上越観光NaviのHP 春日山城https://joetsukankonavi.jp/spot/detail.php?id=133

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【はじめに】

こちらのページでは、「『日本五大山城 / 日本五大山岳城とは?』という事で、『どこのどんなお城が、日本五大山城 / 日本五大山岳城なのか?』につき紹介」させて頂こうと思います

そもそもですが、皆様は「日本五大山城・日本五大山岳城」なるワードを聞いたことはありましたでしょうか? 私の場合は、正直、つい最近まで存じ上げませんでした。一方で、本ブログでも紹介させて頂きました「日本三大山城」なるワードは存じ上げており、日本三大山城に数えられる「備中松山城」(現存12天守の1つでもありますが…)・「高取城」・「岩村城」につては、詳細記事も含め、それぞれ記載させて頂きました。私の故郷山梨にも、有名どころでは、武田信玄を含む甲斐武田家三代(信虎信玄勝頼)の居城・躑躅ヶ崎館(=現武田神社)の詰城と言われる「要害山城」と言われる山城があり、海なし県の山梨北杜出身で埼玉川越居住の私にとって「山城」は、「親近感を覚えるお城の形」であり、「好きなタイプのお城」である訳ですが、「日本五大山城・日本五大山岳城」なるワードは存じ上げず、上記「日本三大山城(備中松山城高取城岩村城)」の記事を作成している最中に偶然出会った次第です。

こちらのページでは、そんな偶然出会ったワード「日本五大山城・日本五大山岳城」に付き記載いさせていただきます。すなわち「日本五大山城 / 日本五大山岳城とは?』という事で『どこのどんなお城が、日本五大山城 / 日本五大山岳城なのか?』につき紹介」させて頂こうと思います

【「日本五大山城」 / 「日本五大山岳城」とは?】

まずは、日本五大山城・日本五大山岳城の概要から抑えていくようにいたします。「日本五大山城・日本五大山岳城」とは、以下のお城をそれぞれ指すようです。

本ブログでは様々な「日本三大〇〇」を取り上げてきました。勿論すべてではありませんが、お城系では、「三大連立式平山城」「三大平山城」「三大水城(海城)」「三大湖城」というものがあれば、神社お祭り系では、「三大八幡」「三大東照宮」、(ちょっと違うかもしれませんが…)「三大怨霊」「三大曳山祭/山車祭」といったものがあり、更には「三大奇襲」「三大河川」「三大暴れ川」なんていう様々な「日本三大〇〇」があります。つまり申し上げたい事は、上記に記載した「日本三大山城」は、『多くある「日本三大〇〇」の1つに過ぎない…』という事です。そしてそんな「日本三大〇〇」とは別に、更に日本五大山城・日本五大山岳城なるくくりも出てきてしまっている訳で、もはや「基準は?」、「いつ頃から言われだした?」、「最初にこれを唱えた人は?」といった情報は、特定するのが難しいと思っている次第です。

しかし、想像する事は自由です。「と言う訳で…」ではありませんが、上記「日本三大山城」に挙げられる「備中松山城高取城岩村城」と「日本五大山城・日本五大山岳城とに挙げられる「春日山城月山富田城観音寺城七尾城小谷城八王子城」をいくつかの切り口とともに、マトリックスにまとめてみました…。ここから見て取れる事は、以下の様になりました。

また「山城」と「山岳城」の違いについては、「山」と「山岳」を調べてみますと以下の様にありました。

やま【山】: 陸地の表面が周辺の土地よりも高く盛り上がった所 (略)

https://dictionary.goo.ne.jp/word/山_%28やま%29/#jn-222564

さん‐がく【山岳】 :陸地の表面が著しく盛り上がった所。高く険しい山が連なったり、より集まったりしている所 (略)

https://dictionary.goo.ne.jp/word/山岳/

併せて理解すると『「山岳」は、「山」と基本同義語であるが、特に「山が連なったり、より集まったりしている所」との理解が出来、山城=山にあるお城」、「山岳城=山城であるが、特に「山が連なったり、より集まったりしている地形にあるお城」』と理解した次第です。

