桃源郷

【はじめに】

突然ですが、皆様は桃源郷」と聞いて、何を思われますでしょうか?

ある人は、「ユートピア」・「理想郷」と言う言葉を、ある人は、桃源郷の出処と言われる中国の昔の物語(小説?)「桃花源記」を、またある人は、「物理的な美しい花が咲き誇る桃畑」を思い浮かべるかもしれません。それぞれ関連して考えると、「なぜ桃?」と個人的には思ってしまいますが、「素敵な場所」、「尊い場所」、「楽園」と言ったイメージに変わりは無いようです。

今回は、そんな「桃源郷」をピックアップさせて頂きましたが、私のふるさと、山梨は果樹王国。「ブドウ」もですが、「桃」も有名です。また、山梨の北杜市出身の歴史好きな者ですので、この「桃源郷」と「歴史(特に甲斐武田家)」を掛け算で楽しめるスポットのご紹介を申し上げようと思った次第です

【「桃源郷」とは?】

折角なので、少々、上記に記載しましたそれぞれの言葉に付き、さわりだけ、信頼するWikipediaにて調べてみましたので、以下に共有します(少々長いので、引用はハイライトの部分のみ読んで頂ければ、概要はOKと思います)。

桃源郷(とうげんきょう)は、俗界を離れた他界・仙境。ユートピアとほぼ同意で、陶淵明の『桃花源記』はかつて存在した武陵郡地域の話なので「武陵桃源」(ぶりょうとうげん)ともいう(略) 

概要  
陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している)。  
創作されてから約1600年経った現在でも『桃花源記』が鑑賞されているのは既に人々の心の内にある存在を、詩的に具象化したものが桃源郷であるためとされる。既に知っているものであるため地上の何処かではなく、魂の奥底に存在している(略)  

ユートピアとの相違
陶淵明研究者の伊藤直哉は以下の通り述べている。トマス・モアの思想書『ユートピア』に由来するユートピア思想の根底にあるのは、理想社会を実現しようとする主体的意志である。この本ではユートピアに滞在した経験がある人物が、モアに現地の様子を紹介する設定になっている。ユートピアは遠く離れた島国とされているが、全く到達不可能な夢幻としてではなく、地理や社会制度の意味において十分到達可能なものとして描かれており、その上でユートピア人の風俗や法律などの成立の根拠の合理性に疑問を投げかけている。モアのユートピアは「夢想郷ではなく、普通の人々が努力して築き上げた社会主義国家」なのである (略)  
一方で桃源郷は、「理想社会の実現を諦める」という理念を示している。中国史上稀に見る混乱期の中、人々は苦悩と悲劇に満ちた現実から逃避しようとし、文壇では遊仙詩(神仙郷に遊ぶ詩)が現れた。しかし陶淵明の作品は、題材は遊仙詩と似ているが、思想が本質的に異なるとされる。陶淵明は、神仙郷の実在を決して信じず否定しており、日常生活を尊重していた (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/桃源郷

「ユートピア」と「桃源郷」は、「理想郷」という意味合いでほぼ同義であれが、「ユートピアは、実現可能世界」で、「桃源郷は、物理的には実在しない世界」と言う理解をさせて頂きました。

また、『なぜ「桃」なのか?』に関しては、ちょっと前の出来事、「纏向遺跡で大量の桃の種が発掘され、卑弥呼の時代との相関性から、邪馬台国=纏向遺跡ではないか?」との話を思い出しました。「桃」は、昔から神秘的なパワーが宿る果物とされていたようで、Wikipediaには、以下の様にあります。

中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物・果物として親しまれている。桃の木で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる(略)  

桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・寿桃(ショウタオ、繁体字: 壽桃、簡体字: 寿桃、拼音: shòutáo)を食べる習慣がある。寿桃は日本でも桃饅頭(ももまんじゅう)の名で知られており、中華料理店で食べることができる (略)  

