【はじめに】
こちらのページでは、徳川将軍家の庭園で、都内唯一の「潮入りの池」がある庭園でも有名な上、現在の日本の高層ビルとのコントラストも楽しめる「浜離宮恩賜庭園」を紹介します。
江戸時代は、浜御殿と言われ、明治期に皇室の離宮となり、現在は旧浜離宮恩賜庭園として親しまれている庭園。恐らく多くの方が、浜離宮内に咲く美しい花々や、潮入の池の背景に汐留の高層ビル群を収めた写真を連想するのでないかと思います。私自身、汐留の高層ビル群には仕事でよくお邪魔しており、時間の空きを見て時折お邪魔させて頂いた記憶のある「思い出深い庭園」が、浜離宮です。非常に大規模な庭園で、イメージ的には、庭園と言うよりも公園。さすが徳川将軍家の庭園と言うだけあって、かなりの規模感。見学するのもそれなりの時間を要します。旧古河庭園や椿山荘の様な、高低差 / 斜面を利用した庭園ではなく、その名のとおり、海に面した基本平坦な庭園ですので、広さの感じ方も違うようで、実際にお邪魔すると、その広さに圧倒されてしまう程です。
こちらのページでは、そんな浜離宮恩賜庭園の概要と歴史を抑えた上で、内部の見所を紹介させて頂こうと思います。
【浜離宮の概要と歴史】
現在の浜離宮は、2つの入口があり、駅からのアクセスも良く、お邪魔しやすい環境下にあります。1つの入口である「大手門口」は、大江戸線の築地市場駅・汐留駅(「ゆりかもめ」も汐留駅ありますが…)から、徒歩10分もしないでアクセスできる認識です。汐留駅のすぐ隣は、JR・銀座線・浅草線の新橋駅なので、ほぼ同様の距離感(少し距離増えますが…)と思っていただいて良いと存じます。また、もう1つの入口である「中の御門口」は大手門を少し南側に行った場所にありますので、南側(芝離宮のある浜松町方面)からアクセスされる際の利用に適しているのでないかと思います(ただ、南側からの徒歩でのアクセスは、浜離宮側(東側)の歩道を利用する必要がある認識で、道路の反対側(西側)の歩道からですと、横断するには「浜離宮庭園前」の信号が近い思われ、その次の信号は、大手門が目の前にある汐先橋の信号になってしまうといった認識の為です:最下部地図参照)。
現在では、そんなアクセスの良い浜離宮ですが、その歴史は、徳川家康が江戸に幕府を開いた後、江戸期に海を埋め立てて整備された歴史を持つ庭園で、Wikipediaには、以下の様にあります(引用少々長いので以下にポイントを箇条書きにまとめております)。
浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう おんし ていえん)は、東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園である。旧浜離宮庭園として特別史跡・特別名勝に指定されている。
概要
東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。園内には鴨場、潮入の池、茶屋、花畑やボタン園などがある。2000年代前半に西側の旧汐留貨物ターミナルが再開発されて汐留高層ビル群が林立し、庭園とコントラストを成している。江戸時代に甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開放された。近年、かつて園内にあった複数の建築物の再建が進められており、4棟のお茶屋などが復元されている。浜離宮Map 東京都公園協会のHP(https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/about028.html)より
歴史かつての浜離宮
天正18年(1590年)、徳川家康が関東の領主として江戸入城の頃は、城の東方の平地は至る所は芦原で、武士の屋敷や町人の家として割り付ける土地は10町にも満たなかった。また、城の西南の台地は一面の葦で武蔵野に繋がっており、低地には沼や池が多く存在したため、城下の発展には埋立が必要な状態だった。この頃の海岸線は、現在の田町駅から日比谷周辺のくびれた入江を通り新橋駅に至るものだった。慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府が開かれ、江戸の町の発展に備えるため埋立が始まった。家康、秀忠、家光の三代にわたり埋立てが行われ、東京遷都までの歴史は埋立の歴史だった (略) 現浜離宮一帯は当時「芝」と呼ばれ、江戸城周辺の下町が整えられた後、この周辺の埋めてが行われた (略)
寛永年間(1624 – 1644年)に描かれた『豊嶋郡江戸庄図』には、海が後退して葦の群生が広がり、その隙間にのみ水面が見られる、すでに陸地化しつつあった様子が描かれている。当時この辺りは将軍家の鷹狩の場所で、参勤交代の大大名を家康や秀忠が招いていたところである (略)
