【はじめに:基本情報=二条城から何を連想しますか?】
日本には、現存12天守と呼ばれる、江戸時代以前から現存する、12の天守があります。同時に、あまり話題にはなりませんが、御殿の現存もあり(現存4御殿)、これは4つしかありません。その内の一つが、二条城(二の丸御殿)です(あとの3つは、川越本丸御殿、掛川城、高知城 ← それぞれ別ブログで記載しています!)。
日本に4つしかない、現存する御殿(現存4御殿)のうちの一つが、二条城(二の丸御殿)なのですが、皆さんは二条城と聞くと、何を連想されますか?
私は、以下の感じです。
- 現存4御殿つのうちの1つで、最大規模
- 徳川家康が、将軍宣下の祝賀儀式、並びに京都滞在時の拠点として築城した
- 二の丸庭園が有名
- 家康、家忠、家光と利用しているが、それ以降は14代の家茂まで、将軍として、誰一人二条城を利用していない
- 15代慶喜の時に、大政奉還が言い渡された場所
と、こんな感じでしょうか?
【二条城の歴史とエピソード】
上記、「家康、家忠、家光と利用しているが、それ以降は14代の家茂まで、将軍として、誰一人二条城を利用していない」と記載しましたが、そうなんです。二条城は、「200年以上、主である徳川将軍家が利用していなかったお城」になる訳です。家康、家忠、家光は、京に訪れ、利用されていますが(家光が最後に上洛したのは、1634年)、その後は、どの将軍も京を訪れておらず、14代家茂が1863年に、朝廷から攘夷の件で呼び出される形で、上洛を果たしたそうです。
そもそも二条城は、家康の将軍宣下における祝賀儀式をきっかけに造営された認識で、家康から家光の時代は、徳川家がこれから、平和な時代を作ろうとしていた、正に江戸の創成期。
そして、14代家茂(1858~1866:将軍在位期間)、15代慶喜(1866~1867:将軍在位期間)と言えば、桜田門外の変(1860)で、井伊直弼が暗殺され、長州征討(1865、1866)に失敗し、徳川家の威信がガタ落ちになり、大政奉還(1867)が行われた、正に江戸終焉の時代。
二条城とは、徳川将軍家の城でありながら、江戸の始まりと終わりだけに、徳川に縁のあった、不思議なお城と言う訳ですね。
【二条城内の散策コースとその様子】
そんな二条城、実際に訪れて思ったのは、以外とこじんまりしている印象で、特に堀は狭い印象を持ちました。徳川の天下において、築城されたお城なので、防御にはあまり気を使っていなかったのでしょうかね。しかし、二の丸にある建物(二の丸御殿)、庭園(二の丸庭園)はさすがの一言。現存4御殿の主役の中の主役が「二条城二の丸御殿」の認識です。現在見られる御殿は、修理・修繕は重ねているのでしょうが、1626年に建てられた建造物として理解されているようですので、他の現存4御殿と重ねてきた歴史が違いますし、格が違います!
その二条城二の丸御殿、建造物その物も豪華絢爛の一言。正門の茅が整った屋根と見事な彫刻に飾られた「唐門」に始まり、菊の紋章が飾られた「車寄せ・遠侍」の外観は、誰もが目にしたことがある二条城二の丸御殿の顔だと思いますし、内部では、狩野派の手による障壁画は圧巻の物。当時(今も?)撮影禁止で、内部は写真を撮れなかったのですが、中学生の時の就学旅行で初めて訪問し、格天井なるものの存在を始めて知り、その天井画に、圧倒されたのを今でも鮮明に覚えております。名古屋城/熊本城本丸御殿は、新しい分、金が色鮮やかに感じますが、二条城のそれは歴史を重ねている為か、重厚感を感じてしまい、威圧的な印象さえ感じる感覚を記憶しております。
そして、二条城と言えば、上記にも少し記載しました「大政奉還」。二条城二の丸御殿の大広間にも、教科書にも記載のある「大政奉還の意思を諸侯に伝える慶喜」を表現した展示があります(ありました?)。正直、事実は調査不足なのですが、『大政奉還の意向を、松平容保等の主要人物に、慶喜より(大広間の1つ奥にある)「黒書院」で伝えた後(翌日?)、老中が「大広間」で当時京都にいた諸侯の重臣にその意思を伝えた』と言う話もある様です。言い換えますと、「慶喜が大政奉還を決意したのは、『黒書院』だったが、展示は『大広間』になっている」という事の様です。
正直個人的には、黒書院でも、大広間でも良いと思っておりますが、大切な事は、『ここ二条城は、「家康の将軍宣下」や「家康・秀頼の会見」、「大政奉還」といった歴史的な事象があった空間という事で、取り分け(詳細な場所は別として)大政奉還の意思表示が二の丸御殿で行われて、その同じ空間に足を運ぶ事ができるのは、歴史好きの人にとっては、たまらない空間』だという認識をさせて頂いた次第です。芸術性が高く、格式も高い雰囲気を感じつつ、上記の様な歴史の大イベントに思いを馳せつつ大人散策できる空間が、二条城二の丸御殿だと改めて思った次第です。
また、二の丸庭園は、小堀遠州が奉行を務めたらしく(彼の代表作とも言われているらしいです)、こちらも風格十分。石の目立つお庭に見え、荒々しさを感じる日本庭園(大名庭園?/書院造庭園?)の印象を受けました。別名「八陣の庭」といわれてるようで、池泉が広がる回遊式の庭園。最も直近で訪問したのは、10年以上前の冬で、雪も舞っていた為、寒さのあまりじっくり拝見できませんでしたので「いつかリベンジ!」と思いつつ折りますが、中々参れておりません…。
更に参考情報までですが、二条城のWeb Site によると、「現存する本丸御殿は、1847年(弘化4年)に桂宮家が京都御所の北(今出川御門内)に建てた御殿の主要部を、1894年(明治27年)に明治天皇の意向により移築」との事です。こちらの本丸御殿は、近くの天守台より全貌を見る事が出来ますので、天守台からの360度の景観と共に、お楽しみ頂ければと思います!
直近で、こちら二条城に訪問したのは、オフシーズンの2月。季節が違うとは言え、就学旅行で訪れた時の印象と、また違った印象を持てました。二条城に付いた時には、良い天気でしたが、途中で雪も降りはじめてしまう、そんな寒い中でしたが、「かえって、人のほぼいない二条城を夫婦で貸し切り状態で大人散策を満喫できた」と思えたのは、正に大人になった証だと思いました。
【最後に】
もし皆様も、しばらくの間、二条城を訪れていないのであれば、是非改めて、訪れてみて、大人目線で楽しんでみては、如何でしょうか? また違った印象をこのお城・御殿・庭園それぞれに持つことが出来るかもしれませんので! (京都日帰り観光の記事も記載中ですので、併せてご参照頂き、皆様の旅の計画に参考になれば幸いです : 1回目、2回目)。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
また庭園関連では、別記事にて、東京旧古河庭園、東京椿山荘、神戸相楽園、京都無鄰菴、高松栗林公園、熊本水前寺成就園、山梨恵林寺庭園、甲府常磐ホテルの庭園、平泉毛越寺庭園、名古屋徳川園、二条城二の丸庭園、川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園、熱海の起雲閣、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、清澄庭園、浜離宮、六義園、新宿御苑、日本三名園:金沢兼六園・岡山後楽園・偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。