熊本城 明治初期(1874年)の熊本城、富重利平の撮影による

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【はじめに】

こちらのページでは、『旧国宝24城』をまとめ、国宝5天守・現存12天守・現存4御殿も含めた『マトリックス一覧』にまとめさせて頂き、ぞれぞれのお城の現在の位置づけを俯瞰し考察」を加えさせて頂く後編:それぞれのお城編の内容になります(前編:一覧編こちらのリンクよりご参照ください)

前編:一覧編にて、「何処のお城が旧国宝だったのか?」に付き「国宝5天守現存12天守現存4御殿も含めた旧国宝24城」のマトリックス一覧」(個人的なネーミングですが「旧国宝24城」の一覧)を共有させて頂きましたが、こちらのページでは「その一覧で記載したそれぞれのお城」に付き、今少し詳細を記載させて頂きます。故に、こちらでは「その一覧」のみを以下に共有し、早々に「それぞれのお城の概要」に付き記載させて頂きますので、旧国宝24城」に関する考察(妄想)』、並びに『「国宝」と「旧国宝」の違い / 関連』に関する情報は、「前編:一覧編」にてご確認頂けますと幸いです。では早速以下、「その一覧で記載したそれぞれのお城」に付き記載させて頂きますが、かなりの長文の記事である為(約25,000文字…)、上記の「目次」からのリンクを活用しつつ、必要な情報を取得頂くと同時に、詳細記事でそれぞれのお城を記載して折りますので、「更に城郭の情報が欲しい方」・「実際の大人散策をご検討されている方」・「お城だけでなく周囲の情報も知りたい方」等、詳細ページにリンクより飛んで頂き、併せてご参照頂ければ幸いです

【『旧国宝24城』それぞれの概要】

松前城 @北海道・松前 (更なる情報はこちらより)

松前城は「幕末、海防強化の為に費用の捻出が難しい状況下、領民の協力を得つつ築城された『最後期で、且つ北海道内唯一つの “日本式城郭”』」と認識して折ります(石田城(=福江城@五島)が、1863年築城なので、最後ではない認識ですが…)。また「旧国宝指定を受けた天守」は「明治期以降も現存し、戦火も潜り抜けたが、火災で焼失してしまった」と理解して折り、Wikipedia には、以下の様にあります。

(略) 旧国宝指定・天守焼失
(略) 1935年(昭和10年)6月7日、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された (略)
1946年(昭和21年)に国が調査を行い、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになったが、道が資金を捻出できず1949年(昭和24年)度に修理を行うこととなった。この解体修理を始めようとした矢先、火事に襲われる。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出火したものが飛び火して、午前4時には天守と本丸御門東塀を全焼。町民の多くは手を合わせ、涙ながらに落城を見送った (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/観音寺城

「旧国宝に指定され、戦火を潜り抜けたにも関わらず焼失してしまった事」は、少々残念な出来事だったと思いますが、地域の方々に愛され続けたお城で、木造天守の再建が計画されている様でもあるので、近い将来お邪魔し「松前城の歴史に思いを馳せる」と同時に「城郭内から海が見渡せる素晴らしい景色」を堪能したいと思っている次第です。

弘前城 @青森・弘前 (更なる情報はこちらより)

弘前城東北地方唯一で、且つ日本最北にある現存12天守で、2024年時点では『曳家による修復作業中』の認識ですが、『桜の季節(青森なのでGWくらい?)になると、必ずと言って良いほど、天守閣と桜が映し出される(ていた)お城』」と認識して折ります。

幕府への忖度により「三層櫓」として建築されるも、現在は「事実上の天守」として認識されているその構造物は、「外側(城外から見える面)は、1層目と2層目に大きな切妻出窓を設けるなど、装飾性が高い物だが、内側(城外から見えない面)は、非常に地味な作りの天守」と認識して折ります。また二の丸には、いづれも重要文化財らしい「3つの櫓」が現存しており、門も「5つの門」が現存しているようなので曳家による修復作業」が終わったタイミングを見計らってお邪魔したと思っている次第です。