寛文9年(1669年)11月29日の『甲府日記』に、「浜殿御作事奉行仕候付御ほうび被下覚、銀五枚友町武兵衛、同三枚玄斎、是ハ御築山泉水同所にて奉行仕付被下也」と記録されている。この記録から友町と玄斎の二人が作庭の工事責任者であり、庭がこの頃に造られたこと、屋敷はその以前に既に出来ていたことを表している (略) 整えられた庭は、綱重が甲府宰相となり、その没後は庶子の綱豊(後の家宣)が継ぎ(後述)、宝永元年(1704年)まで43年間にわたって浜屋敷として続いた (略) 5代将軍綱吉には子供がいなかった、綱吉は宝永元年(1704年)12月5日、甲府宰相の綱豊を将軍の世子にと江戸城に迎えた。綱豊は家宣と名を改め、父綱重が果たせなかった将軍への道を約束された。甲府浜屋敷は「西之丸御用屋敷」と呼ばれ、その後「浜御殿」と呼ばれるようになった。これより160年間、明治維新まで徳川将軍家の庭として歴史を刻むことになる (略)内堀と内堀を越える橋(300年の松/お花畑間) 第12代家慶に時代は、国の内外の情勢から軍事的な状況に変わっていき、庭園も最小限の手入れに終始した。嘉永6年(1853年)6月3日、米国艦隊を率いてマシュー・ペリーが浦賀に入港し、江戸は大混乱に陥った。幕府は各藩に出兵を命じ沿岸の警備に当たらせ、浜御殿は高松藩と鉄砲方で固め、同年6月12日ペリーは退去した。(略) 安政5年(1859年)第14代家茂が将軍となり、文久元年(1860年)浜御殿の東南隅に砲台屯所が設けられた。家茂の在職9年の間、攘夷と開国、財政悪化など休息の場は無かった、慶応2年(1866年)9月6日、家茂の棺を乗せた船が浜御殿のお上がり場から上陸した。
慶応2年(1866年)浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止し海軍奉行となり、翌3年(1867年 )11月17日、浜御殿の名称が取止めとなった。慶応2年12月5日、慶喜は将軍宣下を受けたが、翌年10月24日、将軍を辞してしまった。浜御殿は7代将軍家宜や11代将軍家斉には華やかな舞台だったが、最後の将軍慶喜は江戸城と浜御殿には一度も入ることはなかった。浜離宮の中には、個性的で、立派な松も沢山! 明治の浜離宮慶応4年(1868年)4月11日、幕府が瓦解、江戸城は無血開城、同年7月17日に江戸が東京に名前を変え、8月27日に明治天皇が即位式を挙げ、9月8日に年号を明治と改元した (略) 明治元年(1868年)11月17日に浜殿も東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場と変わっていった (略) 明治3年(1871年)10月23日、庭が宮内省の管理となり「浜離宮」と称されることになった (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/浜離宮恩賜庭園
大正12年(1923年)9月1日、浜離宮が関東大震災で大きく揺すぶられた、庭の各所から火災が発生し、大手門の渡り櫓、大手門橋、汐見茶屋が焼失、大泉水の縁石積みが崩れた。翌13年から被害の復旧がが始まり、旧大手門橋に変え現在の南川橋を架けた。幸いにも、園景の中心となる中島の茶屋始め多くの亭宇が災害から免れた。昭和19年(1944年)11月29日、浜離宮にサイレンが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した、太平洋戦争突入である。園内には防空壕が造られ、高射砲が備えられたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、中島の茶屋、鷹の茶屋、松の茶屋、燕の茶屋が焔を上げ、樹木も焼け焦げ、焼け残った物は殆どなかった。歴史的建物は全て焼失し、稲荷だけが残り、宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残った (略)
昭和22年(1947年)11月20日、文部省の文化財に関する調査が浜離宮で行われ、翌昭和23年(1948年)1月15日付けで東京都から浜離宮の名勝・史跡指定の申請が文部省に提出された (略) 同年12月18日、史跡名勝天然記念物保存法による名勝及び史跡として指定された (略)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントを自身が持っている情報も加えて記載します。
- この地は、縄文海進時は海の底だったはずで、家康が江戸に入った頃でも「基本海」の状況だった様子
- その後、埋立を継続的に行い、少しづつ陸地化が進んで行き、将軍家の鷹狩の場となった