が…、それぞれのお城の周辺も含めた地形図(地理院のHPより)を見てみますと、以下の感じで、春日山城月山富田城七尾城八王子城は、「山岳城(もちろん山城とも)」と言って良い地形に見えますが、観音寺城小谷城は(特に観音寺城は)、独立性の高い山の地形に築かれたお城に見え「山城 > 山岳城」に見えてしまいました…。言い換えますと、「小谷城=五大山城の1つ、八王子城=五大山岳城の1つ」が、日本五大山城・日本五大山岳城における唯一の違いにもかかわらず、独立性の高い山の地形に築かれた観音寺城が「日本五大山城 & 日本五大山岳城」という事に違和感を持ってしまった次第です…。更に言ってしまうと、日本五大山城春日山城月山富田城観音寺城七尾城小谷城(変わらず)、 日本五大山岳城春日山城月山富田城七尾城小谷城八王子城(観音寺城小谷城を入れ替え)」の方が、しっくりくると思ってしまった次第です…。

上記、勝手な考察を加えてしまいましたが、皆様はどお思われましたでしょうか? しかしどの様に勝手な考察をしても、現状言われている事は、以下です。

故に、以下の内容で “勝手に” 理解する事にしました。

日本五大山岳城」と言う「新しいくくり」を考える際、既にあった江戸期以前に築城された「日本五大山城」というくくりベースにしたが、観音寺城は、信長も見本にしたと言われ、日本のお城におけるエポックメイキング的なお城である「安土城」のベースとなる「総石垣の見せるお城」の代表例という事もあり(安土城のお隣にあるお城でもあり…)、日本五大山城」からも、「日本五大山岳城」からも外すことはできなかったので、その代わりとして、比較的観音寺城の近くにあり、独立した山の地形に築城された様にも見える小谷城を「日本五大山岳城」から外し、その代わりに(地域的なバランスを取る意味でも)、関東圏の「八王子城」を加える事で、日本五大山城」の新規版の「日本五大山岳城を設定した

勝手な妄想をさせて頂きましたが、皆様はどう思われましたでしょうか?

【具体的な「日本五大山城」 / 「日本五大山岳城」】

上記、勝手な考察をさせていただいた「日本五大山城・日本五大山岳城」ですが、こちらのパートでは、それぞれのお城の概要を見て行きたいと思います。尚、大人散策情報を踏まえた詳細記事も別記事で紹介しておりますので、それぞれのリンクより、併せてご参照頂けますと幸いです。

春日山城 (日本五大山城 & 日本五大山岳城)

武田信玄のライバルとして、川中島で死闘を繰り広げた上杉謙信の居城として有名な春日山城。以下にその概要を記載いたします。

  • 春日山城は、春日山にあった山城で、日本五大山城 & 日本五大山岳城の一つであり、別名を鉢ヶ峰城ともいう
  • 国の史跡に指定されている日本100名城の1つでもある
  • 春日山山頂に築かれ、天然の要塞に建つ難攻不落の城とされ、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされるらしい
  • 「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請した麓にある「春日神社」に由来しているらしい
  • 戦国武将上杉謙信の城として知られ長尾為景、長尾晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の四代の居城となった
  • 上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るのに不便として、1607年に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城はその役目を終えたと言う事で、春日山城の歴史としては、1500年位~1600年位の100年位の歴史になる理解
  • 確証はないが、近くにある林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門(春日山城で最も古い建築物かも)を移築したものであると言われているらしい
  • 多くの絵図には石垣や天守閣などが描かれているが、ほとんど空想と言われているらしい

実際にお邪魔した事は無く、電車の中から「この先が春日山城かー」と思ってみていただけなので、その規模感を実感できていませんが、上越観光NaviのHP(https://joetsukankonavi.jp/pamphlet/)にあったパンフレットを拝見すると、かなりの規模感のお城の様で、隅々まで回ろうとすると、春日山城だけで、少なくとも2-3時間程度はかかりそうな印象を持った次第で、「さすが『日本五大山城&日本五大山岳城』の『春日山城』!」と思いました。同時に、「『敵に塩を送る』の逸話でも有名な、ライバル武田信玄の居城・躑躅ヶ崎館(=現武田神社)と比べると、その規模は圧倒的に大きく、躑躅ヶ崎館と少し離れた所にある詰城の要害山城を併せた感じの規模感かな…」と想定した次第です(麓の春日山神社から本丸まで行って、戻ってくるだけなら、2時間かからないくらいだと思いましたが…)。