仙台城 @宮城・仙台 (更なる情報はこちらより)

仙台城「東北の伊達者『伊達政宗』が建て、名付けたお城で、別名を『青葉城』と言い、天守はなかったと言われているが『見事な石垣が有名で、江戸期を通じ戦火に巻き込まれる事は無く、戊辰戦争でも戦場にならなかったものの、花火の不発弾の落下や空襲により被害を受けてしまったお城」と理解して折ります。Wikipedia には、以下の様に記載されております。

”(略) 太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門、脇櫓(隅櫓)(当時国宝)、衛兵所に使用中の二の丸表舞台楽屋などが全て焼失し、護国神社も焼失した。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった(この日の戦災で焼失したという説もある)。(略) 1882年(明治15年)9月7日、追廻で行われた西南の役(西南戦争)戦没者招魂祭の花火が不発のまま落ち、その火災により、表舞台楽屋以外の二の丸遺構はすべて焼失。(略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/仙台城

「天守はなかった」認識ですので、仮に空襲の被害を受けなくても『現存天守』の仲間入りはできなかったのでしょうが、数少ない遺構で、且つ旧国宝あった「大手門」・「脇櫓(隅櫓)」等が、第二次世界大戦時の仙台空襲により焼失してしまった事は残念でなりません。現在の仙台城は遺構建造物も少ないですが、その代わり「仙台の抜群の眺め」を堪能できますので、仙台市博物館で黒漆五枚胴具足等を拝見する事と併せて、大人散策を楽しみ、伊達者『伊達政宗』に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

松本城 @長野・松本 (更なる情報はこちらより)

松本城現存12天守であると同時に、国宝5天守の1つでもあるお城で、武田信玄が抑えていた頃の昔は『深志城』と呼ばれ、徳川の家臣であった石川数正が、豊臣に出奔した後に(現在の形に)築城を開始したお城」と理解して折ります。また、松本城のHPには以下の様にあります。

松本城天守群は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳付櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されています。大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳付櫓と月見櫓が複合された、連結複合式の天守です。

これらの天守群は、昭和4年(1929年)に指定された「国宝保存法」により、昭和11年(1936年)4月20日国宝に指定されました

https://www.matsumoto-castle.jp/

「大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳付櫓・月見櫓」の五棟で形成された「複合連結式天守群」。「この規模の天守群」が、江戸期の初めから「400年程と言う長い歴史」を重ね、「現代まで維持」されてきたて来たのであれば、『国宝にふさわしい!』と思うのは、私だけではないと思いますがいかがでしょうか?

同時に、明治期頃に天守が傾いた際には、保存会が出来、改修を行った歴史を持つ松本城。こういった「地域の方々の支えであり愛情」が、松本城を守り、国宝に押し上げている要因」である事、疑う余地はありません。言い換えると松本城が国宝である本当の理由は、地域の方々の松本城に対する愛情!」と思っている次第です!

金沢城 @石川・金沢 (更なる情報はこちらより)

金沢城「加賀100万石、前田氏の居城だったお城で、隣接する兼六園も有名で、よく金沢城を紹介する映像・画像で出てくる『菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓』は、美しく、芸術性さえ感じさせるお城」と理解して折ります。また、1602年の落雷により天守を焼失した後、徳川に配慮して再建されていない認識ですが、「石川門」(虎口全体?)が、旧国宝に指定された認識です(現在は、国の重要文化財の認識)。

空襲による建造物の焼失はなかった認識ですが、江戸期には、寛永の大火・宝暦の大火・文化の大火等で何度も火災に見舞われた歴史を持つお城の様で、その中でも生き残り旧国宝(現在は重要文化財)に登録された「石川門」を始め、現在みられる建造物は芸術性が高く、火災に基本関係ない石垣をマジマジと拝見できる魅力的なお城だと認識しております。しばらく脚を運んでいないので、前回訪問時はまだ工事中だった「玉泉院丸庭園」を、日本三名園の1つに数えられる「兼六園と併せ、また脚を運びたいと思っている次第です。

