【はじめに】
こちらのページでは、「『住吉三神』・『三韓征伐』・『住吉大社@大阪』・『住吉神社@下関』・『住吉神社@福岡』・『住吉神社@壱岐』と言ったワードの理解と共にその概要を抑え、『住吉系の神社に関する、日本神話との関連を含めた総合理解』の推進」をさせて頂こうと思います。
📚本記事で得られる情報📚
✅住吉三神・三韓征伐の概要
✅住吉大社@大阪・住吉神社@下関・住吉神社@福岡・住吉神社@壱岐の概要
✅住吉系の神社と日本神話の関連性
皆様にとって「住吉神社」ってどんなイメージの神社でしょうか? これまで「山梨(北杜市出身(甲府や韮崎にも住んでましたが…))・東京(小金井・国分寺近辺に大学生の頃居住)・埼玉(川越に現在居住)」と言ったエリアにしか居住した事にない私にとっては、「西日本を中心に商売繁盛の神様を祭っている神社」と言った感じの理解だった次第です(あくまでも個人的理解です…)。しかし昨今、本ブログで「日本神話の神々」や「神々による神社分類」、「氷川神社・諏訪大社・三峯神社・八幡宮・東照宮と言った自身が身近に感じる神社(もっといっぱい記載していますが…、最下部に一覧があります…)」の記事を記載してくると「住吉神社」や「住吉三神」・「三韓征伐」・「神宮皇后」と言ったワードが目につき、「住吉神社って確かに有名だけど、これまであまり意識してこなかったなー、どんな神社なんだ?、そー言えば甲府に “甲斐住吉” って駅が身延線にあって、近くに “甲斐住吉神社” ってのがあったな…」と最近になって思った次第です。
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こちらのページでは、上記の感じで長年ちょっと遠くに感じており、最近近くに感じ始めた「住吉神社」に付き記載いたします。すなわち、「『住吉三神』・『三韓征伐』・『住吉大社@大阪』・『住吉神社@下関』・『住吉神社@福岡』・『住吉神社@壱岐』と言ったワードの理解と共にその概要を抑え、『住吉系の神社に関する、日本神話との関連を含めた総合理解』の推進」をさせて頂こうと思います。
【「住吉三神」とは?】
まずは「住吉三神」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります。
住吉三神(すみよしさんじん)は、神道で信仰される神である。
概要
『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される3神の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある (略)誕生
伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。イザナギ・イザナミ 国生み 住吉神社 イザナギの禊ぎによって生まれた神々(『古事記』に基づく) Wikipediaより 住吉三神と神功皇后
日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託を得た。しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまう。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航した。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済の三韓を従わせたという (略)三韓征伐 神功皇后の新羅征討(月岡芳年画) Wikipediaより
つまり「住吉三神」は、『日本神話の「国生み」で有名な「イザナギ」・「イザナミ」の「黄泉国」の神話における最後の方で、「イザナギ」が「黄泉国」から戻った際に行った「禊(みそぎ)」の中で生まれた神』と理解した次第です。言い換えると、この同じ「禊」の際、「左目から『アマテラス』」、「右目から「ツクヨミ」」、「鼻から『スサノオ』」と言われる『三貴子』が誕生している認識ですので、『住吉三神(底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神)」は、『三貴子(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)』と兄弟(姉弟?)」と理解した次第です。また、この「住吉三神(底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神)」の神託で、「神功皇后が三韓征伐を成し遂げた」とも理解した次第です。




でも、『「瀬の深いところで “底筒之男神”」が、「瀬の流れの中間で “中筒之男神”」が、「水表で “上筒之男神”」が、それぞれ生まれ出た…』って「一郎・次郎・三郎」みたいだと思い、思わずニヤニヤしてしまいました…。
ちなみに「神功皇后」は、「応神天皇」の「母親」にあたる認識で、「神功皇后の三韓征伐時、応神天皇を身籠っていた」と言われている認識でもあり、現在では源氏の氏神として有名な「八幡神」として「神功皇后・応神天皇」は、古くから崇められている神です。
【「三韓征伐」とは?】
次に、上記引用で出てきた「三韓征伐」の概要を抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります。
三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。
『日本書紀』では新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない (略) 三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し、高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる (略)
三韓征伐 新羅王 神功皇后に帰順奉る所。1860年歌川国芳 。 Wikipediaより 概要
夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀天皇9年(200年)3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自ら神主となり、まずは熊襲を討伐した。9月には大三輪の神を祀り軍を集めた。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服(降伏)して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという (略)
