岩櫃城

【はじめに】

こちらのページでは、「甲斐武田家滅亡の直前、真田正幸が武田勝頼を迎え入れようとしたと言われる武田領内の三名城(=武田の三堅城)の1つ、群馬・東吾妻にある岩櫃城とその周辺に関する大人散策情報を記載」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きますが、皆様は、「岩櫃城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

私達夫婦のお気に入りの温泉地である四万温泉(積善館/豊島屋を紹介中)から近い事もあり、また、上記の様な歴史的背景から、山梨(北杜市)出身で真田ファンである私にとって是非参りたい城跡でもあった事から、2回程お邪魔した事があるお城です。しかし実は、南面の岩肌むき出しの外見とは対照的に、現代では本丸まで意外とすんなりアクセスできる環境(=近くに駐車場がある)の為、周囲を含めた大人散策をさせて頂いた事がありません…。故に、いつか本丸付近だけではなく、「周囲も含めた大人散策をさせて頂こうと思っているお城」が、私が思う岩櫃城と言う事です。

故にこちらのページでは、今後の大人散策を遂行するにあたってのプランニングとして、甲斐武田家滅亡の直前、真田正幸が武田勝頼を迎え入れようとしたと言われる武田領内の三名城(=武田の三堅城)の1つ、群馬・東吾妻にある岩櫃城に関する大人散策情報を記載」させて頂きます

【岩櫃城の概要】

まずは、岩櫃城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

岩櫃城(いわびつじょう)は、上野国吾妻郡(現在の群馬県吾妻郡東吾妻町)にあった日本の城(山城)。吾妻川北岸の岩櫃山中腹に位置し、戦国期に、上杉謙信に従う斉藤氏と、武田信玄に従う真田氏が当地をめぐり争った最終的には真田信之の支配下に収まり、慶長19年(1614年)に廃城となった。国の史跡に指定されている。

歴史

築城の由緒
岩櫃城の築年代は不明である。南北朝時代に吾妻氏が築城したとの伝承もある

吾妻氏の時代
この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ない後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下川辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を支配したが、南北朝時代に南朝方の攻撃で当主行盛が戦死その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、山内上杉氏の偏諱を受け斎藤憲行と名乗った

斉藤氏の時代
戦国時代、吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が、主君の大野憲直を討ち、岩櫃城を奪った。その子、斉藤憲広は岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍を支配下においたという。
永禄3年(1560年)、長尾景虎(上杉謙信)が岩櫃城を攻め落とした伝わる。その後、城は斉藤氏の手に戻る
岩櫃城主となった斎藤氏時代の詳細は、斎藤氏系譜と同様に複数伝わっておりはっきりしない (略)
斎藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大したが、郡内の豪族羽尾氏と鎌原氏(三原庄)の領地争いに介入(羽尾氏に味方)したことで、両氏の仲介に入っていた信濃国小県郡の真田氏、および真田家の主家である甲斐の武田氏による介入を招くことになる (略)
程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受け、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、(斎藤)憲行は越後に逃走した (略)

岩櫃山周辺散策Map(東吾妻町役場まちづくり推進課/東吾妻町観光協会の「大河ドラマ真田丸の地・岩櫃」のHP(http://iwabitsu-sanadamaru.com/)のパンフより)

真田氏の時代
真田氏は吾妻地方への進出をねらい、岩櫃城を攻略した。その後、上野国北部の利根郡に位置する沼田城(沼田市)・名胡桃城(みなかみ町)と、信濃国の上田城とを繋ぐルート上の重要拠点として岩櫃城の大改造を行った。城域は広く、その中を沼田と上田を結ぶ街道を通してある。中心部の曲輪から放射状に壕が整備される特殊な構造で、周囲に出丸、番城、砦を配してあった。
真田昌幸の時代、天正10年(1582年)に、織田信長・徳川家康勢に攻められて主家武田勝頼が劣勢となると、真田昌幸は武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとした。しかしこれはかなわず、武田家は滅亡している。
その後、真田昌幸は岩櫃城を嫡男の真田信幸(真田信之)に守らせた真田家当主となった真田信之は、慶長19年(1614年)に幕府を憚り岩櫃城を破却した。以後は原町(現在の東吾妻町原町)に陣屋を置いて一帯を統べた。

構造
岩櫃山の北東に伸びる尾根に位置し、吾妻川の西岸にあたる。また、西は岩櫃山、南は吾妻川へ下る急斜面、北は岩山で天然の要害となっている。尾根の西から本丸・二ノ丸・中城などが続き、北東に出丸の「天狗丸」がある。その更に北東には支城・柳沢城(観音山城)が位置している (略)