丸岡城 @福井・坂井 (更なる情報はこちらより)

丸岡城北陸地方唯一の現存12天守で、別名を『霞ヶ城』と言い、現在の天守は、『1948年の福井地震で倒壊してしまった後、多くの倒壊した部材を再利用し、修復再建』された歴史を持つお城」と理解して折ります。個人的には、そのフォルムから「最古の天守は、犬山城丸岡城だろう!」と思っていたので、昨今「江戸期の初めに建てられた天守(「1624年-1644年」or「1628年」?)」と言われる様になった事は少々残念ですが、丸岡城の価値に変わりは無く、逆に「築城年がある程度見えてきたのなら、国宝でいいのでは?」と思ってしまってる昨今です。ちなみに Wikipedia には以下の様にあります。

(略) 天守
北陸地方で現存する天守は丸岡城のみである。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれていたが、福井県坂井市教育委員会の調査で江戸期の寛永年間(1624 – 44年)に建造されたことが判明し、同委員会が2019年3月26日に発表した。
現在見られる天守は、1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊した後、1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものである  (略)
屋根瓦には越前国で産出される笏谷石製の石瓦に変更されたのは寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/丸岡城

丸亀城内における見所は、「珍しい『笏谷石製の石瓦』の屋根」、「現存する『野面積の天守台』そして勿論『一旦地震で倒壊したが「部材を70%以上再利用して組み直して修復再建された天守」』と理解している次第です。また、折角「福井まで脚を運ぶ」のであれば、福井城・一条谷・越前大野城(出来れば雲海に浮かぶお城を拝見したい!)・東尋坊等も巡って「福井を満喫」したいと思っている次第です。

犬山城 @愛知・犬山 (更なる情報はこちらより)

犬山城 現存12天守のうちの1つであり、且つ国宝5天守でもあるお城で、つい最近まで個人所有であったが、現在は元々の所有一族・成瀬氏が理事長を務める法人が所有するお城」と言った理解をしています。言い換えますと、成瀬氏は「犬山藩最後の藩主」の家柄なので、現時点(2024年)、成瀬淳子氏が理事長を務める財団法人犬山城白帝文庫の所有という事になりますが(引継ぎ元は成瀬淳子氏)、「現代の姫君が守るお城が『犬山城」と言う理解になる訳です。

そんな犬山城、実際にお邪魔して思った事は、「城下町から見た天守、木曽川越しに見た天守、凛とした佇まいが、季節を通じて美しく『国宝にふさわしい!』と言う物です。城下町も風情があり、麓の神社には、千本鳥居的なものがあり「日本らしい風情を醸し出していて素敵!」の一言です。やはり国宝・犬山城は、現存12天守 & 国宝5天守 の天守は勿論、その周辺環境・その歴史も含め、楽しむべきだと改めて思った次第です。名古屋からも十分アクセス圏内の認識なので、犬山市内の「明治村」もいいですが、名古屋城」と併せて大人散策を楽しむべきと思った次第です。

名古屋城 @愛知・名古屋 (更なる情報はこちらより)

名古屋城織田信長の生誕地とも言われ、また徳川家康が「豊臣を警戒」して計画したお城と言われ、その城郭は日本三名城の1つに数えられ、戦前まで天守は現存していたが、戦災により焼失してしまい、現在は外観復元の天守を見る事が出来、ちょっと前に本丸御殿が復元されたお城」と理解して折ります。つまり「明治に入った時点で、天守は現存していたが、空襲により、大天守・小天守・東北隅櫓や正門を含む多くの門が焼失」してしまった認識です。Wikipedia には以下の様にあります。

”(略) 大小天守と櫓や門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが1945年の名古屋大空襲で大部分を焼失した(西南隅櫓など6棟は焼失を免れて現存している)。戦後に天守などが鉄筋コンクリートで外観復元され、城跡は名城公園として整備されている (略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/名古屋城

