信玄小田原攻めルート

【はじめに】

こちらのページでは、武田信玄が行った小田原侵攻』の『真の狙い』に付き、その概要を抑えると同時に考察を加えさせて頂こう」と思います

と言う訳で、ではありませんが、皆様は、武田信玄小田原城を攻めた事がある事、ご存じでしたでしょうか? 信玄と言えば、「風林火山」の旗印のもと、川中島の合戦」や「三方ヶ原の合戦」、そして今回取り上げる信玄小田原城攻めの後にあった「三増峠の戦い」等が、信玄の強さを語る上でよく耳にする “戦” ではないかと思います。同時に、信玄堤信玄棒道信玄の隠し湯(甲府湯村温泉/柳屋・常磐ホテル川浦温泉/山縣館等)と言ったインフラ整備系で信玄の冠を持つものもあり、かなり有名な武将である事は疑う事が無いとも思って折ります(信玄餅は、関係ないと思います…)。しかし、上杉謙信小田原城を攻めた歴史をご存じの方」に比べ、「信玄小田原城を攻めた歴史をご存じの方」は、少数派ではないかと思います。勝手な推測ですが、その理由は、「この武田信玄小田原城攻めって、信玄の真の狙いが分かりにくい、イマイチピンとこない戦い方」だからだと思って折ります。別の言い方をさせて頂くと、「信玄小田原城攻めは、ちょっと玄人好みの戦い方」だったのでないかと思っている次第です。

こちらのページでは、そんな「武田信玄が行った小田原侵攻』の『真の狙い』に付き、その概要を抑えると同時に考察を加えさせて頂こう」と思います

【信玄・小田原攻めの全体図】

早速ですが、武田信玄小田原城攻めの全体図を、地図も含め見てみますと、以下の様になります。

甲府を出て、小田原とは反対方面の北側・信濃を回り、碓氷峠を超えて、関東平野に入り北条氏康の五男?(庶子?)・氏邦の鉢形城(寄居)、三男・氏照の滝山城(八王子)等を攻め、本城の氏康と嫡男氏政のこもる小田原城(小田原)も攻め、その帰路、三増峠の戦いで、北条軍に勝利を治め甲府に帰還した、1-2か月程度の軍事行動」と理解

いかがでしょうか? 甲府から南に行けば、最短距離で小田原城に行ける訳ですが、武田信玄のとったルートは、遠回りも遠回りと言った行程だった様です。しかも、北条氏の領内を進軍する距離もあり、時間もかかる訳ですから、リスクも増大する。武田信玄は、小田原城を攻める為、なぜこのようなルートを取ったのでしょうか?

【信玄が小田原攻めを行った理由を妄想】

結論から記載すると、「武田信玄はどうしても海が欲しかった…」が、小田原城攻めを行った理由だと思ってます。「ん???」って感じですよね? 今少し記載しますと信玄小田原城攻めを行った、前後の歴史を、少し視野を広げて見てみる必要がある」と思いますので、以下、Wikipediaを出来るだけ分かり易く年表形式にまとめさせて頂きたきました(=頂いたつもりですが…、分かりにくかったらすいません…)。

