【はじめに:上田城から何を連想されますか?】
こちらのページでは、「上田市の上田城を中心に、その概要を抑えた上で、歴史・地形の観点も踏まえ、その楽しみ方を考察」させて頂こうと思います(一部城外も含みますが…)。
歴史好きなら必ず知ってる真田氏。その発祥の地の上田市にある「上田城」が有名ですが、皆さんは「上田城」と言うと、何を連想れますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです…。
- 真田家は、信繁(=幸村)の祖父(=幸隆;武田24将にも数えられる事がある)の時から甲斐武田家滅亡まで、甲斐武田家に仕えた
- 真田家は、上田城を拠点に「岩櫃城 / 沼田城等(江戸時代の前)」と「松代城(江戸時代の大半)」も治めた一族
- 上田城が攻められた「1次・2次の上田合戦」において、徳川の攻撃を2度退けた
- 犬伏の別れ (父子・兄弟が別れ(昌幸(父)・信之/信繁(=幸村)(兄弟))、関ヶ原を戦うことになった始まりの地が「犬伏」と理解)
- 真田信繁(=幸村)の大坂の陣における「赤備え」(赤備えの元祖の一人、山縣昌景の子孫が営む温泉宿「山縣館」も別記事で紹介中)
- 上記、「3」と「5」から、徳川の天敵と言われるが、大名として真田氏(信之が始まり)は江戸時代を生き抜いた (江戸時代のほとんどは、松代が拠点)
- 大河ドラマ:真田丸 / 風林火山 / 天地人等、この時代を描いた作品には、必ずと言って良いほど「真田の名」は出てくる
- 真田十勇士
- 六文銭 (「三途の川の渡し賃」と言われ、「死する覚悟で戦に望む」という意味があるらしい)
と、こんな感じでしょうか?
日本史好きの方であれば、真田氏を知らない方はいらっしゃらないと思いますし、その武勇を事細かに語れる方も多いのでないかと思うくらい有名な真田氏ですが、私自身も「真田氏はお気に入り」の一族。上田城にも何度もお邪魔し、真田氏が江戸期の大半を過ごした松代にも、川中島合戦に関連する歴史にも思いを馳せつつ、何度もお邪魔している感じです。とは言っても、「上田城ってどんなお城?」とイメージし連想ゲームをしてみると上記のあり様で、「知っているつもりになっているだけかも…」とも思ってしまった次第です。故に、まずは上田城の概要を以下に抑えさせて頂いた上で、その楽しみ方を、改めて考察させて頂こうと思う次第です。
【基本情報:上田城の概要】
まずは「上田城の概要」から抑えさせて頂きます。信頼する Wikipedia で上田城を調べてみますと、以下の様にあります(引用少々長く、以下にサマリを記載して折りますので、読まなくても大丈夫です)。
上田城(うえだじょう)は、長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった日本の城。なお、現在残っている城は、仙石忠政によって江戸時代初期の寛永年間に再建築城されたものである。
概要
上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した(現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所)と伝えられる。城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。
上田城は戦国時代末期、信濃国小県の真田氏館(真田本城)の真田昌幸が真田氏当主であった1583年(天正11年)に築城が開始された平城である。1585年頃に真田氏館などから本格的に拠点を移したと考えられている (略) 上田を含む信濃国は、支配していた武田勝頼を甲州征伐で滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死した後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われた。甲州征伐で生き残った真田昌幸は、臣従する相手を次々変えたうえに徳川家康についたが、天正壬午の乱の戦後処理を巡り対立。1585年(天正13年)の第一次上田合戦で攻め寄せた徳川軍を撃退した。
その後に天下人となった豊臣秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦い(慶長5年)で西軍についた真田昌幸は、連動する第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍をよく防いだ。本戦で西軍が敗れたため、昌幸は紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に上田城は徳川軍に破却され、堀も埋められた。
