【はじめに】
本日は、東京・世田谷区にある「豪徳寺」をご紹介します。こちらの「豪徳寺」は、「井伊家の菩提寺であると同時に、”ひこにゃん” ゆかりの地でもあり、もしかしたら、”招き猫発祥の地” であるかもしれないお寺」なのです。
歴史好きの私が特に好きな時代は、戦国時代と幕末。特に、山梨出身と言う事もあり、武田信玄を知る事から、日本史への興味が湧いたと思っています。幼少の頃に住んでいた北杜市には、信玄棒道なる古道や信玄が水の争いを抑える手段として作った三分一湧水等があり、そのお隣韮崎市には、武田家発祥の地と言う事で武田八幡宮や、一方で武田家滅亡プロセスの最後のお城・新府城址もあって、興味は尽きませんでした。更には、そこから発展し、風林火山の旗印、川中島の合戦、御旗楯無、無敵の騎馬隊、赤備え、と少年の心を揺さぶるカッコいいものばかり。今でもワクワクしてしまいますが、当時にはホントにかっこよく思え、漫画や教科書等の色々なツールで知識と想像を膨らませていました。
その中でも、「赤備え」には魅了され、「武田家 ⇒ 真田家 ⇒ 井伊家」とつながって行った流れも面白く、そのプロセスの中で、桜田門外の変と共に、井伊家の事を学びました。その井伊家の菩提寺が「豪徳寺」。豪徳寺は、日本の歴史に対し、ユーモアと共に思いを馳せる事が出来る寺院ですので、以下に「豪徳寺」とそれにかかわる「ユーモラスな情報」をまとめます。大人散策の参考になれば幸いです。
【「豪徳寺」の概要】
まずは、豪徳寺の基本情報を抑える為、Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。
豪徳寺(ごうとくじ)は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる。
歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/豪徳寺
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。(略) 寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。 (略)
井伊家の菩提寺であり、招き発祥の地の可能性がある事、記載がされています。写真の通りですが、境内には、多くの招き猫が奉納されており、彦根藩2代藩主・直孝、桜田門外の変で倒れた直弼の墓所があります。
広い敷地に、山門、仏殿、三重塔といった構造物も立派で、格式や威厳を感じる空間に多くの招き猫が奉納されており、中には陣羽織を着た招き猫や、サングラスをかけた招き猫もおり、ユーモア感たっぷり。格式・威厳の高さを感じつつ、和やかな気持ちになる寺院が、豪徳寺だと理解しています。尚、招き猫の奉納に付き、こちらのホームページ(https://gotokuji.jp)には、以下の様にあります。「奉納する決まりは特にありませんが、招福猫児にこめたお願いごとが叶った後に奉納する方が多いようです」。
【「豪徳寺」と「ひこにゃん」の関り】
話は少しそれますが、彦根市のマスコットキャラクター「ひこにゃん」をご存じでしょうか?
本ブログ別記事の彦根城を紹介したページでも、触れさせて頂きましたが、『なぜ「ひこにゃん」と言うデザインのマスコットになったのか』ご存じでしょうか?
ひこにゃんのかぶる、赤い兜は、井伊の赤備えをイメージしたものである事、容易に想像できますが、なぜ猫なんでしょうか? これは、ご存じの方も多いと思いますが、井伊家における、あるエピソードが、関連していると言われており、2代藩主直孝の時代の話で、東京世田谷・豪徳寺での出来事と言われている様です。
「ある雨の日、豪徳寺付近の木の下で雨宿りをしていると、白い猫が手招きをしてるので、そちらに行ってみると、雨宿りをしていた木に雷が落ち(雷雨を避ける事が出来?)、直孝は難を逃れた」というエピソード(ホントか否かは知りませんが・・・)が、元になっているようです。また、「ひこにゃん公式サイト」なる物を見つけて、びっくりしたのですが、このページのプロフィールページには、以下の様にあります。
”彦根藩井伊家二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる”招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター”
https://hikone-hikonyan.jp/profile/
ちょっとふざけた、ユーモラスな軽いキャラクターと思いきや、しっかり考えて企画されている事、また、赤備えと招き猫の合わせ技なんて、本当に日本人らしいと思ったのは、私だけでしょうか? (赤備えに関しては、そのルーツも踏まえ、本ブログの別記事で紹介しています)。
【「豪徳寺」は、”招き猫発祥の地”?】
では、「招き猫」の由来は、どういったものなのでしょうか?
