【はじめに:国指定の史跡・比企城館跡群とは?】
突然ですが、皆様は「比企城館跡群」なる言葉をご存じですか? 私は、つい最近まで知りませんでしたが…。先日、築城の教科書と言われる「杉山城跡」にお邪魔し、そこにあったパンフレットに、この「比企城館跡群」なる言葉があり、初めて知った次第です。
杉山城のホームページによると、以下の様にあります。
”比企地域は69か所の城館跡があり、関東を代表する中世城館の遺跡群が形成され、城郭の博物館とも言われています。これらのうち、菅谷館跡・松山城跡・杉山城跡・小倉城跡が城郭規模や築城技術等の特徴、良好な保存状態から「比企城館跡群」として国史跡に指定されました”
http://www.ranzan-sugiyama.jp/access/
菅谷館は、鎌倉街道上道の散策の際に、小倉城は武蔵嵐山の散策の際に、そして松山城は、東松山・吉見の散策の際に、もう既にそれぞれ参らせて頂いており、知らないうちに上記の「国指定の史跡」を制覇していました…。どの城跡も、しっかりと遺構を確認する事が出来、城好きにはワクワクするスポットであった事、鮮明に記憶しており、そして改めて思ったのです。これらのお城を、自転車(ポタリング)で回るには、丁度良い距離感である事を…。
故に今回は、国指定史跡に指定された、「比企城館跡群」(松山城・菅谷館跡・小倉城跡・杉山城跡)のご紹介と、その付近の関連した史跡もプラスアルファの情報としてご紹介致します。
【国指定の史跡・比企城館跡群を大人ポタリング!】
①松山城跡
まずは、東武東上線の東松山駅から徒歩圏の「松山城(武蔵国)」から。城跡は、高台を活かした地形に、土塁跡もかなり残されており、広さもあるので、見応え十分だと思います。写真の通り各所に説明文もあり、お城全体を理解しながら、且つ現物を拝見しながら巡る事が出来ますので、非常に有意義な時間を過ごす事が出来ると思います。
こちらのお城は、別ブログでも記載させて頂きました、日本三大奇襲の1つ・河越夜戦に(若干ですが)絡んだお城で、河越夜戦の際に討たれてしまった上杉朝定が、河越夜戦前(=川越城を追われたタイミング)で、拠点としたとされるお城で、河越夜戦にはここから向かったと言われるようです。日本の歴史において、かなり有名な戦に関連する場所ですし、更に、越後上杉氏や甲斐武田氏・小田原北条氏も奪い合ったお城とも認識しておりますので、そんな歴史に思いを馳せつつ、城跡巡りをされると更に面白さが増すと思います。
同時に、プラスαの情報として、この城跡の北には、日本史の教科書でも有名な、(別記事でも紹介させて頂きました)吉見百穴があります。更に、北側で隣接する岩室観音堂もありますので、これらとセットでめぐられた方が良いと思います。
土塁等の遺構がしっかり見られ、説明看板の充実しており、散策を楽しむ事が出来る
②菅谷館跡
次に「菅谷館跡」ですが、こちらも駅は変わりますが、東武東上線の武蔵嵐山駅から徒歩圏(30分弱程度)の、槻川と都幾川が合流した直ぐ後の北側の河岸段丘を利用した場所にある館跡です。
松山城(武蔵国)は、周囲が木々が生い茂った状態ですが、菅谷館跡の内部は、よく整備されたており、それなりの規模の館跡で、土塁をマジマジと見る事が出来ます。「菅谷館跡の中にある、嵐山史跡の博物館」のホームページによると、以下の様にあります。
”比企丘陵のほぼ中央、都幾川の清流を眼下に望む菅谷館跡(すがや・やかたあと)は、鎌倉時代に武蔵武士の畠山重忠が住居した所と伝えられています。重忠以後は、わずかな文献[「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」や「東路の津登(つと)」など]に記されているだけで、詳しい変遷を明らかにしませんが、戦国時代には数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大したものと思われます。今日見られる遺構は、戦国時代の城郭の姿を示しているものです”
https://ranzan-shiseki.spec.ed.jp/博物館紹介-1/菅谷館跡