江戸時代には上田藩の藩庁が置かれていた。昌幸の嫡子である真田信之は関ヶ原の戦いで東軍についたため、上田など真田領を安堵されたが、上田城が破却されていたため元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。この頃、城下町の整備が行われた。真田信之は江戸幕府に対して元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。上田には小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却の後に近世城郭として新たに築城された (略) 寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えた。
明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであった。昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に再移築され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている (略)真田幸隆 真田昌幸 真田幸信之 真田幸村(信繁) 上田駅前の幸村(信繁)の像 真田幸隆・昌幸・信之・幸村(信繁)肖像(Wikipedia より)、上田駅前の幸村(信繁)の像 構造
本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっている。これは千曲川に接する断崖となっていた南側が最も天然の防御力が強く、当初は天正壬午の乱において後北条氏による上州方面からの、上杉氏による越後方面からの攻撃に対するものであった。翌1584年に真田氏が徳川氏と断交したため、当初は越後方面に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更した (略)
なお、堀底の発掘調査により、真田氏時代の金箔瓦や、菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片などが出土している。現在本丸の一部の堀も含む堀が住宅開発で埋め立てられたこともあって現存する堀は本丸だけである。 上田城に天守はなかった (略) 江戸時代に仙石氏により再建された上田城にも天守はない。ただ第一次上田合戦当時の上田城は未完成とされていることや、寛永年間の作成という絵図には上田城本丸に「御天守跡」と記入されていること、桃山時代のものとみられる金箔を施した軒丸瓦や鬼瓦、鯱瓦の破片などが出土していること、同時期の近隣諸城(小諸城や松本城、高島城)や嫡男真田信幸の沼田城に天守があることなど、いくつかの傍証から真田昌幸時代に三層四階建ての天守が存在した可能性はある(第一次上田合戦から第二次上田合戦後に破壊される間の資料が残されていないため、直接的な証拠はない) (略)上田城本丸南櫓と東虎口櫓門 (Wikipediaより) 上田城縄張り(国立公文書館(https://www.digital.archives.go.jp/)より)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にサマリとしてまとめさせて頂きます(それでも長いかもしれませんが…)。
上田城は、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれ、戦国時代末期、「真田昌幸」が真田氏当主であった1583年に築城が開始され、1585年頃に真田氏が拠点を移したと考えられている平城。
その歴史は、「武田勝頼」を甲州征伐で滅ぼした「織田信長」が本能寺の変で横死した後、天正壬午の乱がおこり、その後の処理を巡り「真田昌幸」は「徳川家康」と対立する事になると、1585年に攻められるも、これを撃退(第一次上田合戦)、その後の関ヶ原の戦いで西軍についた「昌幸」は、連動する第二次上田合戦でも「徳川秀忠軍」の攻撃を防ぐが、本戦で西軍が敗れたため、「昌幸」は、信繁(=幸村)と共に紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に上田城は徳川軍に破却されてしまう。同時に「昌幸」の嫡子である「真田信之」は関ヶ原の戦いで東軍についたため、上田など真田領を安堵されるが、ほどなく信濃国松代へ転封され、変わって上田には小諸藩より「仙石忠政」が移封され、上田城の再建が始まり、真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが「徹底破却の後に近世城郭として新たに築城」されたと言われる。しかしその後、「仙石忠政」の死により工事は中断され、「藤井松平家」に藩主家が交代し、幕末を迎えた歴史のお城である事から、現在その雄姿を拝見できる「上田城は、真田氏の縄張りを踏襲しつつも、仙谷氏によって再築城された未完成の城」とも考えられているらしい。
