【更新中/準備中】
【はじめに】
こちらのページでは、「源平合戦の舞台の1つである『屋島の戦い』で有名で、古城『屋嶋城』、奈良時代の創建とも言われる『屋島寺』でも有名で、『素晴らしい眺望』も満喫できる『屋島における大人散策情報』を共有」させて頂こうと思います。
📚本記事で得られる情報📚
✅屋島の概要(歴史・地形・アクセス等)、詳細散策マップ
✅屋嶋城・屋島寺・屋島の戦いに関する基本情報
✅屋島(屋嶋城・屋島寺)を、多くの写真と共に、その雰囲気を理解
高松には、過去出張のチャンスが何度かあり、その機会に「高松城と栗林公園」を回る事が出来て折りましたが、その際に利用させて頂いた「JRクレメントホテル高松」から見える「屋島」には、少々距離もある為、気になりつつも、出張の合間を縫って参る事は難しい状況でした。しかし今回は、「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅(旅全体のMapはこちら)」という事で、(2日目に)プライベートでお邪魔する機会に恵まれましたので、『過去の高松出張時に脚を伸ばす事ができす、でも気になっていたスポット「屋島(屋嶋城址・屋島寺)」、更には、次の宿泊先である「金毘羅宮」の経路にある「白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)」・「中津万象園」・「丸亀城」も含めた大人散策を計画』した次第です。



最初の写真の「台地上の高台」がや「屋島」
その中で、今回記載させて頂くのは「屋島」。皆様もご承知の事と思いますが、「『屋嶋城』・『屋島寺』・『屋島の戦い』で有名な『屋島』」です。少々寂れてしまった部分もあった「屋島」ですが、『屋嶋城』・『屋島寺』は魅力的な大人散策スポットで、『屋島の戦い』にも思いを馳せる事が出来、『眺望も抜群』の『屋島』は、個人的には「高松にいらした際は、脚を伸ばして頂きたいスポット」だと思っている次第です。
こちらのページでは、そんな「屋島」における「大人散策情報」を記載させて頂きます。すなわち、「源平合戦の舞台の1つである『屋島の戦い』で有名で、古城『屋嶋城』、奈良時代の創建とも言われる『屋島寺』でも有名で、『素晴らしい眺望』も満喫できる『屋島における大人散策情報』を共有」させて頂こうと思います。




ちなみに、この日の行程は、「JRクレメントホテル高松」 ⇒ お宿の近くで「レンタカーを借り」 ⇒ 「屋島(屋島寺・屋嶋城址)」・「白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)」 ⇒ 「中津万象園」 ⇒ 丸亀駅付近で「レンタカーを返却」 ⇒ 「丸亀城」 ⇒ 丸亀駅から電車で次の宿泊先で「金毘羅宮」近くの「琴平グランドホテル桜の抄」に参った感じのスケジュールでした…
【屋島って? 地形 / 歴史の概要】
早速ですが、「屋島に関する概要」から抑えさせて頂きます。Wikipedia 力を借り調べてみますと、以下の様にあります(引用長く、引用後にサマリをまとめておりますので、読まなくても大丈夫です)。
屋島(やしま、旧字体:屋嶋)は、香川県高松市の北東に位置する、硬質の溶岩に覆われた平坦面が侵食された残丘。南北に長い台地状の地形。
周辺は屋島地区と呼ばれる。概要
屋島の名称は屋根のような形状に由来し、高松市のシンボルになっている。また、古来から瀬戸内海の海路の目印となる特徴物であり、海外交流交易海路に面した要衝であった。
屋島は江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、陸続きになった (略) 平坦な頂面の周囲に急な崖を持つ典型的なメサの地形であり、開析溶岩台地 (略) 当山は四国百名山の57番であり、その制覇を目指すものにとっての最高地点である一等三角点「南嶺292.1m」がある (略)
山上に多島海が眺められる展望景観を有し、1934年(昭和9年)3月16日、国立公園として初の瀬戸内海国立公園に指定された (略)
島内に重層の遺跡を有し、まれな台地であることから、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡および天然記念物「屋島」に指定された (略)
663年に起こった白村江の戦いの後に屋嶋城が築かれ、山上の全域が城とされている。また、南嶺山上に唐僧・鑑真が創建したとの伝承をもつ屋島寺がある。東岸の入江の一帯は古来の檀ノ浦(讃岐檀ノ浦)で、治承・寿永の乱(源平合戦)における重要な局地戦の一つである屋島の戦いがここを戦場として繰り広げられた (略)
