岩殿

【はじめに】

本日は、埼玉の東松山(最寄り駅は、東武東上線・高坂駅)にある、岩殿観音として有名な、正法寺をご紹介致します岩殿観音正法寺は、1300年程の長い歴史を持つお寺の様で、薬師堂等の構造物、銀杏の大木等、周囲の散策スポットと併せても楽しめる(別記事で紹介中)大人散策には、もってこいのスポットなのです

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。その13人の中に、「比企能員」と言う武将がいたと思いますが、その比企能員と関りの深いお寺が、こちらの岩殿観音・正法寺です。こちらのHPによると、以下の様にあります。

(略)岩殿観音は、源頼朝だけではなく、頼朝の妻であり義時の姉でもある北条政子(ほうじょうまさこ)、そして13人の家臣のなかでも比企能員(ひきよしかず)と深い関わりがあります(略) 

http://iwadonosan-shoboji.org

頼朝の没後、数年の後、一族もろとも歴史の表舞台から姿を消してしまった比企能員と言う事もあり、あまり有名処ではないかもしれませんが、鎌倉時代に、確かに日本の(鎌倉幕府の)政治の中枢にいた武将である事は、間違いありません。こちらのページでは、そんな、比企能員と関連深い岩殿観音・正法寺を紹介致します

【「岩殿観音・正法寺」の概要】

まずは、岩殿観音・正法寺の基本情報を抑える為、こちらのホームページを拝見しますと、以下の様にあります。

開山、菩薩のおわす霊山-奈良時代-

寺伝では養老2年(718年)に沙門逸海が岩殿山の岩窟に観音像を安置し、傍らに正法庵と号した草庵を結んだのが始まりと伝わっている(略) 

坂上田村麻呂と桓武天皇の支援-平安時代-

岩殿観音にまつわる伝説「田村麻呂の悪竜退治」に詳しいが、平安の始めの頃の話であろうか、ここ岩殿の山に悪竜が住み着き、村人はほとほと困り果てていた。そこに蝦夷征伐へと向かう将軍坂上田村麻呂が通りがかり、岩殿観音の千手観音菩薩の霊力を授かることで、悪竜を見事討ち果たしたという (略)   

坂東札所の成立と頼朝・政子の帰依-鎌倉時代- 

鎌倉幕府を開いた源頼朝は大変に観音信仰が厚く、実朝とともに坂東三十三観音霊場を制定したと推測される (略) 頼朝の乳母であった比企の尼は、平治の乱の後、流罪となった頼朝が伊豆に流された際にも支援を惜しむことはなかった。その恩もあり、比企氏を御家人として重用した頼朝は、比企氏が深く帰依した岩殿観音を庇護することとなる。岩殿観音は頼朝の庇護のもと、頼朝の妻である北条政子の守り本尊として、比企能員が復興し、坂東札所の第十番となっている (略) 

門前町の発展-室町時代- 

(略) 室町末期には西国、秩父と合わせて百観音札所として巡礼が盛んになり、岩殿観音門前も一段と賑わいを増してゆく。戦国時代の後期には岩殿観音の本坊の他、六十六の僧坊を有し、関東や北国にも並びなき大伽藍を構え、七堂あった伽藍はことごとく瓦葺きであった記録に残っている。  

戦火と復興-戦国時代- 

(略) 戦国後期の永禄年間の始めには、越後上杉氏と小田原北条氏の間で激しく奪い合われることとなる。永禄4年(1561年)、北条氏康が抑えていた松山城は太田資正に攻め取られ、上杉憲勝を城主とした。これに対して、北条氏康は岩殿観音隣村の高坂村に陣を敷き、松山城を激しく攻めた。しかし、松山城は天然の要害ともいわれる堅固な守りに加え、籠城の備えも厚かったため、落城することはなかった。これに業を煮やした北条氏康は、岩殿観音を始めとする付近の寺社をことごとく焼き払った (略)   

江戸期の興隆-江戸時代- 

天正19年(1591年)には徳川家康により朱印地を賜り、江戸の隆盛へと移っていく (略) 江戸期には観音巡礼も盛んであり、岩殿観音門前町も大いに賑わいをみせた。 

http://iwadonosan-shoboji.org

”略”、を入れましたが、少々引用が長くなりましたので、以下に私の理解をまとめさせて頂きます。

  • 1300年程の歴史を持つお寺  
  • 坂上田村麻呂、源頼朝/政子、比企能員、北条氏康、徳川家康等と、長い歴史の中で、良くも悪くも関りを持ち、歴史の舞台の一つになってきた  
  • 門前町が形成され賑わいを見せた

