【はじめに:会津若松城と聞いて思う事】
こちらのページでは、「明治期に制定された『廃城令』の根本原因になったと(個人的に)推察する『会津若松城(=鶴ヶ城)』に付きその概要も含め記載」致します。
皆様は、勿論「会津若松城(=鶴ヶ城)」ってご存じですよね? 勿論私も存じており、私が連想ゲームをすると、以下の感じです。
- 地元では、”鶴ヶ城” と呼ばれ、親しまれている
- 戊辰戦争における激戦の地であった
- 八重の桜(NHKの大河ドラマ)の舞台になった
- 徳川秀忠のご落胤である「保科正之」が、会津松平藩の初代藩主なった地である
- 近くに「御薬園」と呼ばれる、小さいが趣ある庭園がある
- 「白虎隊」の悲劇があった場所でもある…
上記の連想内容となったのですが、私にとって「会津若松城(=鶴ヶ城)」は、「何か腑に落ちない」というか、「理解が深まらない」というか、「正直しっくり来ていないお城 / 地域」である事も事実でした…。地元ではないので、「会津若松城(=鶴ヶ城)」に関する知識の絶対量が足りていないことも事実ですが、何処かかつかみ処がない気がしてならないのが、会津若松城でした。


こちらのページでは、そんな個人的イメージを抱いている「会津若松城(=鶴ヶ城)」に付き記載いたします。すなわち、「明治期に制定された『廃城令』の根本原因になったと(個人的に)推察する『会津若松城(=鶴ヶ城)』に付きその概要も含め記載」致します。
【会津若松での歴史の出来事:多くの統治者】
上記イメージを「会津若松城(=鶴ヶ城)」に対し持っている私ですが、多少なりとも「会津若松城(=鶴ヶ城)」に付き記載させて頂くと、若干上記内容にかぶりますが、「会津松平家は、江戸時代の初め『保科正之』が、高遠・山形を経て、会津松平藩の初代藩主に」なった。2代将軍秀忠の「ご落胤」と言う事で「松平姓は名乗っていなかった」と言う事でしょうが、3代目くらいからは「松平姓」を名乗り、幕末まで会津の地を治め、戊辰戦争では「新政府軍の攻撃を1か月以上耐えた」が、「最終的には落城」した。この中において「白虎隊」の悲劇も生まれてしまった…、と言った感じになります。
また、嘘か誠かは知りませんが、そんな歴史背景からか、『「会津の人」と「萩の人」は、いまだに仲が悪い』とか、『「会津の人」は、戦に負けたとは言え「誇り高い人たち」だから、出身地を聞くと、「福島」でなく「会津」と答える』とか、そんな話を聞いた事があります。恐らくこれらは「噂」なのでしょうが、私の知る「会津出身の知人」は、「確かに誇り高い人」である事も事実と言った印象を持っております。

こんな感じで、断片的な情報はありつつも「正直つかみどころのない」状況であったのですが、ある年の夏季休暇の際、実際に(別記事にて記載しましたが)川越より大内宿を経由して、1泊してからの後、「会津若松城(=鶴ヶ城)」に参らせて頂きました。そして、上記写真の案内板を見た時に、その理由がわかりました(まっ、実際に訪問しなくても、わかる時が、来たかもしれませんが…)。それは『自身がイメージしている「会津若松城(=鶴ヶ城)」と「その地域」は、「会津松平氏」が、この地域を治めていた「その時代だけ」をフォーカスしたものだった…』という事です。写真の看板にもあります通り、城主が戦国後期から江戸のはじめにおいて、目まぐるしく、変わっています。以下にその部分を記載いたしますと…、
つまり「ある時代の一部分だけをイメージして、会津若松城(=鶴ヶ城)を理解しようとしていたが、それだけでは不十分と無意識のうちに理解していたので『つかみどころのない』感覚を抱いていた…」と言った理解になった次第です…。
また折角ですので、Wikipedia にて「会津若松城」を調べてみますと、「若松城」の項目があり、以下の様に記載されています(引用少し長く、サマリも記載して折りますので、読まなくても大丈夫です…)。
若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城。別名鶴ヶ城(つるがじょう)で、地元ではこの名で呼ばれることが多い。また、同名の城が他にあるため、会津若松城(あいづ わかまつじょう)とも呼ばれる。さらに文献では黒川城(くろかわじょう)や、会津城(あいづじょう)とされることもある。現在の天守等は復元であり、若松城跡(わかまつじょうせき/わかまつじょうあと)として国の史跡に指定されている。
概要
若松城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていた。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となった。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている (略) 天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。福島 1874年撮影とされる画像(毎日新聞社収蔵) 福島 損傷した若松城(会津戦争後撮影) 福島 若松城(外観復元天守) Wikipediaより 歴史・沿革
■ 中世から近世
・中世の館、城郭
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、遅くとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった (略)
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。・近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った (略)
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。
翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。
1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争(会津城籠城戦)にて、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。1か月間籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日(太陽暦11月6日)開城した (略)