2017年(平成29年)続日本100名城(117番)に選定された 
2019年(令和元年)10月16日、国の史跡に指定された  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/岩櫃城

また、Wikipediaの「名胡桃城の中の名胡桃事件」の項目には、以下のようになります。

(略) 名胡桃城事件:天正15年に豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令した。徳川氏、北条氏、真田氏は共に秀吉の権威に伏した。沼田領については天正17年に裁定が行われ、昌幸が「祖先墳墓の地」であると主張した名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領にそれ以外の沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められた (略) 

同年11月3日に、沼田城代の北条氏家臣猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城代鈴木重則家臣である中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で重則を上田城に呼び寄せた隙に、名胡桃城を占領した重則は道中の岩櫃城において計略に気付き、急いで城に戻ろうとしたが間に合わず、恥じて正覚寺において切腹した。

昌幸は直ちに寄親である家康を通して秀吉に訴えでた。秀吉は11月21日付けで真田昌幸に書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」旨を記している。24日には北条氏との手切れ書を北条氏や諸大名に配布した。先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。北条家当主氏直は豊臣側の詰問に対し、同年12月7日付け書状で「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」旨を釈明している。

翌年3月に秀吉は軍勢を出立させた。小田原征伐の結果、後北条氏が滅亡すると全沼田領は真田氏が安堵し名胡桃城は廃城となった。実際に使用されたのは約10年間であった。”

https://ja.wikipedia.org/wiki/名胡桃城

少々引用が長くなってしまいましたし、この時代の関東における権力争いは非常に複雑なので、以下にポイントをサマリ的にまとめます

  • はっきりしない部分もあるが、南北朝時代に吾妻氏が築城したと言われており、その吾妻氏も前期吾妻氏・後期吾妻氏に分かれる様子
  • その後、吾妻氏の血を引く斎藤憲行山内上杉氏の偏諱を受け勢力基盤とした
  • その斎藤氏は、甲斐武田氏の後ろ盾を得た真田氏よって攻略された
  • 真田昌幸に時代には、信長の甲州征伐に際し、武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて甲斐武田家の巻き返しを図ろうとした(武田勝頼は、岩櫃城には行かず、もう一つの武田の三堅城岩殿城を目指すも、途中、小山田氏の裏切りに遭い400年続いたと言われる甲斐武田家は滅亡した)
  • その後、真田昌幸は岩櫃城を嫡男の真田信之に守らせた
  • 秀吉の小田原征伐の直接的な原因となった「名胡桃事件」においても、岩櫃城はその舞台になったお城の1つ
  • 関ヶ原を経て真田家当主となった真田信之は、1614年に幕府を憚り岩櫃城を破却した
  • 天然の要害で、上記の様に、真田氏の領国支配の在り方や甲斐武田氏の戦国時代史を考える上でも重要な城として評価され、2017年に続日本100名城に、2019年に国の史跡に指定された

岩櫃城パンフ(東吾妻町役場まちづくり推進課/東吾妻町観光協会の「大河ドラマ真田丸の地・岩櫃」のHP(http://iwabitsu-sanadamaru.com/)のパンフより)

岩櫃城は、岩櫃山に南北朝時代(前期)吾妻氏によって築城された天然の要害で、後期吾妻氏 ⇒ 斎藤氏(山内上杉氏の後ろ盾) ⇒ 真田氏(甲斐武田氏の後ろ盾)と城主が移った。その間、真田昌幸の時代には、信長の甲州征伐に際し、武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて甲斐武田家の巻き返しを図ろうとしたり、その後秀吉の小田原征伐の舞台の1つになったりして歴史に名を刻むも、1614年徳川幕府における大名の一人となった、真田信之武田の三堅城」と言われた岩櫃城の防御性の高さ踏まえ、幕府に対し忖度し、岩櫃城を廃城にしたと理解させて頂きました。

【岩櫃城を大人散策】

上記、概要を抑えさせて頂きました岩櫃城ですが、こちらのパートでは、その大人散策情報を記載させて頂きます。尚、今回の岩櫃城の周辺も含めた大人散策のスタートは、(最下部のGoogleマイマップで作成した地図と共にご参照頂きたいのですが)近くに大きな駐車場のある、岩櫃山平沢登山口観光案内所からのスタートとさせて頂きます(その前後で、別記事紹介中の私達夫婦のお気に入りの温泉地である四万温泉(積善館/豊島屋)で、温泉を楽しむ事を考えると、車での移動が良いと思うので…)。