日本においても中国と同様、古くから桃には邪気を祓う霊力があると考えられていた『古事記』では、黄泉の国でイザナミの追手から逃げるイザナギが、黄泉比良坂に辿り着いた際、そこにあった桃の実を投げつけて、追手を退散させて逃げ延びることに成功した。イザナギはその功を称え、桃に意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという。また、『桃太郎』は、桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話である。3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事である (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/モモ

総合的に理解をまとめますと、「現実に存在するか否かは別として、人の心の中には、現実との比較において『理想郷』を求める主体的意思(心の中に描く夢?)が存在しており、これが霊力があると古代から信じられてきた「桃」と文字も含めて連動し、現在多くの日本人がイメージする『桃の花が咲き誇る桃畑=桃源郷のイメージ』になった」と(個人的ではありますが)理解させて頂きました。

但し、これも個人的ではありますが、桃の花が咲き乱れる美しい桃畑を見ると、理想郷ではなく、幼少の頃の夏、早起きして、桃畑にカブトムシやクワガタを取りに行った事を思い出す方もかなり多いのでないかと、勝手に思ってしまいます…。これはこれで理想郷の1つの姿かもしれませんが…。

では、「桃源郷」に付き、少しだけですが、概要も抑えましたので、実際の大人散策情報を以下に紹介致します

【「新府城」@韮崎の概要を抑えつつ大人散策】

1つ目のスポットとして紹介したいのは、新府城址とその付近。戦国の歴史に思いを馳せつつ、桃源郷(桃畑)を満喫できるスポットです。

まずは、基本に忠実に、Wikipediaを調べてみますと以下の様にあります。少々引用が長くなってしまいましたので、概要だけを抑えるのであれば、ハイライト・太字の部分のみご確認頂ければと思います。

新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にかつてあった日本の城である。1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。 

地勢と構造  
甲府盆地西部に位置する。八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。  
石垣は使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ(略) 

正壬午の乱においては、徳川家康の北条氏直の軍に対する本陣として使用されている (略)  
使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7-8キロメートル、東西2キロメートルという周辺の自然地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城である (略)

武田氏の領国拡大と本拠  
戦国期に守護甲斐武田氏は本拠の石和(笛吹市石和町)から甲府へ進出して川田(甲府市川田町)に居館を移転した。信虎期には甲斐国内を統一し戦国大名化し、古府中に居館である躑躅ヶ崎館が築かれ、家臣団を集住させて城下町(武田城下町)を形成した。  
晴信(信玄)期には領国拡張と平行して城下の整備拡張が進み、政庁としての役割を持つ府中として機能している続く武田勝頼時代にも整備は行われているが、後背に山を持つ府中は防御に適しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃、西上野、駿河へと拡大した武田氏の領国統治にとって不備であったため、府中の移転が企図されたと考えられている。

新府城が位置する韮崎は盆地北西端に位置しているが、戦国期に拡大した武田領国においては中枢に位置し、古府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。  

新府城の築城と武田氏の滅亡  
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)において、武田方は織田・徳川連合軍に大敗し、勝頼は長篠敗戦後に領国支配を強化する。『甲陽軍鑑』によれば。天正9年(1581年)3月には御一門衆で甲斐河内領・駿河江尻領を領する穴山信君(梅雪)が勝頼に対し、新たな築城を献策したという。一方、史料上の初見は「長国寺殿御事跡稿」(真田宝物館所蔵文書)で、天正9年(1581年)正月21日に、武田家臣の真田昌幸が配下の国衆に人足動員を命じたものとされる (略)

築城は天正9年(1581年)から開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住している。  天正10年(1582年)、信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田・徳川連合軍に阻まれて帰国。織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、城に火をかける勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ武田一族は滅亡する。

「天正壬午の乱」から近世の新府城  
武田氏滅亡後、(略) 甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生し、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻した。天正壬午の乱において徳川勢は新府城を本陣に、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。対して後北条氏は都留郡を制圧し、若神子城に本陣を置くと同様に周辺の城砦に布陣し、徳川勢と対峙した。同年10月には徳川・北条同盟が成立し、後北条氏は甲斐から撤兵する。

