岡山後楽園

【はじめに】

こちらのページでは、日本三名園の1つ、岡山後楽園の概要と庭園の魅力(見所)に付き記載させて頂きます

とは言っても、実は、私達夫婦はまだ岡山後楽園にお邪魔した事がありません。関東圏の埼玉・川越居住で「距離がある」と言う事もありますが、これまで「岡山には仕事でもあまり縁がなかった」為、熊本・水前寺成就園高松・栗林公園の様に、出張の際に早起きしたり、移動時間の合間を探して訪れる機会がなかったと言う事です。

しかし、日本三名園に選ばれる、岡山後楽園。天守を借景にした、美しい芝と池泉の雄大な景観は、写真やテレビで何度も拝見しており、「いつかお邪魔したい庭園の1つ」です。こちらのページでは、その岡山後楽園に付き、今後の訪問を見据えた前段階の調査として、その概要や魅力(見所)を調査し共有させて頂こうと思います

【岡山後楽園の概要と見所】

まずは、岡山後楽園の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia の「後楽園」の項目には、以下の様にあります。

後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、日本三名園のひとつである。江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。面積は14.4ha。  

概要  

後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/後楽園

江戸時代の初めに、池田剛政によって、14年かけて作られた庭園」と理解させて頂きました。何処のテレビ局だったか忘れましたが、岡山後楽園の紹介をしている番組がありその中で、岡山後楽園の魅力を知りました。一言一句覚えている訳ではありませんが、以下の様に記憶しております。

「岡山後楽園の魅力は、(時には洪水で苦しめられた)豊富な水を利用した、曲線が美しい『曲水』と『手入れされた芝』の『コントラスト』。そして、それらを調和させる『天守の借景』。夜間、天守を借景にした水と芝の調和のとれた雄大な姿に月が浮かぶ様は、日本三名園における『雪月花』の『月』の風情を見事に表現しており、日本を代表する庭園である。また、瀬戸内海から運んだと言われる「巨石」も見所の一つで、「あまりに大きすぎたので、一回割ってから運び、再度現地で組みなおした」と言われているので、その痕跡も含んで楽しんでほしい」

確かに、岡山後楽園をテレビや写真で拝見すると、雄大と言えるその景観は非常に魅力的流店の中を流れる水は、適切に配置された石と共に日本人好みの風情がある空間だと思います。元は藩主の居間として作られた、延養亭(戦後の再建の様ですが)も風情があり、桜やツツジ、アヤメにハス、紅葉と1年を通じて植栽も楽しめる空間。訪問しない理由はない程魅力的ですが、まだ訪問できていないので、様々想像してしまいます。同時に、実物は見ずとも、これだけ楽しめる岡山後楽園は、やはり日本三名園の1つだと改めて思った次第です。

【岡山後楽園の歴史】

上記、岡山後楽園の概要と見所を抑えましたので、その歴史も抑えさせて頂きます。同じく、Wikipediaの「後楽園」項目には、以下の様にあります。

(略) 築庭の経緯  

現在、後楽園から旭川を隔てて南にある岡山城は1597年(慶長2年)、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主であった宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城したものである。この時、旭川を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えたのである。これにより、城と城下町の防御は強固なものとなったが、あまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになる。  

藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと移り変わり、4代目の池田綱政の治世となる (略)   池田家史料によると、1687年(貞享4年)12月に着工し(鍬始め)、翌1688年(元禄元年)には本格的な土木工事にとりかかり、次々と園内の建造物や植栽が完成していった。藩主・綱政は岡山在城中に足しげく庭園に通い、工事開始4年後の1691年(元禄4年)には、完成したばかりの延養亭で綱政が永忠ら工事に携わっている家臣の労をねぎらって園内で宴を催していることからも、この時点で綱政が満足できる出来栄えになっていたとみられる。途中、洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後も庭園の拡張や新たな施設の建築が行われ、1700年(元禄13年)に一応の完成をみる。  

なお、庭園は工事が始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていたが、1695年(元禄8年)頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになった。 

幕末まで  

(略) 御後園には藩主が岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待していた。御後園で岡山藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末になってからで、1830年(天保元年)と1838年(天保9年)に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録がある。また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていた。  

明治以降  

1869年(明治2年)の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の手に渡った。翌1870年(明治3年)11月に御後園は再び岡山藩の所有となり、1871年(明治4年)2月7日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放した。この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めた。しかし、それまで池田家の居住していた岡山城が兵部省管轄下になり、居住場所を失ったため、同年7月14日には嶺泉院(9代藩主・池田斉敏夫人)、10代藩主・池田慶政夫妻らが後楽園に移住することとなった。   

