【はじめに:「風林火山」とは?】
本日は、孫子の中に出てくる言葉で、「風林火山」を、考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)
「風林火山」って聞いた事ありますか? はい。武田信玄が戦の時に、掲げた軍旗ですね。では、この出典は何処からだと思いますか? こちらもご存じの通り、”孫子”、からだと言われていますよね。更に、続けて質問を3つ。
- 実際の軍旗には、どう書かれていたかご存じですか?
- 風林火山の続きをご存じですか?
- なぜ武田信玄は、この旗印を使ったのか?
恐らく、①に関しては、70%くらいの方が、②に関しては、30%くらいの方がご存じでないかと思いますが、事実は後述しますが、本日のメインは、「③なぜ武田信玄は、この旗印を使ったのか?」の勝手な推察をしてみたいと思います。
”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。
”『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている”
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)
2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、言った認識を個人的に持っております。
【「風林火山」の続きは?】
まず、上記①、②の回答ですが、信頼あるWikipedia の力を借りますと以下の様にあります。
”「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動」(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し、郷を掠めて衆を分かち、地を廓めて利を分かち、権を懸けて動く)”、
https://ja.wikipedia.org/wiki/風林火山
写真も載っており、実際にどう書かれていたか、良くわかります。つまり、①の答えは、『「風林火山」とは書かれていない』と言う事です。また、文面に注目しますと、上記全文中の最初の部分、”故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山”、のみであったという事です。
別の見方をするのであれば、”故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山” をいつの時代からか分かりませんが、”風林火山”と言うようになったという事の様です(「呉越同舟」や「薩長同盟」みたいですが…)。うまい言い方をしたものだと改めて感心してしまいます。「”其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く”の旗」、なんて言われても、困りますもんね…。ちなみに、同じWikipedia の項目内には、以下の様にもあります。
”この文句の初出は武田晴信(信玄)が快川紹喜に書かせたという軍旗に由来する”、
https://ja.wikipedia.org/wiki/風林火山
快川紹喜は、本ブログの別記事でも紹介しました、武田家の菩提寺・恵林寺で、武田家滅亡の折に、織田軍により、焼き討ちが行われて際、「心頭滅却せば火も自づと涼し・・・」の辞世を残したと言われる、僧侶です。
次に、②の回答は、上記の通り、「”故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山”、に続き、”難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動”、が続いていた」と言う事です。折角ここまで触れたので、③の勝手な検討に入る前に、”難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動”、の部分の、”私なり”、の理解を記載しますと、以下の様になります。
- 難知如陰(知りがたきこと陰の如く):情報は秘匿(操作)し、自身の意図は知られないように
- 動如雷霆(動くこと雷霆(らいてい)の如し):動く時には拙速に動く
- 掠郷分衆(郷を掠めて衆を分かち):部隊を分けて進軍するようにし、自身の望む決戦地を秘匿
- 廓地分利(地を廓めて利を分かち):占領地の拡大にあたっては、メリハリをつけて守るように
- 懸權而動(権を懸けて動く):臨機応変に動く必要がある
なんか前半部分と毛色の違う感じしませんか? 前半部分は、戦その物における、実践的な動きを想定した哲学が書かれている感じで、後半(旗印になっていない部分)は、実際の戦の外縁部の戦い(情報戦)を踏まえた哲学の様な感じがするには、私だけでしょうか?
【勝手な推察:武田信玄が「風林火山」の部分のみを抜粋した理由は?】
ここでもう一つ情報として記載したいのは、この ”風林火山” の一説が出てくる、孫子の中におけるパートに関してです。ご存じの方も多いと思いますが、「軍争篇」と言われるパートで、こちらの一説は登場します。
この軍争篇の一番最初に出てくるメッセージが、”迂直の計”(別記事で紹介しています)、です。簡単に言ってしまうと、「遠回りを近道に変える事」と言ったとこでしょうか。人力での移動がメインの時代に戦をする時、行軍の期間や決戦地の特徴、有利な場所の確保が、非常に重要であった事は、間違えないと思います。故に、
迂直の計とは、「情報を秘匿・操作して、決戦地を知られず(考えさせて)、相手を翻弄し、移動させ、疲れさせて、知らず知らずのうちに、自軍が想定し、最短距離で先着し、有利な場所に布陣した決戦地に相手を呼び込む為、策を巡らせる必要がある」
と言う事を言いたいのではないかと、個人的には思います。ちなみにですが、この ”迂直の計” は、正に「風林火山」の一説が出てくるパート(軍争篇)の最後にも記載されている内容なのです。
これを踏まえて、改めて「③なぜ武田信玄は、この旗印を使ったのか?」を考えてみますと、以下のケースがそれぞれ(誠に勝手ながら)想像できるのでないかと思います。
- 孫子の一番言いたいことは、「迂直の計」であったが、武田信玄は、その中の一部で、より実践的な哲学が記載された部分の ”風林火山” をピックアップして、旗印にした
- 後半部分は、あくまでも表立ってアピールするものでない内容なので、あえて書かなかった
- 上記を踏まえると、最初のパートだけ記載すべきだし、レイアウト的にも全文は入らなかったので、前半部分の ”風林火山” のパートだけ記載した
と言う事だと勝手な推察を、いくつかしてしまった次第です…。
中国の様な広大な地域で、上記の様な策を巡らせる事は、重要ですが、日本の広さで、且つ80%が山間と言われる国土で、戦の地をそうそう変える事は出来るはずもな無いので、武田信玄がフォーカスしたのは、より戦その物に焦点を置いた部分の ”風林火山” のパートだったのでないかと勝手な推察をしました。同時に、『「三増峠の戦い」や「三方ヶ原の戦い方」から見て、あえてその考え方を秘匿すべく記載しなかった』と考えを巡らせた次第です。
また更に別の推察として、孫子の意図は無視することになるかもしれませんが、軍争篇全体のメッセージは無視して ”風林火山” だけを考えてみると、「メリハリをつけて動くことが重要なんだ!」と思えてくるので、これはこれで意味のある哲学だと思える部分もあり、「軍争篇全体のメッセージを分かった上で、「あえて」記載を避けた」とも取れる訳です。
武田神社(躑躅ヶ崎館)と恵林寺のMap
(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)
【最後に】
上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか?
迂直の計は、別途考えるとして、「なぜ風林火山のパートだけを持ってきたか?」だけを考えても、中々面白い内容だと思います。「これが正解」と中々言えない部分もあるので、考えても無駄かもしれませんが、当時の人の思いを考えてみるのも、大人の楽しみ方の1つだと思います。皆様もお時間があれば、武田信玄の心内を考えてみてはいかがでしょうか?
また本ブログでは、武田信玄の関連記事として、『武田信玄と上杉謙信が戦った、「川中島合戦」について』、『武田信玄が作ったと言われる、「信玄棒道」』等についても別記事で紹介していますので、併せてご参照頂けますと幸いです。