屋島スカイウェイの通じた南嶺山上は、香川県を代表する観光地の一つとして開発されている。しかし、北嶺山上は良好な自然公園である。両者は細い尾根で接続され、各々周回した歩行者専用の探勝遊歩道と、南北嶺を縦走できる登山道が整備されている (略)獅子の霊巌展望台からの景色 歴史
(略) 弥生時代中期の高地性集落の痕跡があり、飛鳥時代の屋島城(屋嶋城)築城に至る。
屋島寺(南面山千光院屋島寺)は真言宗御室派の古刹である (略)
平安時代末における屋島は、治承・寿永の乱(源平合戦)の局地戦の一つである一ノ谷の戦いに敗れた伊勢平氏が安徳天皇を奉じたまま撤退してきた四国東端の軍事要衝であったが、翌年の元暦2年2月(ユリウス暦換算:1185年3月頃)に源氏の追撃を受け、屋島の戦いの戦場となった。『平家物語』のほか、この戦いで源氏方の那須与一が平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした逸話などが、今日まで語り継がれている (略)源平屋島合戦を紹介する説明看板 源平屋島合戦を紹介する説明看板 源平屋島合戦を紹介する説明看板
つまり、
『「屋島」とは、香川県高松市にある「平坦に侵食された南北に長い台地状の残丘」で、周辺は「屋島地区」と呼ばれ、「古来から瀬戸内海の海路の目印」として、「海外交流交易海路に面した要衝」であったようで、江戸時代前までは陸から離れた「島」であったが、「江戸期を通して埋め立て」られ「陸続き」になったと言われているらしい。
「663年に起こった白村江の戦い」の後に、古代山城の1つである「屋嶋城」が築かれ、その後、「屋島の南嶺」の山上に「唐僧・鑑真」が創建したとの伝承をもつ「屋島寺」が、現在でもあり、更に「治承・寿永の乱(源平合戦)」における重要な局地戦の一つである「屋島の戦い」が、ここを戦場として繰り広げられたとも言われる場所でもある。
島内に「多くの遺跡」を有し、「まれな台地」であることから、「国の史跡」および「天然記念物」に指定されており、「屋島スカイウェイ」の通じた「南嶺山上」は、「香川県を代表する観光地の一つ」として開発されているエリアが「屋島」』
と言った理解をさせて頂いた次第です。




【屋嶋城?・屋島寺?・屋島の戦い? に付き少しだけ深堀】
上記「屋島」と言う「エリア」に付き、その概要を抑えさせて頂きましたが、こちらの段落では、その中で出てきた「屋嶋城」・「屋島寺」・「屋島の戦い」に付き、今少し深堀をさせて頂こうと思います。それぞれ、引用後に簡単なサマリも記載しますので、引用読まなくても大丈夫です。
■屋嶋城址
屋嶋城(やしまじょう/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市の屋島にあった日本の古代山城。伊予総領(伊予など複数の国を管轄した軍政官)の管轄下で築かれたとされている。
城跡は、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡と天然記念物に指定された「屋島」の指定範囲に包含される。屋嶋城敷地跡には四国遍路84番札所の屋島寺がある。概要
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、日本の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている。瀬戸内海の島に築かれた古代の屋嶋城は、667年(天智天皇6年)、高安城・金田城とともに築かれた。また、屋嶋城は、政権基盤の宮都を守る高安城、国土領域を守る最前線の金田城とともに、瀬戸内海の制海権を守る重要なポイントとされている (略)
屋嶋城は、南北嶺の山上全域が城跡とされている。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造の城門の存在が判明したのは国内初のことであった。この懸門の存在は、大野城・基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える (略)屋嶋城 城門跡@屋島 屋嶋城 城門跡@屋島 屋嶋城 城門跡@屋島
また、上記引用中に出てきた「古代山城」についても調べてみますと、以下の様にあります。
古代山城(こだいさんじょう)は、古代日本の山城。九州地方北部から瀬戸内地方・近畿地方にかけて分布する。
従来に「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」・「神籠石(こうごいし)」と呼び分けられてきた2種類の遺跡群の総称として、近年使用される考古学用語である。概要
飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である。従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう)、天智紀山城)」、見えない山城は「神籠石系山城(こうごいしけいやまじろ(さんじょう)、神籠石式山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある。
