【はじめに】
こちらのページでは、「長い日本史の中でも、特に長い歴史を持つ神社の1つで『東の軍神』の1つにも数えられた『鹿島神宮』の概要とその歴史につき、今後の大人散策に備え情報収集した内容を共有」させて頂きます。
正直まだお邪魔した事がないですし、土地勘もないエリアにある鹿島神宮。しかし「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」と言ったフレーズは存じ上げております(ちなみに「関」とは、「逢坂の関」を指すようです…。長年「関ヶ原」の事だと思っていましたが…)。平安期の「梁塵秘抄」に出て来るフレーズと理解していますので、この頃から「軍神」の地位を確立していた神社であると思われ、その由緒は神話の時代まで遡ると言われている認識です。逆の言い方をすると、西日本中心と思ってしまう古代(もしかしたら弥生の最晩年?)の日本の歴史ですが、東日本にも鹿島神宮・香取神宮・諏訪大社と言った神社が登場するという事は、この頃既に「東日本も日本と言う国の一部であった」と言えるのでないかとも思ってしまう次第です。
こちらのページでは、そんな日本の「古代の歴史を辿る一つの物的証拠」とも言って良い「鹿島神宮」が、「どんな神社で、どんな歴史をたどり、どんな見所のある神社なのか」といった視点でリサーチしましたので、その内容を共有させて頂こうと思います。すなわち、「長い日本史の中でも、特に長い歴史を持つ神社の1つで『東の軍神』の1つにも数えられた『鹿島神宮』の概要とその歴史につき、今後の大人散策に備え情報収集した内容を共有」させて頂こうと思います。
【鹿島神宮の概要】
まずは、鹿島神宮の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、引用読まなくても大丈夫です)。
鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。概要
茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
文化財のうちでは、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿を神使とすることでも知られる (略)鹿島神宮のHP(https://kashimajingu.jp/)より:韴霊剣 鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)であるとされる (略) 天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)または経津主神(日本書紀)とともに活躍したという。その後、神武東征に際してタケミカヅチは伊波礼毘古(神武天皇)に神剣(布都御魂)を授けた。ただし『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない (略)
鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市、北緯35度53分10.03秒 東経140度31分43.27秒)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。
鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる (略)鹿島神宮祭神の「建御雷神(タケミカヅチ) 香取神宮祭神の「経津主神(フツヌシ)」 Wikipediaより:鹿島神宮祭神の「建御雷神(タケミカヅチ)」・香取神宮祭神の「経津主神(フツヌシ)」 また、藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残るが、藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、『常陸国風土記』によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。また『大鏡』(平安時代後期)を初見として鎌足の常陸国出生説もあり、神宮境外末社の津東西社跡近くに鎮座する鎌足神社(鹿嶋市指定史跡、北緯35度57分58.92秒 東経140度37分5.41秒)はその出生地と伝えられる。藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられたが、天児屋根命の父を建御雷神とする説があり、それに従えば建御雷神は中臣氏の上祖となる (略)
社殿
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも江戸時代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもの (略) 楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にある。このため社殿は北面するが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる (略)
本殿は北面するが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあって参拝者とは相対せず東を向くといい(下図参照)、出雲大社本殿との関連が指摘される (略) 本殿・石の間・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。
拝殿の右前方には南面して仮殿(かりどの)が建てられている (略) この仮殿は国の重要文化財に指定されている。鹿島神宮のHP(https://kashimajingu.jp/)より:境内案内図(拡大) 鹿島神宮のHP(https://kashimajingu.jp/)より:境内案内図 境内の参道には西面して楼門があるが、この楼門は「日本三大楼門」の1つに数えられる。寛永11年(1634年)、初代水戸藩主の徳川頼房の命による造営のもので、(略) 扁額「鹿島鳥居」は東郷平八郎の書になる (略) 門左右の回廊は楼門と同時の作で (略) 楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化財に指定されている。
