江戸城

【はじめに】

こちらのページでは、日本の東京にある江戸城にに付き、その歴史と地形を少しだけ(サマリ的に)探って行きたいと思います。

江戸城は、現在の皇居にあたる場所(若干の相違はありますが…)」と言われており、東京を多くの人が首都と認識し始めたのは、明治期の認識です(別記事で紹介しておりますが、「東京=首都」は、正式に発表されている訳ではないと理解しております)。また、その前は、1600年代初めに江戸幕府が開かれています。言い換えますと、東京は、400年程前に、江戸幕府の開府と共に日本の中心になり始め、江戸期にその地位をどんどん高め、明治期に天皇の在所が東京になった事で「多くの人が日本の中心=東京」と認める様になり、現在に至っていると言った、歴史の流れを辿っている訳です。では、「江戸期の前は?」どうだったのでしょうか? 勿論その時の日本の中心は京都ですが、その前の江戸はどういった状況だったのでしょうか? 

こちらのページでは、そんな東京の歴史を、江戸城を中心にした視点から、少しだけ深堀させて頂こうと思った次第です。以下に勝手ではありますが、自身が個人的に思う、江戸城を中心に考えた際の東京の歴史的なポイント」を列挙しつつ、その内容(概要程度ですが…)を記載させて頂きます。

【江戸城を中心に考えた際の東京の歴史的なポイント】

・弥生町遺跡

そもそも東京の歴史を遡る際、何を根拠に、何処までさかのぼればよいのか迷いました。地形的に考えれば、「東京湾海底谷」や「縄文海進」(別記事でそれぞれ紹介中)と言った所まで遡る必要があるかもしれませんが、「人の営み」の観点で行くと、真っ先に思いついたのが、「弥生町遺跡」でした。その為早速、Wikipediaにて、「弥生町遺跡」を調べてみますと以下の様にあります。

弥生町遺跡(やよいちょういせき/やよいまちいせき)は、東京都文京区弥生にある弥生時代の環濠集落遺跡。一部が国の史跡に指定されている(指定名称は「弥生二丁目遺跡」)。  
弥生土器(当初は弥生式土器)・弥生時代の名称の元となった、弥生土器第1号の「本郷弥生町出土壺形土器」(国の重要文化財)が発見された遺跡として知られる。  
弥生土器第1号は、当初は向ヶ岡貝塚(むかいがおかかいづか)の出土と報告された。しかし現在では、縄文時代後・晩期の貝塚遺跡は「向ヶ岡貝塚(弥生町貝塚)」、弥生時代後期の環濠集落遺跡は「弥生町遺跡」と別々に捉える傾向 (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/弥生町遺跡

少なくとも、縄文時代後・晩期には、東京にはもう既に人が住んでいた」と言って良いと言う事だと思います。また、この地形を考えると(弥生町遺跡と江戸城の場所を地形的に比較すると)、江戸城付近も同様の地形と認識できますので、勿論江戸城祉にも、当時から人が住んでいたと考えるのが普通だとも思った次第です。言い換えますと、少なくとも、2000~3000年前には、東京に(江戸城内でも?)人々の営みがあった」と言って良いのでないかと思った次第です。

浅草寺の創建

少し江戸城から離れますが、東京の歴史を考える上で外してならなと思うのは、浅草寺だと思います。同様に、Wikipediaの力を借り、「浅草寺」を調べてみますと、以下の様にあります。

浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する (略) 都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所(13番)、また江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。  (略) 
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下の通りである。 飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも 、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという (略)   

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草寺

浅草寺の創建は、飛鳥時代の628年で、都内で最も古い神社と言う事地形の観点から見ても、浅草寺がある浅草周辺は微高地で、漁村があった事もうなづけます。この時代の東京は、「小さな漁村と言われていますが、都内で最も古いお寺・浅草寺の由来が、海での漁にある事は、偶然ではないと思った次第です。

・江戸氏が館を構える

少し話がそれましたので、江戸城に話を戻しますと、江戸城と言って思い浮かぶのは、「徳川家」だと思いますが、その前身のお城は、誰が築いたか、ご存じでしょうか? はい、太田道灌と言われている事、ご存じだと思いますでは、「太田道灌の前は?と聞かれると、正直私は、「???」でした。そこでWikipediaの力を借り、調べていますと、以下の様にあります。