といった所だと思います。現在、参道にお店は見当たらず、静かな住宅街となっていますが、現地の説明看板を拝見しつつ、長い参道の入口や道々の看板、仁王門から一直線に伸びる参道を拝見すると、「この参道の両脇に様々な商業施設があったと言う事は、さぞにぎやかだったんだろうな…」と思いにふけってしまいます。そんな、岩殿観音・正法寺の見所を次に記載させて頂きます。

【「岩殿観音・正法寺」の見所】

⓪最寄り駅は、東武東上線・高坂駅

東武東上線の高坂駅から、約3~4㎞位と思いますので、徒歩で1時間弱の距離感です。参道を回るルートにするか、物見山方面からアクセスするかで、距離は変わりますが、(以下に記載いたしますが)おすすめは、参道からのアプローチが宜しいのではないかと思います途中には、彫刻が飾られた通り、足利基氏の塁跡や坂上田村麻呂の伝説がある弁天沼、気持ちの良い一直線の参道等を見ながらアクセスできる為です

しかし、バスでもアクセス可能で、参道経由を目指すのであれば、「物見山登山口」or「こども動物自然公園」のバス停からのアクセス最短距離でアクセスするのであれば、岩殿観音の背面(参道は通らない方面)からアクセスする形になりますが、大東文化大学」のバス停からのアクセスが宜しいと存じます。また、車でのアクセスも勿論可能で、仁王門の脇に駐車場があります。最下部にGoogle マイプレスで作成した地図を記載しておりますので、皆様のニーズに合わせご検討ください。

①参道

上記にも若干記載しましたが、岩殿観音・正法寺の参道は、中々の物です。500m以上はあると思われる、一直線の参道が続いており、道々には門前町として栄えていた当時、何があったのかを示す立て看板もあり、楽しみながら岩殿観音にアクセスできます。また、参道を一段高い仁王門から眺めると、その景色は格別で、住宅街になった今でも厳かな雰囲気を醸し出す門前町と言った印象を与えてくれると思います。

②仁王門

参道の突き当りの階段を上ると、仁王門が出てきます。この仁王門からの参道の景色は上記の通りですが、朱色に塗られた仁王様も中々の迫力で、江戸期再建の像の様です。その仁王門をくぐり、更に階段を上っていくと(非常に雰囲気のある階段です)、上り切った右側に(少し戻る形になりますが)、鐘楼・銅鐘が、出てきます。

③鐘楼・銅鐘

鐘楼は、1702年に作られたものとの事で、江戸の中盤の物銅鐘は、1322年に造られたものとの事で、鎌倉時代の終わり頃の物の様です。長い歴史を感じる事が出来ると思います。

④薬師堂・石仏

上記、鐘楼・銅鐘から、観音堂の方のルートに戻ると、右手に薬師堂とその裏に多くの石仏を見る事が出来ます薬師堂には、薬師如来と十二神将、善光寺阿弥陀如来が祀られているとの事で、その裏の崖に沿う様に安置された石仏は、百観音と四国八十八ヶ所を参拝したのと同じ御利益が得られると言われているとの事です。宗教的な事は少々疎いのですが、芸術作品として見ても興味深いものだと思いました(罰当たりなら申し訳ございません)。

⑤観音堂

薬師堂の左手には、岩殿観音・正法寺の中心と言って良いと思いますが、観音堂がございます。こちらには、千手観音が祀られておりますが、建物も立派。軒の装飾と組み方は、立派の一言。厳かな雰囲気の中、威風堂々とした建物にも注目して頂きたいです。

⑥イチョウの木

本ブロブ別記事でも紹介しましたが、観音堂の隣には、樹齢700年を超えると言われる、大イチョウがあります。根の張る部分の幹は圧巻の太さ。秋の紅葉も夏も新緑も見ごたえ十分で、観音堂とコラボした絵は、お気に入りの構図です。樹齢700年オーバーの生命力を感じ取ってみて下さい。