日本を代表する城郭である名古屋城熊本城姫路城と並び、近世城郭の代表例言われているようで、戦災で燃えてしまったのは、非常に残念ですが、今尚、城郭全体・天守の巨大さを感じる事が出来、実際に訪れてみると「尾張名古屋は城で持つ」とは、うまい事をいった物だと思った次第です。計画当初は、豊臣家健在の為、総構の構想まであったらしいですが、大坂の陣を経てその計画はなくなったと言われている名古屋城。昨今は、本丸御殿が再建されていますので、二の丸庭園と併せて大人散策を楽しむべきだと思いますし、上記の「犬山城」・「三種の神器・草薙剣をご神体とする『熱田神宮』」・「尾張徳川家の庭園『徳川園』」等の大人散策スポットも併せて巡るべきだと思う次第です。

二条城 @京都 (更なる情報はこちらより)

二条城「元々は、徳川家康が、将軍宣下の祝賀儀式、並びに京都滞在時の拠点として築城した事に始まるお城で、家康家忠・家光と利用しているが、それ以降は14代の家茂まで『将軍として誰一人二条城を利用しておらず、15代慶喜の時に “大政奉還” が言い渡されたお城』で、現在では、現存4御殿の中で『最大規模と高い格式』を誇る二の丸御殿も有名な城郭」と理解している次第です。言い換えますと「『江戸じゃないのに、江戸時代の始まりと終わりを見届けたお城』が『二条城』」と言う理解をしている次第です。

明治に入った時点で天守は無く、一方で現存4御殿二の丸御殿が旧国宝に指定(現在(新法)においても国宝ですが…)された」認識ですが、それよりも『ここ二条城は、家康の将軍宣下」や「家康・秀頼の会見」、「大政奉還」といった歴史的な事象があった空間という事で、『大政奉還の意思表示が二の丸御殿で行われて、その同じ空間に脚を運ぶ事ができるのは、歴史好きの人にとっては、たまらない空間』だ思う次第です。「芸術性が高く、格式も高い雰囲気を感じつつ、上記の様な歴史の大イベントに思いを馳せつつ大人散策できる空間が『二条城・二の丸御殿』」。天守台もあり、二の丸庭園も有名なので、併せて二条城二の丸御殿をじっくり大人散策してみてはいかがでしょうか?

二条城二の丸御殿(の様子 (一部写真Wikipediaより)

姫路城 @兵庫・姫路 (更なる情報はこちらより)

姫路城現存12天守で、国宝5天守でもあり、日本三名城であり、三大平山城であり、三大連立式平山城の1つでもあるが、何より『世界遺産のお城』で、西国将軍と言われた池田輝政による大改修の為、池田氏のお城のイメージが強いが、戦国時代には、羽柴秀吉黒田孝高(官兵衛)等も居城としていた時期もあり、あの有名な「中国大返し」の舞台の一つ(行軍路)になったお城」と理解して折ります。言い換えれば、「現在、日本を代表する城郭が『姫路城』」と言って良いと思っている次第です。そんな姫路城、Wikipedia には以下の様にます。

(略) 1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、最上階南側の薄い窓板を貫通して横滑りするように、最も衝撃が小さく、爆発しにくい角度で城内に入り込んだため、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた (略) 翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/姫路城

「姫路空襲で、大天守にも焼夷弾が直撃したものの “不発” であった」・「翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て姫路市民は涙したこういった記載を拝見してしまうと、姫路城は「地元の方々」は勿論の事「神」にも愛された城郭であると思わざる負えないと思ってしまった次第です。実際に「様々な角度で、国宝天守を堪能する、②できる限り多くの国宝・重要文化財を拝見する、③石垣も楽しむ、④好古園にも脚を延ばす」といった計画で姫路城の大人散策を遂行させて頂き、計画通り姫路城を堪能させて頂きましたが、その道中、出てくる言葉は「すごい!」の一言。自身のボキャブラリーの無さを痛感する部分もありますが、それ以上に『「すごい!」と言う言葉以外が見つからない』と言う感じでした。皆様も、現存12天守で、国宝5天守でもあり、日本三名城であり etc… の『世界遺産・姫路城を満喫してみてはいかがでしょうか?