また現在の上田城は、本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっており、 「上田城には(江戸期に仙石氏により再建された上田城も含め)天守はなかった」と言われるが、「①第一次上田合戦当時の上田城は未完成とされていること」や、「②寛永年間の作成という絵図には上田城本丸に『御天守跡』と記入されていること」、「③桃山時代のものとみられる金箔を施した軒丸瓦や鬼瓦、鯱瓦の破片などが出土していること」、「④同時期の近隣諸城(小諸城や松本城、高島城)や嫡男・信幸の沼田城に天守があったこと」など、いくつかの傍証から「真田昌幸時代に三層四階建ての天守が存在した可能性」はあるとも考えられているらしい
つまり、『上田城の始まりは、真田昌幸が戦国時代末期の1583年に築城が開始された事に始まるお城・平城で、「第1・2 次上田合戦」で徳川の攻撃を凌いだことから「真田氏の居城」のイメージが強いが、現在見られる上田城の遺構は、江戸期に入った仙谷氏による所が大きいと考えられる一方、その梯郭式といわれる縄張りは、真田氏時代のそれを踏襲しているとも考えられ、またその頃には天守の存在していたと考えられ、江戸期の再建工事も中断されている事から「真田氏の縄張りを踏襲しつつも、仙谷氏によって再築城された未完成の城」と考えられ、且つ歴史上のエピソードを考えると「真田の居城」と言うべきお城』と言った理解をさせて頂いた次第です。
【上田城を大人散策!】
上記、上田城の概要を、その歴史も含め抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では「上田城の大人散策城」を記載させて頂きます。本ブログ別記事で「上田城と共に訪れて頂いたい『北国海道の宿場町・柳町』」に関しても記載して折りますが、こちらでは「上田城に絞って記載」させて頂こうと思います。最下部の Google My Map で作成した地図(スマホ片手に自身の位置を確認しつつ大人散策を遂行できますが、歩きスマホは NG でお願いします…)と共に、ご参照頂ければ幸いです。
・スタートは上田駅を想定し「東虎口櫓門」を目指す
スタート地点に設定させて頂くのは「上田駅」。上田駅から北西に進路を取り、(「真田十勇士モニュメント 筧十蔵」(北国海道の宿場町・柳町のページ参照)ありますが…)まず目指すのは、「尼ヶ淵」。現在は駐車場になっておりますが(車でのアクセスの際は、こちらの駐車場利用が良いかも…)、築城時は「千曲川」の支流が流れていた「天然の堀」の認識です。上田城の堅固さを感じる事が出来るエリアですので、じっくり河岸段丘上に建つ櫓(南/西櫓)を含め拝見しつつ、「ケヤキ並木=二の丸堀跡(堀の底を歩けます)」がある東側に回り込んで「櫓台跡」も見つつ、「二の丸橋」から「二の丸」に入ります。「二の丸」には「三十間堀跡」・「籾蔵跡」等もあるのでこれらも拝見し、現在『『上田城の顔と言って良い認識の「東虎口櫓門」』に向かいます。
・「東虎口櫓門」から入り「真田神社」でご挨拶
「東虎口櫓門」の前に建つと「上田城に来た!」と言った感じになると思います。再建とは言え、中々の門構え。「東虎口櫓門」の入口の右側には「真田石」があります。『「真田石」は、築城者である真田昌幸が設置し、江戸期に嫡男の信之が、転封先の松代に持っていこうとしたが動かせなかった』と伝わる様で、上田城の石垣は仙谷氏によって作られた認識の為、「ホント?」と思ってしまいますが、「上田城は真田の城!」と言った地元の方々の深い親しみが「真田石」と命名したのでないかと思ってしまった次第です。
「東虎口櫓門」の両脇には、昭和期に再移築された「南櫓」・「北櫓」も隣接していますので、こちらもじっくりと拝見して頂きたいと思います(基本内部の見学もできる認識です)。その後、「真田神社」を経由して、本丸内の大人散策に参るのですが、この「真田神社」、「真田神社」と言う名称ですが、「真田氏・仙石氏・松平氏という歴代の上田城主を祭神」にしている神社との事で、『上田合戦で「落ちなかった」城であることから “受験生の祈願” も多い』らしいです…。皆様も「何か落としたくない・落ちたくない事柄」が有るのであれば、是非御祈願ください…。ちなみに、「城外への抜け穴だったとも言われる『真田井戸』」も境内にありますので、「落ちないように」ご見学頂ければと思います。