拝見できるのは、戦国時代の城跡の遺構ですので、城好きには、やはりたまらないスポットです。また、鎌倉時代には、有力御家人の一人「畠山重忠が居住した場所」なんていわれると、更にワクワクしてしまいますが、ちょっと周囲を見回してみますと、鎌倉街道上道がすぐ脇を通っていたせいもあるのか(川越街道の延長線上ともいえる「川越児玉往還」も通っていますが…)、源氏ゆかりのスポットが数多く存在しています(こちらに関しては、鎌倉街道上道のポタリング・散策情報を別記事にて紹介していますので、そちらをご参照ください)。敷地内には、資料館もありますので、館跡、資料館で歴史を感じ、更に周囲でも歴史を感じる事が出来ますので、皆様も足を運ばれてみては、いかがでしょうか?。
③小倉城跡
こちら小倉城は、上記の2つに比べると、駅からの距離は若干あります。とは言っても、東武東上線の武蔵嵐山駅から徒歩で60分程度で行く事が可能です。故にポタリングであれば、全く問題ない距離の認識です。
こちら小倉城のお城の魅力は、石積を見る事が出来る点です。戦国以前の関東のお城は、よく「土の城」と言われる事が多いようです(北条氏の小田原城も現在は石垣ですが、北条氏の時代は土の城だったと言われている認識です)。しかしこのお城には、石積が見られ、関東のこの時代(戦国期のお城と言われている様です)のお城としては、非常に珍しいと思われます。
しかしその石積みは、皆様がイメージする、天守閣の石垣の感じでなく、平たい石を積み上げた石積です。このような形状は、菅谷館跡近くの、稲荷塚古墳と似ていると個人的には思いました。そして、石その物に目を向けると、鎌倉街道の上道を散策された方なら、ほぼすべての方が目にしていると思われる、「板碑」の様な薄い石である事が見て取れます。故に、不思議な事は全くありません。
事実このお城の直ぐ近くには、「下里・青山板碑製作遺跡」と言われる場所があります。勝手な想像ですが、青山板碑製作遺跡で取れた板の様な石を、「板碑」として鎌倉街道の石碑に利用したり、「古墳の石室」を作ったりしたり、この「小倉城跡の石積」として利用したりしていたと考えれば、この地域の特色として不思議はなく、かえって歴史を興味深く考える事が出来るスポットになります。故に、小倉城祉に脚を運ばれた際は、是非石積をご見学頂き、青山板碑製作遺跡・稲荷塚古墳にも足を運び、道々の板碑にも気を配りつつ(ただし注意散漫で事故は起こさない様に…)、大人散策・ポタリング頂ければ宜しいのでないかと思います。
ちなみに、小倉城跡へのアクセスで、車をご利用の際は、麓の大福寺付近に駐車場もあります。(付近の武蔵嵐山の地名ゆかりの場所や、岩畳(甌穴も)も見る事が出来る散策情報を別記事で紹介しております)
④杉山城跡
こちら杉山城も、小倉城跡程ではありませんが、最寄りの東武東上線・武蔵嵐山駅からは若干距離があります。3㎞強の様ですので、40分程だと思われます。関越自動車道・嵐山小川ICの程近くにあり、麓には広い駐車場がありますので、車でのアクセスも適した城跡です。
こちらのお城は、上記にも記載しましたが「築城の教科書」とも言われている様で、狭い大手口や屏風折れの土塁等、その後のお城の形状にもみられる痕跡を見る事が出来ます。木々が少なく整備されており、城跡全体を見渡せる為、しっかりと全体図を把握する事が出来、城跡巡りの面白さを再発見できるスポットだと思います。杉山城のホームページによると、以下の様にあります。
”戦国時代の初めころ、関東では関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間にあり、長享2年(1488)には須賀谷原(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。杉山城跡から出土した遺跡の年代は、この戦いの少し後にあたります。そのことから杉山城は山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えられます”