文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は17ヶ所(神籠石系山城)があり、合計29ヶ所を数える。これらは基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ。これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている (略)Wikipediaより:鬼ノ城跡(岡山県総社市)城門・城壁(いずれも復元)が山上に立地する 古代山城一覧
つまり、
『「屋嶋城(やしまじょう/やしまのき)」は、天智天皇の時代に起こった「白村江の戦い」で、「唐・新羅連合軍」に敗れた「大和朝廷」が、「日本の防衛」のために、「対馬から畿内」に至る要衝(九州地方北部から瀬戸内地方・近畿地方)に築いた「古代山城(こだいさんじょう=古代日本の山城)」の1つで、667年に「瀬戸内海の制海権を守る重要なポイント」として築城されたと考えられているらしい。その城郭の範囲は、「屋島南/北嶺」の「山上全域」と言われている様で、現在は、「国の史跡」と「天然記念物」に指定された「屋島」の指定範囲に包含されるらしい』
と言った理解をさせて頂いた次第です。
■屋島寺
屋島寺(やしまじ)は、屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。南面山(なんめんざん)、千光院(せんこういん)と号す。本尊は千手観音菩薩。四国八十八箇所第八十四番札所 (略)
歴史
律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1 kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした (略)
高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。
江戸時代初期まで本土と離れた島であったが、寛永14年(1637年)高松藩主・生駒高俊により陸続きとなった。その後、藩主・松平頼重が旧跡を惜しんで、正保4年(1647年)本土との間に水路(相引川)が復元された (略)屋島寺 四天門付近からの本堂 屋島寺 鐘楼と宝物館 屋島寺 ご本尊・木造千手観音坐像;高松市のHPより 屋島寺の様子 と ご本尊・木造千手観音坐像;高松市のHPより (https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/smph/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/chokoku/senjukannon_zazo.html) 文化財
重要文化財
・本堂(附:厨子) – 入母屋造、本瓦葺き。鎌倉時代の前身堂の部材を用いて元和4年(1618年)建立された。昭和30年6月22日指定。
・木造千手観音坐像(本尊) – 榧の一木造漆箔、像高94.3cm。平安時代中期、10世紀頃の作。像の保存状態がよく、左右の脇手や光背の二重円相部分なども大部分当初のものが残る点が貴重である。宝物館で拝観できる。昭和30年2月2日指定。
・梵鐘 – 貞応2年(1223年)の銘がある。総高102 cm、口径64 cm、厚さ6 cm、青銅の鋳物。昭和42年6月15日指定 (略)
つまり、
『「屋島寺(やしまじ)」は、現在「屋島の南嶺山上」にある「千手観音菩薩」をご本尊とする「真言宗御室派」の寺院で、「四国八十八箇所第八十四番札所」でもあり、元々は、「律宗の開祖」である「鑑真」が、754年に「屋島北嶺山上」に開創(=屋島寺前身とされる「千間堂遺跡」がその場所?)し、その後、弟子の「恵雲」がお堂を建立し「屋島寺」と称し初代住職になったと言われるらしい。そして更に時代は下って、「古代山城」の「屋嶋城」の閉鎖に伴い、「空海」が、お堂を「屋島北嶺」から「屋島南嶺」の「屋嶋城本部跡地(現在の場所?)」に「屋島寺」を移したとされるらしく、現在も、国林部分を除いて「屋島山上」の敷地のほとんどは「屋島寺の所有」である様で、「重要文化財」として、「本堂(鎌倉時代の前身堂の部材を用いて1618年の建立)」、「木造千手観音坐像(本尊: 平安時代中期・10世紀頃の作)」・「梵鐘(1223年の銘)」等がある寺院』
と言った理解をさせて頂いた次第です。
■屋島の戦い
屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現・高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。