・「真田神社」でご挨拶申し上げた後は「本丸」&「二の丸」を堪能
「真田神社」で、歴代城主にご挨拶申し上げた後は、「江戸期に上田城・本丸にあった櫓のうち、唯一解体されずに残ったと言われる『西櫓』」をじっくりと拝見し、「本丸」の散策に参ります。「北西隅櫓跡」・「北東隅櫓跡」等のいくつかの櫓跡を巡りつつ「本丸」内を散策していただくと、「北東隅櫓跡」付近の角が、凹んだ様になった「隅欠」と言われる場所があります。「北東の鬼門除け」の為の構造と言われるようですが、ここは「真田の居城」。そう考えると「『屏風折れ』の要素を取り込んだのでは?」と邪推(妄想?)したくなってしまいます。
そんな妄想(?)をしつつ「本丸」内を巡った後は、西側から「二の丸」エリアに行き、「西 ⇒ 北」と「二の丸」を「堀(跡)」を拝見しつつ進んでいきたいと思います。「西虎口跡」から「本丸堀」をみつつ、東に進み「北東隅櫓」付近の「隅欠」を堀越しに拝見して、少しだけ北に行くと「北虎口跡」に行く事が出来ます。「北虎口跡」の石垣も見ながら更に北上すると、「石樋」・「二の丸堀水抜石樋遺構」があり、その西にはかつて「百間堀」であったと言われる陸上競技場があります。陸上競技場ですので、建物はない為「確かにかつては堀だね…」と理解できる地形を拝見する事が出来ます。
ここまで来たら「上田城の大人散策は “基本” コンプリート」になります。「”基本” コンプリート」と言うのは、この後、別記事で紹介して折ります「真田十勇士」のモニュメントを探しつつ『北国海道の宿場町・柳町』の散策」をして「大手門跡」・「上田藩主居館跡」にも脚を伸ばして頂きたいと言う意味だけなので、コンプリートと言っても良い気がしていますが…。
【上田城の楽しみ方:「上田城が建つ地形」と「上田合戦」】
上記、上田城の大人散策情報を共有させて頂きましたが、こちらの段落ではもう一歩踏み込んで、「上田城の楽しみ方の切り口」に付き、個人的な視点ではありますが「考察」を加えさせて頂こうと思います。
・地形から見える上田城の強固さ
ワクワクする様な話が沢山あり、今尚多くの人が訪れている「上田の上田城」。この城は、上記の通り、実に徳川の攻撃を 2度も退けた「非常に珍しいお城」と言われています。実際に訪れて、隅々まで散策し実物を実感するまで、そんなに堅固な城には思えませんでしが、上記引用の縄張り内容を踏まえ、実際に脚を運び、その上で改めて地図を見てみると「上田城の強固」さが見えてきます(現在の上田城の遺構は、仙谷氏による所が大きい様ですが、その縄張りは、真田氏の時代のものを踏襲している前提になりますが…)。
かつては、千曲川の支流が流れていた「尼ヶ淵」(今は駐車場)、そして深い空堀 / 水堀、強固に工夫された虎口の構造。写真の通り現地で実物を拝見し散策してみると「確かにすごい / 工夫されている!」と思えてきます。また、上田城の周辺地図に、高低差が明確に見える様、日本地理院の地図で加工し、全体図を見てみると、現地で得た実感がどんどん腑に落ちてくる認識です。
以下がその地図ですが、南側が一段下がり、千曲川支流(=尼ヶ淵)がかつては流れていたとの事を「河岸段丘の地形」になっているので理解できると思います。西は「隘路」で、千曲川の脇を抜ける必要がある認識で、大軍の進軍には難しい。更にその外縁部は、山に囲まれている。一方、東には「堀」があり、その先は城下町で、その先は川(=神川)。この更に先が小諸方面で、河岸段丘の上になっている事から「唯一大群が押し寄せられる地形」となり、「”地理”・”地形” 的によく考えられている」事、認識できると思います。言い換えると、「東側の小諸方面を城下町と神川を使いながら、守る事を最優先に考える様に設計されたお城」と言って良いと思い、これを実感しつつ上田城を、周囲も含め散策する事こそ「大人散策」だと思います。
・上田合戦(1次+2次)
また、実際に(本当の意味で)徳川軍を退けた、上田合戦(1次)を見てみると、知略に優れた真田氏(昌幸)の作戦も見事の一言と言えると思います。自身の認識する「上田合戦(1次)」の戦の経過は以下の感じで理解しています。
上田合戦(1次)の際、(想定通り?)小諸方面から攻めてくる敵を、城下町まで誘い込み、引付に引き付けたタイミングで、城下町に火を放つ。そこには予め「千鳥掛け」と言う「互い違いに結った柵」を設け、徳川軍が簡単に引けない状況を作り、そこに真田方の農民兵が襲い掛かる。更には、砥石城の信幸(=信之:兄)も、側面攻撃を仕掛ける。