  • 1560年5月 / 桶狭間の戦い:今川義元討死 駿河国弱体化の始まり
  • 1561年8月 / 第4次川中島合戦謙信の勝利とも、信玄の勝利とも言われる戦ですが、信玄の視点で見た時「上杉謙信は、強い… かなりの損害も出た… これ以上の謙信との対立は避けるべき… 今の情勢から謙信よりも、今川の方が組やすく、海への道 / 京への道も開ける…」と思ったのでないか…
  • 1561年~1564年位 / 信玄矛先を信濃 ⇒ 駿河 :上記により、信玄は矛先を変え、西上野(現群馬県西部;1552年、北条氏は関東管領の拠点として有名な藤岡の平井城を抑えますが、1560年に上杉謙信が奪還したと言われています)・駿河をロックオン?
  • 1564年7月 / 信玄暗殺計画の発覚:世に言う義信事件で、信玄嫡男であった義信の傅役(教育係?)である飯富虎昌が首謀者と目され、今川氏より正室を迎えていた義信が、駿河侵攻に異を唱え、信玄の暗殺計画を企てたと言われており、虎昌の実弟である後の赤備えの実質的な元祖(現在ご子孫が温泉宿/山縣館を運営)山縣昌景(この時は飯富三郎兵衛)の密書により発覚(=この時すでに信玄駿河侵攻を計画していた事の証拠)
  • 1565年1月 / 飯富虎昌以下は謀反の首謀者として処刑、10月 / 義信は東光寺に幽閉
  • 1567年10月 / 義信死去、11月 / 義信正室(今川義元の娘の嶺松院)は駿河へ帰国(信玄が今川氏に宣戦布告した合図?で、この過程で「敵に塩を送る」の逸話が生まれた認識)
  • 1568年12月6日 / 駿河侵攻開始(大宮城攻め)12月12・13日 / 薩埵峠を突破・駿府陥落:武田軍は、大宮城を落とせなったが、今川軍の守る薩埵峠を突破し、駿河の駿府に入る(薩埵峠の戦い(一次))一方、この直後、氏康(後北条氏の第3代当主)の娘(早川殿)が今川に嫁いでいた北条方は、武田軍が通過した後、薩埵峠を抑える(=武田 vs 北条の図式に)
  • 1569年1月~4月 / 薩埵峠の戦い(二次)北条氏政(後北条氏の第4代当主)率いる北条軍(東から)と武田信玄率いる武田軍(西から)が薩埵山にて対陣し、両者、3ヶ月の間睨み合いを続け、4月には武田信玄甲府へ撤退するが、この時、対陣中の薩埵峠は通れず、且つ大宮城を落とす事が出来なった為、中道往還・駿州往還も北条方が抑える形となっており、信玄は撤退できない状況の大ピンチも、難所と言われる樽峠から何とか帰国したと言われる(=信玄の樽峠越え)
  • 1569年5月 / 今川氏(早川殿も)避難先の掛川城が開城徳川・北条間の和睦が成り、今川氏真と早川殿は海路で北条が抑える蒲原城(薩埵峠を抑える拠点)に入るが、この際、氏真は北条氏政の嫡男・氏直(後北条氏の第5代当主)を養子に迎え、駿河・遠江の支配権を譲る(=大名としての今川氏は滅亡 & 駿河は北条氏の領地に)
  • 1569年6・7月 / 信玄、再び駿河に侵攻3度目となる大宮城攻撃を行い、北条氏政・氏規・氏邦・氏忠・氏信が出陣するが、大宮城は開城し、信玄は富士郡を支配下にし、武田軍は甲府へ撤退(この時は、薩埵峠を抑える蒲原城は、まだ北条氏が抑えている=武田の駿府への道が完全に通った訳ではない)
  • 1569年8~10月 / 武田軍関東へ侵攻甲府から駿河とは反対(北側)の信濃から碓氷峠を越え武蔵国・関東の北条領へと入り、氏邦(氏康の五男?庶子?)城主の鉢形城氏照(氏康の三男?)を城主の滝山城を攻撃し、更に小田原まで侵攻して城下に火を放ち、甲府へ帰還を開始するが、この帰路で「三増峠の戦い(10月5/6日? 7/8日?)が発生(武田軍が北条軍を破り甲府へと帰還)
  • 1569年12月 / (薩埵峠を抑える)蒲原城を攻撃:武田軍は、再び駿河に向け出陣し、信玄はまず大宮城に着陣。北条氏康は氏政・氏規・氏忠を韮山城へと派遣するが、武田軍は薩埵峠を抑える蒲原城を攻撃し、結果、蒲原城は開城蒲原城落城は、駿河の支配権を考える上でKeyPointになる出来事で甲斐駿河は繋がり、駿府も武田氏が占領(=駿府は北条から武田の支配下になった(この頃、武田の三堅城と言われる久能山城(現久能山東照宮)が武田の支配下に)
  • 1571年12月 / 武田家の駿河侵攻終息:駿府を武田氏が抑えた後もしばらく、北条-武田間の争いは続いたが、1571年10月、北条氏康の死去に伴い、遺言に従い跡を継いだ氏政は武田氏との講和へと着手し、12月に甲相同盟が締結された事で、駿河侵攻は終息