(略) 江戸(現在の東京都区部の一部)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

他にもいくつか学説がある様で、明確に言い切る事は難しい側面もある様ですが、上記引用を踏まえると、「平安時代末期から鎌倉時代初期」との事なので、1200年前後に、桓武平氏の一門の秩父氏の流れをくむ、江戸氏が館を構えた事に始まる様です。言い換えますと、「江戸城・皇居の歴史は、1200年頃に始まった」と言って良い気がしました。

太田道灌が江戸城築城

江戸氏の惣領家は、良く見えていない部分もある様ですが、1350年位から後に没落していった様で、その後江戸城の歴史における大きなTopicは、太田道灌による江戸城の築城@1457年だと思います。Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

上記、江戸氏のパートでは、「平安時代末期~鎌倉時代の初めが、江戸城の始まり」と理解致しましたが、「徳川実記」では、江戸城の始まりは、1457年と言う事になるらしいです。ちなみに、享徳の乱は、(この時はまださほど中の悪くなかった)扇谷・山内上杉氏と古河公方・足利氏の対立で、地理的には、利根川(この時代は利根川東遷前)を隔てた東西の対立との事の様です。同じ年に築城された川越城(別記事にて記載中)と同じポリシー(利根川の西側で、武蔵野台地のヘリ)で築城され、川越城と江戸城を「後に川越街道として発展する軍用道路」で結んだ事は、越生出身と伝わる太田道灌の地理的な理解あってこその「築城場所選定」であると思うのは、私だけではないと思います(太田道灌の江戸城築城に関する歴史的・地形的観点からの考察川越城と江戸城を兄弟城と考える仮説、を別記事にて記載しております)。

太田道灌暗殺後の江戸城主の変遷

1457年に江戸城を築城した太田道灌ですが、1486年に暗殺されてしまいます。主君(扇谷上杉氏)が優秀過ぎる太田道灌に恐れを抱いた事により暗殺されたとも、山内上杉氏に、扇谷上杉氏がそそのかされたとも言われているようですが、これを期に、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立が激化(長享の乱:1487年~1505年)して行く事になります。ここに歴史の波が押し寄せてくる訳で、江戸城の城主も、目まぐるしく変わる事になります。Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川や鎌倉へ、水運では後世で言う江戸湾(東京湾)から太平洋の外洋に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。 (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

太田道灌の後(1486年以降)、主家の扇谷上杉氏(1486~1524年) ⇒ 後北条氏(1524~)と城主は変わって行ったとの事ですが、水運の拠点としての役割は、変わらず果たしていたようです。

徳川家康の入場

後北条氏が、1524年に入城した江戸城ですが、名胡桃事件を発端に、豊臣の北条氏征伐が始まります。ついに、徳川家康の入城になる訳ですが、Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(現在の静岡市)から江戸に入った。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水が入り込む茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野に連なった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州が現れていたという (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

江戸開府は、1603年ですが、家康が入城したのは、1590年この年から、東京の中興が始まったとも言えるのではないかと思いました家康入城時は、「100件・10町程の村」との事なので、非常に小規模。「1町≒10,000㎡≒3,000坪」なので、「10町=3万坪」となり、イメージしやすい様に例えで記載すると、「『現在の旧芝離宮恩賜庭園(約1.3万坪)×2.5』程の村が、現在の東京消防庁 本部庁舎付近にあった」と言う事でしょうか? 言い換えると、「400年程前には、人口数百人の村が、日本の首都(と言われるエリア)になった」と言う理解で間違いないようです。

・天下普請による江戸城再構築

徳川家康の入城後、江戸城は、大変貌を遂げて行くようで、Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 天下普請前   
江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている (略)

慶長期天下普請 
慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っている (略)   
翌慶長12年(1607年)(略) 慶長度天守が完成 (略)   

■元和期天下普請 
元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う (略)   
元和8年(1622年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する (略)     