http://www.ranzan-sugiyama.jp/access/
群馬・藤岡の平井城を本状とした山内上杉氏が築城したお城と言う事か、眼下には、鎌倉街道の上道(=川越児玉往還?)と思われる道が見え、位置的に重要な場所の高台に築かれたお城である事理解できます。また、「山内上杉氏と扇谷上杉氏が争っていた時代(推定)」との事ですので、日本最大奇襲の1つ河越夜戦(1546年)の前の築城と言う事を想像できると思います(確証はありませんが…)。そう考えると、このお城の築城における物理的な工夫は勿論ですが、歴史的背景も併せてこの城を理解する事が出来、益々この城跡の魅力を感じる事が出来ると思います。
【プラスαの追加情報】
上記に、国指定の史跡・比企城館跡群(=松山城・菅谷館跡・小倉城・杉山城)の紹介させて頂きましたが、以下に近辺のお城・館跡もご紹介致します。更にポタリングを楽しみたい方には、もう少し距離が出ますので、ポタリングその物の楽しみも増え、参考になると思いますので、参考になさって頂ければ幸いです。
⑤-1 高坂館跡
高坂館跡は、高坂駅から徒歩10分程度の、高済時の境内にあります。北には都幾川の河岸段丘があり、西には小規模ですが、土塁の跡が確認できます。全体的に大きさはありませんので、スピーディに見学する事が出来ると思います。また、土塁上の一番奥(川側)には、江戸時代にこの地の領主であった、「加賀爪氏累代のお墓」もありますので、併せて見学されてはいかがかと存じます。
⑤-2 鉢形城跡
こちら鉢形城跡は、寄居駅の南、荒川を超えた場所で、荒川の南側の河岸段丘を利用して作られた城の様です。別記事にて、「鉢形城跡の詳細」につき触れ、寄居における大人散策情報でもご紹介致しましたが、城跡としての魅力は勿論、貫録を感じる桜やモクレン、整備された広場等、純粋に公園としても楽しめるスポットです。資料館もありますので、併せて脚を運ばれてはいかがかと思います。また、近辺の寄居における大人散策情報も記載していますので、併せてご参照くだされば幸いです。
⑤-3 源範頼館跡/息障院
源義経を別記事で記載した際に、名前だけ出てきた源範頼の館跡と伝わるのが、こちら息障院です。範頼と言えば、「義経が(個人的には、日本三大奇襲ではなく日本四大奇襲として、数えるべきと思っている「一ノ谷の戦い」における)『逆落とし』を実行した時(搦手)、東方面から正規軍をを引っ張ていた武将」位の知識しかないので、Wikipediaの力をかり調べてみますと、以下の様にあります。
”源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄 (略) 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。 (略)
最期
建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある。(略) 8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。 (略)伝説
https://ja.wikipedia.org/wiki/源範頼
範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる”
全文を引用すると長くなってしまいます為、途中「(略)」を入れましたが(引用部分の説だけでは無い様なので、ご興味のある方はリンク先よりご参照ください…)、中々興味深い内容です。頼朝・義経と兄弟であった事、吉見に深いつながりを持つ事、少々不幸な最後となってしまった事等、こちら息障院に足を運ぶ際は、是非上記情報を持ってから行くと、より感慨深い大人散策になると思った次第です。
尚、比企氏との関りが強い岩殿観音、息障院近くの吉見観音に関し、周辺の大人散策情報と共に別記事でも紹介しておりますので、あわせてご参照頂けますと幸いです。
⑤-4 足利基氏塁跡
