【はじめに】
こちらのページでは、東京都の港区の「紀尾井町」を、歴史や地形の観点で、考えてみたいと思います。
先日、半蔵門付近から四谷付近にかけて、仕事中に大人散策をしました(正確には、半蔵門駅付近の営業先から四谷駅付近の営業先に移動しただけですが…)。半蔵門を背にして、甲州街道を四谷方面に徒歩で移動したのですが、この辺りの甲州街道は、両サイドが低くなっており、尾根道である事、改めて実感しつつ歩いたのですが、その際、「半蔵門って、服部半蔵から…」+「四谷は、四つの谷があるから…」+「途中にある麹町は、麴を作っていたから…」なんてことを考えながら歩いていました。しかしそこで、ふと思いました。「紀尾井町の由来って何?」と…。早速、スマフォで調べてみますと、すぐに分かったのは、「紀尾井町=紀伊徳川家+尾張徳川家+井伊家」と言う事でした。
本日は、そんなよくお伺いするわりに、あまり考えた事がなかった「紀尾井町」に付き、「その由来」と「その地域の歴史や地形」と言った観点で連想ゲームをして発展し、「紀尾井町の見所」や「関連する日本各地の見所を紹介」すべく言葉遊びさせて頂こうと思った次第です。
【「紀尾井町」の連想ゲームと概要】
まずは、「紀尾井町」に付き連想ゲームをさせて頂こうと思います。誠に勝手なのですが、私が「紀尾井町」に付き、連想させて頂くと、以下の様になります。
- 昔は赤坂プリンスホテル(=通称「赤プリ」)があったが、今は「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」
- かつては水が湧いていた場所が、清水谷公園
- ホテルニューオータニの日本庭園は、中々魅力的な空間
- 大久保利通がの暗殺事件は、「紀尾井坂の変」と言われている
- 昔は江戸城の堀だった部分に、上智大学のグランドがあり、その横を「地下鉄」丸の内線が「地上」を通っている(四ツ谷駅の南で地上に出る)
実は、あまり連想ゲームが進まないかと思い、地図を見ながら実施させて頂きました…。理由は、考え始めてしばらくの間、ホテルニューオータニの庭園しか、出てこなかった為です…。しかし、地図で紀尾井町の範囲を拝見させて頂くと、「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」や「上智大学」も紀尾井町の中になる事、理解が出来、上記の様な結果となった次第です。そんな紀尾井町、自身の連想ゲームだけでは、不安なので、Wikipediaの力を借り、調べてみますと、以下の様にあります。
(略)地名の由来
地名はこの地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾張家、井伊家と呼ばれた)、各家の文字を1文字ずつとって町名とした。
紀州徳川家の中屋敷跡は現在の東京ガーデンテラス紀尾井町・清水谷公園、尾張徳川家の屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあたっている。世帯数と人口
2020年(令和2年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである (略)https://ja.wikipedia.org/wiki/紀尾井町
オフィスビル街だと思っていたので、「意外と人住んでいるんだなー」と思うと同時に、昔「赤プリがなくなってしまう…」と、最後の年に、記念宿泊にいった事や(ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町には、まだ宿泊した事はありませんが…)、大久保利通の哀悼碑がある、清水谷公園の前の道が「紀尾井坂」だと思い込んでいた事、東京に出てきて間もない頃、新宿から赤坂見附に行くべく丸の内線に乗った際、「地下鉄なのに地上を走る区間があるの?」と思った事の記憶がよみがえり、「これらは紀尾井町でのことだったのか…」と改めて思った次第です。
【「紀尾井町」をもうちょっとだけ深堀】
上記、概要を抑えさせて頂きました「紀尾井町」ですが、上記記載させて頂きました内容を、今少しだけ連想ゲームを広げる形で、以下内容の切り口で、掘り下げてみたいと思います。
・ホテルニューオータニの日本庭園
現在、ホテルニューオータニのある場所は、江戸時代の初めは加藤家(熊本城を別記事にて紹介中)、その後は井伊家(彦根城と隣の玄宮楽々園を別記事で紹介中)の中屋敷があった場所とされ、その時代からその場所にある木々や石を見る事が出来ます。
ニューオータニの庭園と言って、個人的に真っ先に思い出すのは、「枯山水のお庭」とその先にある「朱色が美しい太鼓橋」、そしてなんといっても、「美しい水をたたえた池泉」と「ダイナミックな滝」と言った所が、思い浮かぶスポットです。しかし、上記にも記載しました通り、こちらの場所は歴史のある空間で、江戸時代からその場にある物、創業者の大谷氏が収集した物と、知らないと見損なってしまう物も多数あります。
以下に、ホテルニューオータニのHP(https://www.newotani.co.jp/tokyo/garden/)より、情報を頂きつつ、抜粋してご紹介しますので、皆様のホテルニューオータニの庭園における大人散策の参考にして頂ければ幸いです。
> 赤玉石 (地図中①)
こちらのHPには、以下の様にあります。