岩櫃山平沢登山口観光案内所~岩櫃城本丸

岩櫃山平沢登山口観光案内所近くの駐車場に車を停め、大人散策をスタートします。付近に、岩櫃神社もある様なので、可能であれば、脚を伸ばしつつ、岩櫃城本丸を目指します。本丸までは、30分程度で行ける認識で、途中、中城跡・各種土塁/堀・二の丸跡・櫓台跡とお城の痕跡を見学しつつ進む事が出来ます。武田の三堅城と言われるお城の縄張りは工夫が凝らされている事を理解でき、「さすが岩櫃城!」とうなりつつ進めますが、30分もすると本丸跡につくので少々拍子抜けの感もあった事記憶しております。いずれにしても、本丸までくると以下写真の標柱が見えます。

岩櫃城本丸岩櫃山

上記岩櫃城本丸までは、2度ほどお伺いした事がありますが、ここから先は、お伺いした事が無いので、大人散策プランニングになります。本丸の後は、岩櫃山山頂を目指します本丸からのアクセスは、「沢伝いに進む道」と「尾根伝いに進む道」がある様ですが、両方が交わっているのか、どちらか一方からはアクセスできないのか等、お伺いした事が無いので詳細不明です…。ただ、案内板はある様なので、それをしっかり確認しつつ、出たとこ勝負で参らせて頂こうと思ってますが、途中の天狗の蹴上げ岩はかなりの迫力がありそうですので、出来れば見学させて頂きたいと思っています。

岩櫃山古谷登山口

岩櫃山の山頂まで行き、その自然と景色を堪能した後は、岩櫃城の本丸とは反対側から、岩櫃山を下ります。途中、真田昌幸が、武田勝頼を迎え入れるべく用意した館跡と伝わる「潜龍院跡(古谷館跡)」や岩櫃随一の撮影スポットと言われ、誰がどのようにして作ったかも謎と言われるる「密岩神社」を回りつつ、古谷登山口を目指します。

古谷登山口岩櫃山平沢登山口観光案内所

古谷登山口まで来た後は、岩櫃山の南から東へ延びる道を散策させて頂こうと思っています。理由は、この道は「真田道」と言われている様だからです。西に進めば、真田の元々の発祥の地・上田があり、東に進めば名胡桃事件の舞台となった「名胡桃城沼田城」に続く道と思われ、戦国の世に真田氏をはじめとする多くの武将が通った道だと思い、そんな事に思いを馳せつつ、途中の春名神社・耳無不動尊・出浦淵・橋台跡と寄り道しつつ、スタート地点の岩櫃山平沢登山口観光案内所を目指し、岩櫃城とその周辺の大人散策をコンプリートしようと思っています(以下、東吾妻町役場まちづくり推進課/東吾妻町観光協会の「大河ドラマ真田丸の地・岩櫃」のHP(http://iwabitsu-sanadamaru.com/)より散策マップのパンフ)。

その他

上記岩櫃城とその周辺の大人散策にも組み込みたかったのですが、中々うまくルートに組み込めなかったスポット(エリア)が、あと2つのあります。1つは、観音山不動滝/象ケ鼻付近。もう一つは、群馬原町駅付近の原町陣屋跡/原町の大ケヤキです

観音山不動滝/象ケ鼻付近には、駐車場もある様なので、上記岩櫃城の大人散策の前後に車で回り付近を散策し、群馬原町駅付近の原町陣屋跡/原町の大ケヤキも車で移動して、(駐車場がどこにあるか現状不明ですが…)どこか駐車場を見つけ、散策させて頂こうと思って折ります。

そして大人散策終了後は、「四万温泉(積善館/豊島屋を紹介中)で疲れを癒すべく、温泉を満喫できれば最高かな?」と思っている次第です。

【最後に】

以上が、甲斐武田家滅亡の直前、真田正幸が武田勝頼を迎え入れようとしたとも言われる武田領内の三名城(=武田の三堅城)の1つ、群馬・東吾妻にある岩櫃城に関する大人散策情報を記載」させて頂いた内容になります

岩櫃城の本丸までの道のりは、経験済みなのでイメージできますが、その先の岩櫃山の山頂、並びに岩櫃山を西に降りて南から東に進むルートは、どの程度の難易度で、どの程度の時間がかかるか見えていないのが正直な所ですが、今回プランニングさせて頂き、なんとなく行程が見えあたので、「あとは実行あるのみ!」の心持で、大人散策を遂行させて頂こうと思ております。実際に大人散策を実行した暁には、本記事を更新する形で報告し、皆様の大人散策にお役立ちできるよう情報提供させて頂くようにいたします!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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