屋島古戦場
・出港準備と逆櫓論争
(略) 義経は摂津国の水軍渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた (略)
『平家物語』によれば、渡邊津を出航するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。景時は「進むのみを知って、退くことを知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、わたしは猪武者で結構である」と言い返した。逆櫓論争である。景時は深く遺恨を持ち、後の頼朝への讒言となり、義経の没落につながったとされる。しかし、『吾妻鏡』『玉葉』の記述から、このころ景時は範頼軍と行動を共にしていたという見解が有力であり、『平家物語』のこの逸話は虚構の可能性が高い。Wikipediaより:源義経梶原逆櫓争論図、歌川国芳 ・奇襲
2月16日夜、義経は嵐の中をわずか5艘150騎で摂津国渡辺から阿波国に向かった。『平家物語』には強風で船出を渋る船頭や舵取りに対し、義経は怒って強引に船を出させた逸話が残っている。
通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦(現在の小松島市)に到着したという。
義経は在地の武士である近藤六親家から、阿波民部重能の弟・桜庭良遠が平家に味方していること、屋島にいる平家の軍勢は島々に分散していること、伊予国の河野通信の討伐のため平家方からの田口教能(田内教能)が3000騎で出陣しており屋島守備隊は1000騎に過ぎないことを知らされた (略)
この頃の屋島は独立した島になっていた(江戸時代の新田開発により陸続きに近くなった。ただ、今なお相引川によって隔てられている)。干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。2月19日の早朝、義経は寡兵であることを悟られないために古高松の民家に火をかけて白旗を多数立て大軍の襲来と見せかけた。平家方は海上からの攻撃を想定して船を隠していたが、早朝に陸上から奇襲を受けたため狼狽し船で海上へと逃れた。
やがて、源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなり、郎党の佐藤継信が義経の盾となったが、平氏随一の弓の名手である平教経に射られて討死した (略)
源氏方は二晩寝ずの強行軍だったため、義経は夜襲を警戒して農民に篝火を焚かせ八栗方面から瓜生ヶ丘まで歩かせたという。平家方では夜襲を決行するか意見が分かれたため実行されなかった。Wikipediaより:屋島の戦い関係図拡大 Wikipediaより:屋島の戦い(1185年3月22日)、屏風。狩野派(かのうは) ・弓流しと扇の的
(略) 義経が脇に挟んでいた弓を落とし、平家方に弱い弓を使っていることが知られぬよう命がけで弓を拾い上げたという『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである
2月20日夕刻、平家方から女官が乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射させようとした。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である (略)
2月21日、平家方は八栗半島の北を回り込んで志度から上陸して背後をつくことを試みたが、それを知った義経は志度寺あたりでこれを撃退した (略)
志度の作戦に失敗した平家方は源氏の大船団が屋島に向かっていることを知り西方に退いた (略)Wikipediaより:扇の的『平家物語絵巻』巻十一 戦いの終結とその後
(略) 平氏は屋島を失ったことで制海権を失い、源氏方の海軍が瀬戸内海に侵入することが可能になり、陸上への補給線攻撃もできなくなった。
既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。義経は水軍を編成して、最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨むことになる (略)
つまり、
『「屋島の戦い(しまのたたかい)」は、平安時代末期の1185年に起こった、「治承・寿永の乱」の戦いの1つで、『源義経 vs 梶原景時の「逆櫓論争」』・『通常3日の航路を、悪天候(強風)を利用して、4時間程で瀬戸内海を渡り切って仕掛けた「奇襲」』・『義経が弓を落とし、平家方に弱い弓を使っていることが知られぬよう命がけで弓を拾い上げたという「弓流し」』・『那須与一が、見事に扇の柄を射抜いた「扇の的」』・『義経の盾となって「佐藤継信が討死した」』と言ったエピソードも知られる戦。