佐渡島の金山より運ばれた高価な庭石で、赤褐色の独特色彩から赤玉石と呼ばれています。 庭園にある一番大きいものは重量22トンもあり、これは日本一の大きさと言われています。 砕くと金が出てくるというこの石は、現在は門外不出という佐渡産です (略)
https://www.newotani.co.jp/tokyo/garden/
> 枯山水 (地図中②)
美しく手入れされた枯山水は、心を落ち着けてくれる雰囲気を醸し出しています。
> 佐渡の化石 (地図中③)
こちらのHPには、以下の様にあります。
湧水山水風の池の中にある、江戸時代からの大木の化石。加藤清正公時代から残っているもので、 木の根がそのまま化石になった珍しい石です (略)
https://www.newotani.co.jp/tokyo/garden/
> 池泉/朱色の太鼓橋 (地図中④⑤)
広々空間の池泉は周囲を散策出来、朱色の太鼓橋とのコントラストは、絵になる光景です。
> 各種燈籠
園内には、様々なタイプの燈籠が、かなりの数あり、庭園の景色にちょっとしたアクセントを与えている様で、大人散策をより良いものにしてくれます。
> 新緑/紅葉を楽しめる木々
こちらのHPによると、江戸時代からこの地にある大木もあり、東京の都心である事を忘れてしまう空間です。新緑は勿論、紅葉も美しく、四季を通じて楽しむ事が出来る空間です。
> 大滝
そして最後は、こちらの庭園の顔とも言って良いと思いますが「大滝」です。何度かお伺いしているこちらの庭園ですが、必ずこの大滝の写真は入っており、大量の水が広い幅で流れ落ちる様は、他の庭園では、中々見る事の出来ない演出ですので、是非ご覧ください。
尚本ブログでは、東京旧古河庭園、東京椿山荘、神戸相楽園、京都無鄰菴、高松栗林公園、熊本水前寺成就園、山梨恵林寺庭園、甲府常磐ホテルの庭園、平泉毛越寺庭園、名古屋徳川園、二条城二の丸庭園、川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園、熱海の起雲閣、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、清澄庭園、浜離宮、六義園、新宿御苑、日本三名園:金沢兼六園・岡山後楽園・偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。
・桜田門外の変
上記、ニューオータニは、井伊家の中屋敷があった場所ですが、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変では、井伊直弼は、”上屋敷” から桜田門に行く途中、暗殺されたと言われているようです。以下地図に、井伊家の中屋敷・上屋敷・桜田門が分かる、現在と江戸時代の地図の画面キャプチャを共有します。(最下部の地図も併せてご参照ください)
最後の写真、左中央より少し上が中屋敷(現ニューオータニ)、中央より若干右下が上屋敷、右中央が桜田門
現在の距離感で言えば、井伊家の中屋敷と上屋敷は2㎞の無い場所。こんな近い場所に、広大な土地の上屋敷と中屋敷を与えられていた事、井伊家の力を改めて認識させられてしまいます。尚、井伊家の東京での菩提寺は、世田谷にある豪徳寺。直弼の墓所もこちらにあります。別記事でも紹介させて頂いておりますが、「ひこにゃん発祥の地」とも言って良い場所だと思い、多くの招き猫がお出迎えしてくれますので、豪徳寺にお越しの際は、直弼の墓所に手を合わせてみてはいかがでしょうか? (彦根城や玄宮楽々園、キャッスルロードの大人散策/レストラン情報をそれぞれ、別記事で紹介しております)
・「紀尾井坂の変」があった場所
東京に出てきて間もない頃、偶然「大久保公哀悼碑」を、清水谷公園で見つけました。勿論、大久保利通の「紀尾井坂の変」の事は存じてましたので、その前を通る坂道(紀尾井町通り)が、「紀尾井坂」であるとしばらくの間思い込んでいた事があります。しかし数年後、仕事(営業)で都内を回る事にもだいぶ慣れ、土地勘も持ち始めてしばらくの後、「あれ?紀尾井坂って、こっちなの?」と思った事があります。私が、「紀尾井坂」と思い込んでいた「南北の通りは、紀尾井町通り」で、『「大久保公哀悼碑」の少し北を東西に通る道が紀尾井坂』であると…。Wikipediaにも以下の様にあります。
紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で、斬奸状をたずさえた士族6名によって暗殺された事件である。襲撃現場は正確には紀尾井坂ではなく坂下付近(現在の清水谷公園前)に位置する (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/紀尾井坂の変
時として、歴史上の名称と実際の場所に付き、誤解をしてしまう事があります。私の場合、1つは源頼朝が流された伊豆の蛭ヶ小島。自身としては、伊豆諸島のどこかの島だと思っていましたが、実際には、陸続きの伊豆半島にあるの蛭ヶ小島だったという物(韮山反射炉も含め、この地域の情報を別記事で紹介中)。そしてもう一つが、この紀尾井坂の変。何で、紀尾井坂ではないのに「紀尾井坂の変」と言うのでしょうか? その謎は、今後の宿題とさせて頂き、展開ありましたら、本ブログにて報告申し上げたいと思っております!
