跡等の櫓跡も拝見出来、本丸では山城では考えにくい連立式天守の痕跡を拝見出来そうです。

■本丸まで来たら壷阪口門跡 or 七つ井戸跡 から城郭を後にします

本丸で連立式天守の痕跡を堪能した後は、大手門跡まで城郭を再度楽しみつつ戻り、大手門跡からは、来た道とは違うルートで「壷阪口門」を目指すか、「七つ井戸跡」経由のルートにするか迷っています。ただ申し上げたい事は、折角登った日本最大級の山城ですので、出来るだけ違うルートを通ることで、出来るだけ多くの痕跡を拝見しつつ、でも労力は最小限に抑えるために、行きと帰りでルートは変えたいと思った次第です。ただ、上記どちらのルートを行っても、麓へ続く119号線には出られる様ですが、結構急な山道の様ですので、足元には気を付けて進みたいと思いました。

■壷阪口門跡 or 七つ井戸跡からはスタート地点の壺阪山駅を目指します

壷阪口門跡 or 七つ井戸跡からは、高低差に逆らわず、道なりに下って行けば、麓へ通じる道・119号線に出れるようですが、高取町観光協会のHP(https://sightseeing2.takatori.info/)の散策マップによると、119号線を通らない山道的なルートもある様なので、出来る限りそちらを参らせて頂こうと思っています(帰りも山道で、距離もあるので、暗くなる前に戻れるよう、遅くも15時前(冬なら14時前)には、本丸を後にすべきと思いました…)。麓までは、少なくとも、7㎞程(寄り道すれば+α)はある様ですので、のんびりと大人散策をしたいと思いますが、暗くならないうちに下山すべきと思います一方、折角登った標高差ですので、途中の八幡神社・五百羅漢・南法華寺(壷阪寺)・小島神社等、出来る限り寄り道もしたいと考えてをります。また、時間によっては食事を考えてもよいかもしれないと思った次第です。

【最後に】

以上が、日本三大山城の一つで、もはや一般的な山城のイメージでは理解できない規模感を誇る奈良・高取町の高取城の概要と大人散策情報(プランニングバージョン)を共有」させて頂いた内容になります

上記にも記載しましたが、高取城は「山城の常識を超えた山城」と理解しておりますので、高取城の大人散策だけで、一日がかりの大人散策になると想定しています。しかし少し視野を広げると、奈良盆地の南側に位置する高取城は、日本の創成期の歴史が詰まったエリアが目と鼻の先。こちらの記事では、最下部のGoogle My Mapで「日本の創成期の歴史が詰まったエリアで気になるスポット」のみの紹介にとどめますが「1日目:高取城の大人散策」、「2日目(もう1日追加必要?):日本の創成期の歴史が詰まったエリアで気になるスポットの大人散策」として、併せてこの地域を大人散策すべく、プランニングしたいと思った次第です。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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