また、春日山城は、謙信前後の長尾/上杉氏4代・100年程度のお城と言う事で、同じく「ライバル・武田信玄の居城・躑躅ヶ崎館よりも、少しだけ長い歴史があるんだな…」と思いましたし(躑躅ヶ崎館は、甲斐武田家3代(信虎信玄勝頼の60年程度)の館と認識)、謙信の死後、御館の乱を経て景勝の居城になりますが、景勝が会津へ転封となり堀氏が入城する物の(後に春日山城は廃城)、明治になって山形/米沢の別格官幣社・上杉神社より分霊し、上杉謙信公を祀る春日山神社を創建した歴史のある神社と理解しておりますので、山梨県民が思う武田信玄同様「この地域の人にとって上杉謙信は『神』なんだな」と改めて思った次第で、「春日山城上杉謙信の居城』、それだけで十分かな…」とも思ってしまった次第です。

月山富田城 (日本五大山城 & 日本五大山岳城)

山陰の首城」とも言われ、尼子氏の居城のイメージで有名な「月山富田城あの毛利元就も「力攻めは無理!」と判断したとも言われるお城と理解しております。以下に、その概要を記載いたします。

  • 月山富田城、国の史跡に指定された、日本五大山城の一つで、且つ日本五大山岳城の一つである山城
  • 尼子氏の居城として有名で、山陰の首城とも言われたお城であるが、平安期に「平景清が富田荘に来た際、八幡社を移して築城した」と伝わる歴史の長いお城で、その後各時代の守護大名の居城となるも、城主は、佐々木氏(≒ 京極氏)、富田氏、山名氏、京極氏と変遷した
  • その後、不意を突いて月山富田城 を奪取した尼子氏が戦国大名として城主になり、80年程収めた期間に城郭を拡大・整備し、天然の地形を利用した難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれたが、毛利氏に包囲され落城(力攻めではなく、調略により落城となったらしい)し、毛利氏の支配下に置かれた(40年くらい?)
  • 関ヶ原を経て、江戸期初めに堀尾氏が入り、出雲富田藩が成立するも、拠点を松江城に移したため、月山富田城 は廃城となり、松江城を政庁とした松江藩が成立した
  • 南東以外の三方は急峻な斜面で、北側を正面としており、進入路は、北麓の菅谷口からの「大手道」富田橋を渡った正面の御子守口からの「搦手道」南麓の塩谷口からの「裏手道」3か所で、すべての進入路は山腹の「山中御殿」に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である主郭へと結んでいたらしい
  • 発掘されている石垣が作られたのは関ヶ原の戦い後の堀尾氏による改築と推定され、尼子氏・毛利氏が城主であった時代の姿は、定かではないと言われるらしい

こうして月山富田城の歴史を拝見させていただくと「戦国大名・尼子氏の居城」のイメージの強いお城ですが、平安期から続く長い歴史を持つお城の様で、その歴史の中で、富田氏、山名氏、京極氏、堀尾氏といった有名どころが抑えた「正に『山陰の首城』」といった印象を持った次第です。また、毛利氏により攻め落とされましたが、その前の大内氏の攻撃はしのぎ、毛利氏も力攻めはせず、調略を重視した事を考えると『物理的には「月山富田城」=「難攻不落のお城」』と理解してよいと思った次第でもあります。そんな月山富田城ですが、現在みられる遺構は、それぞれの城主によって手が入り、時代ともに整備・拡張・改良が加えられてきたお城と思われ、誰がどんな手を入れたのか分からないと思いますが、その長い歴史に思いを馳せつつ、是非とも大人散策を遂行したいと思った次第です。

観音寺城 (日本五大山城 & 日本五大山岳城)

六角氏の居城として有名で、時代を先取りした「総石垣」の見せる城としても有名な「観音寺城」。信長最後の居城で、日本の城郭におけるエポックメイキング的なお城と言われる「安土城」の見本になったお城とも理解しております。以下に、その概要を記載いたします。