そんな状況に、恐怖の塊となった徳川軍は、”我先に!” と退却を始め、小諸方面(東)に退却するが、神川の上流(城下町の東を流れており、上流部は真田発祥の地と言われる:下記参照)に予め築いておいた堰を切り、懐深く入りすぎ、且つ ”我先に!”と逃げる徳川の兵の渡河を遮る事となり、恐らく多くの兵士が水に飲まれる形となる。結果、真田方:1000~2000、徳川方:7000と言われた戦を真田方が征する形となった
こんな戦い方を見せられると、「真田氏は、知略に優れていた一族」としか思えなくなってしまいます(敵を誘い出す手法は、信繁(=幸村)の大阪の陣に似ていますね)し、「徳川の天敵」にふさわしい戦い方だと思うのは、私だけではないと思っています。
また上田合戦(2次)においては、「関ヶ原に向かう徳川 3万に対し、真田は 3000で戦い、徳川秀忠の関ヶ原着陣遅延を招いた戦い」とも言われています。真田軍は秀忠軍を退け、秀忠軍は関ヶ原に進軍を開始する訳ですが、ご承知の通り秀忠は「決戦に間に合わず…」といった結果になる訳です(ちなみにこの時、秀忠は小諸城に本陣を置いたと言われているようです…)。
この2つの戦い(=上田合戦1次+2次)を持ってして、「徳川の攻撃を 2度も退けた、非常に珍しいお城」と言われる様になる訳で、こんな歴史に思いを馳せつつ、上田城を散策する事は、歴史好きにはたまらない時間だと思い、これこそ大人散策だと思う次第です。
参考:第2次上田合戦に関して・・・
上記2つの上田合戦をもってして、「真田は、圧倒的な兵力に勝る徳川を2度も退けた」となる訳ですが、この2次の上田合戦については、秀忠の味方をする訳ではありませんが、「家康からの書状(命令)の到着が遅れ、そもそも間に合いようがない状態の中、抑えの兵を一部残して、秀忠が進軍を急いだため(急ぐ必要があった為)、大きな戦闘はなく、上田城は落城をまぬがれた」という側面もある様です。それに「天下分け目の関ケ原」が1日で決着するとも思っていなかったでしょうから、真田が徳川を2度も退け、徳川主力の秀忠軍を遅延させたたというのは「結果論」の様な気がしますし、秀忠には、気の毒な結果であったというのが、私の理解です。(しかし一方では、「秀忠は上田城の強固さを実感し、慎重をきした」と言う事も言われている様ですが・・・)
・真田氏発祥の郷・真田氏本城跡
上記地図にもある通り、第2次上田合戦時に堰を築いた地域・真田氏発祥の郷・真田氏本城跡は、現在の上田城の北東側にあります。のどかな場所で、ドライブを楽しむだけでも満足できますが、歴史ファン・真田ファンなら、真田氏発祥の郷・真田氏本城跡には是非脚を伸ばしてほしいです。これらを回り、真田一族の生きた時代に思いを馳せ、歴史を感じる事こそ、大人の楽しみ方だと思い、歴史ファンなら、真田氏の無限の魅力を感じる事が出来ると思います!
【最後に:更に広範囲(上田外縁部)を見てみると・・・】
以上が、「上田市の上田城を中心に、その概要を抑えた上で、歴史・地形の観点も踏まえ、その楽しみ方を考察」させて頂いた内容になります(一部城外も含みましたが…)。
上記の様に地図を見ながら、「城の強固さ」・「戦その物」を考えるのは大変面白いのですが、更に広い広域の地図を見た時「これも面白い!」と感じた事があったので、以下簡単に共有します。
下記地図と併せてご拝読頂きたいのですが、上田城の北には「上杉の本拠地である越後」、南と西は「幸隆・昌幸の時代、自身が仕える武田」。となると「まだ領地拡大の可能性があった昌幸の時代までは、自身の領地を広げるのは東しかない」ので、「東に進んで、沼田まで進出していったのかなー」と思えてきた次第です(沼田城址・岩櫃城址・砥石崩れ(信玄が負けた戦で、その後真田が巻き返した)等、それぞれ本ブログ別記事で紹介中)。言い換えると、地図を見ながら、歴史に思いを馳せる事は、本当に楽しいものと思った瞬間だった次第で、この他「大阪の陣における真田丸の話」や「甲斐武田家とのつながり(武田二十四将)」、「真田十勇士」、「大河ドラマ:真田丸」と本当に数多く話題になる「真田氏」。更に地図の範囲を広げて思いを巡らせると魅力は尽きませんが、終わらなくなるので、今日はここで一旦ストップし、別の機会(=記事:松代等の記事等)に本ブログで改めて記載させて頂こうと思います。
尚、別記事にて、真田の隠し湯と言われる上田市郊外の別所温泉に関しても紹介しておりますので、ご参考に頂きつつ、そして真田氏思いを馳せつつ、上田城に脚を運んでみては如何でしょうか?
真田氏、江戸時代の拠点・松代も別ブログで紹介中。また別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
高低差の地図は、地理院の地図に自身で高低差を設定し作成