■寛永期天下普請   
寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる (略)   
寛永13年(1636年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる   
寛永14年(1637年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。   
最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終了する (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

徳川家康は、江戸城入城後、江戸城の拡張と街づくりを開始。慶長期(1596年から1615年)、江戸幕府開府後には、天下普請として、日比谷入江の埋立や慶長天守の建設を行った1622年(秀忠⇒家光に将軍職が移る頃)には、2代目天守の元和度天守が完成し、1636~1637年(家光の時代)には、外堀の工事と寛永天守の建設が行われ、ほぼほぼ現在私達のイメージに近い江戸城の形(地形がメインですが…)になったと言う事の様です。

・3つの天守とその後

上記にも記載しておりますが、江戸城には、3つ(3種類)の天守が、1607年~1657年の間にあった様です。家康時代の天守:慶長天守、秀忠時代の天守:元和天守、家光時代の天守:寛永天守です。しかし、1657年の明暦の大火にて焼失した後、天守は再建されなかったとの事で、Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 明暦3年(1657年)の明暦の大火によって寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が加賀藩主の前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、幕閣の重鎮であった保科正之の「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見により、江戸市街の復興を優先する方針となって中止された。のちに新井白石らによって再建が計画され、図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。 これ以降、諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

つまり、「現在みられる江戸城の天守台に天守があった事は無かった」と言う事です。天守の再建よりも、江戸の街の復興を優先した保科正之(高遠から山形経由で会津に移った会津松平家の初代で、二代将軍秀忠の子にあたり、3代将軍・徳川家光の異母弟;いわゆる将軍の「ご落胤」でもある)の判断、素晴らしい選択であったと思います。

遷都ではなく奠都で皇居に

その後、江戸城は江戸期を通して、幕府の本拠地である訳ですが、これに変化が起こるのは、1868年に勃発した、戊辰戦争から。Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 慶応4年(1868年)に開戦した戊辰戦争の最初の局面である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、江戸に逃亡した徳川慶喜に対して追討令を発布。慶応4年(1868年)3月15日を江戸総攻撃の日と定め、江戸城に対する包囲網を完成させた。しかし、徳川家存続に向けた交渉の全権を委任された旧幕府陸軍総裁の勝海舟と東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現し、それにより、江戸城の無血開城が決定した。   

明治元年(1868年)4月11日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。(江戸開城)   

明治2年(1869年) 東京奠都。皇城と称される (略)    

1948年(昭和23年) 皇居と改称された (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城

1868年『江戸城』は、徳川から新政府に移ると共に『東京城』となり、同年から翌年にかけ行幸が行われ、天皇が東京に移り『皇城』とされ、戦後に『皇居』となった」と言う理解をさせて頂きました。ただこの際に使われた言葉が、「遷都」でなく「奠都」別記事でも記載いたしましたが、「都を移す:遷都」のでは無く、「都を定める:奠都」の意味で、当時は、京都+東京の2つの都」と言った考え方(建前?)で、天皇が京都から東京へ移った様です。(個人的には、東京=政治・経済の中心の東京が首都、京都=日本文化と歴史の中心の京都が都(みやこ)だと思っていますが…)

【最後に】

以上が、江戸城の歴史を、(地形の観点も少し入りましたが)少しだけ深堀させて頂いた内容になります。

とは言ってもそれなりの情報量だと思います。京都が都であった歴史は「約1000年」それに比べると、東京は、家康が江戸幕府を開府し、政治の中心になってから「400年程」で、半分にも満たない事を考えると、京都のすごさを感じますし、日本の都(みやこ)はやっぱり京都だとも思ってしまします。しかし、現在の政治・経済の中心は、東京。これまでの歴史を少し振り返りつつ、今後も発展していってほしいと改めて思う次第です。

また、上記の様なちょっとした情報だけであっても、持っているだけで普通の散策が、大人散策になると思いますので、上記の感じで江戸城の歴史を少しだけ振り返りつつ、現在では基本解放されている、かつての江戸城の本丸・二ノ丸・三ノ丸の一帯(皇居東御苑)と、皇居外苑+北の丸公園を大人散策してみてはいかがでしょうか?

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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