  • 観音寺城は、滋賀の近江八幡市安土町にあった山城(安土城のお隣)で、日本五大山城の一つであり、日本五大山岳城の一つでもあり、その城跡は国の史跡に指定され、日本100名城にも選定されている
  • 近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、六角氏の終の本拠となったお城で、安土城以前の中世城郭においては特異な「石垣」のお城だったらしい
  • 応仁の乱第一次 / 第二次観音寺城の戦い等において、何度も戦場になったお城らしいが、落城・明け渡しが目立つ印象で「六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた」と言われる様で、規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも「権威づけ、政治色の強い城」ではあったと言われ、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と認識されているらしい
  • 同時に、山城も大きく進化していく中で、曲輪の配置や形状に工夫が見られることから、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている
  • 1568年、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の軍を興すと六角氏は敵対するが、信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ、無血開城し、その後六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったらしい(1570年頃に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性もあるらしい)
  • 観音寺城縄張りの特徴は以下の通り
    • 山上から山腹にかけて密集する郭群が城下町石寺の屋敷群と連続している点が一つの特徴で、段状の諸郭が碁盤目状に行儀よく並んでいる箇所が多いこと
    • もう一つの特徴は、本丸より高い部分の陵稜線上には、三国丸を除けば、どこにも郭が設けられず、かわりに石塁もしくは土塁の道が走っていること(ここが観音寺城の弱点?)
  • 構造の変遷としては、以下の通り
    • 築城当時(1335年頃):観音正寺を中心とした臨時の砦
    • 第1次改修(1467年 – 1487年頃):遺構は見つかっていないが、城郭らしきものがあったと推定される
    • 第2次改修(1525年頃):城といえる城郭が完成していたと推定される
    • 第3次改修(1532年頃):大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が誕生していたと推定されている
    • 第4次改修(1550年頃):山城石垣を作り、今日に見られる城郭が完成していたことが発掘調査から確認されている
  • 曲輪としては、西側の尾根に沿う並びで上から、「伊藤丸・本丸・平井丸・池田丸」といった曲輪があり、その谷を挟んだ東に「観音正寺」、更に東の尾根に「沢田丸・三国丸・馬渕丸・三井丸 / 伊庭丸・馬場丸・大見付丸・淡路丸・目賀田丸」と並んでいるらしい

イメージとして「六角氏の居城」と認識してしまう観音寺城ですが、その始まりは、佐々木氏による様です。また、「総石垣のお城」のイメージがある観音寺城ですが、同時に山城が発展している正にそのタイミングで、改修・増強されたお城の様で、ある意味「『権威づけ、政治色の強い “見せるお城”』&『山城の防御性』の観点で『時代を先取りしたお城』だったのでは?」と思ってしまった次第です。正直、「六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた」なる記載を拝見すると「お城の本質からは外れたお城だったのか?」とも思ってしまった次第ですが、「天守を築く事で『見せる城』を違った形で具現化し、後の世に多く築かれた天守の先駆けとなった安土城(しかも観音寺城のお隣)」の事を考えると「信長に『権威づけ、政治色の強い “見せるお城”』の重要性を説いたのは『観音寺城』だったのでは?」とも思ってしまった次第です…。

七尾城 (日本五大山城 & 日本五大山岳城)

多くの遺構が残り、整備も行き届いている事から(上杉謙信をも魅了したらしい)眺望もよく、多くの歴史ファンが訪れる人気のお城が「七尾城と理解しております。以下に、その概要を記載いたします。

  • 七尾城は、室町時代から戦国時代にかけての山城跡で、日本五大山城 & 日本五大山岳城の一つであり、別名を『七つの尾根のうちの「松尾」に築かれた』ため「松尾城」あるいは「末尾城」ともいうらしい
  • 「七尾」という名は「七つの尾根」松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)に由来している様で、現在では、国の史跡に指定されていおり、日本100名城の1つでもある
  • 七尾畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428年~1429年)頃にこの地に築いたと言われ、次第に拡張・増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、第五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたらしい
  • 1576年、能登国に侵攻した上杉謙信に包囲され、最終的に落城したようだが、七尾城は一年にわたって持ちこたえた実績があるらしい(七尾城の戦い)
  • その後、謙信が急死すると北陸で反攻に転じた織田勢により領され、しばらくの後、前田利家が入った後、前田氏によって拠点を(現七尾駅近く)小丸山城に移された為、豊臣政権下の1589年に廃城となったと言われる様
  • 現在では、低石垣を五段に積み重ねた本丸の石垣(野面積)を中心に(岩村城の六段壁の感じ?)、各曲輪の石垣のほとんどが現存しているようで、遺構が数多く残っており、「保存状況の良さ」・「行き届いた手入れ」が素晴らしく、上杉謙信も「望む絶景の素晴らしさを家臣への書状に記した」と言われる七尾湾・能登島・能登半島が一望できるらしい