その後、1882年(明治15年)に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地は無償で、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診した。1883年(明治16年)12月22日から27日にかけて開催された県会では反対派の議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり、後楽園買収の議案はいったん否決されたものの、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討した結果、1万2500円で買い取ることを決定した。

後楽園はこの後、岡山県庁の付属地として扱われ、1884年(明治17年)に一般に広く公開されるようになり、「日本三名園」の一つとして挙げられ多くの人々で賑わっていた。こうして明治以降も江戸期の姿をそのままにとどめていた後楽園であったが、太平洋戦争中の1940年代前半には食糧事情の悪化に伴い、園内の芝生部分がイモなどの畑に転換され、さらには1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲により、延養亭など江戸期から残されていた園内の建造物の多くが焼失した。    

終戦後の1947年(昭和22年)頃には進駐軍の宿舎として使用され、園内には花葉の池の北に25メートルプールが造られていた。進駐軍の撤退後は再び岡山県の所有となり、およそ2億円の費用を投じて園内を本来の景観に復元1954年(昭和29年)6月1日からは有料として一般に公開されるようになった。1967年(昭和42年)に園内の全ての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻した  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/後楽園

個人的には、岡山と言えば、戦国期は宇喜多氏で、江戸の初めは、関ヶ原の戦いにおいて、戦局を大きく動かした小早川氏のイメージが強く、池田氏のイメージは、現在の国宝・姫路城を築城した池田輝政その輝政から3代後・池田家宗家の当主が綱政(備前岡山藩主)と言う事になる様です(綱政は、輝政の玄孫)。その綱政が、江戸時代の初めに折角作った岡山後楽園ですが、藩主は利用していたようですが、中々表舞台には出てこなかった様で、同じ「後楽園」の名を持ち、政治的にも利用されたと言われる東京の「小石川後楽園」とは全く違った様です。

つまり、「江戸期は幕末まで、『幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には後楽園は用いられず、すべて岡山城内で接待』していた様で、『幕末』になって『島津氏をもてなし』、『日を決めて藩内の人を対象に公開した』」様です。明治になると時代の変遷と共に紆余曲折あり、岡山県庁と付属地として公開され「日本三名園」の一つとして多くの人々で賑わっていた様ですが、戦時中は、様々な影響を受け『庭園ではなく軍事に関連するエリア』となってしまった様です。しかし戦後、建物の復元もなされ、一般公開され、再びその雄姿を見れるようになった」と言う事と理解しました。

庭園としては、300年以上の歴史を持つ庭園ですが、江戸期には幕府の監視があり、明治期になると時代の流れに、昭和の戦中期は戦争に翻弄され、それでもこの美しい雄大な景観が、1967年(結構最近?)に復元され、現在楽しむ事が出来る庭園が『岡山後楽園』」と理解させて頂いた次第です(一般公開は「70年ちょっと / 300年」(300年分の70年ちょっと)と言った所でしょうか…)。

【最後に】

以上が、岡山後楽園に付き、今後の訪問を見据えた前段階の調査として、その概要や魅力(見所)を調査し共有させて頂いた内容になります。

上記の様な、波乱万丈の歴史をもつ、300年以上そこにあり続けた岡山後楽園。その歴史を思いを馳せつつ眺める、そして散策する庭園は、どれほどの感慨にふける事が出来る大人散策になるだろうと思うと、チャンスをみつけ是非とも訪問させて頂きたいと、改めて思った次第です。訪問できた暁には、こちらのページで改めて見所や感想の更新をさせて頂こうと思います!

【2024年10月追加情報】

上記、概要と大人散策プランを記載させて頂きました『岡山後楽園』ですが、2024年9月、お邪魔させて頂く事がきました! (個人的ですが)岡山後楽園の代名詞と認識している「岡山城を借景とした景色」・「曲水の美しい佇まい」・「迫力の巨石」・「流店/延養亭/鶴鳴館と言った建造物の情緒ある佇まい」等大満足の庭園訪問になった次第です。本ブログ別ページにて、その時に撮影した写真と含め「岡山後楽園・大人散策の様子」を共有致します。併せてご参照頂けますと幸いです! 

こちらのリンクよりどうぞ!:岡山後楽園・大人散策の報告ページ

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