つまり、「三韓征伐」は、「住吉大神の神託」により応神天皇の母である「神功皇后」が、仲哀天皇の没後、「新羅に出兵」し「新羅」は戦わずして降伏して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約束したと言われる「朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においた」とする「日本における伝承」と理解した次第です(現在では、正直「不適切」な伝承にも見えますが…)。


正直「何処までが事実で、何処からが作り話なのか不明」といった理解になった訳ですが、後の白村江の戦い(663年:天智天皇即位前)で、日本が百済救済の為、兵を送り(結果は、百済・日本サイドは敗戦し、百済は滅亡、日本は都を「大津京」に遷都:ここで天智天皇が即位)、その直後の高句麗滅亡(668年)の後、高句麗の遺民の一部が日本に逃れ、日本はそれを受け入れた事(「武蔵国高麗郡」(現・埼玉県日高市・飯能市の一部)は、高句麗の遺民たちを移して設置されたと言われ、「高麗神社」・「高麗川」と言った名残を留めている)から推察するに、「日本は、新羅・高句麗・百済の親分的存在であった時期があり、それは『三韓征伐』に由来するも、その後『”新羅” が “唐” と組む事で裏切って』、高句麗・百済は滅亡、日本も都を遷都するほどの緊張が走った」と歴史の流れができるので、「『三韓征伐』の内容は別にして、『神功皇后の頃、新羅・高句麗・百済を配下に置いた可能性は十分考えられる』」と思った次第です。

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【「住吉大社@大阪」とは?】
上記、「住吉三神」・「三韓征伐」の概要を抑えましたので、それらの現在の痕跡ともとれる「住吉神社」に関しても、概要を抑えさせて頂きますが、まずは「住吉神社の総本社」と認識する「住吉大社@大阪」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります。
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。
山口県下関市の住吉神社、福岡県福岡市の住吉神社ともに「三大住吉」の1つに数えられる。概要
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか(当時、社は海辺に面していた)、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の一つである。
社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている (略)Wikipediaより
祭神
現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
・第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
・第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
・第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
・第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) – 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代仲哀天皇皇后。
特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される (略)創建
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年、皇后は大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の和魂を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという。通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地に比定され、この記事をもって住吉大社の鎮座とされる。『日本書紀』では創祀年を明らかとしないが、『帝王編年記』では神功皇后摂政11年辛卯としており、現在の住吉大社でもこの年をもって鎮祭とする (略)
なお「大津渟中倉之長峡」には異説として、本居宣長が『古事記伝』で摂津国菟原郡住吉郷(現在の神戸市東灘区)に比定した説が知られる。この説では、『古事記』仁徳天皇段の「墨江之津を定む」の際に住吉神も菟原郡から住吉郡に移されたとし、同地の本住吉神社も同様の創建社伝を残すが、現在の通説では住吉大社の地に比定する見解が有力視される (略)住吉大社(大阪府大阪市)明治末の本宮 住吉大社(大阪府大阪市)江戸時の住吉大社本殿、江戸時代末に作成された浪花百景より i 住吉大社(大阪府大阪市)明治末の門前 住吉大社(大阪府大阪市)大正初期の神門 見えている備前焼の狛犬は現在北参道に置かれる 住吉大社(大阪府大阪市)住吉公園内にあった西大鳥居 住吉大社(大阪府大阪市)明治末か大正初期の反橋(太鼓橋) 今とは違い段はなく穴が開けられていた Wikipediaより