実際にお邪魔した事が無いので、想像でしかありませんが、手入れの行き届いた城跡は、お城の遺構をしっかり確認でき「お城好きにはたまらないスポット」の様です。また、その行き届いた手入れがあるからこそ「七尾湾・能登島・能登半島の眺望」は絶景らしい様で、城郭の遺構と素晴らしい景色を同時に拝見出来「感動すら覚えるスポット」と言われているです。「畠山氏 ⇒ 上杉氏織田氏前田氏(@豊臣政権下)」と、歴史に名を刻む武将たちが統治してきたその城跡を、自然を満喫しつつ 大人散策できるのであれば、「いつか必ず参らなけれればいけない」と改めて思った次第です。

小谷城 (日本五大山城)

浅井氏三代の居城で、戦国期に織田信長に攻められ、浅井長政とお市の方(浅井三姉妹含め)の悲劇の舞台になったお城が「小谷城と認識しております。以下に、その概要を記載いたします。

  • 小谷城の概要
    • 小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市にあったにあった戦国時代の山城
    • 城跡は国の史跡であり、日本五大山城の一つとして知られるが、戦国期に織田信長に攻められ落城し、浅井長政とお市の方・浅井三姉妹の悲劇の舞台として知られる城
    • 下剋上により、のし上がったと言われる浅井氏三代の居城であり、初代:浅井亮政が、小谷山最高点・大嶽付近を主郭とした城を築城したのが始まりと言われ(1520年前後と言われ正確な事は分かっていないらしい)、その後 二代: 浅井久政 、 三代:浅井長政と代々拡張が重ねられるが、信長小谷城攻めにより1573年に落城、その後北近江の拠点は、長浜城に移され1575年に廃城になったと言われる
    • 長浜統治の拠点が、秀吉による長浜城に移る際、長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったらしい(小谷城の天守が長浜城に、そして彦根城の西の丸三重櫓として移築されたと伝承もあるらしい…)
  • 信長による小谷城攻め
    • 小谷城の最後ともいえる「小谷城の戦い」(1573年の織田信長浅井長政の戦国時代の戦い)の発端は、1570年(4月?)、織田信長・朝倉義景の両者と同盟関係を結んでいた「北近江の浅井長政」が、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交した「金ヶ崎の戦い」と言われる
    • その後、信長徳川家康の連合軍を迎えうった「姉川の戦い(1570年(7月?))」と続き、室町幕府15代将軍足利義昭の呼びかけにより「信長包囲網」が作られかけるが、武田信玄病死(胃がんと言われている様で、甲斐に戻る途中、現在の長野県南部で最期を迎えたらしい)や朝倉義景の消極的対応により完遂には及ばず、逆に1573年には、信長は足利義昭を追放(槇島城の戦い)し、小谷城攻めの準備を着々と進め、ようやく(2万の)援軍に来た朝倉氏から大嶽砦などを奪い、刀根坂の戦い・一乗谷城の戦いを通じて、朝倉氏を滅亡に追い込んだ
    • 朝倉氏滅亡直後、小谷城での決戦となり、秀吉(この頃は木下)が、京極丸(本丸(長政が守る)と小丸(久政 が守る)の間にある曲輪)を占拠した事をきっかけに、連携の取れなくなった浅井氏はなすすべなく、落城に追い込まれた
    • この時、長政は正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した

落城時の当主だった長政が本丸(大嶽城・小丸と比べて低所)を守り、隠居の父・久政が小丸(中盤)を守り、援軍の義影に大嶽城(最も高所)を任せた部分も気になってしまいました「目上の人を高所に…」と言った発想で、「下剋上でのし上がった元々国衆で京極氏の家臣であった浅井氏よりも、(わざわざ援軍出来てくれたと言うもありますが)天皇の血を引くとも言われる高貴な朝倉氏を最も高所に据えた」と言う発想(考え方)もありますが、朝倉氏がいとも簡単に大嶽城を奪われた事から考えるに「あまり乗り気でなかった…、ポーズだけ…、そもそも弱い?」と言った感じに見えてしまい、もしこの「最高所である大嶽城を長政が守っていたら」少なくとも今少し違った結果になったのでないかと思ってしまった次第です…。

信長の視点で言い換えれば、「信長包囲網が狭まる中、信玄の病死や義景の消極的対応に助けられ、更にその朝倉氏が大嶽城を担当した事で、朝倉氏を滅亡に追い込む事が出来、更に小谷城を攻める上で、この上ない立地の大嶽城を手に入れた事をきっかけに浅井氏も滅亡に追い込むことが出来、『ピンチの信長に、桶狭間に続き、光明が差し込んだ(運が開けた)舞台が小谷城』ではなかったかと思った次第」です。