これにより甲斐は徳川氏が領し、徳川氏は甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした。天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏が滅亡すると、豊臣政権に臣従していた家康は関東へ移封される。甲斐は羽柴秀勝・加藤氏・浅野氏が領し、豊臣系大名時代に躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町の南端にあたる一条小山に新たに甲府城が築城され、甲府城下町が形成された。関ヶ原の戦いを経て甲斐は再び徳川氏が領し、近世を通じて甲府城は甲斐の政治的中心地となり、新府城は廃城となった (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/新府城

少々長い引用となってしまいましたが、戦国期の新府城が置かれた地形(七里岩に関しては、別記事をご参照下さい)や築城の歴史的背景やその後歴史的な人物との関りが見れると思います。武田信玄/勝頼徳川家康織田信長北条氏直真田昌幸とこの時代の歴史の主役たちの名前が出てきており、歴史の重大な局面に非常に、短い時間でしたが、かかわった城であった事、ご理解頂けると思いますし、国指定の史跡である理由も納得頂けるのでないかと思います

現在の新府城祉は、それなりの広さがあり、写真の通りですが、高低差もある為、見学にはそれなりの時間かかると思います。また、(特に夏場は)木々も生い茂り、看板はある物の遺構が理解しにくい部分もあり(こちらも夏の写真の通りですが…)、あまり人気のスポットとは言えないかもしれません。しかし、春先(3月終り~4月中旬)の、正に桃の花が咲き誇るタイミングであれば、草木もまだ生い茂るタイミングではない為、多少なりとも遺構の確認がしやすくなるのでないかと思います

頂上の本丸には、神社があり、広場の様になっており、武田家ゆかりの武将の慰霊碑もあり、北には八ヶ岳の有志も確認できます。また、南側の大手門側に行くとその遺構と共に、富士山も見る事が出来ます新府城址の北東側に駐車場もありますので、そちらに駐車可能ですし、電車も中央本線の新府駅から徒歩圏内ですので、新府城と周囲の桃畑の大人散策をセットで楽しんでみてはいかがでしょうか? 

尚、新府城がある韮崎市は、「武田家発祥の地」と言われており、「知る人ぞ知る」と言った感じですが、いくつかの観光スポットも別記事で紹介しております。お隣の北杜市の観光スポット情報も別記事で紹介しておりますので、併せてご参照頂き、セットで回られても宜しいのではないかと存じます。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

【「大善寺」@甲州市の概要を抑えつつ大人散策】

2つ目のスポットとして紹介したいのは、大善寺とその周辺。上記新府城址は、山梨県でも北側、韮崎市にありますが、こちら大善寺は、「甲府盆地の最も東京側」に位置するスポットで、こちらは戦国期と幕末の歴史と共に、桃源郷(桃畑)を満喫できるエリアになります

まずは同様に、Wikipediaにて、大善寺調べてみますと以下の様にあります。

大善寺(だいぜんじ)は、山梨県甲州市勝沼町にある仏教寺院。宗派は真言宗智山派、山号は柏尾山、本尊は薬師如来である。  

歴史  
正確な創建年代は不明だが、寺伝によれば奈良時代に行基の開創とされている(延慶3年(1310年)『関東下知状』)。本尊である薬師如来像の様式などから、実際の創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある (略)  
寺伝では養老2年(718年)、行基が甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行した時に、夢の中に葡萄(甲州ぶどう)を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされている。甲州葡萄の始まりは行基が法薬として葡萄の栽培法を村人に教えたことであるともいわれている。本尊の薬師如来像の持物は長く失われていたが、元は葡萄を持っていたという伝承があり、現在は左手に一房の葡萄を載せた姿に復元されている。こうした由来と、現在は寺内でワイ●を醸造して参拝客に振舞っていることから「ぶどう寺」とも呼ばれる (略) 