本ブログ別記事で紹介しました「岩殿観音・正法寺」。正法寺の詳細は別記事をこちらのリンクより確認頂きたいのですが、1300年程の歴史を持つ寺院で、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝やその妻政子、御家人の比企能員、江戸幕府を開いた徳川家康との関係もある寺院です。そしてその近くには、坂上田村麻呂が悪竜退治で、その首を埋めたと伝わる弁天沼や室町幕府初代将軍の足利尊氏の次男・足利基氏が岩殿山合戦で陣を敷いたと伝わる「塁跡=足利基氏塁跡」もあります(以下にありますが、比企能員の館跡を陣地にした言われている様です)。
簡単ですが、弁天池と足利基氏塁跡に付き、正法寺のHPを引用いたしますと以下の様にあります。
(略)田村麻呂の悪竜退治
まだ岩殿の山々が大昔の姿を残す頃のお話です。岩殿山に悪竜が住み着き、村人たちは困り果てていました。 そんな日が続いたある日、蝦夷征伐のためこの地を通りがかった将軍坂上田村麻呂が悪竜退治を引き受けます。 田村麻呂は観音様のお力を借りるために観音堂に篭って一心にお祈りしました。夜が明けて田村麻呂が岩殿山中へと赴くと、 真夏だというのに雪が積もっています。あたりを見回すと、山の一角に雪の溶けている場所がありました。 観音様が龍のいるところを、雪を溶かして教えてくれたに違いないと思い、弓に矢をつがえてひょうと放ちました。すると空は黒い雲で覆われ、風がさーっと吹いたかと思うと、姿をくらましていた悪竜が忽然と現れました。 矢は悪竜の右眼に深々と突き刺さっています。田村麻呂が二の矢をとって放つと、悪竜の左目に刺さり、悪竜はのたうち回ります。 そこで腰の大剣を抜き、悪竜の喉元めがけて突き刺しました。これには流石の悪竜も七転八倒の末、ついに力尽きました。 悪竜の首は山裾へと埋め、後に池となりました。しかし不思議なことに蛙が住み着かず「鳴かずの池」とよばれるようになったそうです (略)(略)比企判官旧地(足利基氏塁跡)
岩殿観音の北東、表参道の入り口にある「鳴かずの池」裏手の丘陵地帯には、かつて比企能員の館があったと伝わります。岩殿観音に伝わる江戸時代の古地図には、表参道を下った現鳴かずの池の裏手に「比企判官旧地」とあります。岩殿観音に伝わる江戸時代の古地図(正法寺のHPより) この地は現在では足利基氏塁跡として知られています。足利基氏は鎌倉公方と呼ばれ、南北朝時代に活躍した武将です。貞治2年・天平18年(1363)に芳賀高貞とこの岩殿山で「いわゆる「岩殿山合戦」が行われた際に、基氏がこの地を館とし布陣したと言われています。この館は合戦の際に基氏が築いたものではなく、もともとあった館を陣地として利用したと考えられており、岩殿観音に伝わる古地図と合わせると比企能員の館跡を陣地にした可能性が考えられています。九十九川と谷筋の湿地が外敵を防ぐ役割を果たしていたこともあり、館を構える好立地であったと考えられます。現在は、その旧地のほとんどがゴルフ場となってしまい、かつての累跡の面影はわずかな土塁と堀跡を残すのみですが、残された地形からかつての面影に思いを馳せるのもよいでしょう (略)
http://iwadonosan-shoboji.org
「足利基氏は鎌倉公方と呼ばれ、南北朝時代に活躍した武将」との事で、室町期の1363年の「岩殿山合戦」の際に基氏がこの地を館とし布陣したと伝わる場所が「足利基氏塁跡」と言われているようで、この館は合戦の際に基氏が築いたものではなく、元々あった館を陣地として利用したと考えられているようです。そしてその元々の館の主が「比企能員」。つまり「鎌倉殿の13人」でも登場した比企能員は、鎌倉時代の御家人で、岩殿観音・正法寺を復興した武将でもり、その影響もあってか、源頼朝が坂東三十三観音霊場の一所になった寺院が、岩殿観音・正法寺。しかし、それよりも以前の坂上田村麻呂の伝承や室町時代の足利氏とも縁のあるエリア(=足利基氏塁跡)になるらしく、現在では「比企城館跡群の1つ」と言う理解をさせて頂いた次第です。そんな歴史を感じつつこのエリアを大人散策してみてはいかがでしょうか?