境内入り口にある大鳥居は、4本の杉を用い、高さが10.2メートル、幅が14.6メートルの大きさである。元々は笠間市産の御影石を用いた石鳥居であったが、平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により根元から倒壊した。これを受けて、神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建され、記録が残る1664年から数えて11度目の建て替えとなった (略)要石(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石 (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿島神宮
かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている (略)
なお、香取神宮には凸型の要石があり、同様の説話が伝えられる (略)
少々長い引用になってしまったので、以下にポイントをまとめます。
- 鹿島神宮は、式内社(名神大社)で、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社で、武道において篤く信仰される全国にある鹿島神社の総本社で、現在では、利根川を挟んだ反対側にある下総国一宮・香取神宮と「鹿島・香取の両神宮」と並び称される様に、深い関係にある神社(『梁塵秘抄』では、「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」とも言われた)
- 神武天皇の時代に創建されたと言われる鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)とされ、日本神話の天孫降臨に先立つ葦原中国平定における大国主の国譲りの際に、建御名方神(諏訪大社の祭神)との力比べ(相撲の起源?)を制するといった活躍をし、神武東征に際しては、初代・神武天皇に神剣(布都御魂)を授けたと言われるらしい(神武天皇を祭る橿原神宮に関しても別記事で紹介しております)
- 鹿島神宮は古代において、朝廷(大和政権)から香取神宮と共に軍神として、そして蝦夷の平定神として信仰され、蝦夷進出の輸送基地の役割を持ち、古代に広がっていた香取海という内海において、両神宮はその出入口の地勢学的重要地に鎮座しており、社殿が北面する事も北方の蝦夷を意識した配置と言われるらしい(参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)に面し、北面する特殊な位置関係)
- 藤原氏からの崇敬も特徴の1つで、藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られており、建御雷神(=武甕槌神=鹿島神宮祭神)は中臣氏(藤原氏の前身と言われる一族で、乙巳の変の中心人物として、中大兄皇子(=天智天皇(近江神宮祭神))と共に有名な中臣鎌足がいる認識)の祖先にあたるとも言われるらしく、その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬さたと言われる(春日大社に神使として多くの鹿がいますが、これは鹿島神宮から建御雷神(=武甕槌神=鹿島神宮祭神)が、白い鹿に乗って来た事に由来するらしいです)
- 文化財では、「韴霊剣」と称される長大な直刀が国宝に指定されており、境内が国の史跡となり、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる主要社殿は、いずれも江戸時代初期・1619年に江戸幕府第2代徳川秀忠の命によって造営された建造物らしく、更に拝殿の右前方には南面して仮殿があり、いずれも国の重要文化財に指定されている
- 本殿は北面するが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあって参拝者とは相対せず東を向いているといい、出雲大社本殿との関連が指摘される
- 参道には「楼門」があるが、この楼門は、1634年に初代水戸藩主の徳川頼房の命による造営と言われ、扁額「鹿島鳥居」は東郷平八郎の書になるらしく「日本三大楼門」の1つに数えられ、楼門は国の重要文化財に、回廊は鹿嶋市指定文化財に指定されている
- 境内入り口にある大鳥居は、4本の杉を用いた高さ:10.2m、幅:14.6mの大きさを誇るもので、前の鳥居が、2011年3月11日の東日本大震災の折に根元から倒壊してしまった事を受け、神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建された
- 境内には霊石・要石(かなめいし:凹型)があるが、これは、大鯰の頭と尾を抑える杭であると言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられているようで、地震からの守り神として信仰されている(地震は地中に棲む大鯰が起こすものと考えられており、香取神宮には凸型の要石があり、同様の説話が伝えられる)
江戸時代の鯰絵。上が要石を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える武甕槌神