(1573年の小谷城攻めの後の信長の主な戦歴抜粋1575年の長篠合戦甲斐武田家に大勝、1576年の第一次木津川口の戦いで敗北、1577年の手取川の戦いで上杉軍に敗北、1578年の第二次木津川口の戦いで毛利軍にリベンジ、1582年には甲斐武田家を滅亡に追い込んだが、数か月後の本能寺の変で最期を迎える)

八王子城 (日本五大山岳城)

秀吉小田原征伐時、上杉氏前田氏真田氏と言った、錚々たるたるメンバーによって攻められ落城した(八王子城合戦)お城が「八王子城 」と理解しており、今尚「心霊スポット」としても有名なお城だと認識しております。以下に、その概要を記載いたします。

  • 八王子城北条氏の本城である小田原城の支城で、中世の山城
  • 縄張りは、本丸・松木曲輪・小宮曲輪等を含む「要害地区」、御主殿を中心とした「居館地区」、麓の城下町「根小屋地区」の3つのエリアに分かれる
  • 要害地区
    • 本丸跡(城山山頂) / 松木曲輪跡(展望スペース) / 小宮曲輪跡 / 八王子神社 / 井戸 / 伝大天守跡、等がある
  • 居館地区
    • 御主殿跡 / 御主殿の滝、等がある
  • 北条氏康の三男・氏照が1571年頃より築城し、1587年頃に本拠とした
  • 八王子城合戦小田原征伐の一環として1590年7月24日、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ、1日で陥落してしまった小田原征伐では他に例を見ない殲滅戦で、御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている

北条氏照が、滝山城にて、武田信玄の攻撃を受けたのが、1569年と理解していますので、その後すぐに、築城に取り掛かり、滝山城から八王子城に移ったことが伺えます。純粋な比較はできないこと、重々承知の上ですが、この時の武田信玄により、「本体:2万」+「別動隊:1000」の合計2.1万で、想定外の奇襲(別動隊1000の小山田軍が南側から奇襲している様で、本体の信玄は、北の拝島側に布陣したらしいです)を受け攻められるも、2000の兵でしのぎ切ったとも言われているようですので、数の上からも、滝山城の方が八王子城よりも防御性は高かったのでないかと思ってしますが…。あの信玄の攻撃を2000で耐えしのいだわけですから…。いずれにしても結果は、「小田原征伐で他に例を見ない殲滅戦」と言う位ですので、城内にいた人達は、ほぼ全滅と言ってよい惨劇だったと思われ、現代心霊スポットとして有名になってしまった事も頷けます。

そんな八王子城、大きく分けて3つのエリアになる様ですが、城下町の色が強い「根小屋地区」は別にして、「戦時にたてこもる『要害地区』」と「平時の拠点『居館地区』」に分けられますが、有名なのは「居館地区」で、テレビや書籍で「八王子城」と紹介される絵は「居館地区」。しかし上記の通り、前の居城・滝山城との比較の観点からも、八王子城を理解し、満喫するには「要害地区」+「居館地区」の両方を大人散策すべきと思っています

【最後に】

以上が、日本五大山城 / 日本五大山岳城とは?』という事で『どこのどんなお城が、日本五大山城 / 日本五大山岳城なのか?』につき紹介」させて頂いた内容になります

日本五大山城 / 日本五大山岳城の違いとは?、その定義は?」といった視点でも、勝手に考察させて頂きましたが、それぞれのお城の概要を拝見すると「後世の人間が、勝手にお城をくくっているだけの話で、それぞれのお城にそれぞれの歴史と特徴があり、あえてそれらをカテゴライズするのは『少しおこがましい話なのかな…』と、少々自身の安直さを後悔してしまった次第」です…。お城の歴史は、日本の歴史。それぞれの歴史があり、それぞれの歴史をできる限り認識しつつ、現地に赴き、大人散策を遂行して、それぞれの歴史に思いを馳せる事こそ「大人散策の正しいあり方」だと再認識した次第でした。まだお伺いできていない城郭もあるので、訪問させて頂き、訪問の暁には、本ブログの更新にて、ご報告申し上げたいと思います!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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