赤備えの話は、別記事で紹介しておりますので、そちらをご確認頂きたいのですが、「招き猫」は、以下にてその発祥の説を紹介致します。
信頼できる、Wikipediaには、「招き猫」のページにて以下の様にあります。
(略)由来 招き猫の由来にはいくつかの説がある(略)
今戸焼説
江戸時代の地誌『武江年表』嘉永5年(1852年)の項には浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放した。すると夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼(今戸人形)の焼き物にして浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという (略)豪徳寺説
東京都世田谷区の豪徳寺が発祥の地とする説がある。江戸時代に彦根藩第二代藩主井伊直孝(藩主1602年 – 1659年)が、鷹狩りの帰りに弘徳院という小寺の前を通りかかった。その時この寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため、藩主一行は寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずに済んだことを喜んだ直孝は、寛永10年(1633年)、弘徳庵に多額の寄進をし井伊家の江戸の菩提寺と定め、弘徳庵は大寺院の豪徳寺となった (略)自性院説
https://ja.wikipedia.org/wiki/招き猫
東京都新宿区の自性院が発祥の地とする説がある。ひとつは、江古田・沼袋原の戦いで、劣勢に立たされ道に迷った太田道灌の前に黒猫が現れて手招きをし、自性院に案内した。これをきっかけに盛り返すことに成功した太田道灌は、この猫の地蔵尊を奉納したことから、猫地蔵を経由して招き猫が成立したというもの。もうひとつは、江戸時代中期に、豪商が子供を亡くし、その冥福を祈るために顔が猫面の「猫地蔵」を自性院に奉納したことが起源である、とするもの (略)
他にも、いくつかの説がある様ですが、戦国武将好きの私にとっては、井伊家とのつながりからの「豪徳寺説」、もしくは現在の居住地にある川越城の築城者・太田道灌(江戸城の築城者でもありますが…)にちなんだ「自性院説の一つ目」のいづれかであってほしいいと思った次第です。
【最後に】
以上が、大人散策情報:「豪徳寺の概要」とそれにかかわる「ユーモラス情報 (= ”ひこにゃん”、”招き猫” の由来)」の情報共有になります。
神社仏閣と言うと、伝統、厳か、真面目に、堅苦しい、静寂と言った、どちらかと言うと「ユーモラス」からは、反対側の側面で感じる方も多いと思います。確かにその通りではありますが、100%そうとは言い切れないと個人的には思っています。奈良・京都に修学旅行で参った際、どちらの寺院か忘れてしまいましたが、非常に気さくな和尚さんが、ユーモアいっぱいに現地で説明してくださった事を覚えていますし(説明下さった内容は忘れてしまいましたが、「手のシワとシワを合わせてお祈りください…。幸せ(シワ合わせ)になれます…。」と絶妙な間と共に言われていた事を覚えています)、こちらの豪徳寺の様に、招き猫がいる事で、その場の雰囲気も和み、リラックスして参拝する事も出来ます。招き猫の発祥に関し、思いを巡らす事で、井伊家や日本の歴史を考える事も出来れば、「ひこにゃん」と言う、ユーモラスなマスコットまで登場してしまいます。
真面目に、日本の歴史に思いを馳せる事も楽しいですが、ユーモアを含めると、更に大人散策が楽しくなり、それを実現できるのが、豪徳寺だと思った次第です。
皆様も豪徳寺に脚を運び、井伊家と日本の歴史に思いを馳せると同時に、招き猫をリラックスして拝見し(サングラスの招き猫と陣羽織を羽織った招き猫が、私達夫婦のお気に入りです!)、大人散策を楽しんでみてはいかがでしょうか?
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。