つまり、「住吉大社」は、『「神功皇后が三韓征伐の帰り」に反乱に遭い、さらに船が進まなくなったため、占いを行うと「住吉三神」が「自身ら三神の和魂」を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」に祀るように託宣が下りたので、「神功皇后がその通りにすると、無事海を渡れるようになった」と言われ、通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が、現在の「住吉大社の地」に比定される事を由来とし、この地に住吉大社が鎮座・創建された歴史を持つ「”住吉三神” と “神功皇后”」を祭神とする神社』と理解した次第です。またこういった背景から「航海の神・港の神として祀られた神社」でもあり、式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一つで、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社である、全国にある住吉神社の総本社でもあり、本殿4棟は国宝に指定され、「山口県下関市の住吉神社」、「福岡県福岡市の住吉神社」ともに「三大住吉」の1つに数えられる「全国でも代表的な神社の一つ」といった理解をさせて頂いた次第です。つまり「西日本を中心に商売繁盛の神様を祭っている神社」と勝手に理解していた(思いこんでいた)自身の知識量の不足を強く恥じた次第です…。
境内入り口 .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)境内入り口 -300x225.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)境内入り口 -768x576.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)境内入り口 -380x285.jpg 380w)
角鳥居(住吉鳥居)・幸壽門 .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)角鳥居(住吉鳥居)・幸壽門 -300x199.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)角鳥居(住吉鳥居)・幸壽門 -768x509.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)角鳥居(住吉鳥居)・幸壽門 -380x252.jpg 380w)
南門(重要文化財)左右に東西楽所。 .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)南門(重要文化財)左右に東西楽所。 -300x200.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)南門(重要文化財)左右に東西楽所。 -768x511.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)南門(重要文化財)左右に東西楽所。 -380x253.jpg 380w)
石舞台(重要文化財)「日本三舞台」の一つ .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)石舞台(重要文化財)「日本三舞台」の一つ -300x200.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)石舞台(重要文化財)「日本三舞台」の一つ -768x511.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)石舞台(重要文化財)「日本三舞台」の一つ -380x253.jpg 380w)
神楽殿 .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)神楽殿 -300x200.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)神楽殿 -768x511.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)神楽殿 -380x253.jpg 380w)
反橋(太鼓橋) .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)反橋(太鼓橋) -300x198.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)反橋(太鼓橋) -768x507.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)反橋(太鼓橋) -380x251.jpg 380w)
荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま、にぎたま、にきみたま、にぎみたま)とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。
概要
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされ(略)、和魂は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている (略)
和魂はさらに幸魂(さきたま、さきみたま、さちみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きであり、知識才略、学問、技術を表す (略)

【「住吉神社@下関」とは?】
上記「住吉大社@大阪」を抑えさせて頂きました。その中で「三大住吉」とのワードがあり、その中の1つである「住吉神社@下関」の概要も抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります。
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、山口県下関市一の宮住吉にある神社。式内社(名神大社)、長門国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
大阪の住吉大社・博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つに数えられる。本殿は国宝に指定されている。祭神
本殿は第一から第五の5殿が連なり、それぞれ次の神が祀られている。
・第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
・第二殿:応神天皇
・第三殿:武内宿禰命
・第四殿:神功皇后
・第五殿:建御名方命
