【はじめに:首都圏に山梨県が含まれる疑問】
皆さんは、首都圏と言う言葉をご存じですよね? では、首都圏の範囲はご存じでしょうか?
早々に、正解を記載しますと、東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨の1都7県です。恐らく、三分の一位の人は、「山梨?」と思ったと思います。山梨県北杜市(当時は北巨摩郡…)出身の私も、子供の頃「何で山梨が首都圏にはいるの?」と思いましたし…。念の為、Wikipedia を調べてみますと、以下の様にあります。
日本における首都圏(しゅとけん)とは、主に首都圏整備法第2条第1項および同施行令第1条に基づいて「首都圏」と定義された、東京都およびその周辺地域である茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・神奈川県・山梨県の1都7県を指す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/首都圏_(日本)
首都と言えば、都会で洗練された場所のイメージ。山梨県北杜市(当時は北巨摩郡…)の山の中で育った私には、都会的な雰囲気も洗練されたイメージも持ち合わせていませんが「首都圏には山梨が入る」。多くの人が疑問に思ってしまうのではないでしょうか? 正直どうでもよいですが、山梨県出身者として「首都圏に山梨が入る理由」を私なりに考えてみたいと思った次第です…。
Wikipediaより
山梨県(やまなしけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は甲府市。
首都圏整備法における首都圏の一角を成す。令制国の甲斐国に相当する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/山梨県
先ず、「首都圏に山梨が入る理由」を考えるにあたって、似たような言葉に関しても情報収集してみたいと思います。それは、首都圏と似たくくりで、関東圏、東京圏と言った言葉です。
関東は「首都圏から山梨を除いた、東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬の1都6県」は良いと思いますが(ちなみに、よく歴史関連の書籍なんかでは、「関八州」と言う言葉を聞きますが、これは現在の関東圏と同じエリアを指す認識です)、東京圏はWikipedia の力を借り、調べてみますと、以下の様にあります。
”東京都心から50-70kmの圏内、あるいは東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の1都3県を「東京圏」や「東京都市圏」として定義する事例が多く見受けられる”、
https://ja.wikipedia.org/wiki/首都圏_(日本)
似たようなくくりですが「私が持っている『首都圏のイメージ』は、上記の『東京圏のイメージ』」で、100歩譲って「関東圏」。相当数の方も、似たようなイメージを持たれているのでないかと思います。しかし、「事実は人口80万程度の山梨が首都圏に入る」のです…。
【首都圏に山梨県が含まれる理由の勝手な考察】
この事実を受け止めるべく、私なりにまずは「関連する事象」をまとめてみますと以下の3点があげられると思います。
①山梨は東京に隣接している
一般的な甲州街道では、途中神奈川の相模湖付近を通りますが、奥多摩方面方から青梅街道を行けば、東京から直接山梨に入ります(ちなみに多摩川の水源は山梨県です…)。言い換えますと、「(地図を見れば、もっと明らかですが…)東京と山梨は隣接している」と言う事です。一方、同じ関東の群馬・栃木・茨木は、東京に隣接していません…。
②江戸時代からのイメージ1:江戸の避難場所
江戸城から地続きに伸びる半蔵門は、甲州街道に直接つながっている事から、この道一本で(=甲州街道で)「甲府へのいざという時の脱出経路」になっていたと言われており、「(徳川幕府にとって)江戸(=東京)からの避難場所」のイメージがある事から、一般人に至っても、(無意識のかもしれませんが)同じように「東京からの避難場所のイメージ」持っている(持つに至った)可能性があります。
③江戸時代からのイメージ2:江戸幕府にとって重要
江戸時代、(特に初めの頃は)甲府は幕府の重要拠点で、事実、徳川将軍家の庭園として有名な浜離宮の根源とも言える6代将軍・家宣は甲府藩主の家柄。幕末に近くになるにしたがって(戊辰戦争の一つの勝沼戦争の頃には「甲府=山流し」なんていわれてもいたようです…)その重要性は低下してきたようですが、少し視野を広げて日本の歴史を俯瞰すると家康も統治にかかわり、その後、江戸幕府も直轄地として、もしくは六義園で有名な5代将軍・綱吉側用人・柳沢吉保といった重要人物が管理した為、「江戸(=東京)にとって重要な地」のイメージがあった事も事実だと思います。
この3点を考慮しつつ、私なりの『「首都圏に山梨が入る理由」に関する仮説』を立てますと、以下の様になります。
『現在の関東地方は、関八州と言われた地域で、一つのくくりであったが、山々に囲まれながらも隣接し、道一本(甲州街道)で到達できる甲斐(甲府)は、徳川幕府にとっては、リスク回避の地として重要な地であった。言い換えると「関八州+甲斐」と言う考え方が、江戸の時代から根底にあった。その考え方が、現在も「思考の底辺」に残っており「東京圏に災害が起こった際の避難地としての甲府」を「誰も語らないが、共通認識」として持っている為、首都圏に関しても「関東+山梨」の考え方で、いくことにした…』
【最後に:甲斐国(山梨)の微妙な位置づけ】
五畿七道ベースだと、東京(武蔵)と山梨(甲斐)は同じグループの東海道(道の意味の東海道ではなく、行政管理の地域としての東海道)。戦国時代は、山々に囲まれた事も、武田家が治めた事もあり、関八州のカテゴリーには入っていませんでした。しかし江戸時代になると、徳川家の意向で「関八州+One」の位置づけになったと理解し、そして現代は、首都圏のくくりもあれば、高校野球なんかでは、関東の一員に属するケースがあるも、中部地方の考え方が一般的。
「時代とともに…」と言うより『「時代の都合と人々の思惑」で、様々なカテゴリーに属するのが、甲斐国(山梨)』と言う事の様です。これから先、更に時代が進むと、どんなカテゴリーになるのかわかりませんが、北は八ヶ岳、南は富士山、東に秩父山地、西に南アルプスと山々に囲まれた地形的な特徴が、この甲斐の位置づけを微妙にしていると勝手な想像をしてしまった次第です。
同時に「あえて曖昧のまま進める事も、日本人の一つのソリューション」だとも思った次第です…。そんな我が故郷、山梨については、本ブログの別記事で、武田信玄の館跡にある武田神社や甲府駅前の舞鶴城、わが故郷の北杜市や甲府とその周辺を各種温泉情報も含めて紹介していますので、是非ご参照頂き、機会がありますれば、この微妙な位置づけの山梨に足を運んでみてはいかがでしょうか?