鹿島神宮は、日本神話に武力の象徴の様な形で登場する「建御名方神(諏訪大社の祭神)」との力比べ(相撲の起源?)を制した「タケミカヅチ(武甕槌/建御雷)」を祭神とし、古代においては蝦夷平定の拠点として、香取海(現在は利根川ですが…)を挟んで香取神宮と共に、重要拠点に双璧として配置された「格式高く長い歴史を持った神社」であると理解しました。同時に、藤原氏との関連は深いものがある様で、現在では全国区で有名な「奈良・春日大社の起源は、鹿島神宮にある」と言うのは、かなりの驚きですし、「アニメ・すず●の戸締り」のモチーフになっているとも思える「要石」の存在が、鹿島・香取両神宮にあったという事にも驚いた次第です。そして、歴史的建造物や所有する文化財の魅力は勿論ですが、全体的な印象として「『武』による国家構築/守護の象徴の神社が鹿島神宮」と理解した次第です。
前面に石の間・幣殿が接続
【鹿島神宮は『武力の象徴の神社』】
上記、鹿島神宮の概要を抑えさせて頂きましたが、鹿島神宮を語る上で忘れていけない神社が香取神宮である事を理解させて頂きました。日本神話においても「タケミカヅチ(鹿島神宮祭神)は、天孫降臨に先立つ葦原中国平定において、天照により、経津主神(フツヌシ;香取神宮祭神)とともに出雲(個人的には奈良だと思ってますが…)へ派遣され、大国主の国譲りにおいて活躍する神様」ですので、「鹿島神宮と香取神宮は、表裏一体の神社」と言って良いと思っております。
参考:「国譲り神話」の個人的理解の概要
高天原(天上の国?)に住む天照大御神は、建御雷神(鹿島神宮の祭神)と天鳥船神 or 経津主神(香取神宮の祭神)を葦原中国(地上の国?)に遣わし、大国主神(出雲大社の祭神)に「この国は天照大御神の子孫が治めるべき」と『国譲り』を迫った。
大国主神は、先に自身の息子2人に訊ねるよう言った。1人の息子・事代主神(美保神社(松江)の祭神)は、承諾したが、もう1人の息子・建御名方神(諏訪大社の祭神)は、「力競べをしようではないか」と喧嘩を吹っかけてきたので、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、手をつらら、そして剣に変化させ、更に建御名方神(諏訪大社の祭神)の手を掴み、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げた(相撲の起源とも…)。たまらず、建御名方神(諏訪大社の祭神)は、逃げ出したが、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、諏訪まで追い詰めた。すると、建御名方神(諏訪大社の祭神)は「この諏訪の地から出ない事」を条件に許しを請い、建御雷神(鹿島神宮の祭神)に降参した。
その後、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、出雲に戻り、大国主神に再度尋ねると「二人の息子が天津神(天照大御神)に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私も、私の家臣も従いましょう」と承諾したので、大国主神のために宮殿(16丈(48m)説の古代本殿(32丈(96m)説もあるらしいですが…))を建て大国主を祭った。
そんな関係性にある鹿島神宮と香取神宮ですので、あまり意味はなく、むしろ罰当たりかとも思いましたが、あえて「鹿島神宮と香取神宮の比較」をしてみたくなってしまった次第です。
以下の表をご覧いただいた通りですが、似通ったポイントが多くあり、「鹿島神宮と香取神宮は、表裏一体の神社」である事理解できると思います。そして、思ってしまいました。信仰心に上も下もない事重々承知の上ですが、以下のポイントを見た際「『鹿島神宮が、武力の象徴』で、『そのなくてはならないパートナーが香取神宮』」と思ってしまった次第です。
簡単に比較ポイントを列挙しますと以下の様になります。
- 創建は、両神宮とも初代・神武天皇の時代であるが、鹿島神宮の方が若干早い
- 日本神話における、それぞれの祭神の活躍状況は、建御名方神(諏訪大社の祭神)との力比べ(相撲の起源?)を制し、神武天皇の東征時に神剣を授けた鹿島神宮の祭神・タケミカヅチ(武甕槌/建御雷)の方が、派手さがある
- 徳川将軍家との関わりでは、鹿島神宮の方が先に庇護を受けている様に思える(鹿島神宮:2代将軍・秀忠、香取神宮:5代将軍・綱吉)
- 春日大社の勧請において、鹿島が第一殿に勧請されており、現在の春日大社の鹿さん達は、鹿島神宮から建御雷神(=武甕槌神=鹿島神宮祭神)が、白い鹿に乗って来た事に由来するとも言われる
- 「社格」・「大和政権/東郷平八郎との関係性」・「要石の言い伝え」に関しては、両神宮とも基本的に「同じ待遇」と「役割」に見える
少々罰当たりで、意味のない考察かもしれませんが、上記により「『鹿島神宮が、武力の象徴』で、『そのなくてはならないパートナーが香取神宮』」と思ってしまった次第です。皆様はどの様に思われましたでしょうか?
【最後に】
以上が、「長い日本史の中でも、特に長い歴史を持つ神社の1つで『東の軍神』の1つにも数えられた『鹿島神宮』の概要とその歴史につき、今後の大人散策に備え収集した情報を共有」させて頂きました内容になります。
上記、鹿島神宮の概要と歴史、香取神宮との比較がメインの内容になってしまいましたが、実際に訪問させていただくにあたっては、「参道と本殿が直角に配置された構造」や「東日本大震災から復活した巨大な大鳥居」、「1634年に初代水戸藩主の徳川頼房の命による造営と言われる楼門(扁額は東郷平八郎の書)」、「江戸時代初期・1619年に江戸幕府第2代徳川秀忠の命によって造営された主要社殿;本殿・石の間・幣殿・拝殿」、「アニメ・すず●の戸締りのモチーフになったと思われる霊石・要石」を楽しむと同時に、「広大な神社内の森(=社叢)」を「奥宮」や「御手洗池」等を楽しみつつ大人散策させて頂き、この神社の歴史と日本の歴史に思いを馳せようと思った次第です。実際に訪問できた暁には、本ブログで報告申し上げようと思っております!
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。