- 1650年~1670年位に、徳川綱重(甲斐国甲府藩主)のもと、更なる埋立と庭が作り始められた(浜屋敷)
- 綱重(甲斐国甲府藩主)の子供の家宣が跡を継ぎ、更に6代将軍となった事で、この地が江戸期を通じて「徳川将軍家の庭・浜御殿」となり、華やかな時代を迎えた
- 幕末の海外からの圧力(ペリー来航等)により、浜御殿は庭園と言うよりも、軍事拠点としての役割になって行った
- 長州征伐で西国に出陣し、大坂城で薨去した14代家茂の棺もこの浜御殿の「お上がり場」経由で江戸にもどり、徳川幕府最後の15代将軍の慶喜は、江戸城にも、浜御殿にも足を踏み入れる事は無かった(現地説明看板には、慶喜は鳥羽伏見の後、船で戻りお上がり場から江戸に戻ったと記載ありましたが…)
- 明治になるとその所有権は、徳川家から皇室に移り、軍事的利用から貴賓接待の場と変わっていき、「皇室の離宮・浜離宮」となった
- 大正期の関東大震災、昭和期の太平洋戦争で大きな被害を受けた
- 戦後、名勝及び史跡として指定された
こうしてみてみると、この庭園の歴史は、350年程になりますが、その歴史は、当初は、甲府藩の「浜屋敷」としてはじまり、家宣が将軍となった事で「将軍のお庭・浜御殿」として華やかな時代もあったが、幕末から昭和の戦争が終わるまでは、厳しい期間を送ってきた様子。東京(江戸)の開発と繁栄、そして暗黒時代を見てきた庭園が「浜離宮」と理解してよいと思い、現在「徳川将軍家のお庭」として、その良き時代の面影を見る事が出来る庭園は「今後も大切にしていかなければいけない国の宝」と思った次第です。
【浜離宮の見所】
上記、浜離宮の概要と歴史を抑えさせて頂きましたので、実際の大人散策にあたっての見所を、(個人的な好みが入りますが)以下に列挙致します。
・大手門
こちら、浜離宮の大手門は、庭園の門と言うよりも、「お城の門」といた感じです。江戸城の石垣に付き別記事でも紹介致しましたが、こちら浜離宮の大手門の石垣は「切込接の布積」で、格式の高さを感じます(別記事で石垣の分類法を記載しております)。
・300年の松
6代将軍・家宣の「浜御殿」と言われていた頃に植えられたと言われているそうで、都内最大級の黒松だそうです。
・新銭座鴨場 (庚申堂鴨場も以下に記載)
馬場跡の奥の鬱蒼とした森の中と思える所にある鴨場が、新銭座鴨場で、池の北側には、池を見渡す高台(東・大覗)もあります、南側には、小屋の中から池を覗く事が出来ます(西・大覗)。ちなみに、鴨場に関しては、Wikipediaには、以下の様にあります。
(略) 鴨場 – 鴨猟のため作られた池。庚申堂鴨場と新銭座鴨場の2つがある。築造は、前者が1778年、後者が1791年。鴨場は池と林を3mほどの土手で囲い、土手には常緑樹や竹笹を植え、鴨が安心して休息できるように外部と遮断されている。鴨場ではかつて猟が行われていた。その方法は、池に幾筋かの引堀(細い堀)を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら、稗・粟などのエサとおとりのアヒルで引掘におびきよせ、機をみて土手の陰から網ですくいとるというものであった (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/浜離宮恩賜庭園
・八景山付近からの景色
新銭座鴨場から東に進むと土塁(八景山?)がありますが、その付近からは、浜離宮の「潮入の池」越しに、勝どきのビル群が見える、庭園と現在の東京のコントラストが美しい景色を望めます。
・茶屋
八景山付近から「潮入の池」を中島へ渡った橋の先に、「中島の御茶屋」と池の周囲に「燕の御茶屋」、「鷹の御茶屋」、「松の御茶屋」と合計4つの茶屋があります。松の御茶屋は外からのみの見学の様でしたが、燕の御茶屋、鷹の御茶屋は、内部も拝見出来ました。また、中島の御茶屋では、(勿論有料ですが・・・)抹茶と和菓子セットを楽しむ事が出来ます。
・お伝い橋 / 小の字島
中島の御茶屋より、小の字島経由で、「潮入の池」を渡る橋があります。「お伝い橋」と言うそうで、時代劇でお殿様が、庭園を散策する様な空間です。その先には、上記紹介の「燕の御茶屋」・「鷹の御茶屋」が左手に、「松の御茶屋」が右手に見えます。
・御亭山とそこからの眺め
「お伝い橋」を中島より渡り、「燕の御茶屋」・「鷹の御茶屋」・「松の御茶屋」を見学しつつ東に進むと、少し高台になった、御亭山があります。そこからの景色は、かなりの範囲で浜離宮を見渡せる中々の絶景スポットです。
・中の橋とその付近からの景色
御亭山を南に進むと、中の橋があります。この付近から北西方面の汐留の高層ビル群の写真は、見た事ある方も多いと思われるアングルで、庭園と高層ビル群のコントラストは、浜離宮では外したくない写真スポットです。
・浜辺(川岸?)