和歌山城 @和歌山 (更なる情報はこちらより)

和歌山城「江戸期の将軍として、吉宗・家茂の2名を輩出した徳川御三家・紀州藩の居城として日本三大連立式平山城の1つに数えられているお城」と理解して折ります。また、「明治維新後も『天守や多くの櫓群(11棟?)は残っており、旧国宝に指定された』が、太平洋戦争末期の和歌山大空襲で全て焼失しまった歴史を持つお城」とも理解ている次第で、Wikipedia には以下の様にあります。

(略) 1931年(昭和6年)に国の史跡に指定され、1935年(昭和10年)には、天守など11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし、1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により天守などの指定建造物11棟すべてを焼失した。
1957年(昭和32年)、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定された。 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/和歌山城

まだお伺い出来ていない和歌山城ですが、さすが徳川御三家・紀州藩の居城と言う事で、姫路城松山城(伊予国)と並んで日本三大連立式平山城の一つとされる天守群は、かなりの “見ごたえ” がありそうな印象を受けます。太平洋戦争で、天守群を含む多くの遺構が焼失してしまった事は、非常に残念な事ですが、忠実に復元されれていると推測できる「天守群」や「御橋廊下」、戦火を潜り抜け現存する「岡口門と土塀」等の遺構は、和歌山城を大人散策するうえで、外してはいけないポイントになると思われ、時代によって違った積み方が見れるらしい石垣と共に、広い城郭を楽しみたいと思った次第です。

松江城 @島根・松江 (更なる情報はこちらより)

松江城現存12天守で、国宝5天守でもあり、日本三大湖城の1つでもあるお城で、明治期の初め廃城令により解体に危機があったが、地元住民により天守のみは解体を免れたお城」と理解して折ります。同時に、「正確な天守の完成年度が不明であったが『祈祷札の釘穴』によって、これが証明され、国宝天守になった」と言った逸話も有名な認識で、松江城のHP(https://www.matsue-castle.jp/)には以下の様にあります。

(略) ■ 奇跡の発見!松江城天守、国宝へ 

松江城では松江城天守が完成した年に祈祷に使われたと思われる「祈祷札」が再発見された。しかし天守外の蔵から見つかり、札にも「松江城天守」と書いてあるわけではない。天守のものであると証明がなかったが、証明できれば天守の完成年がわかる大きな発見となる。さてどうやって証明をするか、研究者たちが頭を悩ませながらも暗い天守内を懐中電灯で照らしながら手掛かりを捜索するなか、地階の井戸脇の柱に小さな穴が見つかった。この小さな穴と、祈祷札についた釘穴がなんとぴったり一致した。小さな穴が松江城天守国宝化への大きな影響を与えたというから驚きである (略)

https://www.matsue-castle.jp/

つまり「祈祷札についた釘穴が、なんとぴったり一致」した事で、松江城は、国宝天守になった」という事の様です(簡単に言い過ぎかもしれませんが…)。この他にも「崩れ落ちる石垣・人柱伝説・盆踊りの禁止・ギリギリ井戸」と言った様々な逸話があるらしい松江城。まだお邪魔できていませんが、国宝5天守である城郭」そのものは勿論魅力的で、是非じっくり拝見させて頂きたいと思うと同時に、「様々な逸話」にも思いを馳せつつ、現在の城郭と併せて大人散策を楽しむべきだと思った次第です。

備中松山城 @岡山・高梁 (更なる情報はこちらより)