⑤-5 青鳥城跡
東武東上線の東松山駅の西・2.5㎞程 & 森林公園駅の南・2㎞程の場所に「比企城館跡群の1つ」と言われる「青鳥城」があります。簡単にこの「青鳥城」の概要を把握すべく東松山市のHPを拝見すると以下の様にあります。
(略) 青鳥城跡は東松山台地の南縁に位置し、南面を天然の崖、その他三面を土塁と堀で守る平城です。本郭を取り囲むように二の郭・三の郭が造られており、一部土塁と堀が現存しています。
二の郭北面の堀と土塁には、「折(折邪)」と呼ばれる、あえて土塁と堀を折り曲げることで、外敵への攻撃面を増やす工夫が見て取れます。土塁頂部から掘り底まで約6~7mもの比高差があったと推定されており、現在の見た目以上に堅牢な守りであったことがわかります (略)
青鳥城跡の築城時期と城主については諸説あり、はっきりとはわかっていません。ただ多くの文献や伝承などにその痕跡を見ることができます。青鳥城跡の土塁・板石塔婆・縄張り図 もっとも古くは青鳥判官恒儀が築城したとの伝説があり、城名の由来となっています。ただ青鳥判官恒儀が没したのが天長6年(829)とされ、近年の調査成果や周辺の同時期の状況を踏まえて考えると築城時期がここまで遡るとは考えにくのが現状です。
https://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/soshiki/55/3776.html
『源平盛衰記』には源頼朝が寿永2年(1183)に出陣した際、「青鳥野に在陣」との記述がありますが、城跡や館跡の存在を示す記述はありません。
市内神戸に所在する妙昌寺の縁起によると、同寺を開基したのが青鳥城主・藤原利行とされ、日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡へ流罪となった際、青鳥城に宿泊したと書かれています。
『鎌倉大草紙』などの複数の文献には上杉憲実が永享12年(1440)の結城合戦の際、「野本・唐子に逗留」したとの記載があり、この場所を青鳥城とする意見もあります。
また「太田道灌状」によると文明10年(1478)に青鳥城に在陣したとの記述があります (略)
様々な文献にみえる青鳥城の痕跡と、発掘調査で出土した遺物、現存する遺構の状況などから青鳥城跡の築城経過を推定すると、13世紀初頭から14世紀初頭ごろ(鎌倉時代)に、青鳥城跡の前身となる武士の館が整備され、その後15世紀初頭から16世紀末頃に、関東の覇権をめぐる争いが激化したことを受け、現在のような複数の郭・土塁・堀をそなえた城へと拡充再整備されたと推定されています (略)
上記引用の通り、「はっきりした事は定かではないが、『青鳥判官恒儀が築城@平安時代?』とも言われ(鎌倉期の築城が有力説らしいですが)、『源頼朝が布陣したことがある?』、『日蓮上人が佐渡へ流罪となった際に宿泊?』、『関東管領・上杉憲実が布陣した事もある?』、『太田道灌も陣を張った事がある?』といった記録もある城跡らしく、現在では『比企城館跡群の1つ』という城跡が『青鳥城跡』」という事らしいです。実際に現地を拝見すると「遺構はそれなりに残っており、土塁の高さからして、それなりの規模を備えたお城」と想像でき、位置関係からしても「上記の有名武将(日蓮は違いますが…)が実際に青鳥城を活用していても違和感のないお城」と認識した次第です。
【最後に】
以上が、国指定の史跡・比企城館跡群(松山城・菅谷館跡・小倉城跡・杉山城跡)の大人散策・ポタリング情報に、周辺情報も加えたご紹介になります。この地域は、歴史的なToipicとして、全国区の地域ではありませんが、歴史好きの方なら、ほぼ確実に耳にした事のあると思われる河越夜戦、鎌倉街道(上道)、一ノ谷の戦い等の背景の地域である事間違えないと個人的には思った次第です。(言い方悪かったらすいませんが)適度に田舎でポタリングには、最適な地域だと思いますので、歴史好きの方、ポタリング好きの方は、是非この地域で、「大人のポタリング」を楽しまれては、いかがかと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!