この戦で「平氏」は「屋島」を失った事で、瀬戸内海の「制海権」も失い、「源氏」方の海軍が瀬戸内海に侵入することが可能になり、「源平合戦最後の決戦」である「壇ノ浦の戦い」につながる戦でもある』
と言った理解をさせて頂いた次第です。
※ 参考
一般的に「源平合戦」と言われる「治承・寿永の乱」ですが、源氏と平氏がそれぞれの一族を糾合して戦った訳ではない為、「単純に源氏と平家の争い」ではない為「源平合戦」の呼称は適切ではないとも言われます事も、参考までに記載します
以上、「屋嶋城」・「屋島寺」・「屋島の戦い」と、それぞれ少しだけ深堀させて頂きましたが、時系列も含め更に簡単にまとめますと、以下の様になった次第です。
『「古来から瀬戸内海の海路の目印」として、「海外交流交易海路に面した要衝」であった、特別な地形を持つ場所に、古代山城の1つである「屋嶋城」が、「飛鳥時代」に築城され、その後「屋島北嶺」に「鑑真」によって、「奈良時代」に創建された「屋島寺」が、「屋嶋城の閉鎖」に伴って「屋島南嶺」に移され、「平安末期」には「治承・寿永の乱」の戦いの1つである「屋島の戦い」が起こり、「逆櫓論争」・「弓流し」・「扇の的」・「佐藤継信の討死」と言ったエピソードが生まれた地が「屋島」』







【大人散策@屋島】
上記、「屋嶋城」・「屋島寺」・「屋島の戦い」に付き、少し深堀した内容で理解させて頂きましたので、こちらの段落では、深堀したそれぞれの内容に関連する「大人散策情報」を共有させて頂きます。尚、最下部の Google My Map で作成した地図中、「屋島」は『水色の星印:★』」で、そのコースをポイントアウトして折り、以下各スポットをその順番で記載申し上げます為、Google My Map で作成した地図と併せてご参照頂けますと幸いです(「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅」の2日目に参った感じで、旅全体のMapはこちらよりご確認ください)。
尚、私達夫婦の場合は、前日の宿泊先であった「JRクレメントホテル高松」の近くで「レンタカー」を借り、車で「屋島南嶺」の「駐車場」まで参らせて頂き、「大人散策@屋島」を実行致しましたので。「スタート・ゴール」は、この「屋島南嶺の駐車場」とさせて頂きます(=「屋島北嶺」は、スコープ外になっております…)。





■「屋島寺」
「屋島南嶺の駐車場」に車を停め、まずは「屋島寺」を目指して「大人散策@屋島」を開始します。「屋島南嶺の駐車場」から「屋島寺東大門(山門)」を目指すのですが、途中「源平屋島合戦を紹介する説明看板」があるので、これを拝見しつつ、同時に「この地域の平安末期の歴史」に思いを馳せつつ歩を進めます。
源平屋島合戦を紹介する説明看板
その後、朱色の立派な「東大門(山門)」を潜り、「千躰堂」・「三躰堂」・「一願不動尊」・「大師堂」・「熊野権現社」・「蓑山大明神」等を拝見しつつ進むと、重要文化財の「本堂」の前に出ます。「本堂」の前には「納経所」がありますので、「本堂」でのお参りと共に「御朱印」を頂戴する事が出来ます。また、「本堂」向かって左手には「宝物館」があり、この「宝物館」では、重要文化財「木造千手観音坐像(ご本尊)」を拝見する事が出来ます。
「重要文化財の『本堂』・『木造千手観音坐像(ご本尊)』」は、「屋島寺において必見の文化財」だと思いますので、じっくりとその歴史と信仰を感じつつ見学し、お参り頂ければと思う次第です。
屋島寺の様子
■「獅子の霊巌展望台」
「宝物館」で、重要文化財「木造千手観音坐像(本尊)」を拝見した後は、「四天門」を抜け、「獅子の霊巌展望台」を目指します。「四天門」を抜けた後、進路を西にとって「可正桜」・「御成門」・「本坊山門」を拝見しつつ歩を進め、「お土産屋さんが何件かある道」を抜けると「獅子の霊巌展望台」に出る事が出来ます。
四天門~獅子の霊巌展望台の様子
写真の通りですが、「獅子の霊巌展望台」は、「正に絶景」で、「高松の街並み・瀬戸内海」を一望でき、「屋島が古代から重要視されてきた理由」を感じると同時に、「その美しい景色に心が洗われる」と思いますので、是非脚を伸ばして頂き、雄大な自然を感じつつ、見学頂きたいと思う次第です。







■「屋嶋城 城門跡」から「来た道とは別ルート」で「屋島南嶺の駐車場」へ
「獅子の霊巌展望台」で、「高松の街並み・瀬戸内海の絶景」を楽しんだ後は、来た道を「可正桜」まで戻り、そこから南下して「山門(仁王門)」を拝見し、進路を東にとって「屋嶋城 城門跡」を目指します。
屋島 仁王門~城門跡の様子