中の島橋を越え、富士見山を横目に見つつ、東に進むと、ここが海の直ぐ脇にあることを実感できる浜辺に出る事が出来ます。対岸の水門の先は、隅田川・勝どきエリアになると思われ、船舶の行きかう様も見る事が出来、不思議な感じになるエリアです。
・庚申堂鴨場
潮入の池と浜辺の間の陸地を北東方面に歩を進めると、海手お伝い橋があり、その橋を渡ると庚申堂鴨場の小覗の土塁が見えてきます。上記(Wikipediaからの引用)で触れた、猟の仕組みを理解できるようになっています。
・横堀水門
庚申堂鴨場の小覗の土塁から東に歩を進めると、水門が出てきます。横堀水門と言うそうで、海から水を引いている事、ご理解頂けると思います。ちなみに、別記事で紹介した芝離宮・清澄庭園もかつては、海から水を池泉に引いた「潮入の池」だったそうですが、現在では都内で唯一「潮入の池」として、海水を引き込んでいるのは、浜離宮だけだそうです。
・新樋の口山
上記、横堀水門の直ぐ近くには、新樋の口山と呼ばれる、築山の様な高台があります。ここからは、レインボーブリッチと言ったお台場方面を見渡せます。
・将軍お上がり場 / 灯台跡
横堀水門・新樋の口山を北に進むと、浜辺(川岸?)に「将軍お上がり場」があります。大阪で無念の死を遂げた家茂の棺もここから江戸にもどった歴史があるかと思うと、歴史に思いを馳せてしまいます(Wikipediaには「慶喜は、浜御殿には一度も入ることはなかった」と記載がる一方、現地説明文には「鳥羽伏見で敗れた慶喜が、大阪から船で帰還しこの地から上陸した」と記載がありましたが、どちらが正しいかは不明です…)。また「将軍おあがり場」の北には、灯台跡もあります。
・内堀広場のお花畑
将軍お上がり場から、水上バスの発着場を横目に見つつ、梅林を抜けると旧稲生神社があり、その先にお花畑があります。参らせて頂いた際は、あまりお花は咲いていませんでしたが、季節によっては、ボタンや菜の花が美しく、バックの汐留の高層ビル群とのコントラストが美しい写真スポットだと思います。
上記ルートで回ると、浜離宮を一周した事になり、所要時間は、大体1.5時間前後でした。中島のお茶屋でお茶と和菓子も頂きのんびりしたかったのですが、空模様が少し怪しかったので、少し駆け足で回った感じでしたので、お茶屋ので休憩も含めるのであれば、2~2.5時間と言った辺りを所要時間として見ておけば良いのでないかと思った次第です。庭園としては、大規模な庭園ですが、高低差は築山以外ほとんどないので、気楽に大人散策できるのでないかと推察します。
【最後に】
以上が、徳川将軍家の庭園で、都内唯一の「潮入りの池」がある庭園でも有名な上、現在の日本の高層ビルとのコントラストも楽しめる「浜離宮恩賜庭園」を紹介させて頂いた内容になります。
350年程の歴史を持ち、当初は「将軍のお庭・浜御殿」として華やかな時代もあったが、幕末から昭和の戦争が終わるまでは、厳しい期間を送ってきた庭園・浜離宮。東京(江戸)の開発と繁栄、そして暗黒時代を見てきた「浜離宮」ですので、その歴史に思いを馳せつつ、広い園内を大人散策できるスポットです。同時に、「徳川将軍家のお庭」越しに、「現在の東京の象徴・高層ビル群」とのコントラストを楽しめる庭園でもあります。
駅からも徒歩圏内ですので、新橋や築地近辺にいらっしゃる機会がある際に脚を延ばしてみては如何かと思いますし、徒歩圏の浜松町の直ぐ近くに別記事で紹介しました「芝離宮」もありますので、併せて脚を延ばしつつ、徳川将軍家の「潮入の池」がある庭園を大人散策してみてはいかがでしょうか?
尚本ブログでは、東京旧古河庭園、東京椿山荘、神戸相楽園、京都無鄰菴、高松栗林公園、熊本水前寺成就園、山梨恵林寺庭園、甲府常磐ホテルの庭園、平泉毛越寺庭園、名古屋徳川園、二条城二の丸庭園、川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園、熱海の起雲閣、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、清澄庭園、浜離宮、六義園、新宿御苑、日本三名園:金沢兼六園・岡山後楽園・偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。