月・日付は旧暦で、Wikipediaより情報を収集(https://ja.wikipedia.org/wiki/駿河侵攻https://ja.wikipedia.org/wiki/武田信玄等より)

もう既に、ご察しの通りだと思いますが、「信玄小田原城侵攻は、駿河侵攻の一環として実施された」と考えるべきだと思えてくる事は、私だけではないと思います。確かに推察の域は出ませんが、第4次川中島合戦で多くの重臣を失った頃、桶狭間により今川家の弱体が顕著な状況だったのであれば、矛先を越後から駿河に変えた事は想像できます

また、1568年12月の駿河侵攻開始後、駿府を手中にするも、同時に北条氏と敵対関係となり、かなりのピンチをむかえ、何とか甲府に戻ったにも関わらず、数か月後には甲斐から駿河の道を閉ざしていた大宮城(中道往還・駿州往還を抑える)と蒲原城(薩埵峠を抑える)のうち、大宮城を落とし、更にその翌月には、わざと遠回りの北条領(関東)への侵攻(鉢形城滝山城等へ攻め込む) & 小田原城攻めを実施三増峠の戦い方から見て「あわよくば、北条氏も討ち取り、関東 & 駿河の両方を抑える…」といった野望も見える気がしますが、基本は兵力をなるべく削がない戦い方ををして北条氏の戦力を関東(東)に向かせるように仕向けた上で、小田原城攻めの直後(1・2か月後)には、甲斐から駿河の道を閉ざしていたもう一つの拠点・蒲原城を開城させ、駿河を手に入れた

風林火山」で知られる武田信玄の「『風』:其疾如風(其の疾きこと風の如く)、『火』:侵掠如火(侵略すること火の如く)」を体現したような戦い方であると同時に、同じく孫子の教えである「迂直の計」を実践した戦い(駿河を取る最短の道は、遠回りの関東北条領の攻撃)と言った印象を持ってしまった次第です。更にもっと簡単に言ってしまえば、これだけの活動量を、これだけのスピードで実践した信玄は、どうしても海が欲しかった」と言っても差し支えないかとも思た次第です…。

【最後に】

以上が、武田信玄が行った小田原侵攻』の『真の狙い』に付き、その概要を抑えると同時に考察」させて頂いた内容になります

少し勝手な妄想が入りましたが、皆様はどのように感じられましたでしょうか? この信玄小田原城侵攻(関東遠征)について、家臣で武田二十四将の一人で、甲陽軍鑑を残したともいわれる「高坂弾正(昌信)」は、「(略) この合戦のことを「御かちなされて御けがなり(勝利はしたものの、損害も蒙った)」と論評し、本拠地甲斐を留守にしてまで行った遠征の必要性に疑問を呈している (略) (Wikipediaより:https://ja.wikipedia.org/wiki/三増峠の戦い)」と評価している様です。三増峠の戦いの項目からの引用なので、三増峠の戦いに対しての評価かもしれませんが、個人的な意見としては、「信玄小田原城攻めは、駿河を(あわよくば関東も含め)、海と共に取る為に行った『半陽動作戦』」で、実際に駿河を手中にした事を考えれば、『迂直の計」を「風林火山」の行動力と共に体現した、信玄あっぱれ! な “戦” 』と個人的には評価しております。現代の世の中で、侵略の良し悪しを言えば、勿論だめですが、目的を達成するための手段としての勉強材料と考えるのであれば、高い評価を与えてよいかと思いますが、皆様はどう思われましたでしょうか?

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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