大阪の住吉大社が住吉三神の和魂を祀るのに対し、当社は荒魂を祀るとされる (略)
つまり、「住吉神社@下関」は、「住吉三神の荒魂」を祀り、本殿は国宝に指定され、式内社(名神大社)、長門国一宮で、旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社の「日本三大住吉」の1つに数えられる「”住吉三神”・”武内宿禰命” ・”神功皇后”・”建御名方命“」を祭神とする神社と理解した次第です。
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「”住吉三神”・”神功皇后”」は、「住吉神社」ですので理解できますが、『「武内宿禰命」・「建御名方命」は何故?』と思ってしまいました…。「武内宿禰命」は、少し調べてみると「景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えた伝説上の忠臣」と言われる様なので「神宮皇后の片腕的な存在だった人?」と思ってしまい、「建御名方命」は、「国譲り神話」にも登場する「諏訪大社のご祭神でもある軍神」と理解するので「『住吉三神の荒魂』の警護役?、それとも抑え役?」と勝手な想像をしてしまった次第です…。
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本殿(国宝)千鳥破風があるため一見すると春日造に見えるが檜皮葺流造である-.jpg)
【「住吉神社@福岡」とは?】
「三大住吉」の「住吉大社@大阪」・「住吉神社@下関」と見て参りましたので、残るもう一つの「三大住吉」である「住吉神社@福岡」の概要も抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります。
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、福岡県福岡市博多区住吉にある神社。式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある住吉神社の始祖とする説があるほか、大阪の住吉大社・下関の住吉神社とともに「三大住吉」の1つに数えられる。航海守護神の住吉三神を祀る神社である。全国には住吉神社が2,300社以上あり、大阪府大阪市住吉区の住吉大社が総本社とされることが多いが、住吉大社に伝わる古典籍『住吉大社神代記』では、筑紫大神が神功皇后に我が荒魂を穴門山田邑に祀るよう宣託を下したので、穴門直の祖である踐立が住吉神社(山口県下関市)に荒魂を、和魂を津守の祖である手搓(田裳見宿禰)が大津渟中倉之長峡の祠(住吉大社)に祀ったとあり、当社を示す筑紫大神が住吉の始源である。ヤマト王権の国家的航海神として崇敬され、中世からは筑前国の一宮に位置づけられたほか、領主・一般民衆からも海にまつわる神として信仰された。
住吉神社 (福岡市) 拝殿 住吉神社 (福岡市) 本殿(重要文化財)社殿形式は「住吉造」である Wikipediaより 祭神
祭神は次の5柱。これら5柱をして「住吉五所大神」とも総称される。
主祭神
・底筒男命(そこつつのおのみこと)
・中筒男命(なかつつのおのみこと)
・表筒男命(うわつつのおのみこと)
以上の3柱は「住吉三神」と総称される。
配祀神
・天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
・神功皇后 (じんぐうこうごう) (略)祭神について
主祭神の住吉三神は、『古事記』『日本書紀』において2つの場面で登場する。1つはその生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため筑紫日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら、檍原)で禊をすると、綿津見三神(海三神)とともにこれら住吉三神が誕生したという。次いで神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神は皇后に神憑りして神託し、皇后の三韓征討に協力することで征討は成功する。『日本書紀』では朝鮮からの帰還に際して神託があったとし、住吉神の荒魂を祀る祠を穴門山田邑に、和魂を祀る祠を大津渟中倉長峡に設けたとする(一般にはそれぞれ下関の住吉神社、大阪の住吉大社に比定)。
一方で当社縁起では、住吉神が生まれた阿波岐原を当地に比定する。その説の中で、『日本書紀』において三韓征討以前に神功皇后が依網吾彦男垂見に対して住吉神の神主を命じたとする記事を当社の創建記とし、ここから全ての住吉神社の中で最も早く創建されたとする (略)
つまり、「住吉神社@福岡」は、「黄泉国の神話」で、「イザナギ」が「黄泉国」から戻った際、禊(みそぎ)を行い「住吉三神」が誕生した「阿波岐原」を「住吉神社@福岡」の比定地とする事で、『「住吉神社@福岡」=「住吉三神誕生の地」=「住吉の始源」=「住吉神社の中で最も早く創建された住吉神社の始祖」』と言ったロジックになっている、「住吉三神」・「アマテラス」・「神功皇后」を祭神とする、式内社(名神大社)、筑前国一宮で、旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社の「三大住吉」の1つに数えられる神社と理解した次第です。



『「住吉三神」は、福岡出身…』という事は、『「アマテラス」・「ツクヨミ」・「スサノオ」も福岡出身?』と思わず突っ込みたくなってしまったのと同時に、上記「住吉神社@下関」同様、「”住吉三神”・”神功皇后”」が祭神なのは、「住吉神社」ですので理解できますが、「住吉神社@下関」が祭神に加えた「国津神の代表格と言って良い『建御名方命』」とは対照的に、「天津神の間違えない代表である『アマテラス』」を祭神に加えた事に、「関門海峡を挟んで、何か意図があるのか?」と変に勘ぐってしまった次第です…。
【「住吉神社@壱岐」とは?】
上記までに、『住吉三神』・『三韓征伐』・『住吉大社@大阪』・『住吉神社@下関』・『住吉神社@福岡』と概要を抑えてきましたが、『住吉神社@福岡』に対抗してか、「日本初の住吉神社」を唄うと認識する「住吉神社@壱岐」の概要も、折角ですので、抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります。