天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して、3月3日に甲斐国主の武田勝頼は本拠である新府城(韮崎市中田町中條)を捨て、小山田信茂を頼って都留郡の岩殿城(大月市賑岡町)に向かう勝頼はその途中で大善寺に泊まり、戦勝を祈願している。その後、勝頼は小山田領へ入る前に信茂の離反に遭い、日川を遡上。3月11日に山梨郡田野(甲州市大和町)において一族とともに自害した(天目山の戦い) (略)  

幕末の戊辰戦争では、慶応4年(1868年)3月6日、大善寺の付近で板垣退助率いる迅衝隊が、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊と戦い勝利を収めた(甲州勝沼の戦い)。 

本堂  
本堂は国宝に指定されている。屋根は寄棟造、檜皮葺。平面は桁行(間口)、梁間(側面)とも五間(ここでいう「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。組物は二手先(ふたてさき)とする。堂の北東隅と北西隅の柱にそれぞれ「弘安九年」(1286年)の刻銘があり、この年に立柱されたことがわかる。その後、堂の完成までには長い時間を要し、正応4年(1291年)に上棟、徳治2年(1306年)頃に竣工している (略) 

この本堂は山梨県下に現存する最古の建築であるとともに、建立時期が明らかな中世密教仏堂の典型として、また大仏様の影響がみられる建築の東限に位置するものとして貴重である。

その他の建物  
楼門:元禄17年(1704年)建立  
鐘楼:現在の鐘楼は正徳4年(1714年)に再興された。以前は寛文8年(1668年)の銘が入った鐘があったが、第二次世界大戦の折に供出され、現在の鐘は昭和58年(1983年)に再興された (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/大善寺_(甲州市)

本堂は、国宝で山梨県最古の建造物と言われ、700年程の歴史を持つとの事この寺院の起源と現在ワイ●をふるまっている事から「ぶどう寺」と呼ばれていると言う事。甲斐武田家滅亡の直前に勝頼が宿泊し(以下地図にその痕跡を伺えるスポットも示します)、戊辰戦争では、新選組(≒甲陽鎮撫隊)と板垣退助(迅衝隊)が争った地である事がポイントでしょうか? (大善寺近くの柏尾古戦場跡には、少しぽっちゃり目の近藤勇の像があります) 言い換えれば、長い歴史を刻んだ、ユニークなニックネームを持つ「ぶどう寺」事「大善寺」は、その歴史故、400年続いた甲斐武田家の最後と戊辰戦争の一部(勝沼戦争)に立ち会ってきたお寺」と言う理解をさせて頂きました

また、この周辺は、(「ぶどう寺」ですが…)桃畑も多くあり、春先の桃の花が咲いた様子は、正に桃源郷。少々広範囲になる為、車もしくは自転車(ポタリング)での移動が宜しいと思いますが、こちらの「ぶどう寺」に春先に脚を運んだ際は、美しい桃の花も一緒に見て頂きたいです。写真の通りですが、本当に心洗われる景色が広がっています! また、近くの柏尾古戦場跡別記事で紹介しております、御旗(日本最古の日の丸と言われる甲斐武田家の家宝)を所蔵する雲峰寺、楯無(源氏八領唯一の現存とも言われる甲斐武田家家宝の鎧:原則非公開なのですが…)を所蔵する菅田天神社と併せて、甲斐武田家終焉の地を回ってみてはいかがでしょうか?

【最後に】

以上が、「桃源郷」と「歴史(特に甲斐武田家)」を掛け算で楽しめるスポット:新府城址+大善寺』の周辺の桃源郷(桃畑)も含めた大人散策情報の紹介になります

山梨は果樹王国と言われ、ブドウが有名ですが、桃も有名で、歴史的にも、魅力あるスポットが多々あります。若干知名度は低いかもしれませんが、桃源郷(桃畑)を楽しみつつ、日本の歴史に思いを馳せる事が出来るスポットが、『新府城址@韮崎』+『大善寺@甲州市』と『そのそれぞれの周辺』」だと思っております。桃の花の季節とわせると、季節限定になってしましますが、またその季節以外でも魅力はそれぞれありますが、皆様も機会がありますれば、新府城址@韮崎、大善寺@甲州市に脚を運んで見てはいかがでしょうか?

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