・東京都心の湧水の1つだった、清水谷公園
江戸時代、急激に人口が増えたため、遠く多摩川の水を、玉川上水で引き込んだ事(勿論玉川上水だけではありませんが…)、皆様ご承知の通りだと思いますが、現在は中々認識できなくとも、都内には、多くの谷があり、それなりの湧水があったと言われている様です。
現在、Google Mapで、”湧水” とサーチしてみると画面キャプチャの様にヒットがありますので(湧水ではないスポットもありましたが…)、江戸時代には、より多くの湧水があったのではないかと思いますが、その1つが、この清水谷公園。Wikipediaには、以下の様にあります。
(略) 隣接の東京ガーデンテラス紀尾井町を含む区画一帯は、江戸時代まで紀州徳川家の上屋敷があり、清水谷公園西側の道を境に、井伊家の中屋敷と接していた。井伊家との境目付近が谷だったことと、井伊家との境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれた(清水は涸れたため、人工的に復元した湧き水が公園内にある) (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/清水谷公園
今となっては、完全にビル街で、都心のど真ん中といった感じですが、江戸幕府が開かれる前は、湧水もあった自然豊かな場所だったのだろうと考えてしまいました。上記、大久保利通を偲ぶ、「大久保公哀悼碑」のある公園ですので、歴史と自然を都心のど真ん中で感じてみてはいかがでしょうか? (別記事で紹介しておりますが、少し23区を出て、野川沿いを進むと多くの湧水を見つける事も出来ます)
今となっては、完全にビル街で、都心のど真ん中といった感じですが、江戸幕府が開かれる前は、湧水もあった自然豊かな場所だったのだろうと考えてしまいました。上記、大久保利通を偲ぶ、「大久保公哀悼碑」のある公園ですので、歴史と自然を都心のど真ん中で感じてみてはいかがでしょうか? (別記事で紹介しておりますが、少し23区を出て、野川沿いを進むと多くの湧水を見つける事も出来ます)
・地上を走る地下鉄丸の内線
上記にも少し記載しましたが、東京に出てき間もない頃、「地下鉄なのに、地上を走っている!」と思った場所です。
地下鉄が、地上を走るスポットは、いくつかあります。ある程度都心を出て、郊外になった辺りで、地上を走るのは多少納得できますが、都心の真ん中では、「えっ?」って思った事がある方は多いのではないでしょうか? 特に、私の様に地方出身(山梨県北杜市)で、東京に出てくるまで、地下鉄に乗った事がなかった方は、同じように思った経験のある方も多いのでないのかと思います。(昔銀座線は、地下鉄なのに、渋谷駅でビルの2階か3階に行く事、中々理解できませんでした…。「地下鉄なのに!」って。)
そんな「地上を地下鉄が走る区間」、丸の内線にはいくつかあります。思い当たるだけで、後楽園駅付近(小石川後楽園を別記事で紹介しております)、御茶ノ水駅付近、四ツ谷駅付近が、それにあたると思います。上記地形図の地図を見れば、意外と起伏の激しい東京で、なるべく勾配をを減らしたい電車の走行において、地上に出る事も当然と言えば、当然ですが、どうしても「地下鉄なのに!」って突っ込んでしまいたくなるのは、私だけではないと思います。そして、紀尾井町からの連想ゲームで出てきたのは、地上を走る地下鉄丸ノ内線・四ツ谷駅付近。ここは、江戸城の堀があった場所で、現在は上智大学のグラウンドになっている様です。江戸時代は、堀の底だった場所に、駅とグラウンドがあるって、ちょっとシュールさもあって、興味深いスポットだと思った次第です。
(Wikipedia・Google ストリートビューより)
・ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町
ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町が出来る前の「(通称)赤プリ」(赤坂プリンス)には、建て替える事が決まった事を知り、営業している最後の年に、一度記念宿泊をした事があります。都心を見渡す眺めの良いホテルで「昭和の先端を走っていた、いいとこのホテル」と言った印象を持っていましたし、その通りでした。(写真は上部ご参照ください)
その為、新しく出来た、こちら『「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」にも、一度宿泊してみようか?』と夫婦で話、いざ予約しようと思ったら、目玉が飛び出そうな金額。安くても1泊10万位する様です…。それもそのはず、「プリンス系のホテルの最上級ホテル」だそうです…。現状、ちょっと手が出ませんが、死ぬまでに、1回くらいは宿泊させて頂きたいとは、夢を持っています。(こちらのHP:https://www.princehotels.co.jp/kioicho/)
・紀尾井町から連想されるスポット
上記にも、記載しましたが、「紀尾井町=紀伊徳川家+尾張徳川家+井伊家」。それぞれの中屋敷があった事から、それぞれの頭の文字を取って「紀尾井町」との事ですが、それぞれの本拠地(領地)にも、やはり興味が湧きます。
> 名古屋城
「尾張名古屋は城でもつ」とまで言われた、立派なお城。現存天守ではありませんが、外観復元された天守は圧巻の一言。江戸時代にこれだけの建物があったのであれば、「尾張名古屋は城でもつ」も納得できる規模感です。復元された本丸御殿や玄人好みの二の丸庭園、ちょっと足を延ばせば、熱田神宮や徳川園(庭園)、岐阜城・犬山城・明治村等、大人が楽しめるスポットもあり、再訪したい場所です(それぞれ本ブログ別記事で紹介中)。
> 彦根城
国宝の現存天守の一つが、彦根城です(国宝の5つの天守・国宝5城は、松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城)。大きいとは、言えない天守かもしれませんが、400年程の歴史を持つ天守は、風格十分ですし、彦根城のお隣にある、玄宮楽々園(庭園)から、国宝天守を借景にした景色は、歴史好きなら必ず押さえたいスポットです。個人的には、近江牛も含め、再度参らせて頂きたいスポットです。(姫路城、松江城にはまだ行けていませんが、松本城・犬山城・彦根城・松江城・姫路城とそれぞれ、別記事で紹介してります)
> 和歌山城
徳川御三家の1つ、紀州徳川家の居城が、和歌山城ですが、実はまだお伺いした事がありません。秀吉の弟で豊臣政権のもと活躍し、秀吉の天下取りに大きく貢献した秀長が元々は築城し、徳川頼宜が、城下町の拡張の含め大規模な改修を行ったと伝わるこのお城。関東圏ですと、若干脚を延ばしにくい場所ですが、いつか参らせて頂きたいお城の一つです。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
【最後に】
以上が、「紀尾井町の由来」と「紀尾井町という地域の歴史や地形」と言った観点で連想ゲームをして発展し、「紀尾井町の見所」や「関連する日本各地の見所を紹介」すべく言葉遊びさせて頂きました内容になります。
「暇ですね!」と言われれば、その通りかもしれませんが、「紀尾井町」と言う一つの地名から、歴史や地形に関する視点をベースに、これだけの思いを巡らす事が出来る事、個人的には、楽しいひと時だったと思います。まだ東京都内には、様々な由縁のある地名もあると思いますし、私の居住地・埼玉県内にも、由来がある地名があると思います(川越に関しては、別記事で若干考察しています…)。普段の生活の中で、何気なく使っている地名の元をたどる事で、その地域を知り、その上でその地域を散策すると、ただの散策が、大人散策となりバージョンアップする気もしています。
別記事で、「分水嶺」・「追分」・「切通」・「縄文海進」・「孫子のフレーズ(名言・教え)」等も記載しておりますので、皆様も「暇」がありますれば、ご一読頂き、ただの散策を大人散策にしてみては、いかがかと存じます。