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町住吉東触にある神社。式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
祭神
底筒男命・中筒男命・表筒男命を主祭神とし、「住吉大神」と総称する。八千戈神を相殿に祀る。歴史
社伝によれば、住吉大神の守護によって三韓征伐を為し遂げた神功皇后が、その帰途現在の壱岐市郷ノ浦町大浦触に上陸して三神を祀ったのに始まるという(これを以て「日本初の住吉神社」を称している)。その後、神託により現在地に遷座した。『延喜式神名帳』では名神大社に列した。その他にも長崎県下筆頭神社を名乗っている (略)
拝殿-.jpg)
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つまり、「住吉神社@壱岐」は、「住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命=住吉大神)を主祭神とし、八千戈神(国津神の代表:オオクニヌシ)を相殿に祀る、式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社の神社で、「三韓征伐を成し遂げた遂げた神功皇后」が、その帰途、現在の壱岐市に上陸して三神を祀った事に始まるという伝承によって「日本初の住吉神社」を唄う神社でもあると言った理解をした次第です。
「住吉神社@福岡」は、『「住吉三神の誕生」を根源に「住吉神社の始祖」』を唄い、「住吉神社@壱岐」は、『「三韓征伐を為し遂げた神功皇后が、その帰途三神を祀った事」を根源に「日本初の住吉神社」』を唄っていると言う理解になった訳ですが、日本人的発想で申し上げるのであれば「結論はほぼ同じ事を言っているが、何処を基準にするか(住吉神社の始まりは何処か?)は、どちらも正しいように見えるので『どちらも正しい!』」という事にしたいと思った次第です。また、こちらでは「国津神の代表:オオクニヌシ」を相殿に迎えているので、『「住吉神社@福岡」よりも、「住吉神社@下関」との関連の方が強い地域だったのかな?』とも思ってしまった感じです…。
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【「住吉神社に関する総合理解」をまとめてみる…】
上記までに、『住吉三神』・『三韓征伐』・『住吉大社@大阪』・『住吉神社@下関』・『住吉神社@福岡』・『住吉神社@壱岐』と言ったワードの理解と共にその概要を抑えさせて頂きましたので、こちらでは『住吉神社に関する総合理解』の推進をさせて頂きたいと思います。以下に箇条書きで、まとめさせて頂きます。
- 「住吉神社」は、「住吉三神」並びに「三韓征伐」を成し遂げた「神功皇后」を「中心の祭神」とする、元々は「航海の神・港の神」として祭られた神社
- 「住吉大社@大阪」・「住吉神社@下関」・「住吉神社@福岡」が「三大住吉」と言われる
- 「全国にある住吉神社の総本社」は、一般的に「住吉大社@大阪」であるが、「住吉神社@福岡」は、『「住吉三神の誕生」を根源に「住吉神社の始祖」』を唄い、「住吉神社@壱岐」は、『「三韓征伐を成し遂げた神功皇后がその帰途、三神を祀った事」を根源に「日本初の住吉神社」』を唄っている
幣殿(重要文化財)画像は第一本宮。桁行は五間 .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)幣殿(重要文化財)画像は第一本宮。桁行は五間 -300x199.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)幣殿(重要文化財)画像は第一本宮。桁行は五間 -768x509.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/03/Wiki-住吉大社(大阪府大阪市)幣殿(重要文化財)画像は第一本宮。桁行は五間 -380x252.jpg 380w)
本殿(国宝)千鳥破風があるため一見すると春日造に見えるが檜皮葺流造である-.jpg)

拝殿-.jpg)
上記には、更に詳細の情報も記載いたしましたし、個人的な考察(妄想?)、関連情報も記載いたしましたが、「住吉神社に関する総合理解」のまとめとしては、上記「箇条書き列挙の内容」でよろしいのではないかと思った次第です。と同時に思った事があります。それは、最下部に、Google My Map で示した「各住吉系神社の配置」から思った事です。つまり、①この配置「神武東征の進軍ルート」に似ている、②古代における「日本と大陸を結ぶルート」は、瀬戸内海が中心、③これらを踏まえると「三韓征伐は単なる神話ではないかも…」と言ったものです…。皆様は、どんな妄想をされましたでしょうか?

【最後に】
以上が、「『住吉三神』・『三韓征伐』・『住吉大社@大阪』・『住吉神社@下関』・『住吉神社@福岡』・『住吉神社@壱岐』と言ったワードの理解と共にその概要を抑え、『住吉系の神社に関する、日本神話との関連を含めた総合理解』の推進」させて頂いた内容になります。
「住吉神社に関する総合理解」を実行する為、『住吉三神』・『三韓征伐』・『住吉大社@大阪』・『住吉神社@下関』・『住吉神社@福岡』・『住吉神社@壱岐』と言った内容で記載させて頂きましたが、いかがでしょうか? 個人的には「住吉神社に付き、(まだまだ不十分かもしれませんが)大分まとまった理解が出来たのでないか…」と思えた次第です。また、関連する「神功皇后の功績」に関しても理解を深め、「住吉神社との繋がり」も理解が進んだと思いましたし、面白い妄想も出来のでないかとも思った感じですが、皆様に置かれましてはどの様な感想をお持ちになられましたでしょうか? そして思ってしまいました…。ここまで調べたのであれば、「『住吉大社@大阪』・『住吉神社@下関』・『住吉神社@福岡』・『住吉神社@壱岐』には訪問したいかな…」と…。実現できるか否か解りませんし、実現できたとしても、それなりの時間がかかりそうですが、実現の暁には、本ブログで報告させて頂こう思います!


尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。