備中松山城現存12天守の1つで、その中でも唯一の山城(江戸期を通して残った珍しい山城 ;戦国期から江戸期にかけて山城は利便性を欠く為、かなりの数がなくなっていった)であり、タイミング次第で雲海に浮かぶ様に見える天守は『天空の城』としても有名で、二重櫓等も現存していてお城」と言う理解をしています。同時に「『猫城主・三十郎』に会えるお城」と言った理解もしている次第ですが、それはさておいて、Wikipediaには以下の様にあります。

松山城(まつやまじょう)は、岡山県高梁市内山下にあった日本の城(山城)である。別名、高梁城(たかはしじょう)。各地にある同名の城との混同を避けるため、一般的には備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)と呼ぶことが多い。日本100名城の一つ。現存天守12城の一つでもあり、この中で唯一の山城である (略)

雲海
竹田城(兵庫県)のように時期や条件などが合えば雲海に浮かぶ姿が見られ、その姿は天空の城と称される。本丸とは離れた位置にある雲海展望台(雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台)から見ることができる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/松山城_(備中国)

実際の訪問は、かつての城下町と認識する「石火矢町 ふるさと村」付近から徒歩で「備中松山城」まで参らせて頂きました。麓から本丸までは、それなりの山道で、夏の暑い盛りでしたが、1時間ちょっとで行く事が出来ました(汗だくでしたが…)。城郭は、「ダイナミックな石垣」や「城内からの眺望」も含め中々のもので、備中松山城の城郭は勿論の事、ハイキングとしても楽しめた次第です。麓の「石火矢町 ふるさと村(天柱山 頼久寺含む)の散策も興味深い大人散策」でしたので、皆様も、もし備中松山城にいらっしゃる機会が有るのであれば「火矢町 ふるさと村(天柱山 頼久寺含む)」含めて大人散策を楽しむべきと思った次第です。

岡山城 @岡山 (更なる情報はこちらより)

岡山城「『日本三名園の1つ・岡山後楽園』が隣接する、宇喜多氏⇒小早川氏⇒池田氏と続いた歴史』を持つお城で、明治になると廃城令により順次建物が取り壊され、明治中頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなり、1945年の岡山大空襲で現存していた天守・石山門も焼失してしまったお城」と言った理解をしております。Wikipedia には以下の様にあります。

(略) ■ 明治時代以降 (略) 
・明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった  (略)

昭和時代 (略)
・1945年(昭和20年) – 6月29日の岡山大空襲で天守・石山門を焼失。
・1950年(昭和25年) – 文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定。
・1964年〜1966年(昭和39年〜昭和41年) – 天守を鉄筋コンクリートにて再建 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/岡山城

明治期の廃城令を潜り抜け、天守が旧国宝に指定されたたにも関わらず、戦火で焼失してしまった事、本当に残念だと思う一方で、2つの櫓(月見櫓・西之丸西手櫓:国の重要文化財)が残った事は、幸いだったとも思う次第です。実際に岡山城に参らせて頂くと、天守と共に焼失した石山門の石垣が赤くなっており「空襲による焼けた痕跡」との説明が現地の説明看板にはなされており、悲しい歴史を感じてしまいますが、再建された天守は立派の一言。戦火を潜り抜けた「月見櫓・西之丸西手櫓」・「日本三名園の1つ・岡山後楽園」と併せて大人散策を楽しむべきだと思う次第です。

福山城 @広島・福山 (更なる情報はこちらより)

福山城「江戸期の初めに、徳川家康と関連深い(従兄弟?)水野氏が入った事に始まるお城で、天下普請に近しい名目で築城されたその天守は「層塔型の天守」として、立派な石垣と併せ有名だったと言われ、 “慶長期に発達した城郭建築技術の完成形” とまで言われたお城」と理解して折ります。同時に「福山大空襲によって、その天守は焼失してしまった」とも理解して折り、Wikipedia には以下の様にあります。