「屋嶋城 城門跡」は、復元された「屋嶋城の遺構」ですが、景色も良くその迫力は十分。本来はこの屋嶋城を麓から登り、より多くの「屋嶋城の遺構」を楽しみたい所ですが、「屋嶋城 城門跡」だけでも十分「屋嶋城を満喫できる」のではないかと思う次第です。「屋嶋城 城門跡」付近だけであれば、その範囲も限られますので、「屋嶋城の歴史」を感じつつ、その「景色と遺構」を、じっくりと満喫頂ければと思う次第です。
屋嶋城 城門跡@屋島
「屋嶋城 城門跡」で、「屋嶋城の歴史」を感じた後は、「来た道とは別ルート」で「屋島南嶺の駐車場」を目指します。「屋嶋城 城門跡」付近から、北上し歩を進めるのですが、途中「眺めの良いスポット」があり、「屋島の戦いの古戦場」を見渡すことが出来、数百m 程進むと、左折(西側に)行ける舗装路続いていますので、ここを進めば、2-300m 位で「血の池(瑠璃宝の池)」に出る事が出来ます。ここは、スタート地点である「屋島南嶺の駐車場」の目と鼻の先になりますので、ここで「大人散策@屋島」はコンプリートとなります。
屋嶋城 城門跡~血の池(瑠璃宝の池)の様子
【最後に】
以上が、「源平合戦の舞台の1つである『屋島の戦い』で有名で、古城『屋嶋城』、奈良時代の創建とも言われる『屋島寺』でも有名で、『素晴らしい眺望』も満喫できる『屋島における大人散策情報』を共有」させて頂いた内容になります。
上記、「大人散策@屋島」に付き、あくまでも「個人的に想定したルート」として共有させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 尚、今回の「屋島」は、「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅(旅全体のMapはこちら)」の中の2日目に参らせて頂いた次第です。つまり、「大人散策@屋島」の後は「大人散策@白峯寺」に向かったのですが、全体的な行程として、以下の記事も別記事で記載して折りますので、併せてご参照頂けますと幸いです(具体的な旅のスケジュールは「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅」をご参照ください)。
(現在各記事作成中で、随時更新していく予定ですので少々お待ちください…)
- 以下、「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅」の関連記事
- ①「栗林公園の『Key となる見所』を共有」
- ②「日本三大水城の1つ・高松城の登城報告 & JRホテルクレメント高松の宿泊情報
- ③「高松市内の大人レストラン・イタリアンレストラン『ズッカ』
- ④「屋島の合戦で有名な『屋島』にある『屋島寺 / 屋島城跡』の大人散策
- ⑤「日本三大怨霊の一人・崇徳院に関連深い『白峯寺 / 崇徳天皇 白峯陵』を大人散策」
- ⑥「江戸期に京極氏の命により策庭された日本庭園の『中津万象園』の大人散策情報」
- ⑦「日本一の石垣の総高を誇る『現存12天守』の1つである『丸亀城』の登城報告」
- ⑧「『金刀比羅宮』の麓の大人の温泉宿『琴平グランドホテル桜の抄』」
- ⑨「『金刀比羅宮』を『嚴魂神社(金刀比羅宮奥社)』」まで大人散策で参拝」
- ⑩「『多度津の街並み』と日本三大水城の1つ『今治城』を大人散策」
- ⑪『現存12天守』の1つである『宇和島城』の登城報告」
- ⑫「宇和島の街を大人散策:『天赦園』・『伊達博物館』(ほんの少し「JRホテルクレメント宇和島」の宿泊情報も…)」
- ⑬「地元『鯛めし』を満喫できる大人レストラン『ほづみ亭』」
- ⑭「『大洲城』・『大洲城付近の明治期の面影が残る街並み』を大人散策」
- ⑮「客室温泉露天のお部屋ををリーゾナブルに利用できる大人温泉宿『道後温泉/八千代』」
- ⑯「現存12天守の1つである『松山城』の登城報告」
- ⑰「松山の街を大人散策:『萬翠荘 / 坂の上の雲ミュージアム』・『湯築城跡』」
- ⑱「道後温泉街と付近の神社仏閣を大人散策:『道後温泉本館等の道後温泉街』・『湯神社』・『伊佐爾波神社』・『石手寺』」
- ⑲「ゆったり空間の大人レストランで『鯛めし』を満喫:『伊予食堂 おとら』・『かどや 松山空港店』」
- ⑳「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅」

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿、(勝手なネーミングですが)旧国宝24城等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
また本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。