⑦その他:周辺散策

以下に、岩殿観音・正法寺周辺の大人散策スポットにつきましても、サマリ版を記載します。別記事で今少し詳細を記載していますので、併せてご参照頂けますと幸いです。また、最下部のマップには、全体感が分かる様それぞれのスポットも合わせて記載しており、ご自身の位置を確認しつつ動ける様、Googleマイマップにて作成しておりますので、ご活用頂けますと幸いです。

弁天沼/足利基氏塁跡

岩殿観音・正法寺の参道の北東には、弁天沼と足利基氏塁跡があります弁天沼には、坂上田村麻呂が、蝦夷討伐の折、この付近に住み着いていた悪竜を退治し、その首を埋めた言い伝えがあり、足利基氏塁跡は、岩殿観音・正法寺を復興した比企能員の館跡を、室町時代の岩殿山合戦の折に陣を置いたと伝わる場所との事です。(詳細は別記事参照)

・物見山/市民の森(巡礼の道)

岩殿観音・正法寺の観音堂から、真横(南側)に、物見山に抜ける舗装された坂道と階段があります春から夏にかけてのツツジ秋の紅葉は中々の物高台の景色と共に、季節を楽しめる大人散策スポットです(ちなみにこの通路から物見山に行く際に渡る広い道を少し下った場所に、「大東文化大学」のバス停があります)。

また、物見山の東には、市民の森と呼ばれる緑豊かな散策路が広がっております。この方向は、坂東三十三観音霊場の岩殿観音(10番目)の前、慈光寺(9番目)の方向になり、地図で見ると「巡礼街道」なる道が見えます。この道をたどると鎌倉街道上道の笛吹峠に通じている様です。

旧線路跡の散策(一部「ばんどう山緑地」経由)

岩殿観音・正法寺の参道の北、参道入り口から、1.5㎞程坂を上ると、峠越えが出来、その峠を下った先には、旧路線跡(太平洋セメントがかつてセメント材料を運搬していた線路跡)を散策できる、散策路が整備されています。すべてが旧線路跡と言う事ではないと思いますが(一部「ばんどう山緑地」経由)、自然も感じる事が出来る大人散策路だと思います。

川越児玉往還日光脇往還 三日月湖 / 高坂館跡

上記旧線路跡・散策路の北、都幾川に挟まれた地域を川越児玉往還が、東武東上線の東側を日光脇往還が通っています(ました)。その道標等の遺構(遺構ではない可能性の物もあると思いますが)や、人が水と戦ってきた痕跡の三日月湖土塁も確認できる高坂館跡等も見る事が出来ます。その場所で、人々が生きてきた痕跡を見る事が出来るスポットがあります。(詳細は、それぞれのリンクより別記事ご参照ください)

・彫刻通り

こちらも別記事で紹介致しましたが、高坂駅の西側には、芸術の通り、「高坂彫刻プロムナード」が続いております。通りの両サイドに30以上の高田氏の作品が展示されており、芸術を楽しみながら散策できる通りが、1㎞程の区間、続いております。

【最後に】

以上が、岩殿観音・正法寺の見所を中心に紹介した、東武東上線・高坂駅付近の大人散策情報になります。

1300年程の歴史を持ち、その長い歴史の中で、坂上田村麻呂や源頼朝・比企能員、徳川家康といった武将ともかかわりを持ってきた岩殿観音・正法寺。誰もが知っている有名な寺院ではありませんが、坂東三十三観音霊場の一角をなす、由緒正しい寺院です。境内のイチョウの木も是非見て頂きたいですし、周囲にも併せて訪れて頂きたいスポットもござますので、是非一度、岩殿観音・正法寺に脚を延ばしてみてはいかがでしょうか?

また、別記事にて、弁天池/足利基氏塁跡、物見山/市民の森(巡礼の道)、旧線路跡の散策、川越児玉往還・日光脇往還 / 三日月湖 / 高坂館跡、彫刻通りに関しては、今少し深堀下情報を記載していますので、併せてご参照頂き、皆様の大人散策の情報収集の参考になさって頂ければ幸いです。

歴史(伝承も含みますが)、文化、自然等を感じつつ、大人散策できるエリアが高坂だと思いますので、機会を見つけ、訪れてみて下さい!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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