(略) ・明治維新 – 福山大空襲 (略)
明治6年(1873年)の廃城令により廃城となり、ほとんどの施設は民間に払い下げられ、建物は建築資材として売却・解体され天守、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓、などを残すのみとなり、本丸を除いた敷地のほとんどが売却され宅地や農地などに転用された (略)
昭和になると福山城の文化的価値が再評価され、昭和6年(1931年)に天守が、昭和8年(1933年)には伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に、昭和11年(1936年)には本丸が史跡に指定された (略)
しかし、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月8日、米軍の空襲(福山大空襲)により天守、御湯殿、涼櫓など城下に残る多くの文化財と共に焼失した (略)

天守
(略) 極めて規則的な構造を持ち“層塔型”の形式を体現するかのようにそびえ立つ福山城の天守は慶長期に発達した城郭建築技術の完成形といえるものである (略)
福山城天守は廃城後も破却を免れ昭和6年(1931年)には天主建築の最終完成形として高く評され現在も残る姫路城天主や松本城天主などと同時に国宝に指定される。しかし、昭和20年(1945年)の福山大空襲で焼夷弾2発が命中して焼失した (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/福山城_(備後国)

「天守・伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿」が旧国宝に指定されたにも関わらず、福山大空襲によって「伏見櫓・筋鉄御門」を残して焼失してしまったとの事。 “慶長期に発達した城郭建築技術の完成形” とまで言われた天守」の実物を是非拝見したかったと思う次第ですが、今となってはそれも叶わず、残念としか言いようがありません。まだ未訪問の福山城、訪問できた暁には、空襲を潜り抜けた「伏見櫓・筋鉄御門」復元天守」か「復興天守」かで見解が分かれている部分もあるらしいですが、 “慶長期に発達した城郭建築技術の完成形” とまで言われた「再建天守をじっくり拝見させて頂きたいと思う次第です。

広島城 @広島 (更なる情報はこちらより)

広島城「元々は、毛利元就が、安芸国守護・武田氏を滅ぼし & 厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利した事で、毛利氏によって『最も地(=広島?)』に築城されたお城で、またの呼び方を『鯉城(りじょう)』とも言い、明治以降も残った天守は旧国宝に指定されたが、太平洋戦争末期の原爆投下により崩壊してしまった歴史を持つお城」と理解して折ります。Wikipedia には以下の様にあります。

(略) ・太平洋戦争末期 (略) 
太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた (略)
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった。ここは爆心地からほぼ1キロメートル離れたところに位置した。 建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失している。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/広島城

軍事施設が集中していたことから、破壊目標となってしまった広島城原爆投下により、多くの遺構が崩壊してしまった事は非常に残念ですが、それ以上に原爆によって被災し、長きにわたって苦しまれた方々の事を思うと、本当に悲しい気持ちで一杯になってしまいます。言い換えれば、広島城に訪問する際は、広島城の歴史に思いを馳せると同時に、「原爆ドーム」・「平和記念公園」にも脚を運んで、この地域の悲しい歴史にも思いを馳せ、未来の平和を祈願する事も併せて実施させて頂くべきだと改めて思った次第です。

高松城 @香川・高松 (更なる情報はこちらより)

高松城「江戸の初め、生駒氏により治められていた地に築城が開始されたが、改易により松平氏が入り完成に至った海城で、日本三大水城(海城)にも数えられ「月見櫓・水手御門・渡櫓」、「艮櫓」が旧国宝に指定され、現在も重要文化財として現存する遺構を拝見できるお城」と理解して折ります。Wikipedia には、以下の様にあります。

(略) 近現代
1869年(明治2年) – 版籍奉還に伴い廃城となる。
1884年(明治17年) – 老朽化のため天守が破却される (略)
1945年(昭和20年) – 高松空襲により三の丸の桜御門が焼失
1947年(昭和22年) – 旧国宝保存法により北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、東の丸艮櫓の4棟が当時の国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
1950年(昭和25年) – 文化財保護法の施行により北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、東の丸艮櫓が重要文化財に指定される (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/高松城_(讃岐国)