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少々引用が長くなってしまったので、もう既に記載した内容と情報かぶりますが、簡単にまとめさせて頂きますと、以下の様になる認識です。
「若松城」は、地元で呼ばれることが多い「鶴ヶ城」をはじめ、「会津若松城」や「黒川城」・「会津城」といった別名を持つ「梯郭式の平山城」のお城で、現在は「外観復元されれた層塔型の天守」を拝見できる「国の史跡に指定」されたお城でもある。
その歴史は、南北朝期に「蘆名氏」が「館」を造ったのがはじまりとされ、代々「蘆名氏」の城であったが、戦国期に「仙台・伊達政宗の侵攻」、「秀吉家臣・蒲生氏郷の入封」、「越後春日山から上杉景勝の入封」、「再び蒲生氏(秀行)が入封」、「伊予国松山より加藤嘉明の入封」と城主が目まぐるしく変わり、最終的には、「2代将軍秀忠の御落胤と言われ、3代将軍家光の庶弟」である「保科正之」が高遠から山形を経由して入封し、以後、「明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城」となった歴史がある。
上記経緯から「会津藩は徳川将軍家に近い家柄」という事もあってか、幕末には「戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争」にて、「鶴ヶ城は新政府軍に包囲」され、激しい砲撃を受け「1か月間の籠城の後、開城するに至った歴史」を持つお城でもあるのが「若松城=鶴ヶ城=会津若松城=黒川城=会津城」である
こうしてみてみると、NHKの大河ドラマの「伊達政宗」や「天地人」等でも拝見した記憶がよみがえり、「伊達氏・上杉氏がこの地を一瞬なりとも治めていた事」を改めて思い出した次第です…。また、「現在の縄張りを含む大部分が、『蒲生時代にほぼ今の形になった』もと言われいる様で、中でも『天守台の石垣』が、『その痕跡における代表例』になるらしい」です。さらに、「鶴ヶ城の名付け親」も「蒲生氏」といった具合で、分散していた知識が、少しづつ繋がりはじめ「つかみ処の無かった『お城』と『その地域』が、少しづつですが、自身の理解を深め初めてくれた」印象を、持つことが出来る様になった次第です。






【新政府に脅威を与え、廃城令のきっかけになったかもしれない、会津若松城】
上記では、引用も記載いたしましたが、「現地では、(Wikipedia を熟読するまではしなかったので…)説明看板を拝見し、上記の様に思い始め、実際にお城を拝見」させて頂いた次第です。すると、「会津若松城(=鶴ヶ城)に対するイメージ」の「霧が晴れた」かのように、「元々立派なお城が、更に立派」に見えてきました。「堀は広く」、「石垣は高い」、「天守も大きい(層塔型天守の為か、破風が少なく少々無骨感もありますが、それはそれで鶴ヶ城らしくカッコいい!)」、「赤みが勝った屋根瓦が特徴的で素敵(明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元されたらしい…)」、「復元天守なので、江戸時代にこれだけのものがあったのか…」と言った感じで、様々な「会津若松城(=鶴ヶ城)に対する感想」が出てきて、「会津若松城(=鶴ヶ城)における大人散策」を満喫出来た次第です! そして「これほど立派だからこそ、戊辰戦争で、新政府の大砲による攻撃を、1か月持ちこたえたんだろうなー」と強く実感した次第です。
(上記引用にも記載しましたが…)昔、何かのテレビか写真で「戊辰戦争直後の天守」の写真を見たことがありますが、本当にボロボロ…。でも1か月耐えた…。戊辰戦争後、新政府によって、お城は廃城・取り壊しとなったが、「これだけ善戦されてしまうと、『城を残しておくことは、新政府としては脅威』でしかなかったかもしれない…」と思ってしまいました。言い換えると、「お城1つでこんなに善戦されるのは、今後何か反乱があった際は非常に困るので『基本日本の城郭は取り壊し!』といった判断」をしたのでないかと(個人的思い込みかもしれませんが)推察してしまった次第です。逆に言うと、「もっとあっけなく会津が落ちていれば、『廃城令は、もっと緩やかに』なり、現存天守も12以上あったかもしれない…」とも思ってしまったのですが…(戊辰戦争の終結地、函館五稜郭も別記事で紹介しています)。歴史に「タラ・レバ」は無いので、なんとも言えませんが「現存天守が12以上あったら、もっと城郭巡りを楽しめたかも…」といった思いを持ってしまった事は、共有致します…。



【最後に】
以上が、「明治期に制定された『廃城令』の根本原因になったと(個人的に)推察する『会津若松城(=鶴ヶ城)』に付きその概要も含め記載」致した内容になります。
そんな歴史のタラレバを考えながらお城の中を拝見させて頂き、次の目的地である「御薬園(会津松平氏庭園) / 武家屋敷」に向かいました。「戦国・江戸~明治の転換期」に、「日本の歴史の転換点」になった地「会津」。その中心にあったのが、この「会津若松城(=鶴ヶ城)」といった感想を持った次第です。「無骨ながらも『その無骨さがかっこよく』、規模感もあり、見ごたえのあるこのお城」に、機会があれば、皆様も脚を運び、そして直接ご覧いただき、その立派さを感じつつ、その歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?






尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿、(勝手なネーミングですが…)旧国宝24城等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。